06-生まれるべきではなかった命、死産するべきだった魂
「ユキオ。もう朝だぞ、寝坊助」
声に、ユキオは意識が深い眠りから浮き上がってゆくのを感じた。
瞼越しに陽光を感じ、ゆっくりと目を開く。
暗色の天蓋、黒と赤を基調とした豪奢な家具、カーテンは開かれ、ガラス越しの柔らかくなった陽光が部屋を明るくしている。
掛け布団をずらしながら起き上がると、そこにはユキオの姉弟子である女仙が立っていた。
名前は……そう考えた瞬間ユキオの思考は塗りつぶされ、口から自然に言葉が吐き出される。
「おはようございます、姉さま」
「全く、何時になったら姉の力なくして時間通りに起きられるようになるのだ? 全く、ユキオは私が居ないと本当にダメだなぁ」
ふふんと鼻を鳴らし、姉弟子は立派な兎耳をピンと立てる。
チラリとユキオが床を見ると、影の感情は抑えきれていないのか、なんだか嬉しそうに蠢いていた。
姉弟子の固有は影を操るタイプのもので、たまに感情が溢れそうになった際、影が動いてしまう時がある。
ユキオは生暖かい視線で姉弟子を見やりながら、何時も起こしに来てくれる感謝を告げながら、身支度を整えた。
食堂に辿り着くと、そこには師である太上老君が待っていた。
「おはよう、ユキオ。よく眠れたかい?」
「はい、おはようございます、師匠」
何気ない仕草にすらにじみ出る、色気。
太上老君は、何時もながらただ腰かけているその姿勢一つで色気を醸し出しており、育ての親子同然のユキオですら緊張してしまうほどだ。
僅かに残っていた眠気が吹き飛ぶのを感じつつ、首のない侍従に告げて朝食を用意してもらう。
「全く、姉が起こしに行ってやらねば起きられないぐらいにぐっすり寝ていたからな。まだまだユキオは子供ということだ。私が、この姉にもっともーっと感謝して良いと思わないか?」
「もちろん、姉さまにいつも感謝しています。僕は姉さまあってこそですから」
「そうだろう、そうだろう!」
そうやって胸を張る姉弟子を、太上老君は苦笑気味に眺める。
いつしかユキオが自力で起きた時は、ショックを受けて一日中暗い顔をしながらユキオの後を尾けてまわり、翌朝ユキオを起こす事に成功するまで治らなかったものだ。
それ以来ユキオは、目が覚めても二度寝して姉弟子に起こされるようにしている。
そのことは姉弟子本人を除く、屋敷の全員の知るところだった。
暫くして朝食を終えた二人に、太上老君は告げた。
「さて、今日から1010年の11月。ユキオが17歳になった時分ということになる」
「……? はい」
やたら説明的な太上老君の言葉を聞き首をかしげるユキオだったが、すぐにその疑問を捨て去った。
太上老君は、過去視の使い手にして、疑似的な未来視まで取得した超人的仙人である。
過去か未来の自分への説明用に、このような説明口調を使う事は珍しい事ではなかった。
「今日、我らに来客がある。我が弟子にして、二人の姉弟子にあたる女……フェイパオが、夫を連れて来るのだ」
「フェイパオ様と、その夫……薬師寺アキラ。あの勇者パーティーの二人ですか」
世界を救った勇者パーティーは、今もその力を十分に発揮していた。
特に今年は、二度も勇者の活躍があった事で世間の噂となっていた。
春には皇国において"自由の剣"なる団体による大規模なテロ活動が行われ、勇者とその娘の手により鎮圧に成功。
夏には魔王の娘が"人魔統合術式"なるものを発動させようとし、勇者によって辛くも阻止。
どちらも多くの犠牲者は出たようだが、それでも勇者の名声は陰ることなく高まり続けている。
伴い、表に出ることの少ない残る二人、フェイパオと薬師寺アキラの名も名声を高めていた。
「ユキオ。今日お前は真実を知り……言わばお前だけの冒険が、始まる。
心して挑みなさい」
どこか意味深な台詞を告げる、太上老君。
何時もながらの曖昧な言葉に、しかしその奥にある愛情を感じ取り、ユキオは神妙に頷いて……。
*
目が、覚めた。
椅子に腰かけたままだった僕は、意識の切り替わったばかりの、ぼんやりとした脳髄のままただただ目の前の光景を見ていた。
目の前にいるのは、太上老君。
艶のない、闇に形を与えたような髪を、真っ直ぐに長くのばした妖艶な女性。
鮮血の瞳が僕をじっと映し出し、ただただゆっくりと見つめている。
「あれが……本来の、運命?」
「二階堂ヒカリが運命を変える前の、運命だよ」
どこかゾワゾワとするような、低い声色。
胃の底を素手で撫でられるような、奇怪な感触を受ける言葉に、僕は身震いした。
「あの馬鹿は、短い期間ではあったが私の弟子だった。
だから運命の汎用術式についてある程度の知見を持っていて……。
だからこそ、その一生が燃え尽きる間近になって、無意識に運命を変えることができた」
「……本来僕は老子……あなたに引き取られ、弟子として育てられたのですね。
僕が姉弟子と呼んでいたあの女性は……」
「魔王の娘ミーシャに殺され、魔王と四死天の疑似蘇生に使われた死体……。いつしかユキオ、君の手でもう一度殺された上、目の前で自爆させられた娘さ」
喉が、詰まりそうになる。
あれを主導したのがミーシャか魔王かその他四死天かは、結局僕は知る由もなかった。
とは言え、あの兎耳女仙は涙を流しながら自身のスカートをまくり上げ、僕を誘惑させられていた。
明らかに彼女に対する悪意に満ちており、本来の運命を知っていそうな者というと、魔王の主導だったのではと思える。
「もっともあの娘を弟子として引き取るのは、本来の運命でもユキオ、君をある程度育ててからだ。この歴史では……私はあの娘を弟子として引き取る事はなかった。直接の面識はないに等しいままだな」
「それは……」
何故、と問う前に老子の視線で僕は口をつぐんだ。
圧をかけた老子は、そのままに静かに口を開く。
「仙人には、運命の異性、という概念がある。生涯に一度だけ、その魂と運命が合致した相手を運命の異性と定めるのだ」
「……知っては、います」
「私とあの娘にとってそれは、ユキオだったのだ。……お前ではない、二階堂ヒカリの術式の影響を受けていないユキオの方だ」
二階堂ユキオではない、ユキオ。
幸甕、貯めこんだ幸福を家のために捧げるモノではなく。
幸雄、幸せな男になるようにと願われた、僕ではない人間。
「魂と肉体は、相互に作用している。
幼いころから脳髄に術式を作用され続けたユキオ、君は……既に私にとって、そしてあの娘にとっての運命の異性ではなくなっていた。
私の運命の異性は、居なくなってしまった。
ヒカリの、家族のための道具に改造されてしまって」
それが、老子の語る19年前の敗北だったのだろう。
運命を読み切っていたかは分からないが、二階堂ヒカリは老子の入手しようとしていた僕の前身……まだ名前を付けられていなかった赤子を手に入れて。
不可逆なまでに、運命を、そして僕の魂を改変した。
この世にたった一人の運命の人を、手に入れられなくした。
「だから私が君に手を貸すのは……ある意味では感傷なのだろう。
自分が手に入れられなかった、人生で一度の宝物が……別物になってしまったモノ。
正直言って、見てどのように感じるかは分からず……そもそも会うべきかどうかも、最後まで悩んでいた。
……まぁ、会って良かった、と思うよ、一応ね」
「……は、い」
目の前の女性にとって、それが重要な事だったというのは分かる。
僕にとっても重要だった事も、また分かる。
それでも僕には上手く受け止め切れておらず、受けた事実を飲み込みきれずにいた。
僕が二階堂ヒカリ……あの人に改変されなかった未来では、僕は……否、僕の別人は、目の前の女性や僕が手にかけた女性の運命の人だった。
だからそれをどう受け止めればいいのかと言われると、どうすればいいんだろうとしか言いようがない。
老子は、薄っすらと微笑みを浮かべた。
どこか歪んだ、作ることに失敗した笑みのようなものを。
「さて、多くの事実を知らされて今はさぞ、混乱していることだろう。
まずはゆっくりでいい、事実を噛み砕きなさい。
それから考えなさい。
思索の果て、得た望みのままに行動しなさい。
生まれて初めて自由意志を持った、その決断の通りに」
ぽん、と僕の頭に手が置かれる。
くしゃりと僕の髪の毛を抑えながら、撫でて来る。
「それがきっと、私の運命の叶えとなる」
その言葉は、どこか不気味に僕の中に響いた。
*
僕ら四人の中で、一番精神的に軽傷なのは、アキラだった。
「そりゃ、龍門とは記憶以外では然して交流もなかったですし。
向こうも気まずかったでしょうしね。
それにチセさんとも、顔を合わせて一日ちょっとでしたので。
父さまの事が心配ではありますが、亡くなった方々の事で直接衝撃を受けたかどうかと言われると、正直……」
それはそうだろう。
とは言え言われるまでそこまで考えが至らなかった辺り、僕は相当疲弊しているのだろう。
心配そうに僕を見て来るアキラの視線について、心当たりしかない事に僕は頬を掻いた。
二人掛けのソファに隣り合って腰かけ、茶をいただきながらぼうっと座っていた所。
アキラはそっと僕の手を取りにぎにぎとしながら、ゆっくりとお茶を飲みながらほうっと溜息をついていた。
小さく柔らかい手が、僕の手を握っている。
僕の手の形を確かめるような、ぎこちない力と動き。
「父さまは…………ごめんなさい、何か言おうとして、言葉が見つからなくて」
「その、無理に言わなくても大丈夫さ」
「大丈夫では、ないです」
ぎゅ、と僕の手を握る力が強まる。
アキラが体を傾け、頬を僕の二の腕に乗せた。
片手で握っていた僕の手を、両手で握りしめながら動かす。
スカートの上、股間のすぐ下。
幼いとはいえ異性相手で何とも言えない位置に、僕の右手は固定されてしまった。
困り果てた僕の顔を知らんぷりで、アキラ。
「……では、代わりに我儘を言っていいですか」
「いいよ、もちろん」
即答する僕に、アキラはチラリと視線をやった。
一瞬の瞳の交錯、今一その感情は読めない。
それからそっと視線を落とし、口を二度、三度開けようとしては閉じ。
ついには、告げる。
「寂しかったです」
それは、あまりにも普遍的な、当然の言葉。
父娘……で良いのか今一自身はないけれど、およそそんな感じの関係の僕。
アキラはティーンになったばかりに相当する肉体年齢で、実年齢は三歳ぐらいだろうか。
そんな幼い娘が、親と離れ離れになっているのだから、当然と言えば当然で。
「ずっと、ずーっと、一緒に居てほしいです」
打ち震える。
理由もわからず、涙のようなものが、湧き出してくる。
口を、弱く噛みしめた。
「居なくならないで、欲しいです」
胸に突き刺さるような、言葉だった。
何もかもかなぐり捨てて、この娘に尽くしてやりたいと、そう思わせるような。
今すぐ抱きしめて、もう二度と放さないと叫びたくなるような。
僕の中をそんな衝動が生まれ流れ……そして留まることなく、抜けていった。
僕は、無気力だった。
内に生まれた衝動を、行動に変える事もできなければ、留めて置いておくことすらできないほどに。
「それが私の……我儘なのだと、分かっています。
もう限界に近い父さまに、さらに寄りかかってしまう悪い事なのだと、分かっています。
でも。
だけれども」
今一度視線を上げ、アキラが僕を見つめる。
リリと瓜二つの……彼女が少しだけ成長した顔。
金色の、リリと同じ色になった瞳。
「好きです」
震えるような、熱量の言葉。
聞いているこちらの腹の奥底に、炎が巻き上がるような。
「大好きです」
体の温度が、僅かに上がる。
薄っすらと頬が火照り、汗が噴き出た。
アキラの両手で掴まれた手からも同様で、だから汗ばんだ手と手がぴったりとくっつく。
「愛しています」
……僕は敢えて、その愛の意味まで問わなかった。
どんな種類の愛なのか、考えないようにした。
それが僕の希死念慮を考慮しての言葉なのだと、僕は理解していた。
ボロボロの僕がこのまま消え去ってしまわないように、それを願っての言葉なのだと分かっていた。
それでも僕は、何も言わなかった。
何も言わず、ぎゅ、とアキラの手を握りしめて。
深呼吸。
吐く息とともに、全身の力が抜けてゆく。
我慢していた涙がぽろりと両目から零れて。
無言のまま、暫く僕は静かに泣いていた。
アキラは何も言わず、じっと僕の傍に居てくれた。
*
「……父さんの事は……どうでもよかったかな、正直」
ミドリは、大粒のブドウにぱくつきながら、そう言った。
用意した手拭きで紫色に染まった手を拭いつつ、口をモゴモゴと咀嚼する。
僕は自分の手拭きをもって、ブドウの汁が垂れたミドリの口を拭ってやった。
てへ、と微笑むミドリに、仕方ないなぁと思い、軽くため息をつく。
「父さんは私の事を、何とも思ってなかった。
姉さんは、母さん……二階堂ヒカリの生きていた時の父さんを知っていただろうから、複雑だったみたいだけれど。
私の物心つく前にあの人が死んじゃったから、記憶にある父さんはあの人と兄さん以外に全く興味がない人だった」
それは、僕にとっては意外な言葉だった。
僕はヒマリ姉にもミドリにも学生時代の成績は大きく劣っており、いつも劣等感に苛まれていた。
だから僕は恥ずかしい成績しか父さんに報告できなかった事が、トラウマになっていたけれど。
いっぱいいっぱいだった所為で、父さんから二人にどんな視線が行っていたのか、記憶になかったのである。
「私は兄さんと、姉さんと、アキラ、その三人と一緒なら、他に何も要らない」
とすん、とミドリはソファに腰かける僕の上に跨り、抱きしめてきた。
鼻の頭を僕の喉元にやり、すりすりと擦りつけて来る。
はぁ、と溜息。
生暖かい息が、僕の胸元に吐きかかる。
少しして、すぅ、と大きく息を吸う音。
「兄さんの、匂い」
何か言おうとして、しかし思いつかない。
止めなければならないと思うのだが、どうやって、何を言ってと考えると、何も思いつかない。
兎角僕は、疲れ果てていた。
中途半端に入れてしまった力を抜き、脱力する僕に、ぐへへ、と怪しい笑みを浮かべならミドリが僕を抱きしめる力を強くする。
「兄さんには、こんなになっちゃった私を飼ってくれる義務があります」
"君は、自分を飼ってくれる相手だと信仰するようになった"。
老子がミドリに告げた言葉である。
当時は他の事で頭がいっぱいで上手く咀嚼できなかったのだが、よくよく考えると中々凄い内容だ。
動揺を浮かばせる僕に、にんまりとミドリが微笑んだ。
「私は、兄さんのペット所望です」
「…………」
「愛でてほしい。言葉の通じない愛玩動物みたいに、ただただ可愛がって欲しい。えっちな事も許します。今の兄さんはそんな感じじゃないだろうけど……基本NGなしです。なんでもし放題、ウェポンオールフリーです」
ミドリが起き上がり、その両手を伸ばした。
僕の顔を両手で掴み、ぷにぷにと頬を揉む。
「それは……本当に……」
「えい」
言いかけた瞬間、ぐに、と強く頬を引っ張られた。
言葉を止めた僕の額に、コツン、と額を合わせられる。
視界がミドリで、一杯になった。
目と目が、触れ合いそうな距離。
まつ毛の先が、僅かに重なるほどの。
「私は……兄さんの事が、好き」
どこか、肉に満ちたような言葉だった。
肌と肌が触れ合う、摩擦と、温度。
皮膚が留める中の肉が、ぷるんと震えるあの感じ。
「それが兄さんの中にあった術式の影響かどうかなんて、分からない。
けれど何が原因だったとしても……今のこの気持ちそのものに、間違いなんて、ない」
「好き」
「大好き」
「愛している」
「だから私の事……置いて、行かないでね」
瞬きは、ほんのわずかに体液を散らす。
目の表面、所謂涙液が僅かに飛ぶ。
表面の油分が互いに飛び交う。
間近のお互いの目に、お互いの涙液が飛んで行く。
眼球の表面が、薄っすらと波打つ。
涙の元同士が、交換される。
「お願いね」
ミドリは、そっと啄むように僕の唇を奪った。
触れるだけの、一瞬のキス。
唇の、肉の感触。
ペロリ、と赤い舌が彼女自身の唇を舐めて。
「……やっぱりお代わり、いい?」
震えるような妖艶さを背負った声に。
僕は静かに、荒い呼吸をすることしかできなかったのだった。
*
「ようやく、死んでくれた。そう思ったかな」
ヒマリ姉は、手にグラスを、蒸留酒を揺らしながらそう呟いていた。
姉さんは何故かバスローブ一枚の姿で、ロックにした強いウイスキーをぐびぐびとやっている。
風呂上りのポカポカとした体温と隣り合う僕は、アルコールを取る気に慣れなくて、冷えた水をチビチビとやるだけ。
火照った顔で、しかし地獄のように冷えた言葉を漏らす姉さんに、僕は何も言わず続きを待った。
小さくため息をつく、ヒマリ姉。
「子供の頃は、兎に角父さんの目を引きたかった。
ユキちゃんは覚えているかな。
初等学校の頃、美術とか書道のコンクールで金賞なり銀賞なりをとって、父さんに褒めてほしくて報告して……。
「そうか」。それだけが、あの人の返事だった。
それでむしゃくしゃして、ユキちゃんに当たった事もあったけど……父さんはそんな私を叱ってもくれなかった。
何をしても褒めてくれないし、叱ってもくれない。
私に何の興味も持たなくなった父さんには期待しなくなった。
どっちかというと、本当にどうでもいい相手だったかな」
ミドリの話を聞いた後だと、身に染みるような言葉だった。
僕は父さんに認められるために必死だった。
けれどそれは姉さんも同じで、そして姉さんは僕よりずっと早く、それを諦めた。
そしてそれは恐らくきっと、僕よりもずっと賢明な事だったのだろう。
「お父さんが私を見ていなくて、お母さん……あの人が居なくなって。
だけど私には……ユキちゃんが居た。
ユキちゃんが、居てくれたんだよ」
だらん、とヒマリ姉は背を丸め、頭を床と平行に。
そのままこちらを見つめ、にへ、と笑みを見せた。
どこか粘着質な、生ぬるい感じの笑みだった。
「まぁ父さんには戦士としての敬意はあったし、経済的な負担に関する感謝はあったけど……それだけかな。
正直ミドリが成年になったら、一度養育費は計算して返そうとさえ思っていたしね」
「……それは」
「多分父さんは「そうか」って言って受け取ったよ。そういう人だったから」
僕は、今更ながらそれに同意できるようになっていた自分に気づいた。
多分数日前の僕だったら、泣きながらそれを否定しようとしていただろう。
言葉が見つからなくて、それでも空虚な言葉を並び立てて、僕は父さんが好きなんだ、こんな美点がたくさんあるんだから、と声が枯れるまで叫んでいただろう。
しかし今は、そんな気が全くしなかった。
静かにヒマリ姉に頷き、同意する。
「ねえ、ユキちゃん」
「なに……」
言葉を言い切る前に、とん、と押し出された。
横からのそれに倒れ込み、僕の頭はソファのひじ掛けにぶつかる。
幸い柔らかい素材なので簡単に受け止めてくれたが、どうしたのかと見やるが早いか、そっと唇が合わさった。
驚いた瞬間に、喉を焼くようなアルコールが流し込まれる。
「けほ、けほ、ちょっと、姉さん!?」
「ねぇ、ユキちゃん……」
気づけば僕は、ソファの上、姉さんに押し倒される形となっていた。
緩く着たバスローブから、零れそうになっている豊満な体。
全体的に仄かに赤く火照った体、暖かく肉厚なモノが、僕の上に覆いかぶさり、えへへと微笑んでいる。
「私の……お母さんになって」
アルコールの刺激臭がする吐息が、僕の顔にかかる。
顔と顔との距離が、近い。
吐く息が互いに当たるぐらいの距離。
「お父さんになって。お兄ちゃんになって。弟になって。恋人になって。旦那様にもなって」
互いの呼吸が、互いの口内に含まれる。
吐いた息同士が、交換される。
肉の温度が互いに伝わる。
まるで一つの肉塊であるかのように、僕らの温度が合わさってゆく。
「撫でて。褒めて。抱きしめて。慰めて。離さないで。……抱いて」
ポロポロと、僕の頬にあたる。
ヒマリ姉は、泣いていた。
顔をグチャグチャにしてポロポロと涙を零しながら、泣き叫んでいた。
「愛して! 愛してよ! 愛してください! ねぇ、愛して、私を愛して!」
あまりにも、悲痛な言葉。
聞いているだけで胸の内が抉れそうな、むき出しの感情そのものの叫び。
思わず僕が口を開こうとしたその瞬間、唇が塞がれる。
アルコールの名残がこびりついた、熱い唇。
貪るようなキスに、思わずうめき声が出そうになって、しかしそれすらもヒマリ姉の口の中に吸い込まれて消えてゆく。
どれ程経ったか分からないぐらいに時間がたったころ、銀の橋を繋ぎながら、その唇が離れた。
「何も……何も、言わないで。返事をしないで」
頷こうとしたその瞬間、次のキスが降り注ぐ。
無数に降り注ぐキスの嵐の中、僕は静かに、動き一つなく、姉さんの全てを受け入れながらただただ終わるのを待つのであった。
*
だから、僕の答えは一つだった。
生まれてきて、ごめんなさい。
*
それはちょうど、太上老君の屋敷に滞在を始めて一週間というところだった。
暫く滞在して構わらない、という彼女の厚意に甘え、僕らは静かに心と体を休めていた。
僕はあまり部屋から出ないで過ごしていたけれど、それでも部屋を用事で出るとすぐに姉妹とアキラの誰かに捕まって一緒に過ごす時間を作ることになっていた。
その時間、三人ともが悲痛な叫びをあげていた。
大切な物を傷つけられただけではない、その大切な物への感情も、大切な物からの感情も、その実在を否定されたかのようだったからだ。
今になって、ようやく確信が持てていた。
彼女たち三人ともが、僕の事を、異性として愛しているようだった。
それは人格策定術式がそうしていたのか、今まで何故気づかなかったのかと思うような事柄だった。
どこからどう見ても、そうだと分かる感情。
幼いアキラの感情だけは他の感情と同一視している可能性はあったけれど、それすらも可能性は低いとすら感じるほどの熱量。
それを僕は、今までの僕はすべて見なかった事にして、もしかしたら程度に考えていた。
その感情を見て。
その感情をきちんと見る事ができるようになったことを実感して。
そして僕はようやく、決断をしていた。
「復讐だ」
茶室のテーブル。
太上老君を含めた五人で円卓を囲み、首無しの入れてくれた茶を口にしながら、僕はその目的を告げていた。
言わば、決意表明。
僕が今から何をするか、それは僕が……口に出して、皆に言うべきだと思ったから。
「僕には……大切な人が、居た。
運命の人。初恋の人。愛娘。父親。
けれどその全てを殺した……許してはいけない、仇敵が居る」
息を吸って。
吐いて。
深呼吸、空気を入れ替えて。
「……僕だ。
僕は僕を……僕自身にとっての仇敵を、決して許せない。
僕は僕の存在を、許せない」
立ち上がろうとしたヒマリ姉を、糸が拘束する。
目を見開くミドリとアキラを、続く糸が椅子に縛り付けた。
な、と声を漏らすのに一瞬遅れ、編まれた猿轡が三人の口を閉じさせる。
僕は辺りを一瞥し、三人を完全に拘束できたことに胸をなでおろした。
「……勘違いしないように言っておくと、僕は死なない。死んでたまるか。僕が死んでしまえば……僕は、死ななくなってしまう。
歴史に、名前が残ってしまう。
世界を救った英雄。
かつての英雄を殺した殺戮者。
聖剣が示す、人類の存続を脅かす脅威。
なのに自決した、謎の存在。
僕が死んだのに、僕の事をみんな覚えていて、僕の事を噂して、僕の事を好き勝手に想像して……。
冗談じゃあない。
僕は……記憶してほしく、ないんだ」
陳腐なセリフだけれど。
人が本当に死ぬのは、皆に忘れられた時。
ならば僕は、人類の滅亡を救った人間は、死ぬことができるのか?
誰一人にも覚えてほしくない、記録も残ってほしくない、そんな願いを叶える事ができるのか?
「忘れてほしい。
僕を覚えていないでほしい。
記録なんてもってのほかだ。
僕の全てを、無かったことにしてほしい」
だって。
こんな奴は、生まれてこなければ良かったに違いない。
運命の人を手にかけて。
初恋の人を手にかけて。
実父と実母を手にかけて。
愛娘を手にかけて。
父親を手にかけて。
そしてそのすべてが自我で行った事かどうかさえも分からないような、悍ましい生き物なのだから。
「存在が、許せない。
僕が……生きていることが、生きてきたことが、世界に生きてきた足跡を残してきたことが、生きてきた影響が残っていることが……許せない」
存在する事への、耐えがたい苦痛。
この世に自我が存在する事への、悲痛。
認識され、記憶され、記録される事への、惨痛。
その痛みこそが、僕の、今の一番の感情。
「だから……愛さないでくれ。
求めないでくれ。
僕を忘れてくれ。
見なかったことにしてくれ。
聴かなかったことにしてくれ。
存在、しなかった事にしてくれ」
そしてその懇願は、誰も叶えてくれない。
忘れる、という行動を能動的に行う事は、人類には不可能と言って過言ではない。
一説によれば、人間の脳に記憶を消去してしまう機能は存在しないのだという。
ただ保存したデータにアクセスする検索機能に不具合が出てしまう事を忘れるというだけで、保存したデータそのものを削除したり上書きする機能は存在しないのだとか。
だから人には、能動的に記憶を忘れるということはできない。
だから。
「だから、運命を変える」
僕の力。
生まれ持った術式。
"運命の糸"を使って。
「僕が、この世に生まれなかったことに、運命を改変して見せる」
運命転変。
僕の切り札を、世界規模に大きく広げて。
世界の運命そのものを、改変して見せる。
「……ありがとう。聞いてくれて。
口にして、実際に言葉にして、誰かに言い放って見せて……。
ようやく僕は、決意が出来た。決心が出来た。
止めてほしいと何処かで思っている、みたいな陳腐な感情じゃあない。
必ず目的を果たすために、僕の壊れた心に再び火を入れるために、必要な行為だった」
と言っても、猿轡を嵌められた三人は、唸るだけで何も言えない。
三人の顔を順に見て……一度ずつ、頭を下げる。
言葉はない。
これから消えて、無かった事になろうという存在の、その謝罪の言葉も無かった事にするというのだから。
最後に、老子に視線をやり、頭を下げる。
この一週間、僕らを滞在させてくれた事に対する礼だ。
これも本当はする必要すらないのだけれど、拘束していない彼女を不快にさせる必要もなかろうという、半ば惰性の礼だ。
それに気づいているのだろう、向こうも溜息をつきながら肩を竦めて見せる。
「私は君に、自由になさいと言って見せた人間だ。
言った言葉の責任は取るし……。止めはしないよ。
いや、今の君を止める事ができるとは思えないがね」
「……ありがとう、ございます」
今一度礼をして。
僕は彼女たちに、背を向ける。
最後に見返り、拘束したままの三人に視線をやり……。
「さようなら、みんな」
最後に告げて、僕はその場を、後にした。
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