4章-地獄

01-穏静パステルカラー




 春の陽気が、眠気を誘っていた。

何時もの車の、何時もの後部座席。

兄に教えられた通り、きっちりとシートベルトを付け、代り映えのしない風景。

最早それを見るのにすら飽きて、リリは窓に薄っすらと映る自身の姿を眺めていた。


 灰色の髪に、真っ黒な瞳。

髪の毛はストレートで肩甲骨の辺りまで伸ばし、胸元のリボンに白いブラウス、青紺のコルセットにスカートと少女趣味の恰好。

その灰の髪は兄よりも艶があり、銀髪と言った方が近いのは、密かなリリの自慢である。

何時ものカワイイ顔ですね、と微笑んで見せるが、それもまたすぐに飽きる。


 いつの間にか、二階堂リリは、こっくりこっくりと舟をこぎはじめていた。

薄っすらと入り込んだ夢の中、見慣れたティーテーブルと呆れ顔が映し出されそうになった頃……、低いアルトボイスが、リリの耳朶を打った。


「着きましたよ、リリさん」

「ほあ?」


 すっ、と静かに止まった車内で、リリは間抜けた声を出した。

数秒、ぼんやりと自分を見つめる運転手兼護衛の女性の顔を見て……、意識が覚醒する。

寝ぼけ眼をこすり、口元に手を――なんと涎が垂れている、ハンカチで拭う――、シートベルトをゆっくりと外し、車から降りる。

んん、と声を漏らしながら背伸びして、固まった体をほぐした。

それからくるりと回転、降りてきた女性に向き合い、リリはニコリと微笑んだ。


「運転、ありがとうございました!」

「ふふ、どういたしまして」


 微笑みながら、女性はインターホンを慣らし、リリが辿り着いたことを告げる。

早く来ないかなぁ、とリリが待つこと数秒、玄関ドアが開き、彼が姿を見せた。

春の陽光が注ぐ中、彼の灰色の髪は薄っすらと透けながらその、線の細い顔を飾る。

何処か幸薄そうに見える整った顔が、リリを見て、スッと目を細めた。


「兄さま、ただいまです!」

「おかえり、リリ」


 シュタッと手を伸ばすリリに、リリの兄……二階堂ユキオが微笑んで見せた。

柔らかく、どこか薄っすらと輝いてすら見えるその笑みに、リリは毎日のことながら、はう、と小さく声を上げて胸を抑えた。

兄がイケメンすぎて、毎日が辛い。

そんな風に思いつつもたたたと小走りに兄の元に辿り着き、手を握ってくるりと回転。

運転手の女性に視線を向け、彼女もどこか熱のある視線で兄を見つめているのに、少しほっとする。

兄に見惚れているのは自分だけではないと、そして自分の兄はそんな見惚れられるような魅力の持ち主なのだと、安堵半分、自慢半分。


「ハルカさん、今日もありがとう。悪いね、ここ暫くお願いしちゃってて」

「いえ、カズミやフミも、この前の竜退治での怪我で暫く療養中ですからね。

 ……ユキオさんを身近に感じられるのは、少しお得かな、なんて」


 言いつつ、ハルカはそっと人差し指を立て、ちょこんと唇に乗せる。

ここ最近の、リリの運転手兼護衛をしている、匂宮ハルカ。

ユキオの同級生だったという彼女は、こうしたちょっとした時にもユキオを会話するよう心掛けているようだった。

その会話も長さが絶妙であり、ストレスにならない丁度良いタイミングで切り上げるのがとても上手い。

リリも将来こうなりたい、と思える素晴らしいレディの一人である。

ふむふむと関心しているリリがじっと見つめていると、バツが悪くなったのか、コホンとハルカが溜息をつき、頭を下げて下がっていった。

リリはユキオと繋いだ手を離さないまま、家の玄関へと進んでゆく。


「ただいまー! です!」


 靴を並べ、リリはまず洗面所へ。

手洗いうがいを終え、兄と代わって後ろで待つ。

兄が手洗いうがいを終えると、ん、と頭を突き出し、ふふんと微笑む。


「きちんと手洗いうがいをしたリリを、褒めてもいいんですよ~」

「うんうん、偉い偉い」

「むふー」


 鼻息をスンと鳴らしながら胸を張るリリの、その頭をユキオの手が撫でる。

ごつごつとした、戦う男の大人の手。

けれどどこか暖かくて、リリは兄に撫でられるのがとても好きだ。

ニマニマとした口元の両端をピクピクとさせること数秒、兄の手が退いたのを機に、ふふんと微笑みながらリビングへと向かう。


「ただいまですー、姉さま」

「おかえりー」

「おかー」


 ダイニングチェアに腰かけ紅茶を飲んでいるのが、リリの姉の一人、二階堂ヒマリだ。

ふわふわの桃色の髪を長くのばし、吸い込まれそうな深い青い瞳をした美女である。

170cmほどある長身でスタイルも良いが、その愛らしい仕草も相まってフェミニンな恰好がかなり似合っている。

リリの憧れの大人の女性の、一人だ。


 ソファにぐでんと寝転がりぴょんと手を挙げたのが、リリのもう一人の姉、二階堂ミドリである。

こちらはショートカットのピンクブロンドに、軽やかな水色の瞳。

オーバーサイズな服と素足スタイルを好んでおり、時折下に何も履いていないのでは、と思うような服装をしておりリリをドキドキさせる人だ。

そして、今日は。


「ミドリ姉さま、ちょっと立ってもらえます?」

「……ん? ん」


 立ち上がるミドリに近づき、リリは自分の頭頂部にポンと手を乗せる。

そのままそれを地面に平行に動かすと、ミドリの頭頂部ギリギリを、しかし抵抗なくスッと抜けていった。


「……ふっふっふ、どうです姉さま?」

「…………」


 ミドリは数秒固まったあと、ちらりと視線を足元に。

慌てリリは、限界までつま先立ちしていた踵を下ろした。

何事もなかったかのようにコホンと咳払い、続け胸を張って姉の瞳をじっと見る。


「声も出ませんか? ……このスーパー妹・リリに背で追い抜かれるなど……!!」

「えい」


 ミドリは自分の頭頂部から、地面と平行に手を伸ばした。

スカッとリリの頭頂部の上を、ミドリの手が抜けていく。

目を見開くリリに、ふっと鼻で笑うミドリ。

つん、と突き出した指でリリの額を突く。


「ズルは駄目だよ、リリ。もっとバレない様にやりなさい」

「う、うわ~ん! ミドリ姉さまに悪の道に引き込まれる~!」


 泣き真似をしながら走り去り、リリはユキオに抱き着いた。

シャツの少し硬いオックスフォード地の奥、僅かに兄の匂い。

腹部に抱き着いたままぐるりと兄の背へと周り、ぴょこりと顔を突き出してミドリを涙目で睨む。


「兄さま、ミドリ姉さまに虐められました! 叱ってください!」

「うん」


 コツン、と軽く拳がノックするぐらいの強さで振るわれる。

頭蓋に衝撃を受け、信じられないものを見る目でリリはユキオを見つめた。

ユキオが、ニコリと微笑む。


「あんまりズルしちゃ駄目だよ、リリ」

「が、がーんです……兄さまはリリを信じてはくれないのですか……?」

「いや見えてたし……」

「ぐぬぬ……」


 ユキオの背に隠れるリリに、ユキオとミドリとが苦笑して見せる。

そんな三人を眺めながら紅茶を楽しんでいたヒマリが、そこに口を出した。


「そういえば、今日のリリは何を勉強してきたの? ズルの仕方以外で」

「ズルしてないです!

 あっと、リリはね、リリはね、今日は地学の歴史の勉強が面白かったの!

 氷河期とか間氷記とかの話! 今もね、氷河期は終わった訳じゃないんだって!

 すっごい寒い氷期と氷期の間に間氷記っていうのがあって、今は第四氷河期の間氷記にあたって、1万2千年ぐらい前に始まったんだって!

 あと5万年ぐらいは次の氷期は来ないんだって!

 それでね、それでね……」


 ユキオの背後から飛び出したリリは、そんな風に話しながらも、ユキオが引いたダイニングチェアに腰かけ話し続ける。

気付けばユキオが暖かいコーヒーを入れてくれていて、砂糖とミルクたっぷりのそれを口にしつつ、今日の"授業"の話をする。


 二階堂リリの実年齢は、1歳半ほどである。

1年半前、通称薬師寺事件、世界最強格の賢者による宇宙滅亡術式を阻止するために戦った事件があった。

リリはそこで賢者の実験の末生まれた新生児相当として保育されており、当時世界中から集まった決戦部隊により発見された。

その後様々な話し合いがあり、リリは二階堂家に保護されることとなる。

つまるところ、リリは二階堂家の新米家族なのであった。


 リリは、成長速度が早かった。

通常人類のおおよそ7倍近く、今のリリは11歳前後の肉体の持ち主と見られている。

肉体年齢に比して精神年齢は若干幼いとされているが、そればかりはどうしようもないといのが周りの見方だ。

この高速成長は20歳前後で収まる見込みのようで、あと1年少しで終わると思われる。

丁度その時、リリの肉体年齢はユキオと同等となる見込みだ。


 無論それ故に、リリは通常の学校に通えていない。

車の送迎で個別指導塾に近い形態で、政府に雇われた人間に"授業"として勉強を教わっている。

学習速度は肉体年齢にやや勝るかなりの速度で、初等学校の学習範囲は既に終えている。

中等部についての義務教育はある程度寄り道するようなカリキュラムの組み方をされているようで、時折このように好んだ勉強を家族に披露することもあった。


 一通り勉強で興味を持った内容を伝えて、リリは胸を張ってフンスと鼻息荒くする。


「頑張ったので、褒めてもいいんですよ! なんと、ナデナデする権利も上げちゃいます!」

「頑張ったね、ヨシヨシ」

「むふー」


 兄の手に撫でられ、リリは相好を崩した。

暖かな感触に目を細めるも、視線を感じ、リリがそちらを見やる。

二方向、微笑ましさ半分、羨ましさ半分でヒマリとミドリの姉妹がリリを見つめており。


「兄さま。姉さま方も撫でてあげてください。

 リリはね、リリはね、皆でナデナデされたいです!」

「……なるほどねっと」


 リリを置いて立ち上がったユキオが、ぐるりとテーブルを周り、反対側に座っていた姉妹の間に辿り着く。

目を白黒する姉妹の桃色の髪に、優し気にその手を触れ、髪型が崩れないようゆっくりと撫で始めた。


「え、あぅ……」

「にゃにゃ……」


 可愛らしい声を漏らす姉妹にフフフと微笑みながら、リリは密かにユキオの背後へと迫っていた。

そのまま数歩前で止まり狙いを定め、えいっと声を出しながらユキオの腹へと抱き着く。


「……リリ?」

「皆でナデナデなので、リリだけ仲間外れは駄目ですよー。

 兄さまの頭には届かないので、お腹をナデナデです」

「なるほど?」


 首をかしげるユキオの背に、鼻筋を擦りつけるようにしつつ、リリはその両手でユキオの腹を撫でる。

強大な筋肉と、適度な脂肪がついた腹部。

継戦能力とウェイトを考え、常に六つに割れているほど痩せてはおらず、しかし確かに奥深くの強烈な筋肉を感じる、芯のある触り心地だった。

ふむふむと兄の腹を撫でつつ、時に頬を兄の背に張り付けていると、リリの視界にカレンダーが入った。

間近の日付に、赤い丸。


(そういえば、龍門お父さまは、もうすぐ帰国の予定なんですね)


 二階堂一家の大黒柱、父二階堂龍門は、竜国への長期出張中である。

リリは詳しくないが、何やら難しい名前の仙人を探しているのだという。

竜国は大戦での水害が恐ろしい事になっており、未だに復興が大変で、仙人達も仙人界に引きこもりっぱなしとは聞く。

リリは引きこもりの支援を描いた番組を思い出しながら、父がそれっぽいことをしているのだろうかと思い描いた。

万年黒スーツの黒髪ロン毛の父がカウンセリングや就業指導をしているのを想像してしまい、死ぬほど似合っていない光景にしか思えなかった。


(まぁ何にせよ、帰ってきたらおかえりなさいパーティーということで、ちょっといい晩御飯ですね)


 家族で一番料理が上手いのは、リリである。

姉二人は、インスタント食品なら作れるという程度。

兄は上手い方だが今一レパートリーが少なく、忙しいので新しく覚えるための時間も取りづらい。

それでも兄のカレーはリリの大好物なのだが、困ったことに、カレーは姉二人が非常に苦手なのだ。

前にこっそり作ってもらった時、見ただけで二人が顔を青くしていたのを覚えている。


(リリは我慢のできる良い子、だから我慢して、代わりに兄さまにいっぱい甘えさせてもらおう)


 どんな料理を作ろうか、兄や姉が喜んでくれる料理は何か。

ユキオの背に抱き着きながら、リリは静かにメニューを考え始める。


 こんな日常が、大好きで。

世界で一番格好いい大好きな兄。

尊敬する姉二人に、少し疎遠だけど勇者ですごい父。

それだけでも世界一幸せな娘だと思えるのだけれど、加えてもう一人。

リリには妹さえも居るのだから、胸が幸せでいっぱいなのだった。




*




 ここ一年ほど、僕は皇国本州全土の仕事以外は受けないようにしていた。

一年前の長期の海外出張は、良かったような、悪かったような、微妙な感覚だった。

知り合った人々は基本的に好感の持てる人だったのだが、メイドまみれを誘因するデスワ、クソ下手誘惑失敗親馬鹿女、と感情をどう処理していいか分からない相手が約半数を占めたのである。

どっと疲れるような仕事だったので、リリの傍に居たい事もあって暫くは国内、それも本州の仕事に限定させてもらったのだ。


 ここ最近、僕の位階も伸び続け、その速度は実母であった天仙フェイパオを既に超えている。

百キロぐらいなら消耗も周囲への影響も少なく空を駆け抜ける事もできるようになったので、割と緊急の救援などの仕事も受けるようになった。

とは言え、これまで通り単独での討伐系依頼も受けるようにはしている。


 今日ははるばる東北の奥地まで行って、山奥の鬼を倒してきた帰りだ。

流石に山奥の鬼探しはほぼ一日がかりになってしまい、討伐後に死骸を近場の処理場に預けギルドに報告、詳しい報告書は皇都側で翌日の処理とさせてもらう。

その上で亜音速機動により皇都まで数秒で移動、郊外の既定の場所で降りた。

ちらりと、携帯端末を確認。

処理場での手続き中に送った予定通り夕食不要のメッセージに、リリから了承のスタンプが帰ってきていた。


「ま、たまには外食も悪くないか」


 現地の食事にも少し心惹かれたが、準音速機動は少し音がするので、なるべく夜遅くなる前に済ませたかったのだ。

まぁ、皇国中から料理の集まる、皇都の外食というのも良いだろう。

皇都郊外の訓練場から出て、帰宅ラッシュの終わった電車で移動。

乗り換えの大型駅で一度降り、ぶらぶらと食事処を探す。


 春の夜寒に、ぶるりと体を震わせた。

流石に先の東北より気温的にマシなのだが、それでも今日は少し肌寒い。

山行きだったが横着して装備はその場で編んでしまったので、解いてしまった今、気温に対し薄着とも言えるだろうか。

暖かい物が食べたいな、とぶらぶら歩きながら思索を巡らせる。


「……ラーメンは前に食べたから……蕎麦とか……? あ、おでん」


 屋台風の、オープンな作りの店だった。

少し風通しが良さそうだが、まぁ今の季節ならなんとかなるか。

そう思って、暖簾をくぐって店員に挨拶しつつ、席に着き。

ふと隣を見た。


「げ、ソウタ」

「あ、ユキオか」


 そこには腐れ縁の城ケ峰ソウタが座っていた。

何とも言えない気分になりつつも、なんだかここで店を出てゆくのも負けた気がする。

苦み走った顔をしつつ、出された水を一口、人心地をつけつつ軽くにらむ。


「引っ越したんじゃないのかよ……なんでまたここで会うんだ」

「……あーそっか、今のお前は遠方だと亜音速機動ですっ飛んでいくから、訓練場に戻ってくることになるのな。

 じゃあ訓練場からの乗換駅がここになる訳か」

「お前の引っ越し先までは聞いてなかったけど、よく来るのか?」

「あ、いやちょっと引っ越しは待ったがかかって、まだ実家」


 半年ほど前にばったりと会った時は一人暮らしを始めると自慢していたのだが、その野望は潰えたらしい。

鼻で笑ってやると、お前もだろと言う視線が返ってくる。

都合の悪い部分は無視して、肩を竦めつつ出てきた大根に取り掛かる。

からしを付けつつほくほくと口に運ぶと、ほっとする味だ。


「最近、どんな感じなんだ?」

「大して変わらないよ。相変わらず新しい妹が可愛くて、仕事は順調。

 救援もぼちぼちしてるし、退治系はまぁサクサクだな。

 そっちは?」

「……コトコが年々気難しくなって来てるけど、まぁぼちぼち。

 なぁ、お前まだ会ってねぇの?」

「電話とか連絡はしてるんだけど、アポ取れないし家に行っても居ないんだよな……」


 二年前の冬、ナギとの思い出の公園で、ロングコート姿のコトコと話したのが最後だ。

あれから僕はコトコと直接会う事は一度もなく、何となく薄れた関係を続けている。

疎遠になったかと言うと、チャットや電話では普通に会話してくれるので、良く分からない状態だ。

ソウタは小さく、アイツダメだなぁ、と呟くと大ぶりなゆで卵の攻略に取り掛かった。

僕ははんぺんを口に、柔らかく良く出汁を吸った味に舌鼓を打つ。


「そういやニュースで見たけど、お前の計測位階、また上がったの?」

「161。まだ伸び盛りでね」

「怖……。16倍以上強くなったのかよ、お前……」


 位階は、ザックリ言うと10上がるごとに2倍の強さになる。

僕の位階はこの1年半で119から161まで上昇し、上昇値は42、つまるところ2の4乗で16倍の強さになったと言って良い。

まぁ、流石にそれは冗談だ。

16倍に上がったのは潜在エネルギーの総量と、一度に出力できる量ぐらい。

それらの運用精度や格闘術、また術式の精度は、上がってはいるものの何倍というレベルではないだろう。

総じて総合戦闘能力としては、10倍ぐらいの上昇率だろうか。

それでも十分な量と言えばその通りだが。


「……そういや、最近姉貴夫婦が実家に来てさ。姪っ子を連れてきたわけでさ」

「へぇ、そりゃ可愛いんじゃないか?」

「勿論! いやぁ、本当無限に甘やかしたくなるな。いや、そうすると姉貴にぶん殴られるんだけどさ」

「分かる……。いや、姪っ子じゃないけど、新しくできた"妹"がね……」

「…………おう」


 何とも言えない表情で頷くソウタに、おっと、と僕は口をつぐんだ。

リリの事は、事情が事情なのであまり口に出せないし、昔から僕の家庭を知っている相手からはある程度事情が推測できてしまうだろう。

今のソウタはかつてのデリカシーゼロ状態と比べると話せるようになったが、だからこそ何とも言えないのだろう。

誤魔化しがてら、結び昆布を口にする。

もぐもぐと、小さな咀嚼音を立てつつ数秒の沈黙。


「……で、その姪っ子がさ……お前のサイン欲しいっていうんだけど……」

「えぇ……」


 気まずそうに言うソウタに、思わず呻くような声を漏らす。

だが、以外にもソウタは恥ずかし気にするだけで、悔しそうな顔色は見せない。

淡々とごぼう天を口にするだけで、罵声も何も飛んでこない。

身構えたのが肩透かしになって、思わず僕は目を瞬いた。


「ソウタだって、その最近竜銀級になったんだよな?」

「……? あぁ」

「……俺の方が凄いのに、とか言わないのか?」

「言う訳ないだろ、お前に勝てるわけないのに」


 僕は、思わず目を細めた。


(俺より弱いお前が、竜銀級に合格できる訳ないだろうが!)

(強くなったことは……羨ましいよ)

(俺はお前が嫌いだけど、最近もっと嫌いになってきた)


 何度もソウタが叫んでいた内容を、思い出す。

彼は僕にいつも対抗心を持っていて、僕より強い、僕に勝てるとずっと言っていた。

それが、僕に勝てるわけがないのだと、簡単に言ってのけるようになっていて。

うすうす、気付いていた。

彼が僕への対抗心を失っていて、最早僕の……そう、ライバルなんかじゃあなくなっていたのだと。

そう思ってから初めて、僕は心のどこかで彼をライバルのように思っていたのだと、気付いた。


 ソウタは、何も気づいていないかのような顔で、黙々とごぼう天を食べている。

僕は小さく、しかし深く呼吸をし、コップを傾け水を飲んだ。

溜息を洩らしながら、目の前のがんもどきに取り掛かる。


「……サインは、諸事情で練習する羽目になったからね。

 本気でほしいなら、書いて上げるよ」

「お、持つべきは腐れ縁だなぁ」


 ヘラヘラと笑いながら、ソウタはそのままおでんを攻略していく。

何となく、苛立つ光景だった。

僕はそれでも、苛立ちを内心にしまい込みながら、黙々と料理を口にしていく。

何故か無性に、家族に会いたい。

そう思って少し早食いになりながら、僕はその日の夕食を済ませるのであった。




*




 かつて二階堂家のメイドが使っていたというリリの自室は、他の兄姉とそん色ないほどの広さだ。

転がっても落ちない広めのベッド、頑丈な勉強机に本棚、クローゼットには背丈がコロコロ変わるため今は合わない古い服も大量に詰め込まれたままだ。

肉体年齢に応じて好みが変わる速度が速いためか、家具の色やデザインはあまり統一感がない。


 そんな自室のベッドに寝転がり、リリは深い眠りに落ちていた。

この夜少し遅く帰ってきた兄が、リリに構い倒したため、すぐに体力を使い果たし眠くなってしまったのである。

本来であれば、夢をも見ないような深い眠り。

しかしどんな眠りであっても、リリは必ず睡眠のたびに夢を見ていた。


「……ん」


 ぼんやりとした視界。

夢の中はいつも、心地よい光の入り込むティールームだ。

赤を基調とした部屋、薄桃色のティーテーブルとチェアに、豪奢なふかふかの絨毯。

リリはチェアに腰かけてぼうっとしており、そして対面ではその少女が紅茶を飲みながらリリを待っている。


 リリと双子の片割れ。

二階堂アキラである。


 アキラはリリよりも更に色の薄い、白髪とも見間違うような銀髪だ。

腰までまっすぐに伸ばしたサラサラの髪、鏡面のようにすら思える漆黒の瞳がリリを静かに映している。

リボンに白ブラウス、赤朱を基調としたコルセットとスカート、足元はワンストラップシューズ。

丁度リリと、リボンとスカートの色だけ異なる服装だ。


 リリは幾度か瞬きをし、まずは目の前にある紅茶を一口。

香り高いそれが芯まで体を温めてくれ、沁みついている眠気が薄れていった。

夢の中で眠気というのも奇妙な話だが、現実世界の残り香がリリにとっての夢の中における眠気に近しい物なのだ。


「おやすみなさい、リリ」

「おやすみなさい、アキラ」


 夢の中での挨拶は、いつも「おやすみなさい」から始まる。

それからリリはチラリとアキラの手元に視線を。

紅茶のティースプーンが使われた後なのを見て取り、ふぅんと小さくつぶやく。


「アキラは相変わらず砂糖たっぷりじゃないと駄目なんですね。

 たまにはストレートも良いですよ?」

「……五月蠅い、人の好みに口を出さないでくれ。子供か」

「アキラの子供舌ぁ」


 最初の頃はリリも紅茶が苦く感じて砂糖を入れていたが、最近は物によるが砂糖なしでも紅茶を美味しく感じるようになってきた。

対しアキラは子供舌なので、今でも変わらず砂糖を入れなければ紅茶が飲めない。

アキラは自分こそがこの双子の姉だと言うが、リリはどう考えても自分こそが姉だと思う。

だってこの娘、子供舌だし。


「今日の兄さまはなんだかとても寂しそうでしたね。

 はー、甘やかしてあげた私、とっても偉かったです。

 お姉ちゃんの事、褒めてくれてもいいですよ?」

「甘やかした、じゃなくて甘えた、だろ。

 兄さまはどう見ても疲れてたし、すぐに寝かせてあげた方が良かったんじゃないか?

 たまには姉の意見も聞いてくれ」

「ちっちっ。

 疲れて寂しそうだったんですから、そのまま寝るよりこのスーパー妹・リリとイチャイチャして癒されたほうがいいんですよ。

 アキラはまだ子供だから分からないですかねー」

「同い年だろ……」

「精神年齢ですー」


 いつも通り、互いに自身を姉と言い張りながら、紅茶片手に話し合う。

お腹が減っているとテーブルにお茶菓子が出る事もあるが、今日はそんなこともなくティーテーブルには紅茶とティーポットだけ。

話題はいつもの通り大好きな兄の事だった。


 アキラは、リリが物心ついたころからリリの中に住まう双子の片割れである。

幼い頃から夢見るたびに出会っており、同じスピードで成長している。

顔立ちもそっくりで髪色も似ており、服装の趣味も似ているため、パッと見ではどちらがどちらか分からない事もあるだろう。

気付いたころには既に一緒に居た事から、リリにとって最も親しい家族だ。

起きている間の記憶は共有しているが、目を開いていると声をかけるのに疲れるらしい。

なので起きている時にリリがアキラの声を聴きたい時は、いつも目を閉じている。


「私が甘える前、ヒマリ姉さまの背中を押しておきましたが……。

 今頃イチャイチャしてますかね?」

「どうだろうな……。あの人は少し、肝心の時にヘタれる癖があるから。

 ……タイミング的に私がそれを助長してしまった気もするが、あれ以上早めるのもキツかったからな……」

「あの時?」

「……いや、何でもない」


 時折、アキラは妙な事を言う。

アキラは、リリの体を動かす事はできない。

それは確かなようで、リリが起きている時にリリが馬鹿な事をやるときも、声をかけてくるだけで主導権を奪えない。

寝ている間にリリの体を使ったような形跡も存在しない。

つまるところ、アキラが現実に直接干渉することは出来ないはずなのだが、それに反するような事を偶に言うのだ。


 リリはとりあえず、それを追及していない。

今回のように疑問符を口ずさむことはあるが、それはアキラの滑らせた口を咎める以上の意図ではない。

大切な妹が秘密にしていることなのだから、無理に暴く事はないと心に決めているのだった。


 その後、幾らかの雑談を経て言葉が途切れる。

暫く、紅茶を傾ける食器の音だけが場を支配する。

日当たりの良いティールーム、ぼんやりと妹と二人で、紅茶を口にしている。

穏やかな時の流れが、リリの胸の中をより落ち着かせて。

へにゃ、とリリは相好を崩した。


「リリ?」

「いや、なんか……幸せだなぁって」


 小さく首をかしげるアキラに、思わずリリは呟いた。

窓ガラスを通じ柔らかくなった陽光は、妹を煌びやかに照らしていた。

まるでそれそのものが輝いているかのようにすら見える、美しい銀髪。

人形のような小さな顔で、表情はより小さな動きで形作られ、なのに見ているとその感情が見て取れるほどに豊かだ。

酷似した容姿を持つリリだったが、妹の人形のような愛らしさには敵わない、とどこかで思っている。


「こうして、可愛い妹と一緒にいて」

「姉。可愛いのは否定しないが、私は姉」

「……そして素敵な姉さまが二人も居て、そして大好きで世界一格好良い兄さまが居て。

 リリは幸せだなぁ、って心の底から思うのです」


 恐らく自分の表情は、フニャフニャに崩れてしまっているだろう。

そう思いつつも、リリはその顔を引き締めるつもりもなく、にんまりと微笑みながらじっとアキラを見つめていた。

アキラはそれに少し視線を泳がせ、僅かに頬を染めながら、小声で言う。


「……まぁ、私も。

 元気な妹と一緒で、退屈しないよ……」

「えへへ、アキラもおねーちゃんに甘えていいんですよー」

「姉は私だが?」


 ぷっくりと頬を膨らませて、ぷいっと顔を背けるアキラ。

その愛らしさに、思わずリリは更に口元が緩まるのを感じる。


 妹は美しく愛らしい、大切な半身。

姉の一人はとても立派なレディで明るく元気で尊敬する人。

もう一人の姉は親しみやすく、リリと一緒にふざけたり遊んだりしてくれて、その上とても頭がよく頼りになる。

そして何より、兄は世界一格好いい、世界一頼りになるヒト。


 この所、二階堂リリは世界一幸せだった。

そしてそれが何時までも続くのだと、心のどこかで呑気に考えていたのであった。



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