08-終結・絶望諦命七色地獄




 気付けば、術式の持つ虹色の光は掻き消えていた。

氷の洞窟の底。

辺りは一面青と白と、透明に凍り付いた氷ばかりの色で、ただ一か所遠くに青空を見せる入口が見えるだけ。

それらの中心、銀の長髪を大きく広げるようにして仰向けに倒れたままのリリ。

対し僕はそのリリを押し倒す形で、背を丸め、顔と顔との距離を間近にしている。

吐く息が、互いに感じ取れるような距離。

両手は、リリにしっかりと1本1本指を絡められ、恋人のような繋ぎ方になっていた。


 金色の瞳、実母フェイパオと同じ瞳が僕を見つめる。

薬師寺アキラを愛し、そして最後には奴に憎まれ殺された、そして僕のトラウマになった女と同じ色の瞳。

その目が、絶望と孤独に満ちた、妹/娘としての涙に濡れて僕を見る。


「父さまは……リリを、私を愛してくれますか」

「当然だ。僕は、リリを……愛している」


 一瞬、脳裏をいくつかの顔が過る。

運命の女性だと信じたナギ。

初恋の女性、ミーシャ。

そして沈み込みそうになった時、傍に居てくれた……チセ。

それでも。


「リリの事を……一番、愛している。

 ありとあらゆる、他の何よりも、誰よりも」


 心の底から、リリが他の全てより自分を取ってほしいと言えば。

僕はきっと、そうするだろう。

勿論、最後までもう片割れの"ここ"、父さんに姉さんにミドリ、そしてアキラと共に全てを取ろうとしてみせる。

けれどこうしてリリと会話できて、心に決めた。

僕はこの世界の何よりも、リリを取る。


 何故なら、嗚呼。

リリは、僕の想像を超えて傷ついていた。

先ほどまで気丈に戦ってみせていた顔つきは、いつしか表情すら消え、ただただ涙をポロポロと零す顔になっていた。

ひたむきで、見るだけで元気を貰えたその目は、いつの間にか絶望と悲しみに満ちて、今にもその瞳から光を無くしてしまいそうな硝子の目。


 傷ついているだろうとは思っていた。

助けねばとは思っていて、だからこそリリ本人を相手に剣をとった。

けれど、戦いを終えて見たその傷は、想像をはるかに超えた痛みの塊そのものだった。

試合に負けて、けれど勝負に勝って。

僕に勝利の宣言をしつつも、その目は勝者のものとは思えない苦しみに満ちた色を宿していた。


「それは……リリを、私を、異性としてですか?」


 目を、見開いた。

想像していなかった言葉に、息が詰まる。

異性?

リリを?

妹/娘を?


「私は……父さまの事が、好きです。

 男の、人として……」


 リリの言葉は、絞り出すようなものだった。

望みを託すような、聞いているだけで胸が張り裂けそうになる、必死の願いだった。


 地獄のような告白に、理性が追い付かない。

思わず、改めてリリを見やる。

厳しい戦いを経て、汗と血が滲みなお美しい顔。

宝石のように輝く灰の髪が、氷の洞窟に広がり、外から差し込み反射してきた光を受けて輝いている。

僕と同じ年頃まで成長した姿は、女性らしい膨らみと魅力に満ちて、街中を歩けば視線をくぎ付けにしそうなほどだ。

美人、という意味では間違いなく。

魅力的、という形容も客観的に見て当然で。

けれど。


「……父さまは、実の娘を、私を……異性として……見て、くれますか」


 僕は、自分がどんな表情をしているのか自覚できなかった。

リリに欲情しているのか、それとも忌避してるのか、困惑しているのか、苦しんでいるのか。

けれど少なくとも、目の前のリリは、悲しそうに微笑みを浮かべて見せた。


「それを確かめるために……父さまと私だけの運命を見るために、私は。

 他の全ての、運命を……止めて」


 キラキラと、一度止まった虹色の輝きが再開する。

洞窟の中が、七色の輝きで満ちてゆく。

虹のスペクトル。

人類の運命を指し示す、聖剣の持つ運命の輝き。


「――運命転変・七色万華鏡」




*




「あの日、川渡が来なかったら」




*




「誕生日、おめでとう!」

「えへへ、ありがとうです!」


 祝いのクラッカーを受けて、リリが微笑んだ。

リリが生まれて三年、三歳の誕生日……にして、肉体年齢が僕と同じになった祝いだ。

薬師寺アキラとの決戦から三年、僕は二十歳になって先日成人し、リリもまた、追い付くような形で僕と同い年ということになった。

背丈を完全に追い抜かれたミドリがぷりぷり怒っていたのがつい先日のように思えるぐらいなのに、こんなにも早く成長すると、少し寂しくなる。


 誕生日ケーキを前に、キラキラと瞳を輝かせるリリと目が合う。

この一年、リリの虹彩の色は変化し、金色の瞳に変化してみせた。

どこか実母を思わせる色に最初は鼻白んだものだったが、いい加減に慣れた。

微笑み返すと、より一掃リリは嬉しそうに表情を輝かせる。


 ヒマリ姉とミドリと共に祝ったお誕生日会が終わって、夜中。

珍しく早めに寝た姉妹を尻目に、僕も早めに部屋に戻り、就寝前に少し寛いでいた所。

ノックの音、ドアを開けるとパジャマ姿のリリが目に入る。


「どうしたんだい?」

「えへへ、ちょっと……」


 部屋にリリを招き入れ、僕はベッドに腰かけリリに椅子を空ける。

ガチャリ、と音。

後ろ手に鍵を閉めたらしいリリは、椅子をそっと退けて僕の横、ベッドに腰かけた。


「お邪魔しちゃいまーす」

「ととと」


 僕の腕を抱きしめながら腰かけるリリに、軽く手をついてバランスを取った。

危ないなぁと思うが、満面の笑みを浮かべるリリの表情が可愛らしくて、この場で苦言を口にしたくなくなってしまった。

後で叱ろうと、実際にそう出来たことがほぼない事から目を逸らしながら考える。


「……父さま、その、大事な……お話があります」

「何だい、リリ。何でも言ってごらん」


 気づけばリリは、二人きりの時、僕の事を父を呼ぶようになっていた。

何が切っ掛けだったかは、頭の中が霞がかったようで今一思い浮かばないのだけれど、まぁ別にどうでもいいか。


 目と目が、見つめ合う。

輝く宝石のような瞳が、僕をじっと見つめている。

頬が薄っすらと赤らみ、風呂上りの火照りがまだ取れていないのかな、と少し心配になる。

腕を抱きしめる力が、少し強まる。

柔らかい感触。

いつもと違うパジャマだとは思っていたが、少し薄着なようで、身に包むリリの身体の感触がより強く伝わってきて。


「父さま……好きです」

「うん、僕もリリのこと、大好きだよ」

「父さまのことを……男の人と、して」


 とん、と。

強く押されて僕は後ろに倒れ込む。

少しばかり斜めに勢いよく押されて、ベッドに端に腰かけていた僕は、真ん中あたりにほぼ真っ直ぐに倒れ込むことになった。

そんな僕の上に、間髪いれずリリが押し倒す形で乗る。


「あ……え?」


 突然の事に、言葉を失う僕の前。

リリはプチプチとパジャマのボタンを外し、前をはだけて見せた。

真っ白な、輝くような肌が露わになる。

黒いブラに支えられた乳房、淫靡な曲線を描くくびれ。

パジャマのズボンは少しずり下がり、下に履いた黒いショーツがその顔をちらりと見せていた。


「父さまの事が……好きです、愛しています。

 父さまに……女として、愛して、もらいたい」

「ま、待って……くれ、そんな事は!?」


 そっとリリの両手が下ろされ、僕の手を掴んだ。

ゆっくりと持ち上げ、胸元に僕の両手を連れ行く。

黒いブラのその真ん中、ホックに指先を導き。

パチと、フロントホックを外した。

たゆん、と重量のある動きで乳房が揺れる。


「あ……う」

「父さまは……私に、女としての魅力を、感じてくれますか。

 私を……愛して、くれますか」


 リリはそっと僕の手をベッドに置くと、そのまま僕のパジャマシャツを脱がせにかかった。

ボタンを外して前をはだけさせ、中に来ていたタンクトップの裾に、そっと手を。

親指に引っ掛けて、そのまま僕の喉元まですっと上げてしまい、僕のその肌を露わにする。

しっとりとした手が、僕の体に触れた。

ぴったりと肌に吸い付くようなそれが、僕の胸の辺りから、ゆっくりと下がってゆく。

まるで肌と肌がくっついて一つになってしまいそうな、ぞくぞくするような感覚。

何か言わなくてはいけないと思うのに思いつかず、僕はただただ首を横に降る事しかできない。

それでもリリの手は、やがて僕のヘソのあたりまで辿り着いて。


「私に、興奮してくれますか」


 そのまま、リリはズボン越しの僕の股間に、その両手をやった。

何故か、ファウルカップを付けていない、中の感触が分かるそこ。

僕自身は、柔らかいままだった。

そこに血は巡らず、硬くならないままで。

リリは、泣きそうな顔で微笑んで見せて……。




*




「なら……私の成長速度が、普通だったら」




*




「父さま、今日はクリスマスイブです!」

「ホワイトクリスマスか……良いねぇ」


 リリが元気に叫ぶのに、僕は目を細めた。

今年で二十歳になる娘は、元気一杯に叫びながら落ち着きなくわたわたと振舞っている。

見た目はもう大人そのもののリリだけれど、中身はまだまだ子供だなぁと苦笑して見せた。


 あの薬師寺アキラとの決戦から、二十年がたった。

姉さんもミドリも結婚して家を出てゆき、今や兄妹で結婚していないのは僕一人である。

ここ最近は引退した父さんも旅行に行くことが多く、我が家はほとんどリリと二人きりだ。


 クリスマス・イブの朝、僕らは二人、リビングでコーヒーを飲みながら庭に降る雪を眺めていた。

あまり積もると後が大変なのだが、流石に今それを言うのは野暮というものだろう。

静かに雪の降る光景を眺めながら、いつかリリを引き取ると決めた夜を思い出す。


 僕が薬師寺アキラに負けて、病院で意識を取り戻したあの日。

ホワイトクリスマス。

姉さんが見ていた中、絶望していた僕は赤子だったリリと出会い。

そして僕の人生はこの子のためにあるのだと、そう信じこの娘を引き取ることに決めたのだった。


「僕も年食ったなぁ……」

「父さまは若々しいですよ? 食べちゃいたいぐらいです、がおー!」

「アラフォーに何言ってるのさ」


 苦笑しつつ、窓に映った自分の顔を見る。

成人してから全く老けない僕の顔は童顔そのもので、最近は娘と歩いていると兄妹や彼氏に勘違いされてしまうほどだ。

つまるところ、割と若者にナメられやすかったりする。

ついでにソウタが普通に渋い貫禄ある感じに育っており、最近会うたびに煽ってくるのが心底煩わしかったりする。


 そんな風に迎えたホワイトクリスマスの日、僕はリリに強請られてデートということになり出掛けた。

と言っても、大した内容ではない。

家族二人で出掛けてちょっと買い物をして遊ぶぐらいだ。

リリと何件か服屋を巡り、試着を何点かして感想も告げてやる。

それにふむふむと頷きながらメモを取るリリ。


「初売りセール前に、欲しい物を考えておくものですよ。

 セール価格じゃなくても欲しい物は、シーズン初めにもう買ってますし。

 今の時点でサイズが残っている物から、吟味しておくんです」


 持ち歩き向けの小さいボールペンを、ピンと立てながらリリが告げる。

リリはメモをする際、携帯端末ではなく物理的なメモ帳に書き留める派のようだ。

割とデジタルでメモを取ってしまう僕としては、若いのにアナログ派で拘っているのは、なんだか格好いいなぁと思ってしまう。

そんな僕の視線をどうとらえたのか、イヤンイヤンと棒読みしながらリリが身もだえする。

僕は呆れつつ、二人で街中を行く。


「はいストライクでーす。なんで負けたのか、明日までに考えておいて下さーい」

「うーん、やっぱり球技全般苦手だなぁ」


 リリが選んだのは、ボウリング場だった。

僕と出掛ける時、リリが選ぶ遊びは大体球技だ。

バッティングセンターとか、ボウリングとか、卓球にバド、テニスあたり。

僕も結構努力して食いついているのだが、どうにも球技は苦手で根本的にセンスでリリに負けている感じだ。

煽り顔で僕を指さし、なにやらクルクルと回し始めるリリに、こちらも苦笑して見せるしかない。


 そんな風に僕をからかってみせる悪戯な仕草、キラキラと輝く容姿。

こんな美少女が、男っ気一つなくこの年まで育っているというのが信じられないほどだ。

それをリリ自身特に気にしていないらしく、時折僕が気にしてみても何でもないかのように気楽にしているばかり。

男やもめの僕に言える事ではないが、本当に将来男を捕まえられるのか心配になるぐらいだ。


 そんな風に遊んでいると、もう夜だ。

前日から食材の下ごしらえはしているので、二人で家に帰って料理する。

定番の七面鳥のロースト……は数時間かかるので、普通のチキンソテーに。

他にはパスタにローストビーフに魚介のサラダ。

折角なのでフォアグラやトリュフを少量使ったが、ちょっと豪勢な家庭料理の範疇に収まっただろうか。


「いやー、料理上手な父さまを持ってリリは幸せですよー」

「と言っても、今のリリの年頃だと、僕のレパートリーは殆どなかったからなぁ。

 本格的に料理を始めたのは、今のリリぐらいの年頃からだったよ」


 リリが三歳ぐらいの頃から、食育も兼ねて僕が家庭料理を覚えるようにした。

赤子の頃のリリの世話は割とベビーシッターに頼ったのだが、そのうちに世界中の大型の魔物を狩りつくし、僕がある程度私生活に時間を割けるような状況を作り出したのである。

そこからは割と僕はリリの傍に居られるようになり、半ば料理を趣味にすることになったのだ。


「ごちそーさまでした!」

「お粗末様でした」


 可愛らしく言うリリに、苦笑しつつ答えてやる。

洗い物を終え、リリに勧められて先にお風呂に。


 湯船に浸かり、芯まで体を温める。

ぼうっと天井を眺めながら、ぼんやりと思考を巡らせる。

……リリは今年、二十歳になった。

成人。

一先ずは、大人と言って良い年齢だ。

あの娘の誕生日、節目として肩の荷が下りたような心地だったのは否めない。


 あの娘がこれから、どんな人生を歩むつもりなのか分からない。

今のところリリは、大学生という身分で勉学に励みつつも青春を謳歌している。

生まれ持った資質故か高い位階を持ち、そしてそれをある程度扱えるようにはしたが、それでもリリは冒険者の道を選ばなかった。

故にどこかの会社に就職するのか、それとも恋人を作って結婚し、専業主婦という形を目指すのか。


 どんな形でも本気で目指すのなら親として支援はするだろう。

しかしもうリリも大人になったのだ、父親が過干渉するのも良くないかもしれない。

クリスマスに父親をデートに誘うような感じだと、嬉しい反面交友関係が心配になる。

もう少し淡白な態度を取るべきか、と迷いつつも温まっていると。

脱衣所に、影。


「リリ? 何か取りに来たのかい?」


 声をかけるが、返事はなく。

ガラリ、と脱衣所の扉が開いて……全裸のリリが、現れる。


「リリ!? 何を!?」

「えへへ……父さまと、ちょっと一緒にお風呂に入りたくて」


 いや、君幾つだと思っているんだ、と突っ込みそうになってから迷う。

二十歳になってクリスマスに父親とデートしたがるような娘だ、久しぶりに風呂に一緒に入りたいとか言い出す可能性、ちょっとあるのか?

僕が戸惑っているうちに、リリは軽くかけ湯をして、湯船を掴み片足を入れる。

ゆっくりとした動作、足の付け根、股間が当然僕に向けて露わになり……、慌て視線を逸らす。

怪しいと思っていたが、この娘、感性が小学生のままだったりするのか?

などと思ううちに、リリが湯船に入りきった気配。

視線を戻すと、リリはふぅ、と溜息をつきながら目を細めていた。


「いや、大人なんだから、きちんと前ぐらい隠しなさい……」

「……リリのこと、きちんと大人だって、思ってくれてるんですね」

「そりゃそうでしょ、何言っているんだ……」


 その灰の髪を纏め上げたリリは、乳房や股間を隠す様子もなく湯船に浸かっている。

呆れて溜息をつく僕の、その手をリリは取った。


「リリは、もう大人ですよ」

「さっきまでそう思っていたけど、今ちょっと自信なくなってきたかな……」

「大人の女が、何も考えずに……男の人の居るお風呂に入ってくると、思っていたんですか?」


 思わず、鼻白む。

何を、と返そうとした瞬間、ざばりと音を立てながらリリは中腰に。

僕の両肩を掴み、こちらにしな垂れかかる。

こつん、と額があたり、唇が触れ合う寸前の距離になった。


「父さま……ずっと、ずっと……昔から、好きでした」

「り、り?」

「ずっと……男の、人として」


 乳房が、僕の胸板に押し付けられる。

吐く息が僕の頬を撫でる。


「父さまは、私の事を……女の子として、見てくれますか」


 リリの片手が、そっと僕の肩から降りてゆく。

二の腕、肘、腕から手の甲に辿り着き、手の甲の上に。

指と指の間に、リリの柔らかな指が絡んでゆく。


「私に……興奮、してくれますか」


 もう片方の手が、ちゃぽんと湯船に沈み……、僕の腹筋を撫でながら落ちてゆく。

僕が何も言えないまま絶句しているうちに、その手が僕の股間に辿り着いて。

柔らかいままの僕自身に、触れる。


「…………嗚呼」


 深い、溜息。

暗い絶望に濡れた目で、ポロリと涙を零しながら僕をじっと見つめて。




*




「逆……私が子供と見られることの少ない……。

 そう、私の成長速度が、もっと速かったら」




*




「彼女は……持って、あと三年の命という所でしょう」


 医者の言葉に、僕は息をのんだ。

床がなくなったようだった。

確かに椅子に腰かけ医者の言葉を聞いているはずなのだが、地面の感覚がなく、今にもどこかに落ちてしまいそうな心地。

目の前が真っ暗になったかのような、感覚。

血の気が引け、ふらついてしまう。


「……大丈夫ですか、続きを聞けますか」

「……は、い。聞かせてください」


 僕が絞り出すように告げると、医者は険しい顔をしつつも続けて見せる。

リリは、僕が娘として引き取ったあの娘は、凄まじい速度で成長してみせた。

薬師寺アキラとの決戦の後、意識の戻った僕が出会った時には既に言葉を離せそうな幼子に見え、そして生誕一年となる時には、既に僕と同い年ぐらいになっていた。

それでも、成人前後で成長促進は終わるのではと当初見られていたが、最近の検査でそれが異なる事が分かってきた。

リリのこの成長速度は、死ぬまで続く。

このままリリは、人より何倍も速く育ち、老い、そして死んでゆくのだと。


「健康を維持できるという前提で、あと三年ほどが最大限。

 しかし無理な成長速度のせいで、体の中に歪みのようなものが溜まっています。

 今はまだ若いので無理が効きますが、このまま成人を超えた肉体年齢まで成長……老化が進んでしまえば、重篤な病気などにかかりやすくなってしまう。

 こちらとしても最大限ケアしますが……、それでも三年ほどの寿命でさえ、生きるのが難しいと言わざるを得ません」


 僕はその後、どんな風にして家に帰ったのか分からない。

けれど凄まじい顔をしていたのだろう、姉さんにミドリ、リリ本人に心配されてしまった。

それでも誰にも言い出せず、ふさぎ込んだままに自室のベッドに倒れていて。

そのまま、いつの間にか寝てしまっていたのだろう。

ふと気づくと、夜半、僕はふとベッドの上で目を覚ましていた。

寝ぼけ眼を開けて、なんとなく気配を感じそちらに視線を。


「……り、り?」

「……父さま」


 リリ。

僕の、可愛い娘。

……と言うには成長速度が速すぎて、なんだか親という実感は全くないのだが、それでも僕はこの娘の事は常に親子として接していた。

暗い室内、凡その輪郭は見えるが、薄っすらとその灰の髪が見えるぐらいまでだ。

ベッドサイドで椅子に腰かけたリリは、じっと眠っている僕を見つめていたようだった。

起き上がると、リリは静かに席を立ち、僕の隣に腰かける。

壁際のベッドの真ん中、壁を背にする形で二人、足を投げ出すようにして座る形だ。


「……リリはやはり、先が長くないのですか」

「……ああ」


 もとより自分の体の事は薄々と察していたのだろう。

そこに医者に呼び出された僕が暗い顔をして戻ってきたのだ、凡その状況が掴めるのはなにもおかしくはないだろう。

静かにうなずく僕に、リリはそっと手を下ろした。

僕の手と重なり合い、体温と体温とがつながる。


「リリは、このまま……凄い勢いで年をとって。

 父さまより早く、おばあちゃんになって、死んでゆく……」


 静かな声だった。

溜まった潤みが決壊し、リリの目尻からポロリと零れ落ちる。

静かに、表情一つ変えず、ただただ静かにリリは泣いていた。


「嫌、です。

 リリは……好きな人に、見られたくない。

 皺くちゃになったおばあちゃんになる姿なんて、見せたくない」

「……リリ?」

「父さま……好きです」


 ドキリと、胸が跳ねる音を感じた。

出会って一年、凄まじい速度で育ってきたリリは、既に僕の年齢に凡そ追い付いている。

娘と呼び扱っているが、同じぐらい……近い年ごろの女性として見る心地も、あった。


「男の人として……父さまが、好き」

「……リリ」

「だから……」


 片手を掴んだまま、リリは残る手を僕の肩に。

そのまま勢いよく引っ張りながら、向きを変えて倒れる。

丁度仰向けにベッドの上に倒れるようになったリリに、僕は引っ張られて押し倒す形になって。

丁度、月を覆う雲が退いて。

月明りが、リリを照らす。


「……あ」


 リリは、薄いネグリジェ一枚だけで、僕のベッドに仰向けに倒れていた。

十八歳の僕と同い年に見える、美しい……ほんの一瞬で終わってしまう、儚い少女の時の姿で。

これからすぐに終わってしまう事が予見された、美貌の姿で。


「リリに……リリが可愛い女の子のうちに、思い出をください」


 そっと、リリが僕の手を取りその乳房へと押し付ける。

柔らかい感触、思わずゴクリと唾を飲んでしまうが。

直後に罪悪感と、困惑とが脳裏を押しつぶして。

いや、ここは無理にでもリリに欲情して奮い立たねばならないのでは、とそう思うが早いか。

空いたリリの手が、そっと僕の股間を撫でる。

柔らかいままの僕自身が、長く細いリリの指に撫でられ……、そのまま硬さを変えない。

くしゃりと、リリの顔が歪んで。




*




「……父さまが、私に欲情する……その正当性があるなら。

 他の誰でもない、父さまが私に欲情することが、正しい可能性であれば。

 父さまが私を抱く事が……祝福される都合の良さが、あるならば」




*




「り、リリ!?」


 夜半、僕は思わず叫んでいた。

生まれて三年、僕と同い年まで育ったリリが、僕の部屋に来て僕を押し倒したのである。

姉妹は今日泊まりの外出をしており、父さんは出張中。

二人きりの夜、リリはベッドの上で仰向けに倒れた僕に、馬乗りになる形で微笑んでいた。


「父さま……お医者さんから、私の体質の事、聞いているんですよね?」

「……それ、は」

「リリが……生まれて初めて啜ったものに、囚われてしまっている事に」


 僕は、思わず視線を逸らした。

余りにも破廉恥で、地獄のような光景を思い出したからだ。

……薬師寺アキラは、リリを生み出すために、僕の精液と実母フェイパオの子宮を使った。

受精後急速成長したリリは、既に死に絶え首から上を失っていたフェイパオの腹を突き破って生まれ、そして……。

母の乳より先に、僕の勃起したままのものを咥え、その吐精したものを飲んでしまったのだ。

当時僕は意識が朦朧としており実際の記憶にはないが、現地の記録に残されていたため、知る人間の居る情報だ。


「リリは……呪われた生まれの、生き物です」

「それは……」


 僕は、リリの事を娘として愛し続けてきたつもりだ。

幸せになってほしいし、その資格だってあると言い聞かせている。

けれどその壮絶な生まれが呪われていると、本人に言われてしまえば、そればかりは否定しようがなかった。


「リリは……飢えています。

 生まれて初めて飲んだソレと同じものを欲し……それがなければ生きていけないと。

 汚らわしい性欲を詰め込んだような、そんな欲望に満ちた運命の持ち主なのです」


 そしてその生まれが、リリを苛んでいた。

薬師寺アキラが何を考えていたのか分からないが、リリは精液に異常な飢えを感じるように設計されていたのである。

二次性徴の後半、肉体年齢が十代半ばになった頃からそれが顕著となり、解決策を探しながらも見つからず、ただただリリに我慢を強いる形となっていた。

それが今日爆発してしまったというのであれば、それは予測できた結末が……今来てしまったと、そう考える他ない。


「だけど……そんなの、人間じゃあない。

 そんなものを求めて、好きでもない男の人に欲望を求めて縋らなくちゃいけないなんて……、そんな生き物は人間じゃあない」


 幸か不幸か、リリはその生まれの運命を拒絶していた。

女性として生まれ、真っ当な倫理観を持って育ったリリは、欲望に負けて男性の物を啜ろうなどとはしないと誓って生きてきた。

しかしそれにも、限界があった。

最近明らかにリリは苛立ちを多くしていたし、睡眠不足で常にふらついているようにさえ見えた。

完全に飢えに飢えて、理性の限界が近づいていたのだろう。


「だから、父さま……リリを、人間にしてください」


 僕に馬乗りになったリリは、涙を零していた。

泣きながら服を脱いで、その美しい体を夜気に晒していた。

豊満で美しい、女性としての魅力に満ちた身体。

その全身を僕に見せつけるようにしながら。


「リリが……好きな人とそういう事をしているだけの、普通の女の子に……。

 人間に、してください」


 そっと、口づけが降ってくる。

浅いキス、唇を短く何度も吸って。

リリのその全身が、しな垂れかかる。


「愛しています。

 ……父さまは、リリを……女として、愛してくれますか」


 言いながら、リリはそっと手を僕の下半身へと滑らせる。

胸を、腹筋を、そして足の付け根をゆっくりと撫でながら進み、股間に辿り着いて。

柔らかいままの僕自身に、触れる。

視線を合わせたままのその表情が、ぐにゃりと歪んで。


「……嗚呼」


 ポロポロと、その涙がこぼれて。




*




「……なら、もうストレートに、父さまが私に性欲を覚える世界」




*




 カチャリ、と錠前が音を立てた。

後ろ手に回した手で鍵をかけたのだが、それに気づいた様子の娘が僕を見て、首を傾げた。

僕がにっこりと微笑みかけると、誤魔化されてくれて、気にせず自身のベッドに腰かける。

招かれて、僕はリリの隣に腰かけた。


「えへへ、父さまと久しぶりに二人っきりでお喋りです!」

「……あぁ、楽しみだったよ」


 僕が静かにそう答えると、リリは楽しそうに笑いながら僕の腕に抱き着いてくる。

薬師寺アキラとの決着から三年、リリは僕とほぼ同い年の見目まで成長し、その肢体も豊満な女性と化していた。

自然、柔らかな体の感触が、腕全体を包み込む。


「リリはね、リリはね、今日は……」


 見目に違わぬ大学生の身分を得たリリは、緩めの単位を適当に取りながら遊びつつ同年代の友人を増やしている。

毎日のようにその日あったことを嬉しそうに僕に報告して、ピッタリと抱き着いてくる。

時折撫でてやると、これ以上の幸福はないという顔で微笑んで見せる。

僕と同い年にしか見えない、性的な魅力で満ちた異性が、だ。

端的に言うと。

僕は、限界だった。


「とう、さま?」


 そっと抱きしめられた腕の、自由になる掌をリリの太ももの、内側に這わせる。

戸惑ったような声を聴かせるリリだが、その表情は赤く染まり、ぼうっと僕を見つめてくるのみだ。


「リリ」

「は、はい……」


 従順な声に満足しつつ、そっとその唇に口付ける。

触れるような短いキスを何度か、それだけでリリは腰砕けになってしまって、短い嬌声を上げながら仰向けに倒れる。

僕はそのリリを押し倒す形で、覆いかぶさる。


「とう、さま」

「リリ……」


 興奮が、互いの理性を削っていた。

互いの名だけを呼びながら、僕はリリの服を、リリは僕の服を、ゆっくりと脱がせてゆく。

硬く立ち上がった僕自身を見て、リリが嬉しそうに微笑んだ。


「父さまが、リリを……愛してくれる」


 僕は、そっとリリの頭を撫でてやった。

ん、と嬉しそうな呻き声が漏れる。


「父さまが、リリを……女として、見てくれる」


 今一度、その唇に口付ける。

短い口づけを何度か、嬉しそうな嬌声。


「父さまが……父さま?」


 涎でテラテラと汚れた唇が、小さく蠢いた。

疑問符の内容が分からず、僕は小さく首をかしげる。


「これは……本当に、"私"の父さま?」




*




「なんで、受け入れられないの……?

 私は、私を異性として父さまに見てほしいのに……。

 異性として私を見る父さまが、"私"の父さまじゃあないって?

 ……私が、父さまを好きなのが、間違っているっていうの?」




*




「父さま、行ってきまーす」

「■■■■■■■■■■」


 玄関まで見送りに来た僕に、リリが振り返って手を振った。

その隣、もう片手をつないでいるのはリリの彼氏だ。

彼の名は、■■■■。

リリと■■で出会って■年、彼女の成長速度などの特異な点を受け入れ仲良くなったボーイフレンドである。

つい最近リリと付き合い始め、今日は家まで迎えに来て二人でデートに出かける所である。


 ■■は身長も■く、顔立ちも■■で頼りに■■■■ような男だ。

(――人間の輪郭線をぐちゃぐちゃに鉛筆で塗りつぶされたみたいで、よく見えない……?)

父親としては複雑な心地だが、いつまでも父親が娘を守る事など普通ではない。

いずれは誰かに託す他ないのだと考えると、信頼できる相手なら託せるようこちらも努力せねばなるまい。

(リリが握っている彼氏?の手だけが塗りつぶされていない、人間の手だ……見覚えがある?)


 僕は苦笑しながら、リリに手を振って返す。

しかし手が風を切るその感触が、返ってこない。

どうしたものかと視線をやると、僕の右手が存在しなかった。

手首の辺りから黒いモヤモヤに包まれてなくなっており、え、と驚いてしまう。

すると同時、僕の右手がリリの掌を握っていることに気づく。

(え、僕?)


 リリの掌の、暖かで小さい感触。

絡めた指を動かすと、目の前にリリが握る彼氏の手が動いて。

気付けば僕は、リリの隣に立ってその手を握っていた。


「……嗚呼」


 ポロリ、とリリの目から涙がこぼれる。

驚く僕の前、少し枯れた声で、リリは呟いた。


「……父さま以外を好きになる私なんて、想像できなかった。

 そんな二階堂リリが居たら、それは……"私"じゃあない他の誰か」




*




「分かって、居たけれど……。

 私は、父さまを愛していない可能性の自分を、自分だと……認識できない。

 なら……。

 なら、父さまが、父さまではない事は……」




*




「ユキさま!」


 幼馴染のリリが、手を振りながら駆け寄る。

距離を縮めると、僅かに膝をため、ジャンプ。

僕に向けて飛び込んでくるのを、抱きしめながら受け止め、グルリと一回転、力のベクトルを発散させる。

キラキラと陽光に輝く、灰色の髪が風になびいた。


「えへへ、リリのハグ受けて止めてくれて、ありがとーございます!」

「こっちも努力するけど、僕の腰を破壊しないでくれよ……?

 子供の頃のリリが、父親に抱き着くのとはわけが違うんだ」

「父さ……ううん、そう、そうですよね、ユキさま」


 いつも通り、僕の事を何故か様付けで呼ぶ幼馴染。

彼女を数度撫でやると、落ち着いた様子を見せて僕から離れてみせた。

金色の瞳が、僕をじっと射貫く。

幼い頃からずっと一緒に居て、彼女の目は何度も見つめている。

けれど何度見ても美しく、見惚れるような視線を僕にやる娘だった。


「もうすぐリリたち、大人ですね」

「あと一年、か」

「リリとの結婚の約束……破ったら、激おこですよ! ユキ様のほっぺを、もう戻らなくなるぐらいぐにゃんぐにゃんに引っ張ります!」

「ほっぺ保全条約の同意はどうしたんだ……。あんまり引っ張られたらカチカチに硬くなってしまいそうだ」

「大丈夫、ユキさまのほっぺはいつでもモチモチです! 食べちゃいたいぐらいです、がおー!」


 再び僕を抱きしめながら、頬を甘噛みしてくるリリ。

困りながら抱き返し、頭をグリグリとしながら僕に押し付けてくるのに、軽く撫でてやる。

すると小さく唸り声を上げながら大人しくなり、甘噛みしていた頬をペロペロと舐め始めてくる。

犬猫か何かかな?

呆れつつリリを撫でてやっていると、門の方から、声。


「■■■■■■」

「あ、お久しぶりです、■■さん。玄関前からですいません」


 ■■さん……リリの父親に挨拶をしつつ、玄関前でいちゃついているのも難だな、とリリの背をポンと叩く。


「さ、家に入ろう。これ以上外ではあんまり、ね? ほら、■■さんに挨拶して」

「え、あ……はい」


 僕の背から手を離すリリの、その手を取る。

そのまま■■さんに、軽く会釈。

踵を返そうとして、リリが固まったままでいる事に気づく。


「……リリ?」


 リリは、強張った顔で視線を中空にやっていた。

その視線の先を見つめると、リリの父親が我が家の門の前に立っている。

(――やはり人間の輪郭線を鉛筆で塗りつぶされたみたいだ……)

父親と何かあったのか、と視線を二人の間で往復させるが、リリの顔が強張っている事しか分からない。

(――父親(仮)の顔は塗りつぶされていて、表情なんてないからな)


「と……う……」


 リリが、ゆっくりと口を開く。

一音ずつ、そのように音を口にして。

リリが、ぐしゃりと歪んだ顔で僕を見つめた。

泣き出す一歩手前の表情で、僕に縋るような目を向けてきて。


「嗚呼」


 リリは、僕の手を離し、その両肩を掴んだ。

震える手で僕に縋りつき、涙をポロポロと零しながら、俯きその額を僕の胸元にぶつける。


「……父さま以外の父親なんて、想像できなかった。

 それ以外の父親を見て人生を歩んだ二階堂リリは……"私"だとは思えない。

 よく似た人生を歩んだだけの。

 人格製造のルーツの異なる、別種の……他の、誰か」




*




 それで、終わり。

七色の輝きは、七つのifの運命を見せて終わった。

人間の運命を示す七色の光は、その力を潰えた。

僕らは再び現実に戻り、冷え切った氷の洞窟の中、僕は倒れ降すリリの上、押し倒す形。

リリは僕の手を握りしめたまま、じっと僕を見つめていた。

ポロリ、とその目から涙がこぼれる。


「今のアレは……実際に存在する、他の可能性の異世界……を、僕らが体感していた……のか?」

「……はい。七色の、七日間、七つの異世界……。

 一週間の時間で、運命凍結の帰還不能点まで、あと少しです」


 可能性が存在する、という話ではなく。

実際にそこに生きる生命らが居る、確かに存在していた異世界。

リリの"運命の赤い糸"は僕ら二人にその世界を体感させていた。


 そして、一週間。

凍結した世界中の人々の運命が、二度と溶けなくなる期限が、今日その日。


「……存在するだけで、良かったんです」

「私が……リリが、父さまと愛し合える世界が、存在するだけで良かった」

「リリが、幸せになれた可能性が存在する……それだけで、リリは歯を食いしばって生きることができました」

「独りでも……前に、進む事ができました」

「人を……殺してしまった、その罪を償うために……」


 震える瞳が、僕を見据える。

絶望の色が、リリの……娘の目を焼く。


「幸せになれた可能性の彼女を、リリは……自分の可能性だと、信じる事ができませんでした」

「幸せになれた可能性の彼を、リリは……リリの父さまなのだと、信じることができませんでした」

「リリは……リリは……自分が幸せになる可能性を、信じることが……できませんでした」


 ポロリ、と。

リリの背、生えたままだった赤い翼が崩れ始めた。

赤い金属質な骨組みは、灰色の砂となってその場に堆積し塵積もってゆく。


「私は、おぞましい化け物の生まれで、自分でも自分を気持ち悪いと思うぐらいの、誰かに恋なんてしてはならない……人殺し」

「例え設計された化け物ではなくとも、幸せを手に入れる事は絶対にできない」

「可哀そうな化け物に生まれたとしても、同情すら許すべきではない」

「淫靡な、人間未満の獣として生まれたならば、人間に這い上がる事は決してできない」

「愛する人が"私"を愛してくれる事を、想像できない」

「私を愛せないあの人以外を愛する自分を、自分だと認められない」

「愛する人が私を愛せない理由を、自己存在理由としてしまった……化け物」


「様々な理由で幸せになれるリリという"もしも"はありえましたが……。

 リリは、幸せなリリを……私じゃあない、他の誰かとしか……思えませんでした」


 それは、あまりにも冷たく、凍り付くような温度の言葉だった。

聞いているだけでこの場が冷え、沈み、小さくうずくまってゆくような、そんな感覚の音。

あまりに冷たい絶望に、僕の脳は固まって……まともに言葉を、吐き出せない。


「だから、リリは」

「何度生まれても、何度やり直しても……どんな事があっても……父さまに、恋をします」


 微笑みは、しかしどこか引きつっていた。

震える表情、涙は潰えず流れていて。


「でも、何度やり直しても、父さまに恋するのがリリなら」

「許されない恋でしか、成就しない恋でしか幸せになれないのであれば」

「自分が幸せになれる未来を、もしもの未来ですら想像できないのであれば」

「不幸ではない自分を"この私"の延長だと信じる事ができないのであれば」


「それは……寂しすぎます。

 耐えられない、ぐらいに」


 寂しい。

ハッとするような、目の前のリリに、断罪されるかのような、胸の痛み。

そうだ、僕も寂しかった……。

家族、"ここ"が僕の全てで、けれど"ここ"の中に居る事がどうしても寂しくて。

強くなれば、英雄となれば、その寂しさを拭えると信じていた。

けれどそれは間違いで、強くなるほど、名声を得れば得るほどに寂しくなってきて。

それが。

目の前のこの娘の前でだけ、薄れていた。


「待って、くれ! 置いていかないでくれ!

 僕も……僕も、寂しいんだ! 一人に……一人にしないでくれ!

 お願いだ! ずっと、ずっと一緒に居よう!

 僕ら二人を……死が分かつ、その日まで!」


 思わず、僕は泣き叫んだ。

ポロポロと涙が零れ落ち、目の前のリリの頬に当たり、伝ってゆく。

リリの涙と僕の涙とが、一つに混ざる。

僕らの寂しさの塊が、そっと氷に落ちてゆく。


「ごめんなさい、父さま。

 それは……寂しすぎます。

 私を、女として愛してくれない父さまと……ずっと一緒は、リリ、泣いちゃいます」


 リリは歪んだ笑みを浮かべたまま、僕の手を取った。

思わず肘をつく僕のその手を、その喉に導く。

そっと上から手を抑え、僕の両手がリリの、その喉にかかるようにしてみせた。

どうぞ首を絞めてください、という、その姿勢。


 想像、と言うのであれば。

それは僕もまたそうだった。

僕はもはや、目の前のリリを幸せにする方法が思い浮かばなかった。


 明らかに自死を望むリリを、僕の力でどうやって生かすというのだろうか。

一度は戦いにこそ勝利し、リリは先の術式で大きく消耗したが、それでも残る力は精々互角ぐらいだ。

一方的にリリを拘束するには大きく足りず、言う事を聞かせるなど不可能だろう。


 今日は運命凍結の、帰還不能点。

今日リリを説得できなければ、或いは殺せなければ、僕を除く凍結者は二度と戻らない。

人類は僕ら二人を除いて滅亡する。

残った僕ら二人も、このまま二人死んでいって……人類は終わりだ。

父さんも、ヒマリ姉も、ミドリも。

僕の"ここ"は全て失われる。


 今日の何時が帰還不能点なのかは、僕にも分からない。

もしかしたら24時間たっぷりあるのかもしれないし、十秒後なのかもしれない。

外を出て凍結している人を探してくれば凡そ分かるのかもしれないが、そんな時間は当然存在しない。

今すぐ行動しなければいけないのかも、しれない。

説得するか、殺すか。


 だがリリをどうやって説得すればよいというのだ。

リリは僕がリリを異性として愛さないのが寂しいのだという。

愛する人に愛してもらえない運命に生まれ、その運命を持たない自分を自分だと思えない。

だから寂しい、耐え切れないと。

では僕がどうにかして今からリリを異性として見ればよいのかと言えば、そういう訳でもない。

リリを異性として見る僕を、リリは……愛する人だと受け入れられない。

僕がリリを異性としてみれば、リリは愛する人を失ってしまう。


 そも、リリは寂しくて死ぬのだという。

寂しさに耐えきれずリリに生きてほしいという僕が、寂しさに耐えきれないリリに、何を言って説得力があるというのだ。

寂しさを克服できない僕が、寂しさを克服できないリリに、何を示せばよいのだ。

それでも、と探した言葉を喉から引きずり出す。


「好きだ……」


 絞り出すように、枯れた声で出た。


「愛している……」


 あまりにも乾いた、空虚な言葉。


「君が居ないと……寂し過ぎるよ」


 独善にすぎる、本音。


「独りに……しないでくれ」


 欲望に満ちた、願望。


 ポロポロと泣きながら、醜い言葉を吐き続ける僕に、リリが苦笑して見せた。

しょうがないなぁ、父さま。

そんな風に言って見せそうな表情で。


「リリはね、リリはね……」


 自身の事を名前で二度呼ぶ、聞きなれたリリの言葉。

可愛らしく微笑ましいそれが、枯れた声で呟かれて。


「生まれたくなかったよう、父さま」


 ……僕は。

そっと上半身を持ち上げ、肘を地面から離した。

そのまま僅かに姿勢を正して。

リリの首にかかったままの、両手に。

小さく震えて。

体重を、かけた。




*




 その日、誰もが視覚に寄らない目で見た。

凍結されたままの運命、脳に記憶されない魂に焼き付く感覚でそれを捉えた。


 "それ"は、南極で始まった。

非物質の風が渦巻き、空を、そして成層圏を貫き宇宙まで駆け抜けてゆく。

運命凍結の雪を降らせる、非物質の絶対零度を破壊し、打ち砕く。

春告風、全ての運命を再始動させる、ある少女の最後の術式。

その風はそのまま花弁のように開き、広がっていった。

どこか薄桃色に感覚される色彩が、南極から惑星を覆ってゆく。


 それは、運命の冬の終わり。

人が、動物が、魔族が、魔物が、仙人や竜が、その凍結から解かれてゆく。

その序でとでも言わんばかりに、春告風が空を、大地をかけてゆく。

欧州の燃え続ける地獄の炎は掻き消え。

竜国を苛む呪いの湿地帯は、大地と川、湖に分かたれ。

暗黒大陸を滅ぼさんとする生きた隆起と崩落を続ける大地は、その動きを留める。

未だ傷跡を残していたこの惑星の大地が、癒えてゆく。


 その始まりの地、南極。

運命凍結に立ち向かった戦士達は、その風の中心に集っていた。


「この辺だよね!?」

「ああ……父さまの気配がする」


 激戦の後、すり鉢状に削り取られた巨大なクレーター。

その中心近く、彼らは最後に戦っていた二人、ユキオとリリの気配を探りながらここに辿り着いていた。

面々が辺りを探していると、ガラリ、と氷欠片が落ちてゆく音。

皆が視線を集めるその先、クレーターに空いていた横穴の洞窟から現れた人影。

ユキオがリリを、横抱きにして立っていた。


「兄さん、リリ!」

「……これは」


 叫ぶミドリに、ヒマリとアキラとが一目散に駆けつける。

一歩遅れる形の龍門は、リリの状態に目を細め、静かにそれを追った。

一行の声を聴き、ユキオは皆に視線を向けた。

そのまま、尻もちをつき崩れ落ちる。


「ユキちゃん!?」

「父さま、リリ!?」


 悲鳴を上げる三人が辿り着き、ユキオを支え。

その腕の中のリリに視線をやり、息をのんだ。

リリの喉には、手形の痣がついていた。

そして、リリは息をしていなかった。


「ごめん」


 ユキオが小さくつぶやいた。

小声ながら奇妙に通る声が、その場の皆の耳に響く。


 ユキオの涙は、もはや枯れ果てていた。

その痕だけが頬に残っており、枯れ果てる前のその悲しみの痕を示していた。

その目にはもはや光はなく、意志を欠いたガラス玉のような瞳が、じっと胸の中のリリの遺体を見つめる。

誰に告げるでもなく、ただただ、ユキオは小さく、呟いた。


「つかれた」




4章-地獄 了



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