第29話 弛緩

「あ、さっきの……見つかったようで良かったです」


 泣きつかれて眠ってしまった結衣をおんぶして宿泊先の旅館までやってくると、受付に見覚えのある男性がいた。先程海へ行くことを勧めてくれた男性だった。


「先程はありがとうございました、おかげ様です」


 この男性に海に行くように勧めてもらわなければあと何時間この町を彷徨っていたか分からなかったので、本当に感謝していた。


「ところでお客さんはもうお宿を確保されてるんですか?」


 透華が礼を言うと男性は微笑んでそう問いかけた。


「いえ、まだですけど……」


 朝にストーカーからメールが来てすぐに家を飛び出したので、宿の予約も何もしていない。


「近くの宿もここからだとそれなりに距離がありますから、うちにご宿泊なされては?」


(どうやら思っていたよりしたたかな人だったらしい……)


「……ちなみに一部屋おいくらですかね……?」


「別のお部屋を用意するのであれば素泊まり八千円からのご案内となります。ですが、彼女さんと同じお部屋でしたら追加料金千円で結構でございます」


 にこにこと屈託のない笑みで、男性はそう提案してくる。


「……んんっ、結城さん……」


 受付でごちゃごちゃとやっている間におぶっていた結衣が目を覚ましてしまったようだ。しかししがみつくばかりで降りようとしない。


「……もうちょっといっしょに……おねがい……」


 寝ぼけているのだろう、甘え声が耳元で囁かれる。

 不快でない、ぞわぞわとした感覚が背筋を伝う。


「…………」


 黙って財布から千円を取り出すと、結衣の部屋のものと思しき鍵を渡してくれた。


「お布団は押し入れの中に入っておりますので、お使いくださいませ」


(自分が断れないってことは他の人もきっと断れないし……うん、自分は悪くない……)


 入試のような思考で対象のない言い訳をする透華の耳に、男性の言葉は届いていなかった。




 ◇◆◇




「つかれたぁ……」


 和室に敷かれた布団にそっと結衣を降ろし、透華自身も畳の上に転がった。


 疲れが畳に吸い込まれていくような感覚を得るあたり、つくづく日本人だなと思う。


「無事で、本当に良かった……」


 もし結衣の身に何かあれば、透華は一生罪悪感に苛まれて生きる羽目になるところだった。


「……そろそろ寝たふりやめたらどうですか?」


「気づいてたんですね……」


 おんぶしている人の意識の有無はわかりやすい。意識のない人は体勢を保ってくれないので重たく感じるが、意識のある人は背負いやすい体勢になってくれるので軽く感じるのだ。特に結衣のように意識せずとも人を思い遣ってしまうような人ならなおさらである。


「……すこしは落ち着きましたか?」


「……まだ気分が落ち着かないです……落ち着かないというか……」


 これだけのことがあれば気分が落ち着かないのも仕方のないことだろう。透華は結衣が無事だったことに安心しているが、結衣はそれなりの覚悟を決めてここにきたようだし心身ともに疲弊しているのだろう。


「……お茶でも飲みますか、と言いたいところですが流石に用意がありませんね……」


「あの、そんな気を遣わせるつもりでは……」


 そうは言えどもどうしたものか、こうも疲れた様子の結衣を癒せないとなると、もどかしさを感じざるを得ない。


「……とりあえず今日はもうお休みしますか」


「はい……」


 ひとまず今日は温かい布団で静かに眠るのが何よりの療治になるだろうと思い、そう提案する。既に結衣の分の布団は敷かれており、透華の布団を用意すればあとは寝るだけである。


 押し入れから布団を取り出して部屋の窓側、結衣の布団から出来るだけ離れたところに布団を敷く。


「それじゃあ、おやすみなさい」


「……おやすみなさい、結城さん……」


 結衣の沈んだ声音に拭い切れない不安感を抱きながら、旅館特有の匂いがする布団に沈んだ。




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