終章-運命
01-孤愁の凍み
……ブゥゥーンンン……。
蜂の唸るような耳鳴りが、寝起きの僕の耳朶の中に響いていた。
粘着質な音だった。
奇妙に耳に残る、べったりと張り付くような異音。
不快なそれに気持ち悪くなりながら、そっと目を開く。
電灯の消えた室内、天井は暗くも、カーテン越しに入ってくる太陽光がその輪郭を描き出していた。
数秒、残る眠気との気怠い対話を終えて、掛け布団を避けて起き上がる。
意味もなく両目から零れ落ちる涙を拭う。
「一時か……」
13:00と表示されたデジタル時計を一目見つつ、少し迷ってからリモコンを押して電灯をつける。
うがいをして顔を洗い、キッチンに行ってぬるい水道水を一口二口。
冷蔵庫を開けると、中がガラガラなのが見て取れた。
スポーツ飲料と牛乳、サラダチキン、いくつかの缶飲料と洋菓子だけ。
そのまま冷蔵庫を覗き、インスタント食品の数を数えるが、買い出しが必要そうだ。
サラダチキンと冷凍のパスタを取り出すとレンジに突っ込んで、温まるまでの間に食卓を拭いて食器を準備。
出来た食事を、紙の器のままもさもさと食べつつ、携帯端末でニュースを確認する。
『欧州の国家再生事業、驚きの進捗率。裏には連合国の英雄の姿あり?』
『旧連邦、魔族設備の解体事業が伸び悩む』
『国内の人類の領域、ついに人魔大戦の前の水準に戻る。回転寿司の価格も』
「平和なニュースでいい事だ……いやなんで回転寿司?」
水産物の入手が安定化でもしたのか? と思ったが、僕が一年と少し前に平定した海域で安定した養殖に成功した影響だとかなんとか。
ニュースの中に、何故か僕への賛美が含まれていて困惑する。
風が吹けば桶屋が儲かるじゃあないが、世の中予想できないことが多すぎる。
食事を終えると、食器だけ軽く流して、紙の器はそのままゴミ箱に突っ込む。
一息ついてから、部屋の大窓の所へ、カーテンを少し開けて外を見た。
空は晴れた行楽日和、高層マンションから見下ろす道は家族連れが多く、平日でもそこそこの人が居る。
小さくため息、カーテンを震える手で閉めて室内へ戻った。
今日も、昼間に外に出る気にはなれなさそうだ。
諦めて水分補給用にスポーツ飲料を用意し、トレーニングルームへ。
マンションの共用設備の方が施設が整っているのだが、人と合いたくないので使うのはもっぱら深夜だ。
だから昼間は、自室の一つをトレーニングルームにして使っている。
十畳ぐらいの部屋の一面を鏡張りにし、棚にトレーニング器具を置いたシンプルな部屋だ。
まずは、ストレッチ。
昼間に外出したくないがために不規則な生活になってしまっているので、ここは力を抜かない。
一時間以上かけてがっつりと体をほぐし、柔らかくしてから本格的なトレーニングに移る。
まずは糸剣を使った型稽古。
携帯端末の撮影機能を使って自分の動きを確認、頭の中のイメージ通りに自分が動けていたか都度確認しながら、基本的な動作を淡々と繰り返す。
悲しいことに、コレを一日でも欠かすとイメージ通りの動きからズレてしまうので、毎日やらないと話にならないのだ。
特に大怪我をする度に動きが大きくズレてしまうので、毎回動きの矯正には苦労したものだ。
満足いったら、筋トレ。
流石に器具も本格的な物ではないので、身体能力の維持以上のものは難しい。
それでも可能な限りの負荷を乗せて、体を苛め抜く。
頭が真っ白になる。
無駄な思考がそぎ落とされて、正確なフォームに合わせてトレーニングを行う事だけに最適化される。
負荷の苦しみと戦う事だけが目的となり、純化されてゆく。
トレーニングを終えて、僕は息を荒げながら水分補給ののち、プロテインでタンパク質補給をして一息つく。
時間を確認し、未だ時間が午後四時を少し過ぎたところであることを確認した。
軽くカーテンを開け外の光景を確認、秋口の空はまだ太陽が輝いており、日が陰るにはまだ早い。
思わず、自身の体を再確認する。
「……これ以上のトレーニングは、逆効果か」
限界近くまで筋肉を追い込んだ現状、もうトレーニングで時間を使う事はできないだろう。
……そも、理屈で言えば、そもそも僕は戦闘可能な状態を維持することが目的のはずだ。
体を追い込んで鍛えるのは、本来の目的から言えば少しズレている。
強くなるにしても、どちらかと言えば卓上での術式研究や、実際の術式運用について時間を使ったほうが良いだろう。
それでも筋肥大を目的としたような過酷なトレーニングに時間を使っているのは、他の事を何も考えずに済むからか。
それとも、苦痛を感じる事の方が、目的なのか。
僕は思考を打ち切り、そのままベッドに倒れ込んだ。
疲労感が全身に回り、体がベッドに沈み込むような感覚。
すぐに意識が薄れてゆき、意識が眠りに誘われてゆく。
夢。
「ユキオは殺され続けたから、殺し返していいんだよ。ボクと一緒に、家族を殺そう?」
ナギの首を刎ねる。
「私が、貴方の"ここ"に……居場所に、なり替わって見せる!」
ミーシャの首を食いちぎる。
「私は、君を助けたい……君はまだ、呪われ続けているのだから」
薬師寺アキラに、負けて凌辱を受ける。
「リリはね、リリはね……生まれたくなかったよう、父さま」
リリの首を、この手で絞める。
……ブゥゥーンンン……。
蜂の唸るような耳鳴りが、僕を叩き起こす。
吐き気のするような気分の悪さ、眩暈と共に目を開き、何時もと同じ天井を見つめながら起きる。
何時もの悪夢。
何時もの涙。
何時もの最悪の気分の起床。
この一年半、僕の眠りは常に浅い。
毎回似たような悪夢ばかりが、記憶に深く刻まれるような寝起きばかりだ。
……夢は、起きている間できなかった記憶の整理や感情の処理を行う役割があると、良く言われる。
ならばこれは、僕がこれまで大切な人を手にかけた事を受け入れきれていないから、見ている夢なのだろうか。
何度整理して処理しても受け入れられていないから、ずっと同じ夢ばかり見ているのだろうか。
感情を処理しきれていないから、負債のようにたまった涙が、眠りにつくたびに両目から零れ落ち続けているのだろうか。
自分の弱さに吐き気を覚えつつ、デジタル時計に視線を。
22時。
いわゆる高級住宅街であるこのあたりでは、もう人通りも少ない時間だろう。
僕は身支度を整えると、足早にマンションから出た。
半年ほど前、一人暮らしをしようという僕に父さんの提案……が却下され福重さんが提案したのは、高級マンションの一室だった。
警備がしっかりしておりマスコミが出入りしづらく、また集合住宅内の互助なども最小限で、なるべく人間関係に煩わされずに住める場所。
単身、それも成人したばかりの人間が住まうのは珍しいらしいが、それでも住人同士の興味はあまりないらしい。
エレベーターで遭遇しても軽い挨拶以上の事は何もないし、住人の顔と名前は一つも一致しないままだ。
それでも視線が嫌に気になり、僕は最近フード付きの服でフードを被って出歩く事が多い。
今日も上着はパーカーで、秋の夜寒対策に上にブルゾンを一枚重ねて道を行く。
マンションを出ると、携帯端末でコンビニを検索。
少し遠い箇所に目を付け、そちらに向けて歩き始める。
当初僕は近所のコンビニを使っていたが、暫くすると店員の視線が僕を覚えている感じが嫌になってしまったのだ。
これは人の視線と視線に乗っている感情がある程度読める、その弊害と言えるだろうか。
店員の誰が僕を覚えているのか、そして僕にどの程度興味を持っているのか、ふんわりと分かってしまうのだ。
それ自体は元々特に気にしていなかったのだが、この一年半は異様に視線に敏感になってしまい、その程度の視線でさえダメになってしまった。
秋の夜、僕は靴裏をアスファルトに叩きつけて進む。
普段から常在戦場の積もりで足回りは常にブーツだったのだが、一人暮らしをするようになってからは細かな外出も多く、面倒になってしまった。
ということで、最近よく履くのは、ミドリお勧めのスニーカーだ。
流石にブーツに比べると頑丈さで劣るが、防刃の繊維を使った山歩きでも使えるという文句の物を使っている。
僕は割と機能重視で物を決めてしまう所があるのだが、ミドリ監修で紺色のシンプルなデザインのものを選んでもらったので、街中でカジュアルな恰好でも違和感はない。
道は街灯の光で照らされているものの、昼間とは比べ物にならないほどの暗さだ。
人の気配は比べるまでも少なく、歩いていて気になるような事はない。
世界に自分が一人だけで、辺りの誰も僕に興味を持っていないのだと実感できて、とても安らかな心地だった。
その実感こそが、今の僕に取っての救いそのものだった。
……それを救いとする僕の精神には、少しばかり疑問が首をもたげるが。
「何も、考えない」
自分に命令する。
「何も考えない、何も考えない、何も考えない」
小声で呟き続ける。
その言葉の音量、発音の正確さ、その文章そのもの。
それだけに精神を集中させることで、僕は自分の思考リソースを消費しつくし、複雑な事を考えられないようにする。
何かを考えても、どうせ絶望するような事実と感情しか出てこないのだ。
ならば何かを考えようとするだけ、人生の無駄というものだ。
だから僕は、この所何か嫌な事を考えそうになったときは、ずっとこんな風に唱えるようにしている。
それが多分、一番良いのだと信じている。
とくに根拠はないが、そうしなければ……僕はマトモに生きていけなかっただろうと、そう感じているのだった。
いらっしゃいませー、と力の抜けた店員の声。
コンビニに辿り着いた僕は、奥の飲料水コーナーで小さい烏龍茶を一つ。
そのまま歩み、レジ横のホットスナックのコーナーで数秒停止。
春巻きとチキンで数秒悩み、今日は春雨を選択。
ホカホカの袋を持ったまま店を出た、その瞬間である。
「……コトコ?」
「……ユキオ?」
およそ三年ぶりとなる旧友との再会に、僕らは二人、呆けた声を交換していた。
*
バリッ、と音を立てて春巻きにかぶりつく。
皮の歯ごたえの後、アツアツの肉と野菜のうま味に筍や春雨の触感が口の中に広がる。
火傷する寸前の熱さの塊を飲み込んだら、冷たい烏龍茶を口に、中に残った脂を胃に流し込む。
ふぅ、と一息ついて隣に視線を。
「はぐっ」
コトコは、肉まんを選んでいた。
大サイズの肉まんは、コトコの小さい口ではほんのちょっとづつしか減らせていない。
コトコは行儀よく早く食べるのが得意なのだが、猫舌なのでアツアツの物がくるといつもこんな感じだ。
相変わらず上品な食べ方をするな、と思いつつも、改めてコトコを視界に収める。
紺色の髪は相変わらず何となくモサッとしているが、全体的には整えられてややボリュームがある程度に抑えられている。
緑色の済んだ瞳は肉まんにかかりきりで、幼い頃のイメージと異なり、鼻は高くまつ毛はとても長い。
肌を出すのを嫌っているのは幼い頃から変わっておらず、秋が始まったばかりだというのに、タートルネックのニットを着ている。
袖は少し長く、親指の付け根あたりまで覆われており、なんとなくそこだけ幼い印象を受ける。
ミドリ曰く、萌え袖、という奴だったか。
コトコとはミーシャを手にかけてから疎遠になっており、最後に直接会ったのは、もう三年以上前になるか。
チャットや電話は普通に通じるのだが、合おうとしても断られてばかりなのである。
……最後の会話は、薬師寺アキラと再会する少し前。
まるで決別のような内容だった。
そんな事を思い出しながら、僕らはなんとなく無言でホットスナックをモグモグと食べていた。
コンビニから少し離れた公園の、ベンチ。
街灯に照らされながら僕らは静かに二人寄り添っていた。
「……ソウタ、婚約したって」
「!?」
出し抜けの言葉に、僕は思考が停止した。
嘘でしょ!? と叫びかけたのを、夜中である故に辛うじて我慢する。
絶句する僕をみてクスリと笑いつつ、コトコは続ける。
「仕事の同僚として、彼女さんとも顔を合わせたから、その時に聞いたんだが。
私も聞いたときにはマジでビビッたよ。
私たちの中で一番結婚とか婚約と縁が無さそうな奴だったからな」
「あぁ……。いや、最近はノンデリじゃなくなってきたのは知っているけど、それでも正直びっくりだ……。
改めて思い返すとありえなくはないんだろうが、聞いた瞬間は冗談か何かだと思ったよ……」
本当に。
正直、叫んでそのまま床に転げ落ちていてもおかしくないぐらい驚いた。
「あれか……。なんかこう、年を取ると同期から次々に結婚の報告が来て取り残された気分になるってやつ、なのか?」
「うん……まぁそんな感じだよな。正直直接見て聞いた私も、時間の経過って奴を感じたな……。
私ら二十歳なのに何言ってるんだ、って世間的にはそんな感じなんだろーが」
遠い目でぼやくコトコに頷き、僕も心のどこかに寂しさと、醜い嫉妬のようなものがあるのを感じた。
腐れ縁の、何時までもお互い罵倒しあっているぐらいだと思っていた奴は……いつの間にか、立派な大人になって家庭を築こうとしていた。
僕が、ソウタに負けてなるものかと思っていた僕が、何もかも全てを失い続けているというのに。
ソウタは、新しい何かを得て、それを家族という形に昇華しようとしていた。
「……ちょっと、落ち込むな……」
ぐうの音も出ない、完璧な攻撃の事実だった。
それを数年ぶりに出会ってお裾分けしてきてくれたコトコに、思わず恨みがましい視線をやる。
するとクククと悪戯な笑みを浮かべ……、そしてそれはすぐに、柔らかく慈愛に満ちた笑みに変わった。
「……酷い話だけどさ。お前が落ち込んでいるのを見て、少し安心した」
思わず、呆けて目を瞬いてしまう。
そんな僕を、慈しむような目で、コトコ。
「三年前のお前は、長谷部ナギにミーシャさんと立て続けにあんなことがあったのに、それでも表面上ぐらいは取り繕えていて……。
理解できなかった。
怖かった。
……いや、ちょっと違うな。
あの時は言えなかったけど……その、寂しかった。
……寂しかったんだ」
そっと、コトコの手が、ベンチに置いていた僕の手の上にかぶさった。
長いウールの袖口が、チクチクと僕の手の甲を刺す。
「だからお前が、理解可能な落ち込み方をしているのを見ると……。
少し、安心した。
スゲー嫌な話だけどさ、それでも……ユキオ、お前を理解できることが私にとって……安心できるんだって、伝えたくて」
「……あぁ、うん」
コトコの言葉をどう飲み込めばいいのか分からず、僕は曖昧にうなずいた。
「その……避けてて、ごめん。
お前を……怖がりたくなかった。
お前は、私の……その、一番の……えーと、友達だからさ」
「……そうだね。僕たちは……友達だ」
言いつつ、掴まれていない手をそっと伸ばし……、ぺちん、と額にデコピン。
ホゴッ、と変な声を上げてコトコは両手で額を抑え、涙目でこちらを見上げてきた。
「だからこれで、コトコが僕を避けてたのと、お相子だ。
僕も結構、寂しかったんだからな」
「……ユキオのくせに、なんかズルいぞ……」
涙目のまま言われるが、そんなにデコピン、強かっただろうか?
首を傾げ、空中でデコピンを数回素振りするが、やっぱり大した強さに感じない。
そんな僕を、なんとなく呆れた空気を醸し出しながらコトコが見ていた。
咳払いをしつつ、話題転換。
「……こほん。コトコは最近、どうしてる?」
「やっと実家を出て一人暮らしできるようになった。
母さんは……嫌いって訳じゃあないんだけど、もっと早く離れるべきだったんだろうな」
「……そっか、随分前から言ってたよな」
コトコの母親はいわゆる教育ママのやや過剰な奴で、娘の友達を制限までしたがるような人だった。
僕もソウタも結構嫌われていて、コトコと一緒に居て嫌な思いをさせられたことは、一度や二度ではない。
僕もいつだったか、コトコを虐めたのだと誤解され、数時間怒鳴られた事もあったはずだ。
そのせいか、コトコは僕ら以外に友達の居ない子供だった。
最も、父親の方は大らかで、夫婦仲は良く父親が説得をすれば母親も聞いてくれるようなので、全く話を聞かない、という感じではなかったそうだが。
「まさか、ユキオの方が先に一人暮らしするようになるとは思ってなかったけどな。
ユキオのくせに、なまいきだぞ」
「……ちぇ、いいだろ僕の勝手で」
「フフ、もう一人暮らしには慣れたか?」
柔らかく問うたその言葉に、僕は一瞬言葉に詰まった。
睡眠は浅く、悪夢ばかりで、何度にも分けて取っている。
日があるうちは、人の視線が怖くて外に出られない。
食事と最低限のトレーニング以上を、未だに何もできていない。
幸いと言って良いか、二回か三回人生を送れるぐらいの金はあるので、金銭的には不足していないが。
「……慣れてきたよ。あぁ、そうだとも」
微笑みながら返せたはずだけれど。
それでもコトコは、顔をゆがめて、辛そうな顔で僕の顔を見つめた。
平気そうな表情は、全くできていないようだった。
なんとなく、その場の空気が落ち込んで。
僕らはそれから沈黙して、その後二言三言話して、なんとなくその場を解散するようにした。
またな、と小さく告げて、互いに背を向け歩いてゆく。
気配が遠ざかってゆくのを感じながら、僕はコトコと別れた。
*
ピポパ、と電子音。
眠い目をこすりながら起き上がると、携帯端末が鳴り響いていた。
悪夢から強制的に引き戻された影響なのか、何時もの耳鳴りは訪れない。
端末を見るとチセからの通話、フリックしつつ端末を耳に当てる。
「もしもし?」
『あ、ユキオさん! 今日遊びに行っていいですか!?』
「いいよ……って言いたいけど、今何時だと思ってるのさ」
ちらりと時計を見ると、夜九時過ぎだ。
実家暮らしで学生のチセを招き入れるには、随分な時間である。
『大丈夫です! 今マンションのロビーに居るので!』
「……夜に一人で追い返す方が危ない、か。本当に仕方ないな……」
と、通話をつないだままインターホンを鳴らすチセに溜息。
インターホンの操作でオートロックを解除してやり、軽く身支度を整えるうちに部屋のチャイムが鳴る。
ドアを開けてやると、いつも通りガーリーな服装のチセ。
夜でも目立つ金色の髪が、長く真っ直ぐにたなびいている。
「お邪魔しまーす!」
「はいはい」
チセを招き入れると、勝手知ったるとばかりに上着を脱いで荷物を置いて、洗面所でうがい手洗いを始められる。
溜息をつきながら、携帯端末で下野間さん……チセの父親に連絡。
謝罪と感謝が返ってくるのを見てから、チセがリビングにやってくる前に画面を切り替える。
ルンルンと期限良さそうにしてきたチセに、首を傾げ問うた。
「で、今日は何があったんだい?」
「聞いてくれますか!? お父さん酷いんですよ!? 私が買ってきたプリン食べちゃったんです!」
「小学生みたいな理由でプチ家出しないでくれよ……」
「えぇっ!? 私そんなに若くてツヤツヤですか!? 困っちゃうなぁ」
「無敵かな……?」
テンションの高いチセに、思わず呆れてしまう。
チセと出会ったのはずいぶん前で、三年前の夏、ナギをこの手にかけた時から暫く後だろうか。
繊維研の下野間さん、僕をよく心配してくれる大人の一人の、その娘。
ナギの暴走による虐殺から、間接的に僕が救ったのを切っ掛けに知り合った子だ。
その後もミーシャが疑似蘇生した魔族らに何故か狙われたりと、何かと縁のある娘である。
チセと個人的に遊びに行くようになったのは、出会ってすぐからだ。
当時は落ち込んでいた僕を下野間さんが元気づけるため、チセと食事に行かせたのが始まりだ。
それから気が合った僕らは、普段から一緒に遊びに行くようになっていた。
僕が落ち込んだり死にかけたりしていた時以外は、時間を作って定期的に合うようにしていたのだ。
それでもリリを手にかけてから一年近くは一度しか会わなかったが、僕が一人暮らしをし始めたのをきっかけに、時折押しかけてくるようになったのである。
そんな風に思い出す僕の前、チセは相当プリプリしているらしく、下野間さんに食べられたプリンの話を擦り続けていた。
苦笑しつつ、腰を上げて台所の冷蔵庫に。
確か、と思いながら扉を開けると、冷蔵庫にはプリンが入っていた。
この前ミドリが差し入れしてくれた、ガラスの器に入ったちょっといい奴だ。
「最近貰った奴だけど、プリン食べるかい?」
「食べます! さっすがユキオさん、こんなこともあろうかとプリンを常備してくれていたんですね!」
「君、年々図太くなってるよね……」
言いつつも、ソファで居住まいを正したチセにプリンとスプーンを。
「飲み物は……夜だし、ノンカフェインのコーヒーでも淹れる?」
「いえ、お構いなく。お水でいいです。……ほんとはエスプレッソが一番合うんですけど、この時間はちょっとね……」
「昼間だったらエスプレッソ要求したの……? 流石にエスプレッソマシンはないよ……」
「だーってユキオさんなら何でも叶えてくれるでしょ?」
「何でもはしないよ……」
水を入れてやると、一口飲んでからプリンに取り掛かるチセ。
僕は呆れながら、自分も寝起きなので、乾いた喉を潤そうと水を口に含む。
チセは満面の笑みを浮かべながら、モグモグとプリンを口にする。
やはり美味しいそうに食べる女の子は可愛いな、と眺めていると、暫くしてプリンを食べ終えたチセがそのスプーンを置いた。
背中をソファの背もたれに預け、くつろぎながら僕を見やる。
「やっぱり……ユキオさんは、誰かに世話焼きをしている時が……一番安らいで見えますよ」
二人掛けのソファの隣同士、チセが少し僕よりの位置に腰かけている事もあり、距離は近い。
そっとチセが手を下ろした。
僕の太ももの上を、膝から上に少しづつ撫で上げてゆく。
「せっかくなら美少女に世話を焼くのが……絵になりますよ?
例えば、私とか」
暖かい掌が、太ももの付け根に近づいて止まった。
その手が内側に動き始めようとするのを感じ、僕はそっと手を重ね止めた。
チセと僕との視線が、交し合う。
少し潤んだ、キラキラと輝く宝石のような青い瞳。
チロリと、真っ赤な舌が顔を出し、その艶やかな唇の隙間を這いまわる。
「今日も……泊まらせてくださいね」
「……あぁ」
最初は当然、断った。
年頃の女の子が下手な事するんじゃあありません、と説教してみせたものだが、何故か僕が根負けして彼女を泊める事になってしまった。
それ以来、定期的にチセを僕の部屋に泊めてしまっている。
毎度くだらない理由でプチ家出すると言って、ここを訪ねてくるのであった。
「わーい、ユキオさん、大好き!」
ぐりん、と体を半回転、チセは僕の膝の上に乗ると、そのまま僕をソファの背もたれに押し倒すような形で抱きしめた。
柔らかく暖かい感触。
ほんのりと、ミルクのような香り。
コツン、と額を当て、チセは鼻と鼻が擦れ合う距離で呟く。
「本当に……大好きです、ユキオさん」
そっと開け閉めされるその口唇からは、僅かにカラメルの匂いがした。
返す言葉が浮かばず開け閉めする僕の口に、チセはそっと縦に人差し指を押し付けた。
そのまま、えへへ、と頬を赤く染めながら微笑み……。
僕に体重をかけて、全身で抱きしめにかかる。
「ユキオさんの体、カッチカチー!」
と、両手を僕の背後に回したチセが喜んで見せた。
すりすりと、首筋に鼻を擦りつけてくる。
あまりにも近い距離に、目を細めて。
僕もまた、チセを抱きしめ返した。
ん、と小さな声が、チセから返ってきた。
*
それから、チセと抱きしめ合ったまま、僕らはなんとなく時間を過ごして。
最近食べた美味しいご飯の話、良かった美術展覧会の話――チセの趣味だが、なんともハイソな物である――、気になったニュースの話。
ぴったりとくっついたまま、僕らは途切れ途切れにそんな感じの話をして。
何時しかチセは、眠りこけていた。
僕はチセにベッドを譲り、寒くないよう掛け布団をかけてやり、そのままの足でシャワーを浴びに浴室に出向いていた。
全裸になって熱いシャワーを浴びてしばらく、僕自身も夢見心地だった感覚を覚ます。
浴室の鏡に視線を、僕は自分の顔を改めて見つめる。
濡れて貼りついた灰色の髪は、ここ数年でどこか色素が薄くなってきたような気がする。
漆黒だった両目は、左目はチセの血と魂が蒼く輝き、右目はミーシャの血肉と魂とが紅く輝いている。
頬は少しこけて、痩せたのが目に見えるようになっていた。
「……やれやれ、ちょっと……老けたかな……」
目の色は当然加齢で変わらないが、他の変化はそんな感じだろう。
ここ数年の出来事には様々な感情を抉られてきたが、一言で言えば……とにかく、疲れた。
顔がすこし老けるぐらいは、当然のように。
ポロリ、と急に悲しくもないのに涙がこぼれてきた。
最近、油断するとこうだ。
特に何か悲しい事があった訳でもないのに、気を抜くと急に涙が零れてくることがある。
ここ数年の体験で死ぬほど泣いたはずだけれど、まだ泣き足りない分の負債が積もり積もっていて、それが時折不意に零れてくるような。
どこかで自分が、もうダメなんじゃあないかと思ってしまう時がある。
まだ二十歳になって成人したばかりなのに、もう僕には何もかも残っていないんじゃあないかとさえ思う事がある。
僕にあるのは、強さだけ。
愛情も希望も欲望も俗悪も、もう何もかも抜け落ちて残っていないんじゃあないかって。
嗚呼、例えば。
視線を下にやれば、僕の下半身にあるシンボル、僕自身の象徴が柔らかくなったまま、うなだれている。
……僕の股間は、リリを手にかけたその日から、一度も硬くなったことがない。
所謂、勃起不全。
医者には心療療法を勧められ、補助として簡易な薬物療法を併用しているが、今のところ効果は感じられない。
それは例え、明らかに僕を異性として意識してくれている、チセに抱き着かれてもだ。
「……ごめんなさい」
かつての僕にとって、勃起してしまう事はある種のトラウマだった。
幼い頃に家政婦に性的暴行を働かれた過去があってなお、姉や妹の過剰なスキンシップに勃起してしまい、ファウルカップを手放せないほど。
自分が些細な事で勃起してしまう色情狂なのだと思い、そんな自分が出来損ないの最低な男だと思っていた。
「……ごめんなさい」
今の僕とっては、勃起できなかった事が、ある種のトラウマだ。
リリは……僕の娘/妹であったあの子に、僕は性的な興奮を覚える事ができなかった。
リリに、僕が娘に勃起する人間であることを想像すらできなくさせてしまうほどに、僕はリリに、娘に、性的な感情を覚えていなかった。
それ自体は真っ当な話ではあるのだが……。
しかし、自分を色情狂なのだとさえ思っていた男が。
ただ一人、勃起できなかった相手が、それを苦にして真に絶望して死を望むほどになったのであれば……。
それは、なんて様だったのだろうか。
「……ごめんなさい」
誰に謝っているのかさえ自分でも分からないような、空虚で曖昧な謝罪の言葉。
零れ落ちる涙は止まらず、濡れた浴室の床に落ちてゆくことで、その水滴の存在が誤魔化されてゆく。
浴室のエコーが、その謝罪の言葉すらも曖昧な響きと化して、ゆるやかに消費していた。
子供のころから、父さんのような英雄になりたかったはずだった。
大切な家族に恥じない人間になりたいはずだった。
家族を、"ここ"を一番に考えて、そのために生きていきたいはずだった。
人類の滅びの間際を、僕は二度、いや三度救った英雄になった。
けれど何の感動もなかった。
吐き気のする勝利を称賛され、敗北を糊塗した嘘偽りの言葉を話さなければいけなかった。
英雄になっても、何も良かったことは、なかった。
僕は嘘つきで、人殺しで、運命の人を、初恋の人を、愛する娘を、この手で殺した人でなしだった。
"大切な家族に恥じない"とは何だったのだろうか?
世間の栄誉と真逆に、その実情は汚濁に塗れ、邪悪そのものと糾弾されればその通りと納得してしまいそうなものだ。
そして最後に僕は、手放したくないと信じていた"ここ"を、家族を、リリさえも、この手にかけてしまった。
そして守らねばならない、一番に考えねばならないはずだった"ここ"に居る事にさえ耐えられなくなり、離れて。
「……ごめんなさい」
それなのに。
僕は明らかに罰を受けるべき罪人なのに。
誰も僕を、罰してはくれない。
社会も、人も、誰も、何も。
僕自身ですらも、本当に自罰的で居られているのか疑問だ。
だって。
「……寂しいよ」
こんな風に、弱音を吐くだけの、自分への甘さは残っているから。
……かつて家族の中に居てさえ、僕は寂しくて泣いていた。
けれど家族から離れた今、その寂しさが癒えたかというと、そんなことはなくて。
僕はより一層寂しさに満ちた日常を送り続けているのだった。
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1章1話はちんちんが勃つ話からスタートしたので、
最終章1話はちんちんが勃たない話からスタートします(?)
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