04-オム・ファタール




「……死ね」


 言葉短く、フェイパオが間合いを詰める。

応じて振るった糸剣は、ぐにゃりと体感したことのない感覚で絡めとられ、弾かれた。

思わず目を見開く。

体感したことのない類の体術、これが所謂功夫という奴か。


 僕が崩した体勢に拳を構えるも、寸でのところで罠に気づき舌打ち、少し下がりながら雷を放つフェイパオ。

地面から忍び上がっていた糸罠が焼き切られ、しかしその間に僕の体勢が整う。

一足一刀の間合い、一呼吸の間、にらみ合う。


 ぼっ、とフェイパオの足元に衝撃が飛んだ。

ヒマリ姉の"よろずの殴打"、地面を超えてその衝撃がフェイパオを殴りつけたのだ。

そう理解するのと、驚くべきことにその衝撃を利用したフェイパオが、恐るべき速度で踏み込んでくるのとは、同時だった。


「――シィィッ!」


 凄まじい抜き手が雷の速度で放たれる。

咄嗟に構えた糸剣を破壊、どころかそのまま直進。

体の動きだけではない、糸で自身を引っ張りどうにか回避した抜き手は、ズパン! と破裂音を響かせながら伸びきった。


 空気分子を摩擦で焦がしたとでも言うのか、苦い匂い。

否、これはと、反射的に糸の結界を張る。

ほぼ同時に、フェイパオを中心に、轟音を立てて雷が舞った。

辛うじて絶縁結界での防御に成功した僕は、そのまま背後に退避。

結界を突き破るフェイパオの拳を回避する。


「――っ」


 大きく呼吸。

フェイパオの位置は未だ結界の向こう側、バチバチと高鳴る雷が眩しくその姿は良く見えない。

違和感。

反射的に索敵糸を放ち、この場全員の位置を特定、咄嗟に姉さんの前に出る。

殆ど直感で、渾身の力を込めて糸剣を振るう。


 轟音。

凄まじい威力に体勢を崩しつつも、"ソレ"を打ち払う事に成功する。

打ちはらって直後、ソニックブームが鳴り響くのに、それが音速を超えていたことに気づく。

地面に転げてゆく"ソレ"は、先と同じ投擲槍だった。

大きく息を吐きつつ、視線をやることなく背後の姉さんに意識をやる。


「姉さん、大丈夫?」

「ひえっ……ゆ、ユキちゃんありがと……」

「……うん。あれ、避けられそう?」

「……それだけに集中していれば、なんとか」

「……そっか。じゃあ今回の姉さんは、防御と回避に集中ね」


 言い残し、僕は再び前に。

会話を終えるより早く、フェイパオの煙幕用の雷は消え、その傷一つない姿が露わになる。

構えた剣をそのままに、僕は眉をひそめた。

冷笑を浴びせ、フェイパオは僕を冷たい目で睨みつけた。


「ふん……勇者の息子、英雄の再来と言われながらこの程度か。よっぽど温い戦いしか経験してこなかったようだな」

「はぁ。まぁ、勇者パーティーに比べるとそうかもしれませんが」

「気の抜けた奴め。まさか自分は死なないとでも、勘違いしているんじゃあないか?」

「はい」


 と頷くと、フェイパオは目を瞬いた。

なぜ驚くのだろうと、首をかしげる。


「いや、その、本気じゃあないんでしょう?

 初手はちょっと危なかったですが、それも射線上に姉さんが居たからであって、僕一人なら痛いだけで済んだぐらいでしょうし。

 まさか、あのけん制で僕を殺す気だったなんて訳はないでしょうから」

「…………」


 運命転変前のあの瞬間、咄嗟に姉さんを助けられなかったのは悔恨の極みだ。

あまりにも直前の会話の動揺がひどすぎて、僕がまともに動けなかったのである。

まさかフェイパオも、あの状況で僕が姉さんを庇えないとまでは思っていなかった可能性が高い。

追撃が来ていたような気がするが、一手目を打った後に、追撃を後追いさせていた可能性もあるので、それは殺意の証明にはならない。


「父さんと密約でも交わして、僕の抜き打ちテストか何かでもしにきたんですよね?

 手加減があまり上手くないというか、もうちょっと強くやってもらないと……その、何度か反撃して怪我させちゃいそうなタイミングがあって。

 申し訳ないですけど、もうちょっとだけ本気を出してもらえますか?」


 実際、彼女の位階は感じる限り僕より下である。

確かに僕は英雄に肩を並べうるほどの力があるはずだが、それでも超える程ではないはず。

天仙は他の仲間に比べると純粋な位階はやや低かったはずだが、それでも僕以下という事はないはずだ。

自身のある推理ついでに、この推理が当たっていた場合のお願いを告げると、対しフェイパオは、短く低い声で告げた。


「……死ね」


 速い。

チリッとしたかと思うと、既に彼女は僕の目の前に居た。

ゴッ、と空気を焦がす速度の拳。

反射的に避ける事に成功、振るっていた横薙ぎの糸剣がフェイパオに吸い込まれる。

が、手ごたえは一瞬。

掻き消えたフェイパオ、その瞬間背筋をチリと短いものが走り、床に這わせた糸をレールに急速前進。

遅れ背側で空振りの大音、振り返る僕と目を見開くフェイパオとで、視線が合う。

その腰には、確かに先ほど入った、糸剣が裂いた傷が垣間見えた。


「まさか、本当に?」


 再びチリという感覚。

地を這うような姿勢から迫るフェイパオに、寸分の互いもないタイミングで糸剣で叩きつける。

寸でのところで弾かれるように直角に避けるフェイパオ、しかしその先にはそれと同時に生成された極太の糸針が無数に生えていた。

余りの速度に、焼き払う雷の発動が間に合わず突っ込むも、なんと針の隙間に体を通しほぼ無傷。

あのスピードで突っ込んでそれか、と感嘆しつつも。


「これが、本気?」


 チリ、という感覚は先行放電。

それを追うように、音速を超えるスピードで動いてくるが、直前の先行放電があるのでタイミングや動きは凡そ掴める。

それに空間にばらまいた絶縁糸による感知を合わせれば、普通に戦える程度のスピードでしかない。

むしろタイミングが分かっていて直線的な動きしかできないので、僕としてはむしろやり易いぐらいか。


「……畜生にも劣る口利き。知性の低さと品性の貧しさがにじみ出ているな」

「あの、もしかしてそれ、勝てなさそうだから口喧嘩に切り替えた感じですか……?」


 思わず呆れつつも、糸剣を構え相手を待ち構える。

数秒、沈黙。

空はもはや陽光の名残すらもなくなり、夜闇の始まりが辺りを完全に包んでしまう。

未だどこか明るい夜空の下、乾ききった空気の中、ようやく殺意と理解したそれが辺りに満ち満ちていく。


 チリ、と感覚。

背後から背を砕かんと拳、生まれた糸結界を1枚、2枚、3枚、と続けて割っていく。

咄嗟に貼れた結界10枚を全て割っても止まらないがその頃には僕の最速対処が間に合う。

勢いの削がれた拳は、僕の体術でも防ぐのが間に合い、同時に反対側に持った糸剣がフェイパオの首を狙った。

大きく下がるフェイパオ、同時にその体を熱線が狙う。

視界の外、ミドリの放った援護である。


「――ぐっ!?」


 咄嗟に何らかの防御を張ったのだろう、傷は浅く皮膚も焼けただれてはいない。

だが。

そこに、僕の糸剣が追い付く。

喉元を狙った突き、避けられるが同時、糸剣の切っ先に垂直に刃が生える。

青白く光る刃が、フェイパオの喉を抉った。

同時、彼女が全身から周囲に雷撃を広げる。

溜まらず下がる僕の前、フェイパオは傷を負った喉を隠しながら、凄まじい形相で僕をにらみつけた。

回復術式と見られる術式光。


「女の喉を切り裂くのが趣味か何かか? 下郎が」

「母方の血が良かったんじゃないですかね、きっと」

「良く回る舌だ……。その舌か? 旦那様を誑かしたのは」


 と。

言われて僕は、固まってしまった。

数秒沈黙、視線を泳がせ、それからものすごい徒労感と共にフェイパオを見つめる。


「あの、その、旦那様って」

「我が夫、アキラに決まっている! 旦那様が、あんな、あんな顔を……!」

「いや……僕に言われても知らないけど……」


 どうしよう、一気にやる気がなくなってきた。

父さん曰く、薬師寺アキラがあんな態度を取ったのは、記憶にないらしい。

それは父さんがアキラと別れてからの十六年で変わっていったという訳ではなく、今日初めてあの態度を取った、という事だったのだろう。

だからといって、それで僕に襲撃されても困るのだが。


「あの、多分誤解が一杯あると思うんで、まずは会話しません? 会話」

「隠れて旦那様と逢瀬し、その穢れた股座で誘惑して……!」

「してないです……」

「貴様のような下種に、仙術を使わねばならんとは……!」


 と、それを聞いて僕は再び意識を引き締めた。

直後、フェイパオの周囲の空気が撓んだ、気がした。

赤い光。

フェイパオの体から赤い雷が迸り始めた。

とぐろを巻くようにうねるそれが、その白い肌に張り付き、人肉の焼ける嫌な臭いを醸し出す。

全身に赤黒い入れ墨のような帯を入れたフェイパオが、その目を大きく見開く。

その瞳もまた、赤黒く禍々しい輝きに満ちていた。


「仙術……これが……」

「今度こそ、疾く死ね」


 赤光、轟音。

殆ど直感で掲げた糸剣が、赤黒く輝くフェイパオの拳を、辛うじて防いでいた。

しかしその衝撃は防ぎきれず、上空へと弾き飛ばされた僕は姿勢を整えつつ、その光景を目にする。

遅れて、思い出したかのように地面が割れ、跳ね上がった。

あまりのスピードで叩きつけられたフェイパオの両足が、地面を割りながら移動していたのだ。


「ば、馬鹿か! 市街地の公園で何やってるんだ!?」

「シィィイッ!」


 再び赤光、反射的に糸剣を構える。

轟音、衝撃。

吹っ飛ばされつつ、遅れて理解。

フェイパオは空中に跳ね上げられた地面の岩達を足場とし、空中の僕まで辿り着き攻撃していたのだ。

そして今、投擲槍を手に、空中で体を捩じり、バチバチと赤雷を鳴らしながらこちらを睨みつけている。

背筋が凍るような、殺意。


「死ねぇええぇっ!」


 咄嗟に構えられたのが、奇跡だった。

三重の糸結界が、瞬きの間に引きちぎられたのを知覚した直後、体がグルリと高速回転、三半規管が悲鳴を上げる。

轟音。

右腕が熱い。

それでも追撃に備え、右手の糸剣を構えねばと思ってから、感覚が無く、その事実に気づく。

僕の右腕は引きちぎれ、空中をくるくると回転していた。

青白く光る糸剣を握りしめた手は、ようやくそれ自身が引きちぎられたことに気づいたのか、その指を解き糸剣を手放そうとしていた。

舌打ち、糸剣を解いて作った糸で腕を引っ張り、もげた部分に接続。

ようやくやってきた激痛に顔をゆがめながら、魂の汎用術式による回復を行う。

腕を繋ぐついで、風切り音がない事に気づき、破れた鼓膜も再生。

様子を見るため、糸のハンドグライダーを作り、軽く滑空する。


 流石のフェイパオも、空中戦はさほど得意ではないのだろう。

そのまま普通に地面に降りてゆくのが視界に入り、遅れて周りの惨状が視界に入った。

再生した鼓膜が、地上の人々の悲鳴を拾う。

音速の数倍で放たれた投擲槍は、当然のようにソニックブームを辺りにまき散らし、窓ガラスを叩き割りながら通行人たちに危害を与えている。

歯噛みするうちに、ミドリの念話術式が繋がる。


『兄さん! 無事!?』

「……あぁ、だが周りの被害がかなり……」


 高級住宅街だけあって最低限の術式防御がされている家が多いが、それでも相手が天仙とあれば、結界など濡れた紙の親戚のようなものだ。

余波で住宅が吹っ飛んでないだけマシというものだろう。

それに当然だが、通行人はいきなり襲ってきたソニックブームから身を守る手段などない。

鼓膜が破れたか、それでなくとも気分を悪くし最悪意識を落とした人も居るだろう。


「多分、姉さんは相性が悪い。周囲への被害を防ぐ方向で戦ってもらうのがいいと思う。

 ミドリは応援要請後、僕と姉さんの援護を、割合は自己判断で。

 ……君に、全て任せる」

『……了解。兄さん、気を付けて』


 話を終え、僕はハンドグライダーを解除、まず足元に展開した糸布に追突した。

空中に作った疑似支点を元に作られた、トランポリン。

そこに大きく沈み込むと同時、両手でその支点を捩じったかのように傾かせ、僕の頭上が地面に向くようにする。

次いで、射出。

凄まじいスピードで青白い光が地上に到達し……、到達した糸のデコイが、着地と同時にフェイパオの拳で砕け散る。


「むっ」


 砕けた糸塊が、フェイパオを地面に縫い付け、一瞬だけ拘束する。

僕は着地の直前で糸を引っ掛け軌道を変更。

臓腑にかかるGに血を口から漏らしつつも、足元の青い線の上を滑っていた。

それは、糸で作り上げたレールだった。

両足の靴裏から生える糸車輪を食いつかせた糸レールは、上空から落下する僕のスピードを殺さず、上手く利用しながらフェイパオの背面を取らせる。

拘束を引きちぎった瞬間のその背に、糸剣を構える。


「足元が見え見えだ!」


 半回転しつつの脚撃が、赤雷と共に僕の足を狙い薙ぎ払う。

レールを使った高速移動は、当然レールがあるその先にしか移動できないので、その軌道が読みやすい。

移動速度だけではなく、反応速度も僕を上回るフェイパオであれば、音速にも届かない程度の僕のレール移動は、例え背面側で直視できずとも簡単に予測できるのだ。

そして最も読みやすいのは足元の位置で、だからこそフェイパオの蹴りが僕のひざ下を蹴り砕かんと振るわれ。

スカッ、と外れる。


 当然のことながら、僕の履いているブーツの靴ひもは、自分で生成した運命の糸である。

また、このブーツ、側面の皮革も複数パーツに分かれ糸で縫い付ける形にしており、この糸にも運命の糸を利用している。

僕の運命の糸は瞬きするよりも速く消失させられるし、そうすれば殆ど靴を履いていないも同然だ。

靴をレール上に残したまま、膝を畳み跳躍するなど容易い事である。

驚愕に硬直したフェイパオの眼球目掛け、空中で畳んだ足を伸ばしこちらも蹴りを突き入れる。

当然蹴りぬく前に、攻撃を目的としドリルのように尖った、糸の脚甲冑を生成しながら。


「食らえぇぇっ!」

「う、うぉおぉおっ!?」


 肉を裂く感覚。

そのまま体を捩じり着地しつつ、防御用の糸結界を生成。

フェイパオ咄嗟の雷撃を、なんとか防ぎ切りつつ多少の距離を取る。

小さく呼吸、息を整えつつフェイパオの様子を伺った。


「貴様……っ!」


 フェイパオは、狙ったその右目を閉じ、そこから血を流していた。

目に直撃しなかったようで、傷跡は目尻から耳朶の少し上を通り、背後へと流れていっている。

感触からして、表面だけではなく、少なくとも角膜の深くまで傷つけたはず。

少なくとも戦闘中に、フェイパオの左目の視力が回復することはないだろう。


 高速戦闘に重要なのは、移動や行動の速度だけではなく、その五感の精度もまた重要だ。

高速で敵に突っ込むという事は当然敵の攻撃も高速に迫ってくるので、動体視力が高くなければその優れたスピードで自傷しかねないのだ。

フェイパオのスピードは明らかに僕を上回っており、だからこそ僕はまず、その速度を削るためにその五感を削る所から始めたのだった。

運良く反応するのが限界のスピードで攻められていれば、僕はすぐに敗北してしまっていただろう。


 隙を見せ地面に着地した、と見せかけつつ、それは罠でありデコイでの拘束が目的。

拘束し背面に回ったが急ぐあまりレールで移動軌道を見せてしまった、と見せかけつつ、その軌道も足元への攻撃を誘う罠であり、本当の狙いは視界。

二重三重の詐術で狙った攻撃が辛うじて通用したことに、内心安堵の溜息をつきつつも構える。


「……貴方は。僕の"ここ"を奪おうとする、貴方は」


 最初のうちは彼女の殺意の存在に半信半疑だった。

しかし周辺被害を顧みず、僕の対処能力を超えかねない攻撃を連発してくるのを見て、ようやく彼女の殺意が本物である事に気づいた。

僕だけではなく、僕のついでに姉さんを殺す事すら躊躇しない、その殺意に。

だから。


「僕の、敵。

 僕が殺すべきヒト」


 血のつながった、実の母親らしいが。

英雄の一人らしいが。

知ったことか。


「……死ね」


 全霊の殺意を憎悪を込め、呟く。

対し、場違いにフェイパオは、ぼんやりと首を傾げた。


「……ヒカリ?」

「……は?」


 僕は思わず、目を見開いた。

硬直する僕の前、目から血を流しながらも、あぁうん、なるほど、などと呟きながらフェイパオは得心がいった様子で呟く。


「そうか、何となく既視感があったが……お前の性格の悪さ、ヒカリに似ているのか」

「母さん、に?」


 僕をこの女から引き取り名付けてくれたヒト。

二階堂ヒカリ。

聖女とも謳われた、僕の母さん。

僕が2歳の時に亡くなってしまい、殆ど記憶に残っていないヒト。

その彼女と僕が、似ていると言うのか?

思わず、僕の口を疑問符がついて出た。


「母さんは、どんな……どんな人、だったんですか?」

「ふん、心底気にくわない女だったな」


 と、フェイパオは言葉とは裏腹に、柔らかい表情を作った。

心なしか、字面は罵倒でしかない言葉も、優し気な色を纏っているような気がする。


「外面は良いが、とんだ腹黒だったよ。

 この世で最も性格が悪く、陰険で、ケチで、神経質で、クソったれで、生き汚い……。

 呪い如きで死んだなぞ、信じられん女だったよ」


 何処か寂しげに告げ、フェイパオは目を細めた。

数秒、遠くを見つめてから僕に残った眼のピントを合わせ、溜息。

構えを解く。


「……ち、気概が削がれたな。

 貴様は……私と互角以上の相手と認めよう。

 次に会う時は、必ずこの手で殺す」

「…………それは、こちらこそだ」


 与えたダメージを考えても、速度ならまだフェイパオの方が上。

ここから逃亡に専念されれば、僕ではフェイパオに追い付き討つことは不可能に近いだろう。

それにこちらには父さんという援軍の可能性があるが、それは夫……アキラという援軍の可能性がある向こうも同じ。

流石に市街地で英雄大決戦はやってられないので、逃げるというのであれば歯噛みしつつも見送るしかない。


「……さらばだ」


 アルトボイスと共に赤光を残し、フェイパオが掻き消えた。

気配が一直線に遠方へ消えゆくのを感じつつ、残心を終え構えを解く。


 続け、戦いが終わったのと察知したのだろう、二人がこちらに向かってくる。

市街地への被害を、辺りへの衝撃を"殴打"して守っていた姉さん。

救助のため、汎用術式で念話や簡易の治癒結界などを駆使していたミドリ。

二人とも幾分消耗しているが、余波での怪我などは無い様子で、思わず安堵のため息が出た。


「兄さん、怪我はない?」

「回復しきれなかった怪我は、ないかな。見ての通り半袖裸足ファッションを取り繕ってる感じになっちゃったけど……」


 腕は一度もげてしまい、そのついでに服は右手側だけ半袖に。

ブーツは当然のようにフェイパオの赤雷の余波で焦げてしまっているので、糸で編んだ脚甲冑……を、靴に編みなおしたモノで代替。

どちらも糸で編んで隠しているが、中々の前衛的ファッションだろう。

不満そうに顔をぷっくりと膨らませながら、ミドリが近づき僕のほっぺをぷにぷにと弄り始める。


「……回復しきれる怪我もしてほしくないけど、足手まといだった私を庇った怪我なのは分かるから、複雑な乙女心。

 早急に兄さんのほっぺで慰めてもらう必要がある」

「いまやっひぇんやん……」


 されるがままになりつつ、無言の姉さんに視線を。

呆然と僕を見つめる姉さんに、首をかしげる。

何となく、その目は混乱しきりグルグルと回っているようにさえ見えた。


「ねへさん?」

「……その、最後の方、聞こえてたんだけど」


「ユキちゃんは……ママだった?」

「…………」

「私のしてきたことは……ママ活?」

「…………」

「あれ? ってことは……私はマザコンだった……?」

「…………」


 僕は賢明にも、沈黙を守った。

視線を固まったままのミドリに向けるが、神妙な顔で首を横に振られる。

ミドリと二人、溜息が重なった。




*



 暗い部屋。

光源は壁一面に広がるモニターのバックライトと、男が叩くコンソールのキーのみ。

空調の効いた部屋の中、男はデスクに置いた缶の炭酸飲料を手に取ると、グビグビと口にする。

独特の薬臭いフレーバーが、部屋のカビ臭さを上書き、男の鼻梁へと吸い込まれていった。


 あるモニターは、黒画面に緑色のワイヤーフレームで、幾何学的な文様を描いていた。

あるモニターは、コマンドラインを表示し一面を文字に埋めて表示していた。

あるモニターは、一つの映像を再生していた。


 映像の場面は夜。

一人の少年と少女が、青白く、或いは赤黒く輝く剣を手に斬り合う映像だった。

まだ健在だった都庁ビルの屋上、血肉の赤が、骨の白が、臓腑の黄紫が、脳髄の灰が飛び散りながら、二人……ユキオとミーシャが斬り合い続ける。

腕を切り落とす。

臓物をかき混ぜる。

臓物と人肉が凍り砕かれる。

剣が、頭蓋を叩き割る。

……一時停止。


「……ここだ」


 男、薬師寺アキラが呟き数秒、映像を巻き戻す。

コンソールのキーを叩き、他のモニタの画面を操作。

幾何学的な文様が、無数の文字列が、いくつかのグラフが、その表示画面の時間と同期しその内容を変えた。

終えてもう一度、再生ボタンを押し、アキラはその数秒間の他のモニタの変化を観察する。

瞬きを数度、コンソールを操作。

遅れて一つのモニタに、二つに分かれたウィンドウが表示された。

それらは似通った文字列を表示し、その差異を赤く強調表示する。

ふう、とアキラは深くため息をつきながら、深く椅子に腰かけた。


「……微細ながら、<術式>に影響を与える事は可能、か。

 想定通り。

 ならばやはり、この方向性で行くべきか……」


 アキラは中指でクイッとメガネを押し上げ、そのレンズにバックライトの光を反射させた。

数秒の思索、再びキャスター付きの椅子ごと前に、コンソールのキーを操作し始める。

凄まじい速度でタイピングされ、またポインタが操作され、画面に次々とその図形が浮かび上がり始める。

それは、魔法陣だった。

この夏、魔王とその娘が協力して発動しようとした、全人類に影響を与える人魔統合術式。

その規模をも超えるサイズと複雑さを孕んだ、恐ろしく長大な。


「…………これで、どうだ?」


 ターンッ、とキーを叩く音。

表示された図形が歪み、崩れてゆく。

しかし崩れた部分から新しい図形が生まれ、生まれた新しい図形が崩れた部分を補完する。

ある一定の座標から見れば、それは崩れ変貌したように見えるかもしれない。

しかし全体像を見ると、それは変貌の前後で殆ど同じ意味を維持していた。

少なくとも、術式の専門研究者であるアキラには、それが理解できていた。


「……短期間での排除は、難しいか。

 とすれば、長期間に渡る干渉が必要になる。

 それは今のままでは難しく、そしてその対処は……。

 恐ろしいことに……耐えがたさと甘美な誘惑とを、併せ持っている」


 溜息と共に、アキラは椅子に深く背を預けた。

ヘッドレストに首まで預け、暗い天井を仰ぎ見る。

疲れ目をほぐしつつ、ぼんやりとそのまま暫く、虚空を見つめ続けていた。


 やがてカツカツと、足音が近づいてきた。

アキラは僅かに目を顰めるが、姿勢を変える事はない。

そのままじっと待っているうちに、電子音。

ロックが外れ、自動扉が横に開く。


「ただいま、アキラ」

「……あぁ、おかえり」


 アキラは微動だにしないまま、一本調子で告げた。

そんなアキラに、フェイパオは自動ドアから入ったその場から動かないまま、顔ごと視線を逸らした。

深く、呼吸。

小さい声で、ゆっくりと告げる。


「その……ご、ごめんなさい。勝手に、ユキオに攻撃を……しちゃった」

「そうか」


 一言。

アキラは一瞥することもなく、頭を上げ、椅子に腰かけなおした。

再びコンソールを操作し始め、モニタにおける術式や文章が流れ始める。

それに慌て、フェイパオは言った。


「その、それだけじゃなく反撃も貰っちゃって……右目に」

「観察していた。既に術式探査も終えている。角膜の傷だな。

 やや深めだが、医療術式での治療込みで全治三週間という所だろう。

 後で術式は施しておこう」


 一方的に告げ、アキラはそのままコンソールに集中する。

それに、フェイパオは硬直した。

震えながら拳を握りしめ、感情を飲み下そうとしてもできず、口からそれを漏らす。


「怪我をした私を……見てさえ、くれないのか」

「術式で探査していたと言っただろう」

「直接だ!」


 溜息。

アキラは数回キーを叩くと、クルリと椅子を回転させ、フェイパオの方へと向き直った。

灰色の髪が、ゆらりと揺れる。

眼鏡越しの鋭い視線が、フェイパオを貫いた。


「で? 見て、何をしてほしい」

「な……」


 フェイパオは、頬を赤らめた。

一度深呼吸、耳まで赤くしながら視線を床にやり、やり場のない手を腹の前に置き、ツンツンと指同士で突き合わせる。

その、あの、と言葉になる寸前のようなソレを幾度か漏らして、それからようやく口を開いた。


「慰めて……欲しい……」


 恥じらうフェイパオの言葉に、しかしアキラは無言だった。

クイ、とずれたメガネを直すだけで、じっとフェイパオの次の言葉を待ちわびているようだ。

それに続く言葉を探し、それでも恥ずかしさのあまり言える言葉が見つからず、ただただじっと縮こまっているフェイパオ。

その姿に、アキラは深くため息をつき、言って見せた。


「僕が?

 ユキオに手だし無用と告げてすぐに裏切られた、僕が?

 そして相手に損害を与える事もできずに、龍門を勝手に敵に回される事になった、僕が?

 そのお前が勝手に負ってきた傷に、既に検査を終え治療も時間を作ってさえやるはずの、僕が?

 お前を?」


 鋭い詰問に、フェイパオは顔色を青くし、そっと上目遣いにアキラを見つめた。

そこに絶対零度の視線を見つけ、ひゅ、と小さく音をのんだ。


「僕とフェイパオ、お前は……契約結婚だったはずだ」


 あまりにも鋭い声に、フェイパオは言葉を失った。


「お前の仙人としての、運命の人は僕だった。

 お前は僕の他の誰も、番に迎える事を許容しなかった。

 だが僕は……お前の事を決して愛することはできなかった。

 だからこそ我々は、契約を結んだはずだった」

「……アキラは私と結婚し、夫婦の勤めを許容して」

 私はアキラが、私を愛せない事を、許容して」


 契約の内容を告げるフェイパオに、アキラは頷いて見せた。


「フェイパオ、お前は、僕がお前を愛せない事を許容すると、契約したはずだ。

 多少の嫉妬らしきものは許容していた。

 だが今回のそれは、明らかに許容範囲を超えているぞ」

「……それは貴方もだ」


 溜息。

アキラは脚を組み、ひじ掛けに突いた手で、頬杖を突いた。

ジロリと、フェイパオを睨みつける。

その右目は傷のために瞑ったままであり、その目尻から耳上にかけては肉が抉れ、大きな傷を残していた。

痛々しいそれは、消耗したフェイパオの不得意な回復術式では直し切れない、深い傷跡があったことを指し示す。

仮にも英雄級であり、今では全盛期の四死天を1対1で仕留められるだろう強者。

そのフェイパオを相手に押していたユキオの評価を、アキラは改めて上方修正する。


「アキラ、貴方は……私と夫婦の勤めを許容すると契約したはずだろう。

 浮気は……その契約に反する」

「いいや、反しないね。君は僕に愛されない事を許容すると、そう契約したはずだ。

 それは例え僕が他の誰かを愛することがあっても許すと、そういう事だ」


 フェイパオの残る目に、涙が浮かんだ。

口を開き、そして言おうとした言葉を嗚咽が飲み込み、連れて行った。

フェイパオは唇を噛みしめ、目をぎゅっと閉じた。

顔を歪ませ、消えていった衝動の残響を、その口から吐き出す。


「……貴方は……愛しているのか? ユキオを」


 アキラは答えない。

冷たく温度のない目で、じっとフェイパオを見つめたまま動かない。


「貴方は……あの出会いの一瞬で、何故変わってしまったんだ?

 貴方は、この世の全てに絶望していたはずだ。

 あらゆる空虚さに疲れ果て、それでも耐え忍びながら、唯一の希望に縋り、貴方は歩き続けている人だった。

 あの日四死天に抗ったのも。

 あの日ヒカリらに力を貸したのも。

 あの日魔王と戦ったのも。

 全ては……貴方こそが、世界を滅ぼすためじゃあなかったのか!?」


 瞑目。

残る手でひじ掛けの先端を、トントンと叩き。

溜息、アキラが目を見開き、言った。


「そうだな。直接僕が何を想い何を目指していたのか、言ったことはなかったな」


 その目は疲れ果て、今にも崩れ落ちそうな無気力さに満ちていた。

一気に老け込んだように見えた夫に、フェイパオは思わず近寄って見せる。

しかしその夫があまりにも繊細で、触れれば崩れ去ってしまいそうなほどに儚く感じ。

伸ばした手で触れる事すらできないまま、立ち尽くした。


「僕が目指していたのは、完全な時間操作だ」

「かん、ぜんな?」

「あぁ。僕の固有は"時間の総舵手"。これを僕は解析し、汎用術式にまで落としたが……。それでも可能な使用方法は限られる」


 アキラが汎用術式に落とした時間操作術式は、時間軸の正の方向にしか働かない。

つまるところ「スロー再生」、「早送り」と「スキップ」だ。

それも限定的な対象にしか利用できず、本格的に利用しようとすると、大がかりな施設を必要とすることになる。


 そしてアキラ自身の固有術式による時間操作は、加えて「一時停止」と「戻りスキップ」が可能だ。

しかし特に「戻りスキップ」には大きな制限があり、対象物や空間の大きさは人間大程度が限界で、戻せる時間は精々十数秒程度。

「スロー再生」「早送り」や「スキップ」については一定以上の規模での発動が可能であり、また時間の汎用術式の延長である程度空間操作も可能になったが、それでも時間軸の負の方向への干渉は限定的に可能という程度だった。


「つまり、僕は自分の固有術式について未だ半分以下しか極めていない。

 だからそれを解明しようというのが、大目標。

 それに必要な要素として、近い術式を解明し汎用に落とすのが中目標。

 そしてその中目標の一つに……魔王ら魔族の持っていた、異世界魔法があった」

「それが……魔王と戦った、理由?」

「人類を滅ぼされては研究ができない、というのもあったがな」


 魔王ら魔族の異世界魔法は、この世界にとって未知の法則ばかりだった。

既存の術式とは異なる術理で動いており、その術理の解析はアキラにとって魅力的なフィールドワークでもあったのだ。

そのフィールドワークこそが、人魔大戦の反撃、人類存続の旅への同行。


「そしてその上で……。

 君は僕こそが世界を滅ぼそうとしていた、と言っていたな」

「あ、あぁ……」

「そうだ。それもまた、中目標の一つだった」


 アキラが、掌を上に向けた。

そこに小さく輝く、光の渦が現れる。

光量こそ然して大きくはないものの、暗い部屋故にその光は強いコントラストで輝いていた。


「僕が生まれて初めて落とした汎用術式は、兄の重力術式だった。

 重力。時間加速。空間。それらの術式を操る事で、僕は……疑似宇宙を作り出した」

「……疑似、宇宙」

「実際の宇宙に比べて、かなり小型だがな。

 流石にこの惑星よりは大きいが、太陽系よりも小さい。

 今は空間術式で圧縮しているが……」


 アキラがその手を閉じると、その渦は消え去り、再び部屋は薄暗く戻った。


「疑似宇宙が滅ぶとき、時間に負の方向性の力がかかる。

 それをこれまで幾度も計測し、それを元に時間術式を研究はしているが、今のところ大きな成果には至っていない。

 ……原因は分かっている。

 疑似宇宙の規模が実際の宇宙に比べ、規模が小さすぎるからだ」

「それはつまり……」

「実際の宇宙を滅ぼせば、そのデータから時間術式の負の方向性を操作できるようになる。

 作成した疑似宇宙側から観測すれば、僕は滅びず、観測からの術式取得までやり過ごす事ができるだろう。

 そして成功すれば、すべてを巻き戻し滅ぼした宇宙を再生することもできる……。

 故に術式研究のために世界を滅ぼす事に、何の問題もない。

 ……そう、思っていた」


 声に、粘着質な物が混じった。

アキラは、その視線を遠くにやった。

口元を歪ませ、ベロリと、唇に唾液を塗りたくるような独特の動きで、舌を動かした。

粘液が潰れ、蠢く、ネチャリという音が響く。


「一目惚れというのは、あるのだね」


 アキラは立ち上がった。

その股間がいきり立ち、ズボンを押し上げているのを見て、フェイパオは思わずうめき声を上げた。


「全てが変わったんだ。

 ……初恋、なんだ。寝ても覚めても、あの子の事が頭の中から離れない。

 ……陳腐な台詞だが、本当にそうなんだ」


 フェイパオの目の前に来たアキラは、そっとその手をフェイパオの首筋に置いた。

冷えた手に、フェイパオはぶるりと思わず震えた。

メガネのレンズ越し、熱に浮かされたアキラの瞳が、じっとフェイパオの顔を見つめる。


「ドキドキするんだ。あの子の事が、好き」


 初恋を体験した少女のような言葉を、ねっとりとした男の声色が奏でる。

そしてアキラは、そっとフェイパオの首に置いた手に力を込めた。

ポロリと、フェイパオの首から上が、零れ落ちた。


「あ、え、私?」


 零れ落ちる途中、自身の首無し死体を見たフェイパオが、思わず口走る。

対しアキラは、あぁ、と感嘆のため息をつく。


「試しに君を……あの子とお揃いにしてみた。

 首をアタッチメント式にしてね。

 だがまぁ、それだけじゃあやはりあの子とは似ても似つかないな。

 ……死んだか」


 アキラは落ちたフェイパオの生首を拾うと、首なし死体に置き、アタッチメントを接続する。

そのまま崩れ落ちたフェイパオの死体を尻目に、椅子に腰かけコンソールを操作。

リアルタイムでユキオを監視するカメラが、その映像をモニタに表示する。


「知っている。あの子は僕を、恋愛対象などとは考えていない。だから今ただ愛を囁いても、それは伝わらない」

「今思えば、君も私の事を、そう思いつつも、それでも愛を告げてくれたんだろう。それを誠実さを、僕は尊敬する」

「そして同時に、良くも悪くも……僕はそれを真似できない。だから……」

「新しくできた。その夢を、叶えるために……努力するのさ」


 モニタ越しに、夜半に自室で寛ぐユキオの姿が表示されていた。

それは、ミドリがユキオの私室に仕掛けた監視カメラを、ハッキングして得た映像だった。

寝間着姿のユキオに、微笑みながらアキラはその勃起を強くする。


「諦めなければ……夢は、必ず叶うのだから!」


 パチン、とアキラが指をはじき。

その光景に、思わずアキラは射精した。




*




 ――時は、数時間前にさかのぼる。




*




 お玉ですくい、小皿にスープを取り分ける。

小皿を持ち上げ、ふちに口づけて数口。


「……うん」


 頷き、僕は口元を緩めた。

目の前のとろみのついたカレールゥに、満足して頷いた。

市販のカレー粉ベースのカレーだが、久しぶりにしては美味く作れたのではないかと思う。

業務用の炊飯器から炊き立てのご飯をよそい、たっぷりのカレールゥをかけて盛り付け。

付け合わせのサラダや、トッピング用の大皿に盛ったタンドリーチキン、トンカツに白身魚のフライ。

それらを順にダイニングに持っていき、姉さんとともに配膳する。


「ということで、今日は僕の特製カレーだよ。お代わりはいっぱいあるから、みんな各自でね」

「はーい、いただきまーす!」


 元気よく言った姉さんに、続けミドリや父さんも食べ始める。

遅れ僕も、一口。

うん、美味しい。

あたりに視線をやると、皆、笑顔でもぐもぐとカレーライスを頬張っていた。


「久しぶりだねぇ、ユキちゃんのカレー。いやー美味い」

「昨日は大変だったからな、こうして美味い物を食べられて幸せだ」


 父さんの愚痴に、ついつい僕も昨日の事を思い出してしまう。

フェイパオが暴れまくった後、当然のようにその日の夜は救助活動やら何やらでクタクタになってしまった。

遅い夕食は、少し遠出して皆でラーメン。

その日仕込んであったトンカツと白身魚のフライは一端お休みで、今日のトッピングに転生してもらっている。

そして昨日の今日なので、今日は家政婦も自宅の事で出てこられず、それならばと僕が腕を振るいカレーを作ったのである。


「うま……うま……」


 とは僕の隣で、小さくつぶやきながらすごい勢いでカレーを食べているミドリである。

ミドリは僕のカレーが好物で、いつも出すと無言に近いほどに集中して食べてくれるのだ。

作った料理を満面の笑みで食べてもらえるのは、本当に嬉しいものだ。

僕もつられてなんだか笑顔になりつつ、トッピングに手を出しつつカレーを食べる。


「いつも思うが、カレー粉でこんなによく出来るものなのだな」

「うん。スパイス粉から計量も試したことはあるんだけど、結局市販のカレー粉をベースにした方が美味しくてね……。侮れないなーって」

「おお……ユキちゃんのそういう実用重視な所もお姉ちゃん好きだよ」

「ありがと。自分で1から作るのもいいけど、やっぱり美味しいのが一番だよね」


 と、早くも食べ終わったミドリが、椅子を引いた。

2杯目を取りに台所とを往復し、今度はご飯がやや少な目にカレーの量は同程度。

そしてそこに、トッピングのトンカツを取り、乗せる。


「ふふ……カツカレーッ!」


 楽しそうで何よりである。

僕は白身魚のフライを取り、一口齧ってからカレーをかける。

カレーをかけた揚げ物も美味しいけど、サクッとしたそのままの揚げ物も食べたくなるんだよね。


 全員冒険者の四人家族だけあって、15人前はあったカレーライスとトッピングは、瞬く間に消えてしまった。

今日の洗い物当番は、僕とミドリの二人である。

食器を洗い、洗い終えた食器を渡すまでが僕。

食器の水気を拭きとり仕舞うまでが、ミドリの役割だ。


 心なしかお腹がぷっくりとしたミドリは、毎回カレーとなるとモリモリと勢いよく食べており、今日も一人で5人前ぐらいは食べていただろうか。

と、僕の視線の先に気づいたのか、ぷくりとミドリが頬を膨らませる。


「だって、美味しいんだもん、兄さんのカレー」

「そう言ってもらえると、料理を作る側としては本当に嬉しいよ。

 カレー自体、最初に作り方覚えたのも、ミドリのリクエストだったしね」


 懐かしい話である。

5年ぐらい前だったか、聖剣による判定で赤を食らって僕が沈み切っていた時期である。

ミドリが自分の誕生日に料理を作ってほしいとおねだりし、それに応える形で僕がカレーライスを作ったのである。

当時は流石にミーシャの監修付きだったが、暫くしてからは独り立ちして自在に作れるようになったのだ。

と言っても、流石に冒険者業が本業である僕としては、趣味の一環程度。

カレー以外にはサイドメニューに幾つか手を出した程度で、本格的に料理をできるとは言い難いだろう。


 などと思いつつ、次の食器を渡そうとするも、ミドリが受け取らない。

疑問符、視線をミドリにやる。


「どうしたんだい、ミドリ……泣いてる?」

「えっ……」


 呆然と立ち尽くしたまま、ミドリはポロポロと涙をこぼしていた。

渡そうとした食器を流しに戻し、水道を止めて急ぎ手を拭く。

ポケットからハンカチを取り出し、ミドリの涙をそっと拭った。


「ミドリ……」

「ううん、その、なんて言うか……嬉しくて、だと思う」


 ポツリと、ミドリは呟いた。

視線はそのまま真っ直ぐ前に、手に持った食器を再び吹き始める。

心配で暫く見つめていたけれど、ん、と次の食器を求めて手を伸ばすミドリに、再び水道を流し洗い物を始める。

食器を幾つか渡したところで、ポツリとミドリが続けた。


「私……"ここ"で、私が一番オマケなんだ……って思ってた」

「それは……」

「兄さんも、自分こそがそうだって思ってた。

 それは、何となく分かってるよ。でも、それでもなんだ」


 ぴしゃりと言われて、僕は口をつぐんだ。

食器を拭き終えた、ミドリの手が揺れる。

催促に、僕は仕方なしに、次の食器を洗い始める。


「父さんは言うまでもなし、人類至上最強の聖剣の使い手。

 姉さんは"よろずの殴打"を持った勇者の長子。変則系の固有術式で、私と違って背が高くて明るくて、おっぱいも大きい。

 兄さんは……天才。少なくとも私はそうだと信じている。

 兄さんは自分を卑下しがちだけど、格上にも普通に勝てる兄さんは、この春より前から私よりも凄いって思ってたよ」

「そんなことは、ない。ミドリの方が、ずっと凄い娘だよ」

「……ありがと」


 仕方ないな、とでも言いそうな表情。

納得していなさそうな、とりあえずの「ありがと」だった。


「だから兄さんが最初に探す人は、求める人は……私じゃあないって思ってた。

 でも。

 "君に、全て任せる"って……言ってくれた」


 昨日の戦い、多分空中でのミドリとの念話。

思い出すと確かにそう言ったし、周囲を見ての冷静な判断は間違いなくミドリを信じられる。

だから言った内容は間違いないのだが。


「そりゃあまぁ、ミドリなら……安心できるし」


 火照った顔で、涙を零しながら言われると、なんだか恥ずかしくなってしまう。

照れくさくて、思わず視線を泳がせてしまう。

ミドリの顔が、視界から外れる。


「それに、私のためにカレーを作ってくれたこと、覚えててくれた」

「だから……うん」

「すごく、嬉しかった」


 だから僕は、その時ミドリがどんな顔をしているのか、見る事はなかった。

それは後から考えると、とても勿体ない事をしたのだと思う。

後にミドリに聞いてみても、誤魔化されるなり、自分で自分の顔は分からないものだ、などと言われてしまう。

だからミドリがその時浮かべていた表情は結局分からなくて。

けれど。


「すごく、すごく……嬉しかった」


 それはきっと、素敵な笑顔だったのだろうと。

僕は後ほどになってから、思うのであった。




*




 夜半。

時刻は夜10時を周り、ユキオはそろそろ床に就くところ。

龍門も早めに寝床に引き上げ、今二階堂家で活動中なのは、姉妹の二人だけだ。

その姉妹は、二階堂家の二階廊下、ユキオの部屋の前でバッタリと出会い固まっていた。


「…………」

「…………」


 姉妹は二人とも、寝間着姿。

冬の初めらしく、厚着のパジャマにスリッパも分厚く暖かい物を。

ヒマリは桃色、ミドリは白に緑の水玉模様の普段使いのパジャマだ。

その手には、愛用の枕。

ユキオを含めた三人のベッドはセミダブルで、詰めれば枕を置いて二人で眠る事ぐらいはできるだろう。


「…………」

「…………」


 気まずい沈黙。

視線を外さず、互いに困り果てた目でお互いを見つめ合っている。

何故とは言わないが。

二人は、パジャマの下の下着を、新しいものに着替えていた。

互いに見えずとも、その意図や意志は悟っており、その硬さに困惑していた。


「……その、二人で入る?」

「うん。一緒に、入ろうか」


 とりあえず、と。

二人は頷き合い、そのように合意した。

二人の手が伸び、ユキオの部屋のドアノブにかかり。


 パチン、と何処か遠くで指を慣らす音が、したような気がした。

ぱん、と何かが弾ける音が、聞こえたような気がした。


「……ん?」

「何だろ……?」


 首を傾げつつも二人は、ドアを開いた。

まず二人が気づいたのは、その異臭だった。

鉄っぽさ、脂っこさ、そこに汚水を流し込んだかのような悪臭。

暗闇の中、窓から差し込む月光だけが部屋の中を照らしている。

レースのカーテンは所々黒ずみ、差し込む月光を吸い込まんばかりに揺れていた。


「……あ、灯り……」

「……う、ん」


 ミドリの手が、壁に触れスイッチを探し出す。

僅かに躊躇し、そのスイッチを押し込んだ。

昼光色の電灯が、その光景を映し出した。


 赤。

鮮やかな赤が、視界の殆どを飛び散っていた。

時折その赤を避けた白が、部屋の壁や床、そして赤の中心に所々浮いている。

床には脂ぎった赤が飛び散っており、その中には赤く染まった"それ"が浮いていた。

形が少しだけ残ったそれは、つい先ほど見たばかりのモノ。

よく噛んで形を無くした、お米と野菜とお肉。

食べられた後の、カレーライス。


「あ、ああ、あああ」

「う、あ、う」


 声にならない声が、二人の口から洩れた。

ヒマリは、ふらつき、壁に手をつきながら横に逸れた。

ずり、と床の何かを踏んで滑る。

何者かとヒマリが思わず視線をやると、そこにあったのは……管だった。

黄褐色のそれは、辿るとすぐに真っ赤に染まり、そしてその先は赤の中心の、その腹へと繋がっていて。

それが小腸なのだと、ヒマリは理解し思わず声を漏らした。


 ミドリは、涙をこぼしながら辺りを見回していた。

そしてやがて、ユキオの机の上に降りかかった桃色がかったクリーム色の塊を見つけた。

震える手で、それに触れる。

探査術式が発動、それはタンパク質と脂質を組み合わせて作られた、神経細胞の塊。


「の、脳? に、にい、にいさ……」


 震えながら、ミドリはその中心にあった塊に視線を戻した。

それは、爆発していた。

爆心地は恐らく頭蓋の鼻より上。

頭部で残っているのは下顎と、申し訳程度の血で染まった歯のみ。

その他小規模な爆発が同時に起きたのか、腹が抉れ中身が弾けだされている。

心臓はまだその塊に残ったままで、その命の余韻がそうであったかのように、まだ小さく動いていて。

下半身は赤く染まったまま残っており、まるでユキオが使っていた部屋着のような形のスウェットパンツが、血に染まっていた。


 胃からカレーライスをぶちまけた。

ユキオと同じ服装の。

ユキオの部屋で爆発していた。

それは、間違いなく。


「あ、ああっぁあぁああっ!?」

「う、ううぅううっぅ!?」


 二階堂ユキオの、死体であった。



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