42◇会いたくて

 アンが閉じ込められている部屋はわかっている。ディオニスはただ必死でアンのもとへと急いだ。


 屋敷を取り巻くこの騒がしさがなんなのか、アンはまだ知らない。部屋の中で怯えているはずだ。


 ディオニスは部屋の前まで来ると、ドアノブに手をかけ、込み上げる感情を抑えながら声をかけた。


「アン、いるんだろうっ?」


 中に気配がある。小さな物音がして、返事があった。


「ディオニス様ですか?」

「そうだ。開けるぞ」

「でも、鍵がないと……」


 鍵なんて要らない。

 ディオニスは握ったドアノブに高熱を与え、ドアノブを溶かした。その上で蹴ると扉は簡単に開いた。


 アンは窓際でカーテンにしがみついている。

 食事が喉を通らなかったのか、別れてから十日程度なのに窶れて見えた。


 ディオニスが来ればもっと喜んでくれると思ったのに、アンは一向にカーテンを離さない。怯えた目をして固まっていた。


「もう何も心配しなくていい」


 精一杯の労りを込めて声をかけた。

 すると、アンは両目から静かに涙を流した。


「わ、私の、せい、で……」

「アン?」


 細い肩が憐れなほど震えている。アンはカーテンに縋りつき、支えがないと立っていられないように見えた。


「私のせいで、ディオニス様が――っ」


 そこまで言って声を詰まらせた。

 侯爵はアンに、ディオニスがアンのために手を汚してくると楽しげに語ったのだろう。その様子は、まるで見てきたように生々しく想像がついた。


「いや、俺は何もしてない。侯爵が自滅して捕まっただけだ」


 それを告げると、アンは涙に濡れた目を大きく見開いた。

 どんな男でも父親ではある。血縁であるアンにとっては手放しで喜べることではないのだろう。


 けれど、他の方法では侯爵に勝てなかった。彼が権力を持ったままではディオニスも太刀打ちできなかったのだから、この失墜はアンにとってそう悲しむべきことではないと思いたい。


「帰ろう」


 一番言いたかったことはこれなのだ。

 それなのに、アンはカーテンに頼ったまま首を振る。


「そういうことでしたら、私は罪人の娘です。おそばにはいられません。これまで以上に、ディオニス様にはご迷惑をおかけしてしまいます」


 ――そういうことを言うと思っていたけれど。

 やはりアンはその心配してしまう。


「少しも親らしいことをしてくれなかった父親なんだから、いないのと同じだ。今までもこれからも、アンには父親なんて要らないんだよ。その代わり、俺がいる。エーレンフェルスの名前は捨てて、シュペングラーを名乗ればいいだけだ」


 アンは、遠くからじっとディオニスを見つめていた。


 何もかもを失くし、これから生きていくアン。

 そのアンが自分自身を託していい存在かを確かめられているのだろうか。


 そうではなく、どこまでもディオニスの迷惑になりたくないという思いが強いのだとしたら。そういう心配は要らないのに。


「家とか、家族とか、そういうしがらみを前に出して、アンは少しも本心を口にしていない。アンがどうしたいか、俺が知りたいのはそっちだ」


 願望を口に出していいような暮らしをしてこなかったアンにそれを求めるのは難しい。

 だとしても、今は言わなくてはならない時ではないのか。


 どれほど親しくなっても二人は別々の人間で、これからも互いの願いとは違うことをしてしまったりもするのだろう。

 その時、ちゃんと言葉で伝えられる関係がなければ、相手の気遣いを期待して、願いが叶わないことに落胆するしかない。そんな関係は疲れてしまう。


 自分から、わかってほしい、わかり合いたいと向き合うことを求められる。

 それが嫌で人との深い関わりを避けていたディオニスだからこそ、覚悟はできている。


 アンはカーテンを放し、涙を手で拭った。


「私は、自分からこの家に戻ったくせに、いつかディオニス様が迎えに来てくださるのではないかと願ってみたり、本当に愚かでした。ディオニス様がこの家との関りを持たないように遠ざかったのに、会えなくなってから会いたくて仕方がなくて……っ」


 ずっと張り詰めていた心が、ようやく少しずつ解放されていく。

 ディオニスは両手を広げ、アンに呼びかけた。


「そう感じたのなら迷うな。アンの居場所はここだ。この俺・・・が、結婚するたった一人としてアンを選んだ。アンにはその価値があるってことを誇ってくれ」


 アンは、拭っても拭っても流れる涙を止めるのは諦めたらしい。ディオニスの腕の中にアンは勢いよく飛び込んだ。


 ひっく、ひっく、と泣きじゃくっているアンを抱き締め、ディオニスは愛しさを言葉に込めた。


「よくできました」


 すると、アンは泣きながらも笑っていた。

 その表情はとても幸せそうに見えた。

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