宵闇の英雄【バガトゥイーリ】は紅き命を執行す

ペン子

序章

第1話

 これは、一人のコサックの血を引く男【ジェミヤン・アベルチェフ】の物語である。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「コサック」を知っているだろうか。

 彼らはロシアやウクライナに広く分布し定住している、「軍事共同体」である。特定の民族を指す言葉ではないが、皆馬と共に生きる「騎馬民族」といって差し支えないだろう。剣術、射撃、馬術、武術、舞踏において独自の文化を持ち、彼らの体裁きは一般の人より優れており、戦争では幾度となく活躍してきた。

 勇猛果敢で陽気、自由で厳格。そんなコサックを言い表す文言で有名なものがある。


「コサックは正直者だから、シャツさえなく、貧乏だ!」


 これはコサック・ママーイの絵画に記された、ウクライナの言葉。コサック・ママーイは架空の人物だが、スラブの者が抱く「コサック」の典型的なイメージとして、ウクライナでは国民的キャラクターとも言える。

 確かにコサックは厳格な気質を持つ傾向にあり、名誉を非常に重んじる。果たして本当にママーイが言う様に、コサックは正直であったのか。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 一九六八年ソビエト連邦(現ロシア連邦)の厳しい冬、クラスノダール州クリュチェヴォイ。コサック文化が色濃く根付く地域の雪原は、遠くから馬を駆る蹄の音が聞こえる程に広大だ。

 ある晴れた日に馬を駆り、師である父から剣術とコサック馬術【ジギトフカ】の稽古を受ける少年はまだ幼く、戦士としての教育を受け始める年齢になっていない。馬を駆るにも身長が足りず、駆ける馬が少し角度をつけただけで落馬してしまった。


「立てジェミヤン。貴様、そんなザマで弱い者が守れると思っているのか? 落馬は我々コサックにとって、即、死を意味する。偉大なる英雄【バガトゥイーリ】は、難敵と対峙しても落馬などしない」


 馬上から厳しい態度を見せる父だが、幼いジェミヤンが立ち上がり、再び騎乗するのを待っている。戦士であるコサックに生まれたからには、強くあらねばならない。弱い者はすぐ蹂躙される。戦争と内戦が幾度となく起きるこの国で、力を持たぬ事は人生を放棄するに等しい。父や祖父、大人達から幾度となく聞かされた「戦士として、そして男として強くあれ」という言葉に隠された教戒を、幼いながらも認識しているジェミヤンは、歯を食いしばって立ち上がる。

 馬上に戻ろうとするジェミヤンと呼んだ息子を見て、馬上から降り彼が落とした短刀【キンジャール】を手渡す父。


「もう少し成長したら、サーベル【シャーシュカ】も教えてやろう。貴様の名を表す、【戦士の魂】に恥じぬ男になれ」


 ジェミヤンは父の腰に携えられたシャーシュカに目をやる。彼らの自治組織【ボーリニツァ】(本来は「コサックの自治組織」を表す。当時は日本でいう町内会の様な役割だった)で首領【アタマン】を務める父の流麗かつ正確無比な剣技は、軍からも称賛されている。


「いつか父上の様な剣技を持つ戦士になりたい」


 幼いながらもそう願うジェミヤンは、畏敬の念をこめた眼差しで父を見上げる。


「それまで幼い貴様はキンジャールの腕を磨け。そして貴様は、剣術、武術、馬術だけでなく、きちんと学問も修めろ。これからの時代、必ず力と知恵の両方を持つ者が生き延びられるのだ」


 雪から照り返す太陽の光が、手渡されたキンジャールの切っ先を輝かせた。




 一九八一年五月、雪が溶け若草がのびてきたスタロチェルカスクの聖アンナ要塞で、ソビエト最大規模のシェルミツィが開催された。

 スラブ文化圏にはシェルミツィという文化があり、ポーランドでは剣術や武術を教え、戦士を育てる「学校」として存在していた。ここソビエトでは、勇猛果敢な戦士であるコサックが長きにわたり伝承するコサック独自の武術や剣術、馬術の競技祭典として連綿と続いている。ソビエト政権下ではコサック独自の自治は認められなかったが、文化を禁止されていたわけではない。各地で行われているが、ここスタロチェルカスクで開催されるシェルミツィが、最も規模が大きく、競技も観客の応援も白熱する。


 今まさに、今年最も優れた戦士が決まろうとしていた。一方は何度も優勝経験がある、三十歳でベテランの男。もう一方はやっと十八歳になろうという、まだあどけない少年。しかし少年の身のこなしは、まるで空(くう)に舞う羽根の様に、ベテランの男が放つ正確な軌道の攻撃を、重力が感じられぬ体捌きで回避した。


「いいぞー坊主!」


 観客達から声援が飛んでくる。ベテランの男は、まさかこんな少年に押されるとは思ってもいなかったのか、焦り防御が疎かになってしまった。少年はその隙を突き、父親から受け継いだ古いシャーシュカで相手のシャーシュカを弾き飛ばし、ようやく決着がつく。

 少年が勝利した瞬間だった。


「さすがだ、ジェミヤン!」

「誉れ高きクバーニのアタマンの息子!」


 少年と同じボーリニツァの一団が、優勝した少年ジェミヤンをもみくちゃにし褒め称える。ジェミヤンはなんとか彼らの間を縫いながら、父の下に向かった。


「父上、仰せのとおりに優勝しました」

「そうか。よくやった」


 言葉少なく目を伏せる父からは、口には出さない称賛が感じ取れた。

 父方の先祖はアタマン、すなわちコサックの首領。父も血統に倣い、軽々しく褒め称える様な人ではない。ただ、息子であるジェミヤンには、見せはしないが心の中では喜んでくれている事がわかっているので、落胆したりはしなかった。父から受け継いだシャーシュカを太陽に翳す。


「やはり父上からいただいた、この丁寧に研がれたシャーシュカが、私の手にはよく馴染みます。この宝玉も父上が磨いていましたから、ずっと色褪せませんね」


 副賞で授与された豪奢な馬具一式よりも、父から受け継いだこの古い刀を大事そうに抱え、若き覇者は静かに会場を後にした。




 シェルミツィで何度も優勝したベテランを破り、一九八一年の覇者となったジェミヤン・アベルチェフは十八歳になり、クラスノダール州の郊外から、徴兵のためモスクワへやって来た。


「父上、母上、行って参ります。タチアナ、私がいない間は、父上と母上の言いつけをよく守りなさい」

「兄様、馬【コーニ】で行かなくていいのですか?」


 妹タチアナが障害のある脚を引きずりながら、ジェミヤンの愛馬を連れて来るが、母から「距離が長いし、馬よりも鉄道の方が速いから」と止められる。


 家族に送り出され、ジェミヤンは初めて乗る列車に揺られモスクワへ向かった。

 元々は地元から近い基地に所属する予定だったが、シェルミツィでの優勝を高く評価され、軍から中央の隊に来る様にと打診されたのだ。


「私の様な世間知らずの田舎者が、こんな都会でやっていけるか不安だな……」


 生まれてからずっと、自然豊かな地元で暮らしていたジェミヤン。彼にとって首都モスクワは、あまりに巨大だった。




 召集令状を手に順番待ちの列へ並ぶと、古いコサック服を着用したジェミヤンに向けた、好奇の視線と陰口が飛んでくる。


「なんだあいつ、どこの田舎モンだよ」

「コサックだろ、服見ろよ。一人で都会に出てきて、ご苦労な事だな」


 彼らは視線を向けては目を逸らす。確かにジェミヤンのコサック服は、地味で画一化されたかの様な軍用コート【アフガンカ】を着た他の若者達と比べ目立つ。両胸に銃弾筒【ガズイリ】が縫い付けられた特徴的な黒いチェルケスカの上に毛皮の黒いマントを羽織り、膝上が膨らみ膝下が下腿の筋肉にそってしっかり絞めつけるシャロヴァルイを履き、腰にキンジャールとシャーシュカを携えた姿は、それだけでジェミヤンがコサックであると雄弁に物語る。

 また防寒のためにかぶっている帽子【パパーハ】も、他の若者がかぶっているウシャンカと違っており、服全体を見ずとも明らかに浮いていたのだ。


「おいそこ、私語を慎め!」


 列を監視している大人の兵士に叱責された若者達は、慌てて前を向き静かになる。

 ずっと黙っていたジェミヤンは小さなため息をつき、


「こんなつまらない連中と訓練で寝食を共にせねばならぬのか……」


 これから起きるであろう事態を想像し、気詰まりに思った。

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