03-逆流する腐肉の塊
「久しぶりね……ユキオくん」
その顔は、怖いほどに何一つ、記憶と変わらなかった。
ルーズサイドテールにまとめた暗めの茶髪、目は黒く、ややたれ目で少し丸い顔立ち。
家政婦だった頃はエプロン姿が多かったが、今日はチャコールグレーのスーツ姿だ。
8年前の夏、11歳の僕を凌辱した時の彼女は、二十代半ばぐらいだったか。
とすると今は三十代前半ぐらいのはずなのだが、見目にその影響はまるで見えない。
そして何よりも恐ろしいものが、川渡のその手を握り、こちらを見つめていた。
少女だった。
灰色というには艶がある銀色の髪をツインテールにまとめ、その漆黒の瞳は僕の表情を映せそうなぐらいに黒く暗い。
白いブラウスに赤いワンピース、どちらも少し少女趣味なフリルがあしらわれたデザイン。
僕の腰より少し高い程度の身長で、幼くもどこか燐とした表情で僕をじっと見つめている。
「始めまして。川渡サユキと申します。この前、7歳になりました。おと……ユキオ、さん」
膝から下の感覚が、ない。
まるで地面が消えて、自分だけ落とし穴に落とされているような感覚だ。
力が抜け、ふらつき、思わず崩れ落ちそうになる僕を、両隣の姉妹が慌て支えてくれた。
「ユキちゃん、大丈夫!?」
「……無理しないで。ゆっくり、深呼吸」
二人に支えられるようにしながら椅子に腰かけ、深く呼吸をする。
姉妹に囲まれる形で、僕ら三人。
対面側に久しぶりに帰ってきた父さん、川渡キリコ、サユキ。
そして引っ張り出してきた椅子に腰かけ、いわゆる誕生日席に気まずそうな顔をした福重さんが司会役だ。
リリは部屋に居てほしい、頼むからこの話を聞かないでほしいとお願いして、部屋に留まるようにしてもらった。
いきなり精魂尽き果ててしまった僕に代わり、両隣のヒマリ姉にミドリが、川渡と福重さんとを睨みつける。
川渡本人がやってくることは事前に聞いていたが、その娘がやってくるなんて初耳だ。
それも、年齢と、発言から……、否。
僕に見える魂の感覚が、その血のつながりを指し示していた。
「あー……、うん。私も先ほど初めて知ったのだが……、今回は川渡さんの娘、サユキさんも顔を出すということになる。
皆さん、その……子供がいるので、くれぐれも、お手柔らかにお願いします」
「……は、い」
呻くような声を漏らしたのは、僕一人だった。
姉さんとミドリは無言で川渡を睨みつけているし、父さんは黙ったまま我関せず。
川渡はニコニコと微笑んでおり、ただ一人、サユキだけが僕と同じように不安と猜疑に苛まれた顔で腰かけていた。
閉口一番、最初に口を開いたのはミドリだった。
「まず、福重さんの口から経緯を聴きたい。
具体的に言うと、なんでコイツがノコノコとここに顔を出す事になったのかを」
先日の福重さんの依頼から数日、僕は既に二人に、かつて僕が川渡に何をされたのか、概要は話していた。
二人は川渡が何かを僕に行ったところまでは察していたが、それが性暴力だとは気付いていなかったのだ。
説明の際には泣かせてしまい、そして謝らせてしまったのだが……それはさておき。
僕が福重さんの依頼を受けざるを得なかったこと、福重さん側の背景は既に知らせている。
その上で、しかしミドリは、その口から今一度説明すべきだと告げたのである。
尤もだ、と頷き、福重さんは顔色を悪くしながら続けた。
*
「川渡は、元々政府のエージェントの一人だった」
川渡キリコは、皇国の特殊工作員の一人だった。
いわゆるパワーレベリングである程度の位階を鍛えたうえで、隠密で諜報活動や破壊工作、潜入任務などを行う暗部の構成員。
それが二階堂家の家政婦となったのは、龍門の無頓着さが原因であった。
妻を亡くした龍門は家政婦を雇ったのだが、若い女性の応募が殺到し、彼女らは家政婦としての仕事よりも龍門への誘惑を優先した。
そして龍門はその誘惑に無頓着で、どれほど教育に悪そうな恰好で家政婦が誘惑してこようと、眉一つ動かさずにいた。
ただただ誘惑にかまけて仕事をしない家政婦は解雇し、代わりの家政婦を適当に選ぶという流れを続けるだけだったのだ。
そしてその異性の中には、他国との繋がりがあるものも居た。
幸い龍門は家庭で仕事の事は一切口にしなかったが、それでも出張があればその予定ぐらいは伝わる。
勇者の日頃の予定が他国に伝わってしまうのも何かと面倒だし、万が一龍門が他国の工作員の誘惑に負けてしまえば、かなり不味いことになる。
最悪、他国の工作員との情報戦や交戦も視野に入る仕事。
ということで、政府がエージェントとして川渡を送り込んだのが、全ての始まりだった。
「……問題は、そのエージェントが自覚すらなかった、少年趣味だったということでしたね」
疲れ果てた目で、福重が川渡を睨みつけた。
川渡はニコニコと笑顔を浮かべたまま、その表情を一切変えようとしない。
それまで男性遍歴のない川渡は、ユキオに強い欲望を抱いた。
そして事件が起き、それが故ミーシャによって暴かる。
その情報を受け、幾つかの事柄を経てユキオへの関心を強めていた龍門は、川渡を解雇した。
派遣元である政府は揺れに揺れ、首を切られた人間が何人も出るような不祥事となったらしい。
その弱みを使って龍門は、聖剣レプリカによる人類貢献度判別を推し進め……。
そしてユキオを守るために始めたそれで、ユキオを犯罪者予備軍に認定してしまうという流れとなる。
「ただ、川渡……この女は、往生際が悪かった」
「あら、諦めが悪い、不屈の意志とでも言ってほしいわね」
微笑みながら肩を竦める川渡に、福重は溜息をついた。
疲弊と労苦に満ちた、重苦しい溜息だった。
解雇された川渡は、姿を晦まし娘を産んだ。
そして少年に対する性的暴力という失態から、子育てをしつつ、約7年。
川渡はそれまでのエージェント活動で得たコネを利用し、多くの政治家や官僚に接した。
その殆どは歓迎されなかったが、不義の子――事実とは逆だが、対外的に取り繕った表現はそれに近かった――を持つ片親という弱い立場を逆利用し、事実を知らない者達から同情を得て、仲間を増やした。
また、その過程で権力者の弱みを握り、それを用いる事を躊躇しなかった。
その力を用い、今回ユキオと会う機会をセッティングするよう、働きかけたのである。
「福重さんにも、とても、とても快く自主的に協力していただいているわよ」
「……勘弁してくれ、私には愛する妻と子が居るんだ。
言い方には気を付けてくれ」
「ふふふ、そうですね。奥さんとお子さんには、くれぐれも、よろしくお願いいたします」
苦虫を噛みつぶしたような顔をして、福重は押し黙った。
決して口には出さないが、福重もまた、川渡に脅された一人である。
その内実についてはユキオにも語っていないが、握られた弱みがある以上思い切った動きがしづらいのは確かだ。
しばし、沈黙。
やがて淀んだ空気を、ヒマリの悲痛な言葉が引き裂く。
「そんな……、普通そういうのって、接触禁止令とか出るし、前科にもなるんじゃないの?」
「そうなれば、川渡を派遣した政府側にも傷ができる。
故に懲戒免職と所謂ブラックリスト入りで終わっていた。
それだけでも本来は、もう何もできなくなるはずで……。
それに勇者関連の失態は当時の政府としても、かなり敏感になっていた筈だ。
正直私は、既に消されているものとばかり思っていたが……」
福重が陰鬱に告げ、川渡を睨みつけた。
敵意の籠った視線に、川渡はにこやかに微笑んだ。
「妊婦一人始末できない無能な暗殺者で、とても助かったわ」
「……はぁ」
福重は、深くため息をついた。
深く椅子に腰かけなおし、天を仰ぐ。
そのまま深呼吸をして、どうにか視線を戻し……。
重い口を開き、告げる。
「……私の把握している限りの経緯は、ここまでだ。
この会合の目的すら聞いておらず、中立の立場で立ち合いを求められたに過ぎない。
故にまずは、この会合を求めた……川渡、キミの発言を求める向きとなる」
全員の視線が、川渡へと集まる。
母へ視線が集まる事を感じたのだろう、娘のサユキが母の手を強く握った。
川渡は愛おし気に娘を一瞥したのち、視線をユキオに向ける。
青白い顔をしたユキオに、深く、微笑んで見せた。
*
「この娘を、認知してほしい」
絶句。
言葉も何も思いつかなくて、僕はそのまま固まってしまう以外何もできなかった。
視界が、歪む。
何を言われたのか、頭が理解を拒む。
殆ど反射で、小さく首を横に振った。
何を感じているのか、その感情の名前すらも分からない。
しかし敢えて呼ぶのであれば、それは恐怖に似た感情だった。
「この娘には……父親が必要なの」
呼吸が上手くいかない。
酸欠で思考に霞がかかる。
反射的に飛びのきそうになってしまう。
目の前の女が何を言っているのか分からないが、今すぐここから逃げ出したい。
「私は、どうでもいい。
けれど……ユキオくん、この娘の父親に、なってもらえないかしら」
口を開く。
何かを言おうとして、声にならない。
言葉を忘れてしまったかのようで、兎に角体の震えが止まらなくて。
「ふざけるな!」
「何を言ってるの!?」
先んじて怒り叫んでくれたのは、ヒマリ姉とミドリだった。
はっ、と自失していた事に気づき、僕は小さく頭を振った。
自分が滝のような汗をかいていたことに、ようやく気付く。
異様なほど、喉が渇いていた。
「まて、私は中立で居るといったが、それにも限度があるぞ!?
川渡、貴方は今自分が何を言っているか、理解しているのか!?」
遅れて復活した福重さんが叫び、それが僕の味方をする内容だった事に安堵する。
震える手で、テーブルの上に置かれた水を手に取り、口に。
ごくごくと飲み干し、コップを置いてから、落ち着いて口を開く。
「……当然、受け入れられない」
それでも声は、何処か掠れていた。
……冷静に考えれば、こんな要求通る訳がない。
ここに至るまで綿密な計算と計画で辿り着いてきた川渡の事だ、それぐらいは理解しているはず。
故にこれは、所謂ドアインザフェイスという奴だろう。
大きな要求をして断られてから、本命の小さな要求をするテクニック。
故にこれから本命の要求が来るのでは、と身構えて。
対し川渡はまず、横を向いた。
父さんの方を向いて、口を開く。
「……まず、家長である龍門さんに問いましょう。
本件に関して、貴方の意見はいかがでしょうか」
「好きにしろ」
父さんは、腕組みして俯いたまま、言い捨てた。
そうだよな、と思ってから言われた内容を反芻。
言葉の内容を理解して、思わず父さんを二度見してしまう。
今、何て言った?
「好きにしろと言った。
私は本件の決定権を放棄する。
本人達で勝手に決めろ」
「……とう、さん?」
口から漏れ出た疑問符が、空虚に響き渡った。
眩暈がする。
椅子に腰かけて話し合っているはずなのに、重力が地面に向いているのが間違いであるかのようにすら感じる。
そのまま崩れ落ちてしまいそうなほどに、平衡感覚がグチャグチャだ。
「!!!~~~!!」
「!!!!、!!!」
左右の隣から、姉妹が何か叫んでいるのが聞こえる。
その矛先は父さんで、しかし父さんは腕組みして俯いたまま二人を無視している。
福重さんは驚きと悲しみとが半々ぐらいの顔で、絶句していて。
泣きそうな顔をしている姉妹を、僕は慰めなければならないはずなのに、何も言葉が思い浮かばない。
何も、できない。
口を開くだけの動作で、何かがバラバラに崩れ落ちてしまいそうな気さえして。
やがて静かになって。
ヒマリ姉とミドリが目を赤くし、涙の痕を拭って。
僕がようやく自分を取り戻した所に、僕の正面、微笑みながら僕らの醜態を眺めていた川渡が、言って見せた。
「であれば、少なくとも……この場の交渉は、このまま続けて構わないでしょう?
ユキオくんは未成年で、その親権を持つのは龍門さんで、そしてこの場……この家の持ち主は龍門さんで。
その龍門さんが、決定権を放棄し、我々で決めるよう言うのだから」
吐き気がする。
胃腸が悲鳴を上げ、まるで泥でも飲まされたかのように、喉が引きつる。
今にもここを離れて横になった方が良いと本能が叫ぶが、理性が辛うじてそれを押さえつけた。
震える僕に、川渡は微笑みかける。
いっそ恐ろしいほどに、その微笑みは最初からずっと変わりない。
「福重……さん」
恐らく、僕の声はかなり弱弱しかったのだろう。
ポーカーフェイスが売りの福重さんが、弱った僕に後悔の顔色を読ませるぐらいなのだから。
歪んだ表情のままこちらを向く福重さんに、告げる。
「……僕は正直、その……自分が認知を求められるという状況自体、初めてですし、想像したこともなかったです。
はっきり言って、先ほど言った通り断るというのが本音なのですが……。
断った場合、どうなりますか?」
「裁判を起こすわね」
と、川渡の言葉。
う、と逆流しそうな胃液を万力を込めて引き戻す。
喉を薄っすらと焼かれる不快感。
左右から、歯ぎしりの音が聞こえる。
「……とのことだ。
実際のところ、そんな事をされては、彼女を手配した政府側がどうにかもみ消すように動くだろう。
ほとんど、あらゆる手段でな。
正直私には川渡が裁判を起こせるような状況は思いつかないが……。
それを言えば、そもそも川渡が生きて娘を連れてユキオくんに会いに来ている時点で、ありえない話だからな……」
「……なるほど」
一つ頷き、次は父さんに視線を。
呼吸が震え、意識が揺れる。
しかしそれでも、腹の底からどうにか声をひねり出す。
「……父さん。
川渡は政府の派遣したエージェントだった。
ならば川渡の失態は政府の責任となり、父さんはそこを追及して聖剣レプリカによる人類貢献度判別について優位に交渉した。
……その上で、川渡自身の処分については当時どう求めていたんだ?」
「……政府に一任していた。
これ以上問題を起こさないのであれば、感知しないと」
「福重さん」
「私も知る限りは、その通りだ」
深呼吸。
前後のやり取りを整理し、福重さんに。
「であれば、現状川渡は明らかに問題を起こしている。
性的暴力を振るった相手に認知を求めるなど、ありえない話だ。
それが政府の隠ぺいによって成り立っているというのが現状だとするならば。
ならばまず、これは政府に責任を取ってもらう必要がある内容だ」
「……うん、そうだ、そうなんだ。
けれど事が事だけに、元々政府の中でも知っているものが少なくてね。
事情を知らない人間が、表向きの川渡の意見に同調していたり。
恥じ入る事だが……知っている人間でも、君の"赤"評価を問題視し、実際は君から求めたのではないか、君の責任だ……などと言う輩も居て」
人類貢献度"赤"。
聖剣が示す僕の運命は、人類を滅亡に追いやる存在、魔族の一歩手前の貢献度。
犯罪者予備軍とも揶揄される立ち位置。
最近は僕は例外とされ、表向きの英雄としてのやり取りが多かったが、それでも貢献度を重視し"赤"を問題視する人は少なくない。
特にそれを推進し、犯罪防止に役立てている立場の政府や警察、ギルド側は。
それでも父さんが動けば政府は動くだろうが、本人が動かないというならどうしようもない。
「であれば、国外への亡命を視野に入れると、伝えてもらえますか。
その上で、政府にこの交渉自体を破棄させる方向性で動いてもらってください」
ならまぁ、こう脅す事にする。
実際にそうするかどうかはさておき、国家滅亡級の実力者が他国に流出する可能性を考えれば、政府への脅しぐらいにはなるだろう。
ピクリ、と姉さんとミドリが震えて……、そっと手を伸ばし、その手に僕の手を重ねる。
僕は正直、川渡と対話すること自体が間違いだと考える。
そもそも彼女が僕と対話できている現状自体がおかしいので、交渉をどう進めるか以前に、そもそも交渉自体を破棄させるのが最善手だろう。
実際に政府にこれを伝えて脅すような事はせずとも、川渡が敗北を悟り手を引いてくれればそれでよい。
最低限、いつでも交渉自体を潰せると川渡に思わせれば、交渉をかなり優位に進める事はできるだろう。
と考え、そのとおり告げたのだが。
川渡の微笑みは、変わらない。
「その場合、政府としては……二階堂リリを引き渡すよう、要求することになるでしょうね。
何せ彼らの協力が無ければ、あれはユキオくんの妹として振舞えなかったでしょうから」
呼吸が、止まった。
こいつ、何と言った?
リリを、なんて?
「ふざけるな!」
「……あら、私は政府の取る手を予想しただけで、私自身がどうこうするとは言ってないわよ?」
思わず激高して叫ぶも、川渡は眉一つ動かさない。
肩で呼吸しながら、怒りに手を震わせる。
確かに、リリの戸籍その他の関係で、僕が政府に借りがある事は確かだ。
だから実際のところ、僕の国外亡命にはかなりの足枷があり、現実的な行為とは言えない。
しかし、何故それを川渡が知っているのだろうか。
思わず視線を福重さんにやるが、難しい顔で頭を振られる。
「リリは、リリは……この件に、関係ないだろ」
「……えぇ、そうね」
思わず漏らしつつ、頭を回転させる。
実際には存在しない亡命の手を見せ札として、川渡に交渉を破棄させる、もしくは優位に動く事はできなかった。
他に手がなければ、僕はこの交渉に乗る他ないのだろうか。
再び眩暈に襲われるような心地でいると、幼く甲高い声。
「……あ、あのっ! ユキオ、さん」
サユキ……僕と血がつながっている、少女の声だった。
見れば少女は、不安と恐怖に震えながら、薄っすら涙の浮いた目で僕を見つめていた。
幼い子に見られているのだ、と言う自覚が急にやってきて、小さく咳払いをしながら居住まいを正す。
可能な限り、柔和な表情を作った。
「どうしたんだい?」
「私も、その……貴方を、その……家族を。……お父さんと、呼びたくて、お願いします……」
演技には、見えなかった。
顔をくしゃくしゃにした齢七つの少女が、涙を我慢しながら、僕をじっと見つめて、頭を下げて……。
死にたくなる、光景だった。
今にも崩れ落ちそうな眩暈と、競り上がってくる吐き気が、襲い来る。
「何を、言わせているの」
ミドリが、凍り付くような言葉を漏らした。
視線の先は、川渡。
先ほどまで余裕の見える表情だったが、ミドリの言葉を受け顔を強張らせていた。
「自分の娘に、何を言わせているの」
「……あの、母さんは悪くないんです。私が、私が我儘を……!」
「ううん、君は何も悪くない。悪いのは全部、君のお母さんだから」
「母さんは、悪くなんてない!」
咄嗟に僕は、ミドリの手の甲に、手を重ねていた。
数秒、互いの鼓動を感じながらの無言。
張り詰めた糸のような空気を醸し出していたミドリが、その緊張を緩ませた。
対し川渡が、顔をゆがめる。
「……そうね、生まれてきた子に罪はない。生まれで子に罪が出来るようなことは、ないのだから」
言いつつ、川渡は顔ごと視線を背けた。
思わず視線の先をたどると……、そこには扉を小さく開けて様子を見ていた、リリの姿があった。
思わず、息をのむ。
怒りが込められた言葉が、告げられた。
「なら何故、生まれつきの化け物は家族にできるのに、この娘はできないの?」
*
「クソッ! クソっ! クソっ!」
誰かの可愛らしい叫び声。
ポスポスというへなちょこな殴打の音を子守歌に、リリは眠りに完全に落ちて目を開いた。
夢の中の、何時ものティールーム。
双子の妹は席を外し、近くの壁に押し付けたぬいぐるみをボコボコと殴っているようだ。
見れば、その大きなぬいぐるみはエプロン姿の女性。
ルーズサイドテールにまとめた茶髪を見ると、川渡を模しているような気がする。
「……アキラ?」
「り、リリ!? 大丈夫かい!?」
アキラはぬいぐるみを投げ捨てると、リリに駆け寄った。
肩を掴み、心配そうな顔でじっとリリの顔を見つめて見せる。
寝ぼけ気味の頭で、リリは思索を巡らせて。
「……あぁ、そっか。
リリは、泣き疲れて眠っちゃったんですね……」
顔を歪ませ、アキラはリリを抱きしめた。
リリは逆らわず、妹の肩にちょこんと顎を乗せる。
"今日はお願いだ、来客の間、部屋から出ないでくれ"
とは、ユキオのお願いだった。
その願い通り部屋でゲームや漫画で時間をつぶしていたリリだが、それでも生理現象は起きるものだ。
トイレに行った帰り、聞き覚えのないほどのユキオの大声を聞いて、思わずドアをそっと開けて盗み聞きしてしまい……。
そして後に川渡という名を教えてもらったその女が、リリを指してこう言ったのだ。
"なら何故、生まれつきの化け物は家族にできるのに、この娘はできないの?"
皆が殺気だって、物凄い剣幕で叫んで。
リリは怖くて泣いてしまった。
紆余曲折とあるうちに来客三人は家を去り、そのうちにリリは部屋のベッドで泣き疲れ、眠ってしまったのだ。
そして夢の中に辿り着けば、なにやら激おこプンプン状態のアキラが、川渡らしきぬいぐるみをボコボコにしていた、という訳である。
「そうだ。その……辛かっただろう。すまない」
「……ん? なんでアキラが、謝るんです?」
怒っていたのは、分かる。
立場が逆ならリリも、妹への加害者に対しぷりぷりに怒っていただろうからだ。
だが、謝罪などアキラがする理由はないだろうに。
アキラは、ピクリと震えた。
リリを抱きしめるその手が、強さを増した。
「……ごめん、なさい」
「……アキラ?」
「ごめんなさい、こんな……こんな事になるとは……」
問いに応えることなく、アキラは謝りながらリリを抱きしめる。
互いに耳が触れるぐらいに強く抱きしめられ、リリにはアキラの表情が見えない。
だから。
リリは、そっとアキラの頭を撫でてやった。
「え、あ、リリ?」
「……アキラが何を謝っているかは……分からないけれど」
空いた手で、逆にリリは、自分に抱き着くアキラの腰を抱き返してやった。
そのまま、いつもユキオが自分にしてくれるのを見様見真似で、心地よい撫で方を模索してみせる。
「リリはアキラのお姉ちゃんですから、アキラが良い子だって、知っていますよ。
何か悪い事をしてしまったのだとすれば、反省できる子だって、知っています」
アキラが、震えて見せた。
リリが一撫で、アキラの口元から、小さくため息が漏れる。
二撫で、震えが止まり。
三撫で、速まっていたアキラの心音が、落ち着き始める。
兄に比べまだまだだな、と内心思いつつ、リリは続けた。
「それに、今回も……悪い事ばかりじゃあ、なかった」
「……え?」
「辛くて、怖くて、意味が分からなくて、胸が張り裂けそうで……。
だけど、兄さまも姉さまも、リリのため、あんなに必死になってくれたのが、嬉しくて。
大切に想って貰えているんだなぁ、って、思えたから」
実際のところ、リリにとっては分からない事だらけだ。
川渡とその娘とは、昔二階堂家の家政婦だったらしいが、具体的にどんな関係か知らされることはなかった。
龍門がこの件にもリリにも無関心なのが何故なのかも、分からない。
アキラがいつも隠している事と、今回の事が関係しているのか、それとも別件なのかどうかすらも分からない。
しかし、家族が自分を守るために本気で怒ってくれたことだけは、分かる。
兄が、二人の姉が、本機でリリを傷つけられた怒ってくれたことは、分かる。
本物の怒りは、怖くて、足がすくんでしまったけれど……。
それはそれとして、嬉しいと思える側面があったのは、確かだ。
「だからリリは、ちゃんと前に進めるよ。大丈夫!」
「……うん」
鼻をすすりながら、アキラが応える。
リリはアキラが落ち着くよう、ポンポンと一定のリズムで背を軽く叩いてやりながら、その頭を撫で続ける。
抱き着くアキラの力がより一層強くなり、そしてそれからゆっくりと力が抜け、リラックスしてゆく。
伴い、リリもなんだか眠くなってきて。
落ち着くと抱きしめているアキラの高い体温が暖かく、ぼんやりとしてきてしまう。
夢の中の、春の午後の物と思われる、暖かい日差しがリリ達を照らす。
ポカポカと体が温まってきて、体の芯からほぐれて安心できてきて。
悩みが溶け落ちるような感覚と共に、リリはゆっくりと、夢の中で眠りに落ちてゆき……。
*
つまるところ、現実で目を覚まして。
「……ぁ」
欠伸にもうめき声にも似た声を漏らして。
不意に目を覚ましたリリは、まず目の前のそのヒトに心臓を躍らせた。
「にい、さま……」
見慣れたリリの部屋のベッド。
セミダブルのベッドはなんとか二人で眠れるようになっており、まだ幼いリリに加え、大人が一人一緒に寝ても足りる程度のサイズがある。
そのベッドの中、リリを抱きしめ、ユキオが眠りについていた。
(そっか、添い寝してくれていたんだ……)
日中、来客が出ていった後も、ユキオは酷く疲れ果てていた。
夕食はあまり食べられず、その後もふとした時に辛そうな顔でどこともない宙を見ながら固まっていた。
それでもユキオはリリのケアを忘れず、何度も話しかけ、抱きしめ、甘えさせてくれた。
辛いだろうに、それを押し隠してでも必至で笑顔を見せてくれて。
そして夜は添い寝をしてやり、こうやって夜眠っているその顔は、とても辛そうで。
暖かくて、強くて、けれど弱くて、崩れ落ちそうで。
それが愛おしく、そして自分がその支えになれないか、と思ってしまう。
こんなにも狂おしい思いをさせられてしまって、このヒトから目が離せなくなってしまう。
「にいさま……」
実のところ。
リリは、ユキオが自分と血がつながった実の兄妹だとは思っていない。
なにせどう考えても計算が合わない。
一年半前の薬師寺事件、計算上リリが生まれる前に天仙フェイパオは亡くなっている。
成長速度の仕様上、数日の年齢差が顕著に出るリリの生誕日はかなり正確で、この時系列は間違いないと分かる。
であれば、リリは薬師寺事件の犯人、賢者に作られた実験体か何かなのだ。
成長が異常に早いのも、そのためだったと考えれば説明がつく。
ユキオは実験体として製造されたリリを不憫に思って、妹として引き取ってくれたのだ。
だからきっと。
リリがユキオを見て、そっと自分の唇に指で触れても。
ユキオの唇に、吸い寄せられるように視線をやっていても。
ユキオの寝息に、耳をそばだてていても。
それは、倫理観の上で……きっと、問題ない筈なのだ。
リリはユキオを結ばれる事が、きっと可能で。
それを再確認して、心の底から、嬉しさが湧いてきてしまって。
その日ようやくの事、リリは気付いた。
自分がユキオを想う心は、兄妹のものなのではなく。
……異性を想う、恋なのではないかと。
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恐怖の化身・川渡キリコ
やってる事を性別逆転させるとその怖さが伝わりやすいと思われる。
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