02-惨者と汚泥のスープ
屋内競技場。
2キロ平方はある広大なそこは、ちょうどサイズの大きくなった体育館を想像すれば合致するだろうか。
板張りの床には区分けのための白線が引かれ、空調の効いた室内は天井も高く、壁面には僕ら自身の力を吸って発動する結界が仕掛けられている。
高位階の実力者でも、強く意図せねば壁を破壊することができないぐらいだ。
そんな広い場所を、今僕らはたった三人で占有していた。
「いやぁ……兄さんちょっと強くなりすぎてない?」
「いやいや、ミドリこそ滅茶苦茶強くなったね。すごく頑張ったよ」
「ぜぇ、ぜぇ……お、お姉ちゃん一人だけ肩で息してるんですけど~」
僕は久しぶりに、姉妹と模擬戦をしていた。
と言っても、特別覚えた戦術を試すための模擬戦という訳ではなく、現状の実力を確かめるための簡単な手合いと言ったところか。
この一年半、僕の位階はさらに上がった。
リリは、僕と同系統かつ上位の固有術式の持ち主だった。
こう言った相手との闘いは下位者の実力向上に良いとされており、ギルドでも推奨しているほどだ。
その例の通り僕もリリの術式の使い方を覚えたからか、力をより引き出せるようになり、位階が上がったのである。
……例えば。
「……そこっ!」
ヒマリ姉との格闘の最中、僅かに体が固まったところにミドリの狙撃が放たれる。
光に近しい速度で放たれる、熱量の弾丸。
発射とほぼ同時に着弾するそれは、僕の体をすり抜けて結界に着弾、さく裂していた。
「……そのすり抜け、ずっこいなぁ! 私も一応、運命の汎用術式は使っているんだけど!?」
「演算速度がちょっと遅いなぁ。今の状態じゃ、ミドリの攻撃に当たってあげられないよ」
「お姉ちゃん、どうにか兄さんをもうちょっと困らせて!もっとボコボコに!」
「……ぜぇ、ちょっと、待って、これキッツ……」
と、肩で息をする姉さんを攻めるのは僕の糸"拳"だった。
姉さんとの組手という事で、僕は合わせて拳を使うようにしていた。
僕のメインウェポンは直剣であり、拳を使った格闘戦はそれなりにできるサブウェポンという程度だ。
恐らくは格闘を主とする相手には技術的に劣るだろうし、固有の関係上立ち技メインの姉さん相手にもかなり不利となる。
だが、糸拳を使うとなると、全く別の話である。
「触れた瞬間終わりの拳とか、酷くない!? 受け流しただけで手が埋まっちゃうのは聞いてないんだけど!?」
「姉さん、不用意に受け流すから……」
糸で編まれた手甲は結構な厚みがあり、肘近くまで伸びてかなりの大きさで手から腕までを覆っている。
その手甲の拳だが、実のところ編んだ糸を簡単に解き動かす事ができるようになっている。
そのため糸拳の打撃を受け流そうとすると、触れた糸が触れた武器や防具を侵食することができるのである。
気付かずに数秒も触れたままでいれば、相手は糸に拘束されて終わりである。
「でも姉さんも、侵食しようとする糸を殴打してきちんと勝負を成り立たせているじゃないか」
「いや……お姉ちゃんこれはちょっとキツいかな……。い、息が続かない……!」
今回、姉さんは背後にミドリを背負い、攻める僕から守り抜こうとしている。
ミドリはこの模擬戦が始まってから十数分、一歩も動かずに射撃と支援とを行っていた。
故に姉さんは出し抜こうとする僕を押しとどめる役を担っており、自由自在に回避できる立場にない。
いわゆる、タンク役。
その状況に、防御するたびにデメリットが出来てしまう僕の糸拳はとても良く噛み合っていた。
「ミドリじゃないけど、変な悲鳴出てきそうだよ!?」
叫ぶ姉さんの、右拳が顔面に飛んでくる。
バックステップで避けようとするが、後ろに飛んだはずが距離が稼げない。
同時に出た姉さんの左拳、慣性を遠隔で"殴打"した拳が、僕のバックステップの慣性移動を阻止したのである。
想像していた移動が出来ず、しかし慌てず僕はそのまま勢いよく後ろに倒れ拳を避けた。
背中に着けていた糸で、床に向けて自身を引っ張ったのである。
「……っとおっ!?」
そのままムーンサルトのように縦回転で蹴り上げる。
防御の腕を差し込んだ姉さんが下がると、瞬間、射線が空いたのを感知。
光線、しかし無効化可能だが思うと同時、閃光。
目の前が真っ白に、刹那の眩暈。
即座に感覚を視界から張り巡らせた糸に転換、姉さんの繰り出す拳を受け止める。
「げっ、これも!?」
「今のは上手かったんだけどねぇ」
姉さんの拳は確率ごと"殴打"することで、すり抜け状態の僕を攻撃することができる。
ミドリは運命の汎用術式を用いてすり抜け状態を緩和できるが、僕の集中力を他の事に使わせないと、完全に無効化できない。
そこで姉さんが僕の集中力を削りミドリの攻撃で決める、と思わせておいて逆の役割を担ってみせたのだ。
ミドリの光線攻撃に見せかけた閃光攻撃で僕の視界を奪い、感覚が切り替わる隙間を縫っての、姉さんの渾身の拳。
しかしそれすらも、糸の感覚による結界があれば完璧に対処できる範疇だった。
そして、拳を受け止められたということは。
「げ、ちょ、糸がウニョってる!?」
僕の糸拳の片方が弾け、そのまま姉さんを拘束する糸となる。
身動きの取れない姉さんを無視して、そのままミドリに向けて走り抜けた。
舌打ち、ミドリは即座に消耗を度外視し、運命の術式を乗せた光線を連射してみせる。
弾くまでもなくすり抜けながら疾走、間合いに辿り着いたと思った、その寸前である。
悪寒。
咄嗟に糸剣を生成、構える。
ぎぃぃん、と鈍い音。
見ればミドリの手の元、煌めく光の剣が握られていた。
「……いやー、勝負には勝てなかったかぁ」
「……それでも、試合じゃあ負けさ」
それは、運命の術式を過充填された、運命の剣だった。
恐らくは僕の糸剣を模したその剣は、いわば僕の糸剣の汎用落とし、の原型。
確率操作によるすり抜けを無効化できるほどの力を秘めた、運命の糸殺しの剣。
模擬戦開始から一歩も動かず十数分のタメが必要というあたり、開発中の術式なのだろうが、それでも舌を巻くような出来だった。
流石の僕も、それを意識外から作られ、思わず使い慣れた糸剣を生成して防いでしまった。
今回の模擬戦のルールにおける、反則である。
「だね、それでも勝ちは勝ち。兄さんには私たち二人と、イチャイチャしてもらう。
世界一カワイイ妹のハグに敗北するといいよ」
「それは怖いね……カワイイ妹怖い、カワイイ妹怖い」
「饅頭みたいな事言うね。そんなに私のハグが欲しいって、これ愛の告白?」
無表情にブイ字を指で作りつつ首をかしげるミドリに、苦笑しつつも僕は背を向ける。
そのまま崩れ落ちた姉さんの所に辿り着き、うつ伏せの姉さんのどこか恨みがましい視線を受けた。
膝をつき、手を差し伸べる。
「さ、姉さんも見事だったよ。……負けたよ」
「……うー、ユキちゃんあんまり悔しがってない?」
「ううん、強がってるだけだよ」
「ぐぬぬ……な、なんか勝った気がしないなぁ」
とぼやく姉さんは、ゴロンと転がり仰向けになった。
トレーニングウェアが捲り上がり、ヘソ回りが露わになる。
叱るべきか、一瞬悩むが、その間に姉さんがん、と手を伸ばした。
「どうしたの? ミドリの真似?」
「抱っこ!」
僕はふむ、と首を傾げた。
「抱っこ」ってなんだっけ。
言葉の意味が一瞬頭を素通りしてしまい、一度通り抜けた音をもう一度再生して咀嚼しなおして、ようやく内容を理解する。
抱っこ。
僕は今、二十一歳の姉に抱っこを要求されているらしい。
「ん!」
ミドリが良くするような短い音と共に、伸ばした両手を僕の方に向ける。
五歳児でもしなさそうな仕草に、僕は片頭痛を堪えるため頭を抱えた。
「僕は姉さんの母親じゃないからね……」
ため息交じりに言いつつも手を伸ばし、両手を取って姉さんの体を起こし、そのまま抱きしめポンポンと軽く背を叩いた。
そのまま姉さんが両手を僕の背に回したのを確認してから、姉さんの太ももの辺りを抱え、立ち上がる。
すると姉さんは、鼻の頭を僕の首筋に擦りつけながら、呟いた。
「マ……ママァ……」
「落としていいかな……」
「ごめんごめん」
言いつつ姉さんが足を下ろそうとするのに合わせ、腰を落とし地面に足を突かせる。
流石に身長があまり変わらない姉さんを抱っこするのは、バランス的に厳しい。
すぐに終えられたことに安堵しつつ、姉さんが離れるのに合わせほっと溜息をつくと。
「本当に、ごめんね」
妙に、重い声。
姿勢を戻し、姉さんを見やる。
何時ものどこか重苦しい空を思わせる、窒息しそうな深い青の目。
口元は笑みのようなものを作ろうとして、ぎこちなく引きつった形で止まっている。
汗に濡れた桃色の髪が顔にべったりと張り付いて、どこか恐ろし気に見えて。
とすん、と背から衝撃。
回される腕、ミドリが背から抱き着いてきたのだ。
「だいじょーぶだよ。って兄さんが言っている」
「言ってないけど、まぁそうかな」
「代弁の代金はハグで許してあげよう」
「脱法押し売り……」
ボヤくと、腹に回されていた腕にギュッと力が籠められ、うえ、と変な声が出る。
そんな風に何時もの通りふざけ合っている僕らを、姉さんは静かな目で見ていた。
じっと、その重苦しい目で僕らを見つめ続けているのであった。
*
あれから何度か模擬戦を繰り返したが、競技場の利用は二時間程度で終えた。
そのまま施設のシャワーを浴びた僕らは、ここから一番近い僕の住む部屋に向かう事となる。
夕方からの利用開始だったので、時間はもう夜だ。
来るときは僕一人だったので、郊外の競技場までは人通りの少ない道を選び軽く高速化して走ってきたが、帰りは三人なのでそうもいかない。
「私が前から、ミドリが後ろからハグしてサンドイッチ状態で移動するのはどう?」
「前が見えないし、むしろ注目されそうかな……」
「可愛いミドリちゃんという女の子が隣を歩いていたら、全人類の注目が私に集まるから兄さんは大丈夫だったりしない?」
「可愛いミドリちゃんとやらの隣を歩いていたら、嫉妬で注目されちゃいそうかな……」
と言いつつも、ミドリは光学術式を起動、街中での利用が咎められない程度の強度のそれで、僕を光学的に薄く見えづらい状況にしてくれる。
そのまま姉さんが軽く僕の"存在感"を殴って、注目されづらくしてくれた。
それで、何もかもが平気になる訳ではないが、大分精神的には楽になった。
「絵面がDVなのはちょっと微妙だけど……」
「痛くしないでね?」
「なんでちょっとえっちな事いうの……」
これでエッチと言われても、困るのだけれど。
そんな風に顔を赤らめる姉さんに困惑しながら、僕らは徒歩で帰宅した。
「うーん、相変わらず広い……」
「このまま私たち二人とも追加で住めそうなレベルだよね……」
福重さんの協力で選定したマンションはかなり高級で、全部屋が家族向けのものだ。
当然僕が住んでいる部屋も同様で、いわゆる4LDKである。
「ちょっと掃除が面倒くさくて、全部屋にロボット掃除機を入れてるぐらいだね……。
あ、ロボットが一個ハマってるのがある、戻しておかないと」
「ウチみたいに当番制と家事代行の併用って訳にも行かないと、そうなるのかぁ」
ふむふむと頷く二人をリビングのソファに案内し、冷蔵庫から取り出したケーキを持ってくる。
おお、と歓声を上げるミドリと、ちょっと眠そうな顔をしている姉さん。
「飲み物は、コーヒーでいい? 紅茶党の姉さんには悪いけど」
「いいよオッケー」
「……うんだいじょーぶ」
コーヒーメーカーのスイッチを入れ、皿に食器を運びマグカップを用意している間に出来上がる。
マグカップにコーヒーをなみなみと入れて持ってくると、姉さんは小さく寝息を立てていた。
「あれ、姉さん寝ちゃったんだ」
「これは……私がケーキ2個食べてもいいってコト?」
「姉さんが起きなかったらね……」
僕もソファに腰かけ、ミドリと姉さんとの間に挟まれる形となる。
姉さんはソファのひじ掛けに身を寄せてうたた寝しているので、起こさないようにと僕らは二人視線を合わせ、静かにうなずいた。
ミドリはマスカットのタルトを取っていき、僕はモンブランを皿に取る。
真っ先に一番高いケーキを取っていくあたり、ミドリは相変わらずこういう時遠慮がない。
それすらもどこか懐かしく感じつつ、僕は静かにモンブランを口にした。
うん、今日は調子が良い、ちゃんと甘味以外の味も分かる。
「……良かった、家に居た時よりちょっとだけ元気になってるね」
出し抜けに、ミドリが告げた。
慈愛に満ちたその視線に、なんだかバツが悪くなり、顔を背けてコーヒーを口にする。
実際、僕の調子はこれでも、実家に居た頃よりマシなのだ。
僕は家から一歩も出る気になれなかったし、暫くは寝て起きる以外の事は何もできないぐらいだった。
「時間がかかっても、大丈夫。ゆっくり良くなろう?」
「……あぁ」
静かに、頷く。
なんとも座りが悪く、内心にほんの僅かながら、暖かな物が灯ったように思える。
しかし無言で居ると、それだけで内心のこの暖かいものが消え去ってしまいそうで。
僕は慌て、口を開いた。
「その、ミドリも、一気に強くなったよね。
随分伸びた、とても頑張ったよ」
「……うん」
この一年半、ミドリの位階は139まで伸びた。
姉さんの位階もかなり伸びたが、ミドリに関してはついに、素の父さんの位階を超えたのである。
勿論、実際の強さという意味では悩ましく、この位階差なら父さんの経験値で覆してきそうだが、それでも数値の上で超えたというのは偉業と言えるだろう。
先日の位階更新の際はニュースになったので、これは広く知られる所である。
「才能ももちろんあるんだろうけど、それ以上にミドリが努力してきたから、できた事だね。
……本当に、頑張ったよ」
「……ありがと。でも、才能は……どうなんだろうね」
「……ミドリ?」
ミドリは、ず、と小さく音をたて、ホットコーヒーを口にした。
口の中の甘味を苦味で洗い流して、す、とその視線を遠くにやる。
「私は……自分が天才だなんて、信じられない」
僕は、ミドリがその才能を称賛された事柄を思い出す。
・史上最年少での竜銀級冒険者到達。
・史上最年少での甲種回復術式資格の取得。
・アキラに師事し、運命の汎用術式を会得したうえで、僕の運命の糸の術式の汎用落としを進捗している。
どれもが僕には到底行えない偉業だし、間違いなく才能を感じられる行いだ。
「もしかしたら、速習性という意味での才能は、あるのかもしれない。
でも……本当の天才っていうのは……もっと違うものだと思っている。
そう、言語で正確に言い表すのが難しい、非言語領域の、蓄積ではどうにもならない超常のひらめき。
もしくは……兄さん相手にこの表現もアレだけど、敢えて。
……まるで運命に選ばれたかのような、何か」
視線を姉さんに。
「概念系の固有を持っている、父さんの後継として……運命に選ばれているかのような人。
父さんの後継を兄さんのように言う人も居るけど、正直その一点で見れば……姉さんの方がふさわしいと、私は思っている」
視線を僕に。
「位階差は、10もあればかなり厳しい戦いになるとされている上で……。
位階差、20、18、16……はナシかな、そして……28。
それだけの差を覆して勝ってきたのは……戦いの神に愛された戦闘の天才と、誰もが認める実績だよ」
位階差が10あれば、おおよそ力の差は2倍あると考えて良い。
20あれば4倍で、そして28……約30あれば、8倍の力の差があるといって良い。
ナギ、ミーシャ、薬師寺アキラは省いて、そして……リリ。
僕が戦ってきた強敵達は、すべて僕を大幅に上回る力を持っており……、勝利という結果を得られたのは奇跡的といって過言ではない。
しかし三回……世間的に言えば四回それを成し遂げたのは、おそらく歴史上では僕一人だろう。
「私はもしかしたら、いわゆる秀才ではあるかもしれないけれど……。
本物の天才では……ない」
ミドリが、沈み込んだ表情で、そう告げた。
その姿にかける言葉も思いつかず、僕はじっとミドリの顔を見つめる事しかできない。
不意にミドリは視線を上げ、じっと僕に向けた。
ミドリの瞳は姉さんと同じ青色系だが、こちらの方が随分と軽やかな色で、晴れ渡る空と言われると思い浮かぶような空色だ。
そんな目が、無表情で、じっと僕を見つめている。
「私は……ずっと、兄さんに……姉さんに劣っていると、そう思っていた」
僕は、目を見開いた。
ミドリが、姉さんに少し劣等感を持っているのは想像できていた。
けれどそこに僕がずっとと言われると、正直意外としか言いようがない。
実績という一点で、三年前以降であれば想像は出来た。
"自由の剣"事件でのナギとの決戦以降、僕が挙げた戦果は対外的に見て英雄的な物といって過言ではないだろう。
けれど"ずっと"という言葉は、それよりも前から僕に劣等感を持っていたのだと、言外に語っていた。
「兄さんは、私と一つしか違わないのに、いつも大人で、私たちのためにいろんなことをしてくれて……。
私が困った時、導いてくれたのは、いつも兄さんだった。
姉さんは小さい頃はそういう事は出来なくて、兄さんの真似をしていただけだったけれど……。
気づけば兄さんの優しい振る舞いを、自分の物にしていた。
私には……できない事、ばかり。
才能だけじゃなく、人格でも……私は、自分が一番劣っていると、そう思ってた」
その表情は、何時もと変わらない無表情のまま。
けれど、その雰囲気というべきか、にじみ出てくる感情は、明らかに真剣で痛みを伴うものだった。
どこか痛々しく、触れる事をためらうような、けれど手を伸ばしたくなるような。
「私が仮に劣っていて、だからって……。
そんなんじゃないって、理性では分かっている。
理屈で考えてそうはならないって、理解している。
だけど……我儘だけど、言わせて」
「兄さん、私を……捨てないで」
僕は、思わず目の前のミドリを抱きしめていた。
背に腕を回し、ぎゅ、とその小さな体を離さないようにする。
柔らかく、小さく、熱いぐらいに暖かな肉の感触。
薄っすらとシャンプーの香りだろう、柑橘系の香りが鼻をくすぐる。
そのまま片手をその頭にやり、そっと撫でてやった。
柔らかな桃色のショートカットヘアを、軽く解かすような仕草で。
「兄さんが居なくて……私、寂しいよ」
身を刺すような声に、僕はミドリを抱きしめる力を、僅かに強める。
僅かに震えるミドリに、しかし僕は、何も言えなかった。
僕は……最低だった。
しかしだけれど、一体僕は言葉を口にできたとして、何を言えば良かったのだろうか?
僕は、これまで大切な人や血縁を殺め続けてきた。
運命の人も、初恋の人も、実の母親も、実の父親も、……実の娘も。
そんな人間が、血の繋がらない妹だけは捨てずにいられるなんて、一体この世の誰が言いきれるというのだろうか?
僕には、それはできなかった。
ここで、誤魔化しだとしても、大丈夫だなんて恥知らずな事を言えなかった。
僕は言葉にできない不実を、抱擁の強さだけで補おうとしていた。
ミドリはそんな僕に騙されてくれて、静かに僕の背に腕を回して、僕を抱きしめ返してくれた。
こんなにも優しくしてくれるミドリが、僕より劣っているなどと、何かの悪い冗談のように思える。
しかしそれを口にするには、先に言わねばならない、避けている言葉を口にしなければならず。
だから結局、僕は無言のままにミドリを抱きしめ続けていた。
ミドリもまた、僕を抱きしめ続けていた。
姉さんを背に、僕らは二人抱きしめ合い続けていた。
*
アキラと、僕のもう一人の娘とは、週に一回会っている。
アキラの姿は、リリと異なり急成長することなく、通常の時間通りの成長を見せている。
十二歳の平均よりわずかに発育が良い程度、未だ少女と表現するにふさわしい姿だ。
銀髪ツインテールで、どこか少女趣味のフリルを多用した服を愛用しているあたりも、その印象に拍車をかける。
そんなアキラだが、その強さは本物だ。
薬師寺アキラから受け継いだ記憶による戦闘理論と位階、それらを更に強く磨き上げ、かつての彼を明確に超えた力の持ち主だ。
故に家族皆アキラが一人で行動することは許容しており、彼女はいつも一人で僕の部屋にやってくる。
「父さま、今日もまた会えてよかったです」
「うん、僕も君と会えて嬉しいよ」
はにかむアキラを迎え入れ、冷房の効いた室内に案内する。
秋も深まってきたが、今日は久しぶりに少し日差しの強い日だった。
僅かに汗をにじませていたアキラが、ふぅ、と安堵のため息をつきながらソファに腰かける。
「今日はアイスティーがいいかな?」
「えぇ、ありがとうございます」
と言っても、我が家には簡単な物しかない。
ティーパックで居れた紅茶を、氷でたっぷりの器に注ぎ込み、できたアイスティーを持って行くだけだ。
提供するや否やごくごくと飲み始めるアキラに、よっぽど暑かったのだろうと呑気に頷きながら、僕は普通にホットの紅茶を口にする。
この所僕は日中に家から出ていないので、日中の気温は完全にニュースだよりの感覚しか持っていなかった。
「この前は久しぶりに姉さま方が来たと思いますが、どうでした?」
「ああ、模擬戦のあとの話かな。
二人にケーキを用意していたんだけれど、ヒマリ姉が寝落ちしていたから、ミドリが二人分食べて帰ったよ」
「ミドリ姉さま……」
天を仰ぐアキラに、僕も思わず遠い目をしてしまう。
ミドリはあの日、自身の劣等感を吐露する、結構真剣な話をしていたはずだった。
しかし話し終えてしばらくすると、まるでそれまでの話がなかったかのように、サラッと二個目のケーキに取り掛かったのである。
思わず目を丸くしてしまった僕を、誰が責められようか。
"それはそれ、これはこれ"とは驚いた僕へのミドリの言である。
「それでヒマリ姉さまが、暫くプリプリしていたんですね……」
「僕の前でも、頬っぺたを抓ってたね……」
まぁ妥当な怒りだと思うので、止めはしなかったけれど。
と、共通の話題である家族の事を話すこと暫く、火照った体を冷やせたようで、さて、とアキラが話を切り出す。
「では父さま、診察に入りましょうか」
「……うん、そうだね」
一度食器を片すと、僕らは二人でトレーニングルームにやってきた。
カーテンを閉め、外から見えないようにした上で、アキラに向き直る。
緊張した様子で深呼吸をして、アキラが静かに告げた。
「……では、脱いでください。いつも通り」
僕は着ていたシャツのボタンを、上から外し始めた。
ごくり、とアキラが唾を飲む。
変な気分になりつつも、協力気にしないように意識しながらシャツを脱ぎ、そのまま中に来ていたTシャツに手をかける。
ヘソが出た辺りで息をのむ音が聞こえるが、手は止めない。
そのまま脱ぎ去ると、小さくため息を漏らすアキラ。
視線がヘソや鎖骨のあたりを行き来しているのは、ある意味健全に成長しているという感想で大丈夫なのだろうか。
そのまま僕は、ベルトを外しジーンズを脱ぎ始める。
アキラが小さくうめき声を漏らすのを聞こえないふりをしつつ、そのまま一本づつ足を抜き去り脱いでゆく。
パンツ1枚となった僕に、アキラは目を大きく開いたまま、何故かうんうんと頷き始めた。
複雑な気分になりながら、僕は残った靴下を脱ぎつつ、アキラに問う。
「流石にアキラの前で見られながら脱ぐのは、何時まで経っても中々慣れないものだね」
「慣れないほうが良い……いや、脱ぐのに慣れた父さま……? の、脳が破壊されそうだ……」
「……大丈夫かい?」
頭とか、色々と。
そんな副音声が聞こえた訳ではないだろうが、コホンと咳払いをしてからアキラが改めて僕に視線を戻した。
視線が合う。
リリの死から、アキラの瞳はリリと同じような金色に変化していた。
その身に流れる血を現す、血縁上の祖母から引き継いだ目の色。
あの日僕が殺した娘と、同じ目の色。
そっと、手が伸びてくる。
幼く小さい手が、僕の肌の上を触れて回る。
赤味を帯びて少し緩んでいたその表情は、気づけば真剣なものとなり、温度を感じさせない学術的な目線となっていた。
様々な箇所を触れて回り、また検査系の術式を発動するなどして計30分ほど。
最後に少しだけ腹や腕をスリスリと名残惜しそうに撫でてから、アキラは取ったデータを記録し判断するために、術式を持ってきたラップトップと同期させる作業に入る。
僕は最後の最後で何とも言えない気分になりつつ、服を着て飲み物を用意し、アキラの作業を待った。
……もしかして三年前の僕は、姉さんたちにこんな風に見えていたのだろうか?
僕から積極的に触れてはいなかった……はずだけれど、姉さんやミドリに触れられた時の反応は、通ずるものがあったような気がする。
そう思うと、それはそれで何とも言えない気分になるのだが。
ある程度アキラが入力を終えると、ラップトップがファンをキィキィと甲高く鳴らし始め、演算を開始した事を伝える。
ふぅ、と疲労を感じさせる溜息。
アキラは甘めに入れたアイスティーを口に、そっとソファに深く背を預けた。
「このまま、少し待ってください。……十数分ってところですかね」
「うん、お疲れ。甘いものでも用意しようか?」
「……その、お言葉に甘えます」
クッキーを用意してやると、小さな口でモグモグと口にし始めた。
大判のクッキーを少しづつ食べる姿は、どこか小動物染みて愛らしい。
僕は少し眺めて愛でてから、自身も用意したクッキーを口にする。
先日ほど調子は良くないようで、甘味以外の小麦の味やチョコチップの苦味は感じられない。
それでも、実家に居た時甘味以外の味が殆ど感じられなかった頃から言うと、かなりマシにはなってきたのだが。
来客用の少し良いクッキーなんだけどな、と残念に思いつつ、含まれる甘味だけを楽しむ。
そうして暫く静かに甘味を楽しんでいると、チラチラとアキラの視線が僕に向くようになった。
どうしたのだろうと首を傾げ自身を見やるが、特に何かおかしなところもない。
「……何かあるのかな?」
「……父さまは、呪いについて、聞きたくはないのですよね?」
僕は、目を細めた。
「……そう、だね。今の僕には、これ以上何かを抱える余裕は……きっと、ないから」
「私としては当然、前向きに解呪に取り組むために知ってほしい事もあるのですが……。
無理にとは、言えませんね」
寂しそうに微笑むアキラに、僕が曖昧な笑みを返していると、ラップトップがポンと効果音を鳴らした。
アキラは持っていたアイスティーのグラスを横に置くと、少し離していたラップトップを近くに寄せ、キーボードを叩く。
暫く操作したのち、アキラは少し眉間のしわを寄せた。
「やはり、父さまの呪いが、ぶり返し始めている。
私が計測し始めてから一年ほどは安定して呪いの効力が落ち続けていたのですが、ここ半年……父さまが一人暮らしを始めたぐらいから、また効力が上向き始めている」
「……そう、か」
僕はその情報を胸にとどめつつも、どう反応するか悩み、曖昧な言葉をだけ返した。
気のない言葉に聞こえたのだろう、アキラは僅かに目を細めたが、感情を噛み殺して胸にとどめて見せた。
僕は、そっと手を伸ばし、アキラの頭に手を置いた。
「ありがとう、アキラ。君のおかげで、気づくことができた事だからね」
「……なら、もう少し真剣に受け取ってほしいのですが……」
そのまま、そっと手を動かし、アキラの頭を撫でてやる。
「……父さま、私は撫でておけば言う事を聞く子だと思っていませんか?」
もう一撫で。
「ズルいです、父さま。子供の前で、こんなズルをしていいんですか?」
もう一撫で。
「……もう、父さまったら」
どうやら機嫌を直したらしいので、そのままあと数回撫でてやると、満足した様子で頷いて見せた。
自分が薬師寺アキラの転生者なのでは、と悩んでいたアキラが、自分の事を子供だと自称するようになった。
それがあの男の仕掛けた鎖から逃れられたかのようで、なんだか自分の事のように嬉しくなってきた。
微笑ましそうに見つめる僕に、恥ずかしそうにアキラは俯くと、トン、と隣の僕の肩に頭を乗せた。
そのまま僕の腕を、片腕でかき抱く。
残る手をそっと僕の掌に向けて伸ばし、掌と掌を、合わせた。
ゆっくりと、静かに、指と指との間に、アキラの指が絡んでゆく。
「……父さまが居なくて、いつも寂しいよ」
ポロリと漏れたアキラの呟きに、しかし僕はそれを黙殺するほかなかった。
誤魔化すように、指を絡め僕の手を握るアキラの手を、こちらから握り返してみせる。
小さく、どこか甘いうめき声。
僕は呪われているらしかった。
それは薬師寺アキラとリリ、そして目の前のアキラが言っているので確実なのだろう。
そしてそれは再び僕を蝕み始め、なんらかの悪い影響を僕に与えているのだという。
僕は呪われて、苦しんでいるのだという。
だから僕は、敢えてその呪いの詳細を聞かないことにした。
自分が今いっぱいいっぱいでその余裕がないからと、もっともらしい理由をつけて。
だって、聞いてしまえば、対策をしなければならないから。
知ってしまえば、それを意識して行動しなければならないから。
ああ、非合理的なその考えが今だ僕の身を焼いている。
どうしても、こんな風に僕は考えてしまう。
もっと呪いよ、続いてくれ。
醜い僕の魂を焼いて焼いて、焼き尽くしてくれ。
諦念の果てに生まれた一種の自傷行為が、僕にその呪いとやらに興味がなさそうな言動を取らせていた。
それはきっと、悪いことにつながるのだろうという予感がありつつも。
*
それでもチセと出会うと、少しだけ僕は前向きになれる。
それは久しぶりの、チセからの誘いだった。
『夜、少し遅い時間でいいので……。
二人で、外に出られませんか?
きっと、今のユキオさんなら大丈夫だと思うんです』
僕は躊躇したものの、しかし最終的にはチセの誘いに乗った。
相も変わらずマンションのロビーまで来ていたチセのもとに辿り着き、一緒に歩き出す。
「何度でも言うけれど、夜に一人で歩くのは危ないよ」
「お父さんに色々と護身グッズを貰ってるから、大丈夫です!」
「そうかなぁ……。ちゃんと使える?」
「ギルドの講習受けたので、完璧です!」
親指をピンと立てるチセに微笑みかけながら、夜の外に出る。
時刻は、夜9時。
パーカーのフードを被って、チセと手をつないで夜の街を行く。
住宅街は流石に人の気配がなく、たまにサラリーマンとすれ違うぐらいか。
昨日は少し暖かったが、今日は一転変わって秋の夜寒が肌を刺す。
現れたチセも薄手のコートを羽織っていたし、僕とて上にジャケットを着てきた。
「覚えてます? ユキオさんと初めて出会ったころに行った喫茶店、この辺りにあるんですよ」
「あぁ、ケーキの品ぞろえが多い喫茶店。僕は珍しいなってラズベリーのタルトにしたんだっけ」
「勇者物語の話で盛り上がりましたよねー! ふふ、あの時のユキオさん、可愛かったなぁ」
「チセの方が可愛らしかったさ。オーバーリアクションで、店内で注目されていたのは覚えているよ」
「それは忘れてください……」
思わず、といったように俯いて見せるチセ。
昼間であれば、その顔が赤く染まったのを見る事ができたかもしれない。
僕は微笑みかけながら、静かに歩く。
「所で、なんとなく君について歩いているけれど、目的地とかってあるのかい?
気ままに歩くでもいいけどさ」
「そりゃ……まぁ、一応。ゆっくりでいいですよ?」
言葉を濁すチセに、僕は追及の手を止め、彼女の誘導に任せることにした。
コホン、とチセはあからさまに咳払い、ピンと指を立てて元気な声を上げる。
「その後は個人的にも、命を救われましたからね。
魔王復活と人魔統合術式の時、なんか一部の魔族に狙われていた奴です」
「そうだね。……あれ、結局なぜかは分からないままなんだよね……」
チセが魔族騎士に狙われた一件は、あれから三年経つ現在でもその背景は分かっていなかった。
ミーシャが画策した人魔統合術式の準備中、冒険者を押しとどめようと多くの疑似蘇生魔族や魔物が召喚された。
その中で一人、何者かの密命を受けたとされる魔族騎士が、チセを狙ったのである。
"魔王様の指示""二階堂家の者たちを恨むがよい"とは騎士本人が漏らした言葉。
それが事実とは限らないが、言葉通りの可能性は高いとはされている。
「父さんもアキラも、事情は分からないって言うしね」
「二人とも忙しくて直接は会いませんでしたが、事情は全て伝わっているはずですからねぇ」
ちなみに直接会わないのは、僕の恋人……みたいなものである相手と会うのが、どうも気まずいという事らしかった。
父さんは、切り札を隠匿したまま僕に運命の女性と初恋の人を殺させてしまったため。
アキラはリリの中から僕とチセとの関係は見ていて、お腹いっぱいでちょっと会うのは遠慮したいというのが本人の言である。
背景が真の魔王や二階堂家にあると言われてしまうと、僕は然して詳しくなく、彼らが分からないというのならそうなのだろうとしか言えない。
「まぁ、僕も都内の対魔族検知結界には協力しているから、何かあったらすぐに飛んでいくさ」
「えへへ、期待していますよ、ユキオさん。美少女を守る美青年ってことで、絵になりそうです!」
「……美青年」
思わず小さく漏らして、空いた手を口元にやった。
直に触れた自分の顔の形を確かめるが、鏡で見る通りに最近は少し老けてきた気がする顔そのものだ。
目の下の隈もひどくなっていて、正直美青年とは程遠い顔のような気がする。
思わずチセの顔を覗くが、別段冗談の色は見えない。
あら、と口元に手を当てるチセ。
「ユキオさんは今もちゃんと美形ですよ? 最近はちょっと疲れたダウナー感が強くなってきて、なんだか色気が増している気がします!」
「……そっかぁ」
老けたとは何だったのだろうか。
自分自身の感想がなんだか恥ずかしくなってきてしまい、僕は思わず天を仰いだ。
そんなこんなで話しながら歩いていると、ピタリとチセが足を止める。
一歩遅れ足を止め、僕は首を傾げた。
駅近くの繁華街から少し外れた場所で、あたりに目立つ建物はない。
「チセ? どうしたの?」
「……その、ここ……です」
言われてチセの視線の先を見やると、普通のホテル……いや、看板が出ていてそこには、休憩と宿泊の代金が記載されていた。
いわゆる、ラブホテルという奴だろうか。
なるほどなぁ、と呑気に思ってから二度見し、本当にラブホテルであることを確認する。
思わずゆっくりとチセに向かい見返ると、電灯に照らされたチセの顔は、真っ赤に染まったまま僕を真っ直ぐに見つめていた。
震える唇が、開く。
「色々と……その、順番がアレなのは理解しているつもりですが……。
そ、その、とりあえず、一緒に、入ってくれませんか」
「え、あ、その……」
「どうですか!?」
声を荒げるチセに、僕は思わず頷いてしまった。
ズンズンと足を進めるチセを追いかけ、ラブホテルに入る。
落ち着いて物を考えられるようになったのは、鍵を借りて部屋に入り、チセが半ば勢い任せでシャワーを浴び始めてからだった。
「……いや、ちょっと待ってくれ」
僕は一人、ベッドに腰かけたまま呟いた。
勢いに押しきられて連れてこられてしまったが、今の僕の状態でどうにかなるものなのか?
というか、いつも通りに反応しなかったら、どうすればいいんだ?
流石にこんな事になるなんて考えてなかったけど、逆に大丈夫だった場合は準備は出来ているか?
爪とか切ったっけ? ちょうど昨日切っていた……いやチセのチャットで誘導された気がする、そこから予定通りだったのか?
そんな風に固まっているうちに、ガラ、と音を立てて浴室の扉が開く。
「その、お待たせ……しました」
現れたチセは、備え付けのバスローブ一枚だった。
露わになった胸元、裾からは艶めかしく素足が伸び、その火照った肌を露わにしている。
シャワーの温度だけではないのだろう、赤く染まった顔でチセは僕を見つめながら、ゆっくりと歩いてくる。
呆然と見惚れている僕の、その隣にポスン、とチセが腰かけた。
静かに、僕の太ももの上に、その手が触れる。
はっと気づいて、言葉が漏れる。
「……綺麗だ。見惚れていた」
「えへへ……いやぁ、照れますねぇ」
頬を軽くかく仕草と共に、チセは僕に体重を預けた。
肩と肩が触れ合い、しっとりとした髪が僕の頬に触れる。
暖かいものが、すぐ近く、薄布一枚だけを隔ててそこにあって。
「ユキオさん、その……私の事」
唇が擦れる音さえ聞こえるような距離。
小さな溜息が、僕の首筋を撫でる。
僕の太ももを撫でるチセの手が、少しづつ内側に寄ってきて。
「抱いて……くれますか?」
ゆっくりと回っていたチセの腕が、やんわりと僕の腰をかき抱く。
乳房が僕の腕に押し付けられる。
太ももを撫でていた手が、そっと僕の股間に伸びて。
……やはり、硬くならないままの僕自身に、チセの手が触れた。
「……ごめん」
僕は、静かに告げた。
視線を、真っ直ぐにチセに向けたまま。
涙が湧いてくるのを感じながら、そう告げた。
「僕はその……この一年半、いわゆる、勃起不全、という奴なんだ」
僕はそれを皮切りに、これまでの事を次々に話した。
三年前の冬、薬師寺アキラに敗北した事。
結果として彼の策略によって僕の精子と実母フェイパオの卵子を使って、リリが生まれた事。
彼女を引き取り妹として育てていたが、リリは僕の事を異性として愛してしまった事。
そして一年半前の戦いは、報道されている事実とは異なっていて……。
リリが僕を実の父親と知ってしまった事が切っ掛けで、リリが暴走したのが始まりだったという事。
僕はリリを殺さずに無力化することに成功し……。
けれど、僕がリリに、実の娘に性的に興奮できなかった事を切っ掛けに、リリが真に絶望してしまったこと。
リリが死を望んだこと。
僕は……リリをこの手にかけた事。
「それから僕は……その、勃起できなくなった」
それ以外にも当然、酷い精神状態だったこと。
医者には精神状態の影響が大きいとされ、補助的に投薬もしているが改善していない事。
そしてこれらを……あんまりな事実で、言い出せなかった事。
「ごめん……本当に、ごめん。こんな土壇場にならないと、言い出せなくて……」
気づけば僕は、大粒の涙を零しながら、チセの前に床に跪いて許しを乞うていた。
当たり前だが、異性に対してこんな土壇場にならないと性的不能があることを言い出せないのは、どこからどう考えても不実だ。
事情だ事情だったけれど、それでも正直もっと言い出せる場面はあったのではないかと思ってしまう。
「ごめんなさい、僕が……こんな、実の娘さえも殺してしまうような奴で」
そしてそれを告げるという事は、糊塗された僕の評判を覆す事になる。
僕は世界を滅ぼしかけた薬師寺アキラを倒した英雄ではなく、敗北してしまった役立たずだった。
その時世界が滅びなかったのは、たまたま彼がそれを目的としなくなっていたからというだけ。
そしてリリは僕が守り切れずに、僕以外の外敵に殺されてしまったのではない。
僕の行動で絶望して死を望んでしまい、そして僕がその望みを叶えてしまったのである。
僕は、世間で呼ばれている英雄などではない。
全く持って非英雄の、負け犬の男だった。
僕は嘘つきだった。
嘘つきで、不実で、人殺しで、子殺しの、出来損ないだった。
それを知られば、間違いなく嫌われてしまうから。
見捨てられてしまうから。
寂しく、なってしまうから。
だから嘘と不実を重ねて、相手の事を想わない行為でチセを傷つけてしまって。
けれどチセは、こう言った。
「許しますよ」
呆然と見上げる僕に、チセは微笑んでいた。
慈愛に満ちた、ほっとするような……そう、世間でいう母親のするような笑みだった。
僕の見たことのない笑みだった。
「というか、その、勃たない事そのものは正直ある程度予想していたというか……。
だってユキオさんの部屋でアピールしまくっても無反応でしたし。
いや、事情の背景はちょっと予想より大分大きなスケールで、飲み込み切れているとは言えないですけど……。
あ、でも私そんなに魅力ないかな? って結構真剣に悩んじゃったので、デコピンの刑はします!」
ペチン、と勢いよく中指が飛んできて、僕の額に跳ね返される。
かったぁ、ステンレス製か何かですか!? という悲鳴とともに、チセはふーふーと僕の額に当てた指に息を吹きかけている。
その姿を眺めていると、本当に許してもらえているという事がようやく飲み込めてきて、ああ、と思わずつぶやいた。
「そ、の、ごめん」
「本当です! でもそれと同じぐらい……安心しました。
ユキオさんは……ようやく私に、本当の意味での弱音を漏らしてくれたんだな、って」
「……本当の意味での、弱音」
オウム返しに呟くと、そうです、と頷くチセ。
「初めて出会った時から、ユキオさんは……私に弱音は、決して漏らしませんでしたよね。
ぜーんぶ自分の中に貯めこんで、誰か頼って甘えられる相手が居るのかというと、そうでもなくて。
たまにそっと私に寄りかかるようなことはあっても、何かを吐き出す訳じゃあなくて。
苦しんで、苦しんで、苦しんで……苦しみ続けながら前に進み続けて。
そんなユキオさんが、今日ついに……私に、本当の意味での弱音を漏らしてくれたのが……なんだか、嬉しくて」
「あ、変な意味じゃないですよ?
ユキオさんに……なんていうか、認められたな、って気がして。
出会った時は、私が命を助けられたお礼っていうのが切っ掛けだったからか、なんだか庇護対象だなーって感じの見方でしたけど。
ちょっとずつ私の事を頼りにしてくれて……それでも最後の一線で、ユキオさんは誰かを頼れない人だった。
けど、今日……ユキオさんが、私に、この私に、弱音を漏らしてくれたんです。
ヒマリさんでも、ミドリさんでも、アキラさんや龍門さんでもなく……この、私に」
「私の事、本当に……えへへ、特別に想ってくれているんだなぁ、って」
それは、何の変哲もない笑顔のはずだった。
照れ隠しっぽく見える、けれど胸の内から湧いてくる喜びを抑えきれない、純粋で跳ね上がりたくなりそうなぐらいの嬉しさの発露。
恥ずかしがって隠そうとしているから少しぎこちなくて、切り取ってみれば少し歪んだようにさえ見える、少しだけ不格好にも思えるぐらいの笑み。
ああ、けれど、なんて言えばよいのだろうか。
綺麗だった。
その綺麗さを、形容する言葉を、僕は持っていなかった。
本当に、本当に……なんて言えばいいのか、分からないぐらい……綺麗だ。
――兎角その表情を、嗚呼、綺麗だと、そう思ったのだ。
*
その後。
体が冷えてくる前に、とチセは服を着なおして、それからしばらくの間僕らは時間料金の間ずっと話し合っていた。
僕のこれまでの事情。
殺してきた人々、加えてきた危害、受けた傷跡、死んでいった人々。
それらを聞いて、チセは大分神妙な顔をしていた。
「……なんか、ユキオさんの家族について、ちょっと見方が変わっちゃいそうですね……」
などと言いつつチセは最後まで聞いてくれて、そして最後にこう言った。
「まぁ……ちょっとユキオさんの話が濃すぎて時間取れなかったですけど。
ここまで肌も見せちゃってギューってして、お互い弱みも結構見せちゃったので。
……その、なんか順番がおかしかったですけど……私たち、正式に……恋人って事で」
と。
なんだか締まりのない告白を交わして、僕らはホテルからチェックアウトした。
夜も更けたころだ、僕の家まで一緒に帰って、昼になってから帰宅させようという話になって。
ちょうど、二人でホテルを出た、その瞬間だった。
「……ユキオ?」
「……父さん?」
聴きなれた声に視線をやると、いつもの黒スーツ姿の父さんが立っていた。
顔は少し赤く、かなりアルコールを取っていることが見て取れる。
……この近くの飲み屋で、飲み会でもあったのだろうか。
ラブホテルの近くなんだし、繁華街の飲み屋とかあるだろうし。
気まずさから現実逃避で妙な事を考え始める僕に、父さんも気まずそうに視線を宙に泳がせて。
「えっと、この人が龍門さん……ユキオさんのお父さん?」
父さんの視線が、チセに留まる。
そういえば、父さんが僕のガールフレンドと会うのを避けていたから、二人は初対面なんだったか。
そんな風に思っていると、父さんが万感の思いを込めたような、深い溜息をついた。
「……ああ」
視線が、ぼんやりと辺りを俯瞰する。
戸惑う僕の手を、チセの手が強く握りしめる。
「……ああ」
視線が、僕に移った。
虚空のような、どこか虚ろな瞳が僕を真っ直ぐに、見据えて。
「……ああ、なるほど」
殺意。
青光、轟音。
咄嗟にチセを振りほどき、生成した糸剣を構えたのが功を奏した。
辛うじて間に合った防御に、青白く輝くあの剣が鍔迫り合いしている。
それは、誰もが一度は見たことのある剣だった。
人々が自分の正しさを委ねたことのある、象徴だった。
人類の存続を保証する、正しさを規定する剣だった。
僕の手に握られた糸剣、そのディテールと瓜二つの剣。
全長1メートル程度、厚みのある両刃の剣は、薄っすらと濡れたような青白い輝きに満ちている。
それは人類の敵を狩る力。
人類の正義の代弁者。
人々に生存を保証し、未来を切り開いた存在。
二階堂龍門の持つ聖剣が、僕の糸剣と鍔迫り合いしていた。
「ユキオ……」
常と変わらない、静かな声。
長く伸びた黒髪が揺れ、それを束ねる母の形見のリボンが、僅かに顔を見せる。
僕よりも幾分大きな体から発せられる膂力が、その全霊を持って襲い来る。
「……死んでくれ」
それは間違いない、父さんの殺意だった。
---------------------------------------------------------------------------------------
運命くん「終章なので、ちょっと早めに運命が回る速度あげますね~」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます