二章
第23話 号砲
「もう少し距離感を考えてもらわないとですね……」
放課後の生徒指導室。
夕日の差し込むその教室の中で、くたびれた声の女性が透華と結衣に向けて言った。
「ご時世的にも昔みたいな距離感で生徒と先生が接していると困るんですよ」
「はい、すみません……」
呼び出されて生徒指導室にやってきた途端に、教頭から説教を受けることになってしまった。
どうやら先日結衣を居酒屋まで迎えに行ったときに近隣住民に見られていたらしく、学校まで電話が入ったらしい。
先に来ていた結衣は早くからお叱りを受けていたようで、既にげんなりとした様子で「すみません」と繰り返している。ストーカーの被害から逃れるために生徒の家で同居しているなどとは口が裂けても言えないのだから当然だろう。
しかし教頭自身も苦情を受けて渋々注意している様子で、余計な口をはさみたくなさそうである。なので説教と言っても特に大声が飛ぶわけでもなく、淡々と注意してほしい旨を伝えられているだけだ。
「二人とも昔からの知り合いだということですから、関わるなとは言いませんが、せめて人目のあるところや生徒と教師であることがばれるような環境では距離感を考えてくださいね」
最後にそう総括して説教が終わり、教頭は職員室に戻っていった。
「お疲れ様です、紅葉先生。大丈夫ですか?」
「だ、だいじょーぶです……」
週明けで忙しかったうえに教頭にごちゃごちゃ言われたせいでお疲れのようだ。それでも社会人としてしっかり反省しているように見せられたのだから立派なものだろう。
「叱られちゃいましたけど一人で帰るわけにもいきませんし、いつもより離れるということで……」
「はい……」
(休日に一緒に居ただけで学校に連絡が来るとは……世知辛い世の中だな)
◇◆◇
脅迫のメール以降何の音沙汰もなかったので多少距離をとっても大丈夫。
──そんな迂闊な考えが裏目に出た。
「紅葉さんっ! 大丈夫ですか⁉」
路上にへたり込んでしまった結衣を支えつつ怪我がないか確認する。
「怪我はなさそうですね……」
いつもよりも距離を取っていたので、結衣が先に道を曲がったタイミングで透華からは見えない時間が生まれてしまった。その隙を狙われてしまったのだ。
建物の壁に押しやるようにして、黒ずくめの服の人間が結衣に何か耳打ちしていた。
幸いストーカーは透華に気付くと走り去っていったので事なきを得たのだが、結衣は怖い思いをしたことだろう。
「ゆっくり息しましょうか、落ち着くまでゆっくりして大丈夫ですからね」
呼吸を乱し耳を押さえてしゃがみ込む結衣に、落ち着いて声を掛ける。
「……はぁっ、はっ……」
結衣の話を聞く限りでは直接接触してきたことはなかったので、今回の一件はかなりの恐怖だったことだろう。
せかさずに落ち着くまで寄り添って待っていると、次第にいつも通りに戻ってきた。
「……帰りましょう」
俯き加減で暗い表情の結衣は、とぼとぼと歩き始めた。
「何か言われたんですか…………? あの、紅葉先生……?」
歩みを進める結衣の背に、透華の言葉は届いていない様子だった。
家に帰ってからも、結衣は言葉を発しなかった。ただ一言「少し、考える時間をもらえませんか」とだけ言い残し、部屋に籠ってしまった。
整理する時間が必要なのかもしれないと思い、無理に話を聞くのは止めた。
「ふぅ……」
憔悴したような結衣の様子に、透華自身も落ち着く時間が必要だった。紅茶を淹れて一息つこうとするも、香りを楽しむ余裕も今はない。
カップを傾けていると、静寂なリビングにスマホの通知音が響き、不意に体がはねた。
待ち受けのパナーに表示されている差出人名は、前の脅迫メールと同じだった。
──せーんせーにいってやろー、なんてな。教頭からのお説教は楽しかったか? お前がちゃんと守ってあげないと、可哀想じゃないか。まあ、そろそろ始めるから覚悟しておくといい──。
メールボックスを開くとそこには、到底結衣には見せられない、背筋が凍るような気持ちの悪い文章が綴られていた。
静かにスマホを伏せ、再度紅茶を啜る。
(そろそろ始める……? もう幾許の猶予もないのか……?)
漠然とした不安感が、指先から這うように心を満たした。
とりとめのない思考を脳内で循環させているうちに、時計の短針は頂点を越してしまっていた。
「そろそろ寝るか……」
不安感を心の隅に押しやって、寝室へ向かった。
──悲劇の号砲に気付かないままに。
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