05-血と精液の設計図
誰かが泣き叫んでいる。
その誰かは僕の脳髄の中に住んでいて、僕の耳ではなく脳みそに直接その鳴き声を聞かせていた。
それはすさまじい悲鳴で、声色は最初高く澄んだ悲鳴だったものの、次第にあまりにも強い絶叫であるが故に、喉が張り裂け濁り始める。
血の泡が生まれ弾けてゆく音が聞こえる。
プチプチ、プチプチ、プチプチと。
脳髄の中の架空の喉が張り裂けて吹き出た血が噴く泡が、弾ける音。
それは、僕はできなかった叫びだった。
僕はリリをこの手で殺めて、その時大きく泣き叫ぶ事は出来なかった。
どんなに耐え難かろうが、僕は結局のところ加害者だったのだ。
この世でただ一人、きっとリリの絶望をなんとかできる存在だったのだ。
それでも僕は、リリの絶望を後押しすることしかできなかった、愚か者で。
だから僕に、泣き叫ぶ資格などなかった。
僕は泣き叫ぶその主を羨ましがった。
恥知らずの僕の羨みが感じられたのか、その主が僕を存在しない目で睨みつけて。
今にも打ち砕けそうなその存在が、最後にその今わの際の断末魔を上げた。
絶大な音量の、絶叫。
耳朶に響くのではなく脳みそに直接響いているというのに、鼓膜が破れて三半規管が破壊されそうなほどの。
打ち震えるような叫びが、僕の中で何度も反響して響き渡って。
砕けた。
そう思った瞬間、目が覚めた。
「…………ぁ」
乾ききった喉から、しゃがれた声が漏れた。
暗い、けれど物の輪郭はつかめる程度の光量。
記憶にない枕とベッド、掛け布団を避けて上半身を起こすと、僕の動きを感知したのか天井の常夜灯が光り始める。
僕はそっと手を伸ばし、リモコンと思わしき蓄光に触れて明かりをつける。
照らされた室内は、竜国風のエキゾチックな佇まいだった。
黒と赤を基調とした室内は明らかに豪勢な佇まいで、色の種類が少ない分、頒布やビロード、大理石に木材と様々なテクスチャが織り交ぜられている。
知らない部屋。
僕はしばらくぼうっとしながら部屋の内装を眺めていたが、次第に頭がはっきりとし、意識を失う前の事柄を思い出す。
チセが死んだ。
父さんを殺した。
太上老君にいざなわれ、彼女の住まいに転移させられた。
あまりにも滑稽無糖で、現実とは思えない事柄だった。
チセが死んだ。
チセは一般人だ、明らかに間に合わない距離だと僕は確信してから父さんに殺される事を決意したはずだった。
チセは間に合わないはずだった。
父さんの刃は間に合うはずだった。
しかし現実はそうなっておらず、奇跡か何かが起きて僕の思惑は覆された。
父さんが死んだ。
世界最強の勇者が死んだ。
人類を滅亡の運命から救い続けてきた勇者が、僕がなんとなく反射で放った斬撃で死んだ。
あまりにも、あっけない死だった。
勿論僕の反射で放つ斬撃は、世界でもトップクラスの速度だっただろう。
今の僕は心技体のバランスが完全に崩れ、精神が壊れ、それに伴い技術も腐敗を始めている。
しかし反射的に放たれたその剣は、壊れた精神と技術を無視した、全盛の技術に世界最高の性能を乗せた放たれた剣である。
それは生まれて初めて愛するものを手にかけた父さんの隙を突き、殺害して余りある力でもあった。
嘘だと思いたかった。
けれど僕の手は、人肉を貫く感触を今でも覚えている。
大切な人をこの手にかける苦しみを。
大切な人を失う悲しみと絶望を。
そしてそれは、おぞましい事に僕にとっては慣れっこになりつつあり、壊れかけた僕の精神はそれを正常な衝撃として受け止める事すらできなくなっていた。
「……起き、ます」
宣言した。
足を床におろし、周りを見回す。
いつの間にか備え付けと思わしき寝巻に身を包んでいたので、洗濯済みと思われる普段着に着替える。
用意されていた靴にひもを通し、僕は部屋を辞した。
部屋を出ると、そこに居たのは首無しだった。
反射的に、距離を取る。
それは道士服に身を包んだ首のない人形で、胸にホワイトボードらしきものを吊り下げている。
軽く構えた僕に対し、両手の人差し指をホワイトボードに。
注目すると、自然とそこに文字が浮き出てくる。
『私は使用人です。屋敷の管理と、客人の世話を任されています』
なるほど、と頷くと僕は最小限の警戒を残して構えを解いた。
それから辺りを見回し、ここが長い廊下の一部であることを把握する。
「これから僕は、どこで何をすればいい? できれば、家族と合流したいんだけれど」
『洗面所など、いくつか身支度の場所を案内させていただいたのち、食堂に案内いたします。他の皆さんも、そちらかと』
という事で、日常のルーティンから勧められ、僕は断るでもなしで、彼……彼女? 兎角、その首無しの案内に従うのだった。
やがて食堂に辿り着くと、そこは二十人以上が収まるであろう大きな食堂だった。
個人の屋敷としてはかなり大き目なので、大人数で利用する事を想定しているのだろうか?
そんな風に疑問に思いながら、扉の音に反応した三人に手を振る。
「あ、ユキちゃん!」
「しゃきにごひゃんたべてゆよ」
「ミドリ姉さま、口の中飲み込んでから喋ってください……」
三人は食堂の一部に固まっていたので、僕も近くの椅子に腰かける。
すると僕のそばに寄ってきた食堂付きと思わしき首無しが、ホワイトボードを書き換える。
画像付きの、朝食のメニューだった。
中華風のメニューで、粥や揚げパンのほか、点心も並んでいる。
「…………」
腹を摩る。
空腹感はあまりなかったが、直近の食事とその後の運動量を考えれば、腹が減っていて当然の状況だった。
少し悩んだが、胃に優しそうな中華粥を頼んだ。
首無しは、存在しない首を縦に振るような仕草をしてみせて、キッチンと思わしきほうに歩いていく。
カチャカチャと、食器の音だけが響く。
沈黙の中、僕らは黙ったまま静かに食事を進めていた。
僕は自分から発する言葉が思いつかず、すぐに配膳された粥をそっと口に運んでいた。
「……えーと、こほん、朝から結構しっかりした味付けだよね!」
「ん。結構最強」
「私は朝からだと、もうちょっと薄味が好みですね……。お粥も結構しっかりしてる」
と元気に言うヒマリ姉とミドリは点心を選んでおり、朝から肉まんに焼売を口に運んでいる。
胸やけしそうだと思いながらアキラを見ると、僕と同じく粥を選んでいた。
「……そんなにしっかりした味付けかい?」
「え? はい、油をしっかり使っているみたいで、結構」
「そうか、なるほど」
つまり殆ど味を感じられない僕は、今日はかなり味覚が壊れているらしい。
元より最近はあまり味覚が安定しないような体調だったが、今日はそれに輪をかけた状況だった。
そのやり取りに察してしまったのか、他の三人が黙り込んでしまう。
雰囲気を悪くしてしまったかもしれない、と思うが、そこから何かしようという気力も沸いてこない。
結局僕らは静かなまま、朝食を終えた。
*
「さて、改めて……ようこそ、我が館に」
と、太上老君は静かに告げた。
朝食の後案内された茶室、四角いテーブルの一面に僕ら四人が腰かけ、対面に一人太上老君が腰かけている。
生白い肌に、黒く艶のない死人のような長髪。
よく見ると、仙人ら特有の獣耳は黒く、ペタンと閉じるように小さく生えており、殆ど髪の毛と一体化しているようだった。
血のように赤い瞳で、じっと僕を見つめてくる。
「そうさな……君たちを招いた理由については、順を追って話そう。
まず私は、勇者龍門……彼に皇国に招かれた。
息子である二階堂ユキオ、君にかけられた呪いを確認し、可能であれば解呪するためにね」
「……それは」
「龍門は私と契約したうえで、先に対価を支払っていた。
故に契約が履行可能である限り、私はその契約を果たす義務というものがある。
龍門は既に契約が不要だと言い、自らその契約を利用不可能とするつもりだったようだがね」
どこかネットリとした、粘着質なアルトボイス。
呪い。
父さんが僕を完全に見捨てる事になった切っ掛け……かもしれない何か。
今更知っても手遅れだったかもしれない、その事実。
それでも。
「……聞かせて、ください。僕にはきっと、それを知る、義務がある」
我ながらかすれた、酷い声だった。
誰かがこんな声を発しているのを聞いたら、大丈夫かと声をかけたり、或いは顔色によっては救急車を呼んでもおかしくないぐらいだ。
それでもそんな情けない僕の声を聴いた老子は、昏い笑みを浮かべて、頷いた。
「よかろう。……そうさな、私の説明に説得力を持たせるため、まずは私の技能と固有術式について話さねばなるまい。
我ら仙人が求める物は、何か知っているかい?」
「運命の、真理」
「そう、我らは運命がどのように流れているのか、どのように決定されてゆくのか、そういった真理を求める集団だ。
その上で私の固有術式は……"見返り美鏡"。
いわゆる過去視の術式だ」
なるほど、と僕は内心頷く。
運命を求める集団に生まれた、過去視の術式持ち。
過去を確認可能なその能力は、史書にたよらず過去の正確な事実を確認できる。
過去の事実の積み重ねを正確に知る事は、運命の真理とやらを追い求めるのにさぞ役に立つのだろう。
つまるところその固有は、彼女が三大仙人と言われる仙人の頂点までたどり着く事に大きく寄与したと思われる。
「もちろん私自身、固有頼りでこの地位に辿り着いたという訳じゃなく、運命に関する術式は習熟している。
固有持ちのユキオ、君ほどかどうかは分からないがな。
けれどある日、私は自分の知る運命が、改変された事に気づいた。
私が歓迎していた……私が手に入れるはずだった、幸福な運命。
それがいつの間にか全く別のものに変わってしまい、いわば私は不意打ちで気づけば敗北してしまっていた訳だ。
……あいつに」
言葉を切り、老子は僕らの顔を順に見つめた。
最後に僕の顔に視線を戻し、どこか空虚な笑みを浮かべてみせた。
「私の敗北は、19年前。
その日龍門が、薬師寺アキラが、そしてそこのお嬢ちゃんが言う呪いと呼ぶ術式が発動した。
その使い手の名は……二階堂、ヒカリ。
その術式の名は……いや、それはこの過去を説明してみせてからがより良いか」
キィ、と音を立て、老子は席を立ち、側面の椅子に腰かけなおした。
続け手を一振り、壁面にそれを作り出した。
"窓"、というのが初印象だった。
それは長方形に区切られた映像で、まるで何もない空中にプロジェクターから映像を映し出しているような光景だった。
「さて、まずは……二階堂ヒカリの背景から語ってゆくべきかね……」
低い声を出しながら、なにやら手を振り"窓"の微調整を続ける老子。
僕らはその声の語る内容に、しばし耳を傾けるのであった。
*
二階堂ヒカリは、焦っていた。
第二子を産んでほど近く、本格的に自身の寿命が近づいてきた事を自覚していたのだ。
四年ほど前、人魔大戦にてヒカリを含めた勇者パーティーは魔王との決戦に挑んだ。
その際魔王は人類の柱は勇者ではなく聖女であると見抜き、ヒカリにその寿命を削減する呪いの術式を残した。
ヒカリは師や戦友の力も借りてその術式を解析し続けたが、分かったことはこの術式が事実上解呪不可能だという事だけだ。
最早死は避けられないものとして、あと一年以内というほどに迫っていた。
二階堂ヒカリは、家族を愛していた。
しかし同時に、家族の事を信頼しきれてはいなかった。
夫ははっきり言って、その目にヒカリ以外の何物も見えていない。
その愛着の全てはヒカリに向いており、ヒカリのためだけに生きている。
それ自体はむしろヒカリとしては嬉しく好ましい所だったのだが、自分が逝った後に娘たちを任せられるかというと微妙なところだ。
恐らく家族を頼む、と約束を残せば最低限の世話はしてくれるだろうが、それ以上は難しいだろう。
娘らは、長女のヒマリが2歳、次女のミドリは0歳。
引き取った魔王の娘ミーシャでさえ、若干5歳である。
このミーシャは、ヒマリが姉妹を守らせるために引き取った娘だ。
ヒマリとミドリを守るよう誘導しながら教育しているが、どうやら魔王が何か仕込んでいたらしく、それも上手くいっていない。
とは言え最低限、魔族優和派の神輿にはなれるだろう方針の教育は施せているので、ヒマリが彼女に期待した成長は見せてくれる事だろう。
だが、それでも残された家族三人を思うと、まだまだ足りないとしか思えない。
夫は、ヒカリが居ないとダメになってしまうだろう。
龍門は幼い頃からヒカリが密かに誘導していった通り、剣に一途で、最強で、そして何より多くの判断をヒカリに依存するよう成長していった。
夫の縋るような目を見るだけで、ヒカリの胸の奥にはむずがゆいような、顔が引きつった笑みを浮かべてしまいそうな、独特の歓喜が湧いてくるのだ。
娘らは可愛い盛りだ。
ヒマリは明るく元気で、人見知りせず誰にでも愛想のよい、可愛らしい娘だ。
ミドリはまだまだ赤ん坊だが、最近は活発に動き始め、その愛らしさを増している。
これから美しく健やかに育ってくれるに違いない。
この世で最も美しい母に嫉妬しないかどうかだけ不安だけれど、その嫉妬を受け止めるのも中々味わい深い歓喜となるに違いない。
その愛情は歪んでこそいたが、しかし確かに家族に対する愛情であった。
深い愛情を持つがゆえに苦しむヒカリのもとに、994年の秋、ある夫婦が訪れた。
薬師寺アキラと、フェイパオ。
戦友ら夫婦である。
「これを、師匠のところに捨てに行こうと思ってな」
とはフェイパオの言。
指さすのは、フェイパオが先ほど産んだ赤子と紹介した、一歳の子供である。
「私は別に、実験か何かで消費してしまえばよいと言ったんだがな……」
「やめてくれ、そんな事したら師匠にミンチにされる。
子供が出来たら、殺さずに必ず連れてきなさいって言われているんだ。
私は生きたままミンチになって、その後ミンチ生活を何年も続けるのは嫌だぞ」
独特な罰則の話をするフェイパオに、ヒカリは内心溜息をついた。
腹を痛めて産んだ子にここまで愛着を持たない両親というのは、自身が娘らに愛着を持つからこそ、奇異に映る。
割と仲の悪い戦友である彼ら四人は、二組の夫婦でそれぞれ、感性を別っていた。
「……実の子に興味を持たない光景って、中々グロテスクなのね」
「お前たち夫婦も中々に悪趣味だと思うが」
「おまいう、だったか? そんな感じだろ絶対。ヒカリにだけは感性の事でとやかく言われたくないっての」
不貞腐れるフェイパオに、どう考えてもこっちのほうがマシだとヒカリは内心吐き捨てた。
まぁ幼い頃から夫の人格を彫刻して調整し、理想の旦那にした事は、もしかしたらちょっと、趣味が悪いと言われる可能性がなくもないと思うが。
でもそういう固有に生まれついたんだから、試したくなっても仕方ないじゃない、と内心で小さく鼻を鳴らした。
固有"光の象徴"。
それは光っている象徴を指し示す名前なのではない。
光の中に含まれる象徴的な要素を子細に操れる事を指し示している。
それは光が刺激する脳の部位をある程度調整できるという事でもあり。
つまるところ、それは光を使った洗脳術式をも使える、という事だ。
無論ヒカリは、大っぴらに洗脳術式を使うような事をしなかった。
まずは日常の制御が甘い振りをして、感情が高ぶった時に薄っすらと自分が光るようにしてみせた。
その上でその光に、ほんの微弱な、感知可能な限界を下回るような洗脳術式を仕込んだのである。
ある時は、自分が好かれるために。
ある時は、他人の攻撃性を刺激するために。
ある時は、扇動のために。
ある時は、幼馴染を理想の男にするため、人格を彫刻してゆくために。
「少なくとも、終戦記念の式典は、ドン引きだったぞ……」
フェイパオの言葉に、ヒカリは微笑み返す。
その全貌は誰にも解っていないが、戦友であるこの夫婦には薄っすらと気付かれている節がある。
人魔戦争で命を賭して戦った戦士の何割かは、ヒカリが扇動した者達だ。
そしてヒカリは終戦後、涙を流しながら、自ら扇動し命を捧げさせた彼らに感謝し、その冥福を祈ったのである。
表情にこそ見せなかったが、アキラとフェイパオがコイツマジかという感情の動きをしていたのは、ヒカリも把握していた。
「ま、これを捨てに行く序でに、お前の顔を見たくてな。
……お前の性格はクソカスだが、それでも一応戦友だ。
見納めぐらいは……ふん、してやらないとな」
「私はどうでもいいんだが」
「私がやんないと嫌なの!」
今一冷めた夫婦喧嘩らしきものをする二人に、ヒカリはため息をついた。
アキラとフェイパオの二人は子供を作ってみたが興味を持てず、なので師の言いつけ通り生まれた子を師に預けに行くのだという。
正直、娘らを愛するヒカリには良く分からない感性だ。
しかしそれでも、無理に二人に世話をさせるよりはマシなのだろう。
残る寿命を思えば、自分が引き取るなどと言い出せないのだから、ここで口出しするのも無責任か。
そう思いながら、ヒカリはその幼子の顔を見て。
気づいた。
この子は、運命の固有術式を持っている。
ヒカリの師、太上老君は仙人である。
それ故に運命の術式に関しては幾らか知見があり、ヒカリもそれに関する指導は受けている。
勇者パーティーの三人の中でも最も気に入られ、故にヒカリは太上老君の薫陶を最も強く受けた人間であり。
だからヒカリは、赤子に宿るその固有術式を認識できたのであった。
だから気づけば、ヒカリはこう告げていた。
「この子、私が引き取っても良いかしら?」
二人は、驚き目を瞬いた。
興味なさそうなアキラの方は捨て置き、フェイパオに視線を。
鼻白む彼女に、ニコリと微笑みかける。
フェイパオは嫌そうに顔を引きつらせた。
「あのな、私は師匠にミンチにされたくないからこれを連れて行こうとしているんだ。
なんで欲しいのか知らんが、お前にやったらダメだろ」
「あら、本当? 必要なのはこの子を老子に会わせる事よね?
別に引き取るのが老子でなくとも、私でも良いんじゃない?」
「えー……。そーかな……」
「大体貴方、老子に会いたいの? 私が引き取れば、貴方が直接老子と会わなくて済むんじゃない?」
「……あー……」
「大丈夫よ、私なら老子のウケも良いし、私に言いくるめられた程度で貴方が怒られるような事なんてないでしょ」
「そうかな? そうかも……」
隣のアキラが呆れながら口にする紅茶が空になるころ、渋々と言った様子でフェイパオはヒカリにその赤子を預けた。
当然、ヒカリは赤子を老子と会わせるとは一言も言わないままだ。
師に報告だけはすると言う二人と別れ、ヒカリは早速準備に取り掛かった。
まずは用事で席を外していた夫に事情を伝え、困惑させながらも了承を勝ち取る。
その後は、今までぼんやりと構想だけあった術式を、突貫で仕上げる作業だ。
それは、今までのヒカリの陰の集大成と呼ぶべき術式。
回復や攻撃の術式を陽とするならば、洗脳や人心掌握の術式は陰と言えるだろう。
扇動、洗脳、人の心を操る術式。
何より夫を、龍門の精神を彫刻し続けてきた経験。
それらが合わさり、徹夜をして作り上げられたその術式は完成した。
「……間に、あった」
フェイパオらが老子に連絡した時点で、ほぼタイムアップだ。
事が分かれば弟子とは言え、老子はヒカリを殺してでも赤子を奪いに来る事だろう。
それまでに術式を発動してしまえば、それはヒカリの勝利に他ならない。
僅かに黄金を纏った術式光が、複雑な図形を描いていた。
赤子……より正確に言えば、赤子の頭蓋を中心に半径十メートルほど、光の全てをつぎ込んだその術式が、その威容を見せている。
脳髄にかける、その非物質の光の術式。
その術式の内容は、その名前が指し示していた。
「人格策定術式:二階堂ユキオ」
ヒカリは、夫の人格を彫刻し続けていた。
例えば夫には武に勤勉に居てほしく、だから気がそれたり集中力が落ちた時は、即座に洗脳して武に集中させた。
例えば夫には自分以外の異性に興味を持ってほしくなく、だから他の女に意識がゆくたびに洗脳し、自分以外の異性に興味を持つことに苦痛に似た感情を感じさせた。
例えば夫には困った時自分に頼ってほしく、だから夫が困り果てるたびに洗脳し、その内心を吐露させ自分に相談させた。
幼馴染として日常的に二人で過ごしながらの、無数の洗脳術式。
それは二階堂龍門の人格を少しづつ、彫刻し変容させ続けてきた。
それが"少しづつ"かつ"彫刻するように"していたのは、元の人格があるからだ。
元の人格があるから、一度に大きく人格を変えると、おかしいと疑われてしまう。
元の人格があるから、それを削ったり付け足したりしながら変えてゆくしかない。
だが、それが無垢な赤子相手となればどうか。
無論ヒカリは、人間の人格の形成について全てを知る訳ではない。
しかし、凡その人格の方向性や、どんな存在に拘るようになるかは、この術式により刻み付ける事ができる。
例えば、家族を見るたびに脳髄の情動を司る部分が刺激され、家族愛を感じるようになったり。
例えば、家族が不幸な目に遭うたびに精神に恐怖を与え、家族がそれから脱出するたびに強くリラックスさせることで、家族を不幸から救うことに報酬系を設置したり。
例えば、例えば、例えば……。
二階堂ユキオという人間が、二階堂家にその人生全てを捧げる人格になるように。
運命の術式使い、不幸になる運命を変えられる男が。
「ユキオ……まぁ、幸せな雄と書いて、幸せな男になるように、とでも言っておこうかしら」
事実は異なる。
ヒカリが実際に名付けたユキオという名は、幸甕と書く。
幸福をため込む容器、その貯めこんだ幸福を家のために捧げるモノ。
人間未満の、人間に使われる道具。
それがユキオという名前に込められた、真の意味だった。
「あぁ、良かった。これで私が逝っても、龍門は、ヒマリは、ミドリは……きっと幸せに」
微笑みながら、ヒカリは目の前の幼い道具の頭を軽く撫でてやった。
年齢は一歳。
しかし両親がマトモに教育していなかったせいか、喋る内容は言語の体を為しておらず、若干知能の成長に遅れが生じているようにも思える。
「だけど、大丈夫。これからの一年……いや、それからも。
私がキチンと君を育て、導いてあげる」
胸の中のつかえがとれたヒカリは、徹夜の心地よい疲労を抱きながらも、その顔は明るい。
近頃表情に入り込んでいた死の不安は掻き消え、希望に満ちた、満面の笑みを浮かべていた。
「何せ君は……二階堂一家の、大事な道具なのだから」
*
「二階堂ユキオは……。だから"ここ"と称する家族を愛する男になった。
父を、姉を、妹を愛する男になった。
例えどんなに雑に扱われても、例えどんなに劣等感を刺激されても、彼らに憎しみや怒りを抱く事はできない人間になった。
そして龍門にとって、お前は妻の遺した術式を感じる子供だった。
術式の内容までは把握していなかったようだがな。
龍門が縋るヨスガ、そのこの世に現存する唯一の存在がユキオ、お前だったのだ。
だから龍門はユキオ、妻の代用品の道具である君を愛することにした。
二階堂ヒマリ、母を亡くした時物心つき始めていた君にとっては……この世で唯一、母を感じる相手だった。
君は幾度か指摘されていただろう? 弟に対して求めているのは、父性、どころか母性なのかもしれないと。
だからヒマリ、君は母のように思える弟を、ユキオを愛するようになった。
あぁ、もちろん他の感情も混じるようになったかもしれないが、少なくとも切っ掛けはそうだったのだろうね。
二階堂ミドリ、母を記憶していない、無償の愛を知らなかった君にとって、ユキオという存在はどう比喩すればいいか分からなかった。
だから君は、自分を飼ってくれる相手だと信仰するようになった。
無償の愛を兄から受けながらも、それが一歳しか違わない不完全な兄によるものであるからこそ、信じ切れなくて。
だからそうやって歪曲した形でしか、受け取れなかった」
僕は、呆然としながら老子の言葉を聞いていた。
妄想だ、そんなことある訳ない……。
そう言って耳をふさげたら、どれほど良かっただろうか。
理屈ではない。
僕の魂が、ストンと腹に落ちる感覚と共に、老子の言葉が真実だと告げていた。
「二階堂ユキオは、その脳髄に刻まれた術式から、"ここ"を裏切る事は絶対にできなかった。
だから生理反応で姉や妹に興奮してしまったとき、おぞましいほどの罪悪感をいただいた。
だからどれほど長谷部ナギが誘っても、"ここ"を守るために彼女を斬り殺した。
だからミーシャが誘っても、"ここ"を守るために彼女を食い殺した。
薬師寺アキラについては、普通の殺し合いだったようだが……。
敗北後、後の二階堂リリを引き取ったのは、術式の誤作動と言って良いだろう。
二階堂ユキオの精液を元に生まれた二階堂リリは、人格策定術式に家族と認定され、保護対象でもあった。
だから、"ここ"の一部であると術式が認定したから、二階堂ユキオは二階堂リリを引き取った。
二階堂リリが懇願しても娘に興奮はできなかったのは、多分素だと思うが……術式の影響も否定はできないね。
……そして」
一息。
ま白い肌に浮かぶ紅玉が、じっと僕を見つめる。
「二階堂ヒカリの転生者である下野間チセを、"ここ"の一部と認定した。
血のつながりがないのに"ここ"の一部であるという矛盾を解消するため、お前はつがいとなるべく、下野間チセに恋愛感情を抱いた……事になった」
眩暈がする。
確かに地面に足を付けて椅子に腰かけているのに、まるで椅子がグニャグニャと揺れ動いているかのようだ。
高いところで一歩でも動いたらバランスを崩してお終い、椅子に腰かけたままそんな感じがしてしまう。
「……そして、だから二階堂龍門に殺されそうになれば、強く抵抗は出来ず。
そして下野間チセは、奇跡のように前世の力を引き出し、お前を庇い。
二階堂ヒカリの転生者である下野間チセを、"ここ"の一部を失ったお前は、その術式が導く殺意に反射で動き。
……本来はその術式の枷で殺せるはずがなかった、二階堂龍門を殺した」
吐き気。
吐き気なのか、胃の奥の方がキュウウと締まって、まるで体全体が雑巾絞りされているみたいだ。
頭がガンガンと痛み、全身が震えだす。
「君のその呪い……人格策定術式にある程度以上気づいていたのは、薬師寺アキラと二階堂アキラ、そして恐らくは真の魔王と言ったところか。
魔王がヒカリに呪いをかけた事を後悔し、二階堂ヒカリの転生者である下野間チセを殺そうとしていたのは、そのためだろう。
君に中々の好感を持っていたようだからな。
薬師寺アキラは君に一目惚れしたとき、同時にその脳髄にある術式の概要を看破していた。
だから君の、脳髄を爆破した。
君の再生術式があれば、脳髄を爆破し魂から再生させ、一度人格策定術式の影響を和らげる事ができるからだ。
魂と肉体は相互に作用している、肉体側にある術式の影響は魂も受けていたが……一度術式を傷つけ、影響を和らげる事が出来たのだ。
死んで再生したあとのユキオ、君に龍門が他所余所しかったのは、妻の術式の感覚が薄れたからだろうな。
二階堂アキラは、薬師寺アキラから引き継いだ知識からだ。
だから薬師寺アキラと会っていない下野間チセの事は分からなかったし、二階堂リリの中からでは下野間チセが二階堂ヒカリの転生体であることも分からなかった。
一人で表に出た時には既にユキオ、君と下野間チセが親密になっており、近づきがたかったようだな。
だから君が下野間チセと出会う度、つまり二階堂ヒカリの転生者と出会う度、一度脳髄ごと破壊された人格策定術式が再生しつつあることに、気づかなかった。
薬師寺アキラがある程度破壊した術式の影響が復活していったのは、この所為だよ」
気づけば僕は、割れそうなぐらい強く歯を噛みしめていた。
何故と問われても分からない、体中にギリギリギリギリと力が入って、どうしたって抜けやしないのだ。
それこそまるで、僕自身の意識の手綱を、肉体が聞いてくれないかのような。
「……一歳の頃から人格策定術式の影響を受け続けた存在の自我は、果たして人間なのか、それとも術式の物なのか。
それを判断することは非常に難しい。
君がしてきた判断の全てに、必ず人格策定術式の影響はある。
しかし一方で、君の自我がどれほど介在できたのかは……未知数というほかない」
口内で血が吹き出る。
鉄の臭い、血の味、血の油分が舌をコーティングする。
震えが止まらない。
乾いた鼻息の呼吸が音を立てる。
「しかしその術式は、その矛盾によって、既に破壊された。
"ここ"を守るために策定された術式が、"ここ"を術式自体の判断で殺してしまったのだから。
自己矛盾により崩壊した術式は……君の中から、消え去ったのだ」
ぱちぱちぱち。
呑気な拍手の音に、僕は震えながら老子に視線をやる。
無表情のまま両手を叩きつつ、彼女は僕に告げた。
「ハッピーバースデー、二階堂ユキオ。
人間:二階堂ユキオは、母の転生体が殺され、父を殺した、つい昨日に生まれたのだよ」
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来週は更新をお休みする予定です。
次回の更新は 8/21(木)を予定しています。
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