3章-醜悪

01-妄想が現実になる日




「ユキオの復活を祝って……乾杯!」


 烏龍茶のグラス同士がぶつかり合い、甲高い音を立てた。

一人ビールグラスを持つ父さんだけが、控えめにグラスを触れさせるだけに留めるのが目に入った。

仕切り越しに喧騒、そして煙と肉の焼ける臭いが漂ってくる。

それを嗅いでも無事である自分に、ようやく人心地がついた。


「早速、カルビから行こうかな」

「タン塩とかじゃないのか……」

「ユキちゃんのお祝いなんだから、ユキちゃんの食べたいように食べさせてあげようよ……」

「うむ、ビールのお替りでもするか……」


 呆れ声の姉さんに怒られる父さんを尻目に、卓上に並ぶ肉からまずカルビをトングで取り去る。

熱された網の上で焼き、タレに着けて口に放り込む。

程よく溶けた脂の甘味と、付けこまれたタレの甘辛さが、肉を噛むたびに口の中を暴れまわる。

急ぎ白米をかき込み、ご飯と肉という黄金の組み合わせで口の中をいっぱいに。

思わず笑顔になりながらモリモリと咀嚼して飲み込み、烏龍茶で口の中の脂を流す。


「はぁ~……お肉美味しい」

「うへへ……、ユキちゃんが美味しそうにお肉食べてるよう……」

「兄さん、好きな順番で食べていいからね。好きなもの一杯食べよう」


 甲斐甲斐しく言う姉妹は、珍しくどちらも僕の隣におらず、四人席の向かいでニコニコとしながら僕の事を眺めている。

理由は分からないが、二人が楽しそうだから僕も何となく気分が良い。

その言葉に甘えて、僕はまずは暫くカルビを摂取しようと次なるカルビを網に横たえる。

季節は秋の終わり、11月の半ば過ぎ。

僕がミーシャを討って三か月と少し、ようやく僕が以前同様に肉を食べられるようになった祝いの席の、焼肉屋での一幕であった。


 もりもりとカルビと白米とを食べつつ、時折サラダや焼き野菜、キムチなどを挟んで

口をリフレッシュする。

今日ばかりは甘えて好きな肉全快で食べる僕に、隣の父さんは次々にビールを飲み干しながら自分の網の領地で淡々とタンやホルモンを焼いていた。

姉さんはハラミなど赤味部分をメインに、ミドリはロースなど白身の多い肉をメインにバランスよく食べている。

僕も普段はカルビメインながらある程度種類を散らして食べるのだが、今日ばかりは別とばかりにカルビを次々に食べていた。

やっぱり好きなものを好きなだけ食べられるっていいよね。

少量づつ試していたので三か月ぶりの肉という訳ではないが、遠慮なく大量の肉を食べられるのは本当に久しぶりなのだ。


 そうして幾度か網を変えつつ、ご飯をお替りしながら大量の肉を摂取し、満腹に近くなってきたころ。

ポツリと、父さんがつぶやく。


「そういえば、そろそろその……強化は体になじんできたのか?」

「……うん。まぁ」


 ミーシャを手にかけてから、時折僕の右目にはミーシャの魂が原因と思われる赤い輝きが宿るようになった。

全力を出すとき、僕の左目にはナギの青が、右目にはミーシャの赤が宿る。

いわば、ヘテロクロミアの外観と言えばいいだろうか。

なんとなくナギが好みそうな状況だなと思いつつ、自身の強化について思いをはせた。


 位階、119。

それが今の僕の全力が辿り着いたところである。

相対していたミーシャの全力を超え、勇者パーティーに迫るような実力。

場合によっては以前の勇者たちが倒したとされる旧魔王達とさえ伍する可能性がある、位階100超えの超越者の一人。

恋した異性を殺し辿り着いたと思うと何とも言えない場所だが、ずいぶん遠くまで来たのは間違いないだろう。


 チラリと、隣の父さんを見つめる。

父さん、二階堂龍門、歴代最強の勇者にして人類すべてを救った救世の勇者。

真の力は聖剣が覚醒してくれなければ出せないが、それを除いた通常状態の位階は、132。

僕がギリギリ勝負になるような位階である。

勿論、位階だけが戦いの全てを決めるわけではないし、その事実は位階差を覆して勝ってきた僕こそがよく知っている。

けれど目標にして理想の人がほど近い所に辿り着いたというのは、むずがゆいような、寂しいような、良く分からない心地でもあった。


 口寂しさに箸を伸ばして、キムチをポリポリしながら再度視線を戻すと、父さんと目が合った。

口元にビールの泡で白いひげを作りながら、ぼんやりと僕を見つめている。

別に視線を感じてのものではなかったのだがそう受け取ったのだろう、僅かに動揺の色を見せる。

口の中にキムチがあるので、無言で首をかしげて見せると、父さんは渋い顔をしていや……と呟いた。


「ユキオは、キムチもよく食べるのだな、と」

「……うん、割と前からそうだったと思うけど?」

「それはそうだが……うん、すまない」

「まぁ、特に気にしてないけど……」


 何を謝っているのか分からないが、多分本人も分かっていないだろう。

内心首を傾げつつ視線を正面に戻すと、ニコニコ顔の姉妹と目が合う。

何時もにも増して、柔らかく優し気な表情だ。


「ユキちゃん、もうお肉食べない? まだ注文できるけど……」

「焼肉がキツイなら、ユッケとかにする? 私ウニのせユッケ食べたい」

「うーん、じゃあ僕もユッケ頼もうかな。姉さんや父さんはどう?」

「あ、じゃあ私も!」

「…………」


 父さんは無言で俯き、ビールの水面を眺めているばかりだった。

眠いのだろうかと疑問に思い、そういえば今日は父さんの酒の進みがやけに早いことに気づく。

店員が来るたびに空の中ジョッキを持ち帰っている気がする。

普段はこんなに飲まないはずだが、それほど僕の回復に喜んでくれたのか、それとも何か飲みたくなるような理由でもあるのだろうか。

とは言え、眠そうにしている父さんに聞いたところで答えられはしないだろう。

まずは頼んだユッケを楽しもうと、姉さんにミドリと共に会話を弾ませながら食事を待つのであった。




 *




 焼肉を食べ終え帰宅し、身支度を整えリビングへ。

先に風呂に入るという父を見送り、僕ら三人はソファでくっつきながらだらだらしていた。


 電球色の暖かな灯りで包まれ、三人掛けのソファの真ん中に座る僕と、両隣に座るヒマリ姉にミドリという形となる。

流石にお腹いっぱい焼肉を食べてきた直後なだけあって、膝の上に乗って抱きしめてくるようなことはなく、精々僕の両手をそれぞれに抱きしめているぐらいだ。

ヒマリ姉は、僕の左手を。

ミドリは、僕の右手を。

姉さんは両手で、僕の二の腕を胸で挟むように抱きしめながら、僕の肩に頭を乗せつつ片手で携帯端末を弄っていて、こちらは少々大胆だが問題ないとは思う。

けれどミドリには、少し苦言を呈さねばならないか。


「その、ミドリ。僕の腕、っていうか、手。それはちょっと不味いんじゃ……」

「でもゲームやりながら兄さんするには最適解だと思うよ」

「兄さんするって何だよ……僕はいつから動詞になったんだ?」


 ぼやきつつも、僕は頬を赤らめながらミドリの方を見やる。

ミドリは両手で携帯ゲーム機を持ちながらプレイしており、必然その腕で僕の腕を抱きしめる事は物理的に不可能だ。

そのため先に僕の腕を引っ張って……、その手をミドリ自身の太ももに挟むようにしていた。

非常に短いホットパンツから、タイツに包まれたミドリの脚がその曲線をあらわにしている。

流石に僕の手を挟み込むその位置は、太ももの真ん中あたりで、脚の付け根に向かわせるようなことはない。

それでもタイツ越しとはいえ、肉親のその太ももの感触を手で味わう形になっているのは、あまりにも煽情的で変な気分になってしまいそうだ。


「ん」


 小さく呟くと、ミドリが太もも同士を擦り合わせた。

自然、僕の指は太ももに潰されたまま、その肉に挟まれぐにぐにとしごかれることになる。

見ればミドリの持つゲーム機はポーズ画面になっており、その視線は僕へと真っ直ぐに向かっていた。

小さく、ミドリの口が開く。

真っ赤な舌がその口から飛び出て、ちろり、と何もない空間を舐めとる仕草をした。

うん。


「チョップ」

「ぐえー……いや兄さん、私まだ何もやってない……」

「言い訳無用チョップ」

「ぐえー」


 すぽっと抜き取った手で二度チョップすると、わざとらしいいつもの悲鳴を上げながらミドリが崩れ落ちた。

ミドリはポーズ状態のゲーム機をソファの奥に押し込みつつ、ゴロンと僕の膝の上に寝ころぶ。

僕の肩あたりでぐったりとしている姉さんと目が合ったようで、いよう、と小さくつぶやき片手をシュッと上げていた。

その上げた手でチョップの形のままの僕の手を取り、そのまま腹の上におろす。

おへその少し下辺りに、僕の掌を当てる形にする。

ニットの柔らかい感触越しに、ミドリのお腹の感触が返ってくる。


「っ……」


 思わず、深く呼吸をしてしまった。

それに気づいた様子のミドリが、視線を僕の目に合わせてくる。

今一度、ペロリとその真っ赤な舌が、自身の口唇を舐めとった。

薄っすらとコーティングされた唾液が、その唇をテカらせる。

小さく蠢く口唇の、そのディテールを、反射する光が明確にする。

その様があまりにも淫靡で、抑えていた欲望が煮えたぎり、立ち上がって……、そしてファウルカップに阻まれて痛みを寄越した。


「……」


 思わず瞑目。

そのまま小さく深呼吸をしてから目を開くと、滾っていた欲望はいくらか抑えられていた。

ミドリを、からかいの目で見ながら口を開く。


「そういえば、このままミドリのお腹押しちゃったらどうなるのかな?」

「やめて。中身出ちゃうから。美少女の口から中身出てくるの見ちゃったら、兄さんも特殊性癖に脳内汚染されちゃうんだからね」


 一瞬で涙目になってプルプルと首を横に振り始めるミドリに、思わず苦笑してしまった。

想定以上の反応に可哀そうになってしまい、撫でてやりたくなる。

とは言え僕の手はミドリの手によってゆるやかに拘束されている訳なので、仕方なしにそのままお腹を軽く撫でてやる。


「んぅ……!?」


 どこか甘い、うめき声。

上げてからミドリ自身目を見開き、遅れパチパチと瞬いていた。

小さく口を開け、呆然としてみせる。


「あ、あれミドリ? ごめん、普通に撫でたつもりだったんだけど、何か……」

「……分からないけど、その、大丈夫。大丈夫だから、その、試しにもう……」

「お姉ちゃんにも構え~!」


 ぐいっと、僕の左腕がより強く抱きしめられた。

暖かく柔らかいものが、潰れながら僕の二の腕を圧迫する。

見れば携帯端末をしまった姉さんが、僕の腕を抱きしめる力を強めていた。

そのまま外側、ソファのひじ掛け方面に流れていた僕の手を、片手で捕まえる。

姉さんの手が、僕の手を、手の甲側から抑え込む。

そのままゆっくりと、僕の手を連れて姉さん自身のお腹に置いた。


「あの、姉さん?」

「ユキちゃんにお姉ちゃんをなでなでする権利を上げよう!」


 姉さんは僕の左手の、その二の腕を抱きしめるようにして挟んでいる。

空いた片手で僕の左手の甲を抑え込み、自身のそのへその少し下、いわば下腹部に置いている。

当然、僕の掌は姉さんの腹部を少し持ち上げるような形に触れており、あまり力の入れやすい体勢ではない。

それでも、戸惑いながら姉さんの腹部をそっと撫でてやる。


「これは……うん……」


 呟く姉さんの腹部を、さするような仕草で撫で続ける。

姉さんは僕の肩に頭部を預けており、その表情は僕の視点から覗き見るのは難しい。

けれどその声の甘さと、僕の腕と手を抱きしめる強さが増していくことだけは、分かった。


「兄さん……」


 甘い声、ミドリが少し潤んだ目で僕を見上げる。


「ユキちゃん……」


 ヒマリ姉の艶やかな唇が、溶け落ちそうな言葉を漏らした。


 やばい。

何がやばいのだと言われても答えられないし、何ならその理由を明確に言葉にして思い浮かべる事そのものが不味いのだと直感している。

けれどその間違いない直感から、僕は逃れられる術が思いつかない。

膝の上にはミドリが寝ころんでおり、立ち上がる事はできない。

やんわりと起こそうとしても、僕の左腕はヒマリ姉にぴったりと拘束されてしまっているし、右腕一つでは難しいだろう。

こんな時はミーシャが助け舟を出してくれた物なのだが、彼女はもういない。

そしてそれを意識しても、憂鬱な気分になる前に両手の感触がそれを吹き飛ばしてしまう。


 姉さんの指が、僕の指と指の間に滑り込む。

そのまま、僕の手ごと揉みこむように、自身の下腹部をそっと揉みこんだ。

姉さんの手と腹部に挟まれた感触が、僕の手に生々しく伝わってくる。


 ミドリは、小さく口を空けていた。

顔を赤らめたまま、少し荒くなった呼吸で胸を上下させている。

その呼吸の感触が、腹部に置かれた手から伝わってくる。


 僕の意識が鈍く、生ぬるくなってきて。

ファウルカップの痛みも慣れて強い刺激に感じられなくなってきて。

二人の体に触れる手が、少し強さを増そうとした、その時である。


 ガラガラと、音。

脱衣所と浴室の間の扉が開き、父さんが風呂から出てきたのだ。


「…………」

「……あー、うん……」

「そだね……」


 僕らはくっついていた体を離し、少し衣服を整えると、肩を触れさせる程度の距離でソファに座りなおす。

僕とヒマリ姉は携帯端末を手に持ち、ミドリはソファの隙間に埋め込んでいたゲーム機を取り出しポーズを解除していた。

それから少しして、脱衣所の扉を空けて父さんが出てくる。

寝巻に頭にタオル、しっとりとした長髪を纏めたいつもの姿。


「上がったぞ」

「私先入るね。いい?」


 頷く僕らを尻目に、ミドリが入浴の支度に自室へと戻ってゆく。

父さんはドライヤーを求め、洗面所へ。

二人が離れてゆき、僕と姉さんは二人きりでリビングのソファに残された。

ふぅ、とどちらともなくため息が漏れる。


「ねぇ、ユキちゃん」


 姉さんは携帯端末を膝の上に。

じっと僕の事をまっすぐに見つめて、その瞳の色を僕に見せつける。

青い瞳。

電球色の照明の元、それはいつもの濃厚な空の色を示しながら、僕の顔を写し煌めいている。

軽やかで自由な空というよりは、窒息しそうなほど濃厚で密度のある、重く硬く、しかし何処までも広がっていそうな青空。


「私たちは、血のつながった……姉弟、だもんね」

「……うん」


 何一つ否定する理由もない言葉に、僕はただただ頷く。

それに、何故か姉さんは傷ついたかのような顔を垣間見せ、そして微笑んで見せた。

寂しそうな笑み。

思わず何かしてやりたくなるような笑みに、けれど何をどうすればいいのか分からない。

口を開こうとして、言う言葉も思いつかず、手を伸ばそうとして、伸ばしてどうしようというのか思いつかず。

固まってしまっているうちに、階上から入浴の準備を終えたミドリが降りてきた。


「じゃ、お先お風呂~」

「……うん、入ってらっしゃい」


 手を振りながら進むミドリを見送る。

それから僕を見つめる姉さんをチラチラと見ていたけれど、どうにも気まずくなってしまい、僕はしばらくして階上の自室へと上がってゆくことにしたのだった。




 *




 翌日。

今日は夕方に用事があるので、仕事は軽く三人で皇都西の森の魔物の定期駆除を済ませるだけにして、残る時間は自由解散。

姉さんとミドリは一部装備の点検で繊維研に、僕は普段の繊維研通いで済ませているので自由行動となる形だ。

他の用事であれば姉妹と行動を共にすることはあるのだが、今回は別行動となる。

と言うのも、繊維研で点検する装備と言えばまずはインナー系が多い。

女性陣のインナー装備の調整となると、流石に僕も行動を共にするのは遠慮させてもらったのである。


「……そういえば、久しぶりだな。一人で行動するのは」


 ここ数か月、僕が何の予定もなくぼんやりと一人で行動したことはなかったかもしれない。

夏以降、外出時の僕は半ば以上誰かと行動していた。

基本は姉さんかミドリ、たまにチセや下野間さん。

チセや下野間さんと会いに行く道中だったり、日常の鍛錬のような合間の時間を一人で行動することはあっても、それ以外は常に誰かと一緒だったように思える。

思った以上に皆に心配をかけていたのだな、と実感しつつ、コンクリを蹴って進む。


 電車を使って繁華街へ。

駅の人込みを抜け、込み合う北西側を避けて南側、繁華街の外れの方へ。

10分ほど歩くと小さなさびれた公園に辿り着き、僕は懐かしさに目を細めた。

錆びた遊具、僅かなざわめきとして、繁華街の騒がしさの余韻が流れている。

秋の終わりのどこか寂しい乾いた空気が、特に似合った光景だ。

ナギと出会った、僕がよく来ていた公園である。


「変わってない……なぁ」


 ここに来るのは、春先以来か。

ナギと出会い出掛けるようになってからはこの公園に来なくなってしまった。

その後ナギを手に掛けたあとは、どうしても足が遠のいてしまいここに来る気になれず、夏にミーシャを手にかけてからは、そもそも一人で自由行動すること自体がなくなってしまっていた。

郷愁のような心地なのだろうか。

互いに名前も知らなかったナギと共に過ごしていた頃の気分になりながら、何時もの小汚いベンチに目をやると、珍しいことに先客が居た。

おやと二度見すると、こちらに気づいたのか彼女が俯いていた面を上げる。

ひゅ、と思わず息をのんだ。


「コトコ……?」

「……ユキオ?」


 紺色の毛量の多いロングヘアに、碧玉の瞳。

11月半ばでまだ冬本番ではないというのに、ロングコートにマフラー手袋と完全装備の恰好。

幼馴染の淀水コトコが、そこに座っていた。


「……久しぶりだね。隣、いいかい?」

「……まぁ」


 呟くように言うのを聴きながら、僕はコトコに近づく。

見ればベンチはいつの間にか建て替えられたらしく、いかにも汚れづらそうなコーティングされた木材になっていた。

触れて汚れが殆どないことを確認してから、腰を下ろす。

コトコの隣、ちょうど掌一つ分ぐらいの間を空けて。


「夏の……一度お見舞いに来てくれた時以来だったっけ? あの時はありがとう」

「あぁ、うん……」


 気のない返事、コトコは先ほどからずっと足元に視線をやっていて、こちらに視線をやるまいとしていた。

表情も見えず、彼女の意図も分からない。

何か落ち込むようなことがあったのか、それとも僕が何かしてしまったのか。

問うべきか迷い、僕は保留の意味合いも込めてこの公園を見渡す。


「ここ、久しぶりに来たんだけど……、変わらずボロい感じで廃れてるなぁ。

 コトコは今日、ここにはたまたま?」

「……あぁ。なんだ、思い出の場所だったりするのか?」

「……うん」


 コトコが面を上げた。

僕とその緑に輝く瞳とで視線が合い……、その目に、どこか怯えのような色が見えるのを感じた。

しかし、怯えとは、一体何に?

僕は内心の疑問符は捨て置き、ひとまずコトコの問いに答える事にする。


「昔から、一人になりたくて、けれど本当にたった一人になるのは嫌で、でも家の近くは駄目で……。そんな時は、この公園に来ていたんだ。

 まぁ、勿論一人で電車乗れるようになってからの話だけどね」

「……へぇ、じゃあこの公園で会った知り合いは、私が最初だったりするのか?」

「……知り合いと出会ったのは、そうだね。……逆に……ここで知り合ったのは、ナギがそうだったけれど」

「ナギ……ナギ!?」


 叫び、コトコが立ち上がった。

動揺の滲んだ顔で、僕の顔を凝視してくる。


「コトコ……?」

「……なぁ、お前の口から聞きたいんだ。少し、質問させてくれ」

「構わないけど」


 僕に問いかけるコトコは、肩で息をしながら、体を震わせ、見開いた目で僕を睨みつけていた。

いや、コトコは元々少し眼つきが悪い所があるので、これも睨んでいるのではなく見つめているだけなのかもしれないが……兎も角。

どうしたのだろうと疑問に思いつつも頷いた僕に、コトコは深呼吸をしてから問うた。


「……お前は、長谷部ナギの事が……好きだったんだよな。その、好きっていうのは……」

「うん。好きだ。異性として、好きだ。両想いだった、と思う」

「ミーシャさんの事は……」

「好きだ。好きだった、っていう方が正しいかな。昔振られて……そしてあの日、告白された。告白の返事は……返せなかったけれど」


 コトコは、口を開いた。

何か言おうとして口を動かして、けれど声にならないようなうめき声しか出なくて……。

その口を閉じて歯ぎしりし、視線を僕から逸らした。

深呼吸の音。

震える視線が僕に向き、ピタリと視線が合う。


「分からないんだ、お前が」


 コトコは、静かに言った。


「普通……いや、私でも、あの状況なら本気で迷うとは、思うんだ。

 仮に私に、好きな人が居たと……して」


 その目が揺れる。

僕の全身を、コトコの視線が舐めまわすように動いていく。

やがて視線が僕の目とまた合って、ぴったりと僕らは見つめ合う。


「そいつが私に理解できない理由で、多くの人を手に掛けたり、社会を変えてしまうような事をしようとして。

 そしてそれが成されたら家族が、まぁ……傷つく、損なわれる、そんな状況にあったとして。

 そんな時私だったらどうするか、考えたんだ」

「……うん」


 脳裏を、ナギの顔が、ミーシャの顔が過った。

僕の理解を超えた理由で、世界全てに怒り、憎しみ、そして悲しんでいたナギ。

生来の種族で居る事が許されず、自分を偽り続けて生きて、自分の愛すら偽らねばならなかったミーシャ。

彼女たちと相反する選択肢には、僕にとっての"ここ"が、家族が常にあった。


「悩んで、苦しんで、結局どっちを選ぶのか……自分でも分からない。

 けれどまぁ、仮にお前と同じように家族と社会、そっち側を選んだのだとして」


 そして僕は、常に"ここ"を、つまり家族を、社会を取った。

大好きな人を、愛する人を殺して。

ナギの首を貫き、その瞳から光を失わせて。

ミーシャの首を貪り、その肉を食いちぎって。


「正直……二度と立ち直れないと思う。仮にどっちかだけだとしてもだ」


 コトコが、目を逸らした。

僕は、少しだけ目を細めて、自分を顧みて……、呟くような声量で言う。


「僕は、立ち直ってなんかいないよ。多分、無理して立ち上がっているだけだ」

「それは、そうなんだろうけど……。正直、無理して立ち上がる自分ですらも想像できないんだ。

 ああいや、責めているつもりはないんだけど、その……」


 コトコは目をつむり、ギュッと眉間にしわを寄せた。

大きく呼吸をし、見開いた目で僕を再び見つめる。


「分からないんだ。立ち直れたユキオの事が」


 音が消えた。

丁度繁華街側のざわめきの谷間にでもなったのか、薄っすらと聞こえていた喧騒が聞こえなくなった。

そして風がなくなったせいか、先ほどまで聞こえていた葉擦れの音さえもがなくなる。

近くに動く音は殆どなく、聞こえるのは互いの呼吸の音ぐらい。

それが、奇妙なほど大きく聞こえていた。


「理解が、できないんだ。

 私が同じ立場で立ち直れる自分が、誰かが、一切想像できない。

 正直夏頃までのお前は、立ち直ったようにみせて立ち上がれていないんだと思っていた。

 けれどユキオ、お前はミーシャさんに、格上の相手に立ち向かって、地獄のような戦いをして……勝った。

 少なくとも戦闘にコンディションを及ぼさない程度には、立ち上がれていた」

「……まぁ、そうなるかな」


 僕は思わず、目を細めた。

僕は自分が立ち上がれていたとは、正直あまり思っていない。

今でもナギの事は思いっきり引きずっているし、ミーシャの事だって同じだ。

けれど傍から見て、殆ど立ち上がっているように見えるというのも、理解はできている。


「どうやったらそうできるのかが、分からない。

 理解できない、想像がつかないんだ。

 だから、その……」


「怖い」


 コトコがそこまで告げると、大きく深呼吸をした。

碧玉の瞳が、上目遣いに、僕の目を見上げてくる。

それは確かに、僕に怯えているように、見えなくもなかった。


「分からないから、怖い。

 私は、その……お前の事、怖がりたくない。

 だから、その、分かりたくて」


 僕は、大きく息を吸って、吐いた。

直前にコトコが、抱えたものを吐き出した後にそうしたように。

僕はこれから、抱えたものを吐き出すために。 


「僕には"ここ"が全てだ」

「"ここ"が、家族が、僕にとっての全てだ」

「僕の夢で、居場所で、帰る場所で、守る場所で」

「僕には"ここ"以外の何物も……ない」

「だから」

「"ここ"を奪われるぐらいなら……誰が相手であろうと」

「運命の人だと思った相手だろうと」

「初恋の人だった相手だろうと」

「……この手で殺してみせると、誓って、こなした」


 コトコの目に、怯えの色が強く混じった。

それはもしかしたら、僕の両目に宿る青と赤の色のためかもしれない。

それとも単に、僕の言葉がやはり理解ししきれなかったと、そう思ったのかもしれない。

その内心を零さず、コトコはそっと僕から目を逸らした。


「……ナギも、ミーシャさんも。ユキオにとっての新しい"ここ"になれると、そうは思わなかったのか?」

「思わなかった。僕にとって"ここ"は……たった一つだ」


 僕は、二階堂ユキオ。

母さんに、二階堂ヒカリに、幸雄――幸せな人生を、と名付けられたその日から。

"ここ"で幸せになるために生きてきた人間なのだから。


「……そっか」


 寂しそうに言うと、コトコはベンチから立ち上がった。

少しの間僕をじっと見つめていたが、やがて僕に背を向け歩き出す。

僕は胸を張るような、泣きたくなるような、相反する奇妙な心地で、黙ってそれを見守っていた。

秋の終わり、乾いた風が落ち葉を運んで行く、錆びれた公園の中。

僕はベンチに座ったまま、ロングコートをはためかせながら歩いていくコトコの背を、じっと見つめていたのであった。




*




 コトコと別れて、暫くぼうっとしてから、僕は家路に付いた。

家族の中で一番早く家について、まだ在宅していた新しい家政婦と遭遇し頭を下げる。

現在、二階堂家は日中に家政婦を呼び家事の大半をこなしてもらっている。

掃除やゴミ出し、洗濯に夕食と朝食の仕込みまで。

どこか慇懃無礼と感じるような家政婦だが、下手に親しみを持たれるよりは随分と楽で、こちらの方がむしろ助かるか。


 その後部屋で身支度を整え、予定表を確認。

今日の予定には、夕食後に家族会議と銘打たれ時間が取られている。

父さんが主催する今回の話に、予め議題は共有されておらず、その時話すとだけ言われていた。

一体何が言われるのだろうかと、何とも言えない気分になり、小さくため息をついた。


 それから少しして、姉さんとミドリが帰宅してくる。

同じころに家政婦が仕込みを終えて帰り、入れ違いぐらいで父さんが帰宅。

家政婦の残した仕上げのメモを元に、事前の約束通り姉さんと一緒に夕食を仕上げた。

ダイニングで、何となく静かに四人で夕食を終え、食器を洗い終えて一息ついて。

父さんの声で、僕らはダイニングテーブルに四人揃う形となった。


「では、家族会議という形で……伝えるべきことを、伝えたいと思う」


 我が家のダイニングテーブルは、元々六人掛けだ。

母さんとミーシャが欠けてしまった今、家族は四人になってしまい、少し寂しい配置になってしまっている。

横長のテーブルのうち、僕と姉妹が片側、父さんと居なくなってしまった二人がもう片側。

バランスの悪くなってしまった席だけれど、それでも僕らは変えずにずっと同じ席に座っている。

誰も言い出さず、まるでそれが暗黙のルールであるかのように、僕らは自分の席を守り続けていた。


「ユキオ、お前は今、17歳だ。

 本来はお前が18歳の誕生日に伝えようと思っていたのだが、少し事情が変わってな。

 ……今日、この事実をお前に伝える」

「……うん」


 父さんは何時もの黒スーツのまま。

テーブルの上に組んだ両手を置きながら、細めた目で僕を見つめて言った。


「ユキオ。お前は……私とヒカリの、血を引いていない」


 ……?

僕は、まず言葉の意味が読み取れなかったことに気づいた。

音声がそのまま僕の耳に入ってきて、それが言葉ではなく音階として、例えるなら知らない言語の合唱曲みたいに受け取られたのだ。

それから受け取った言葉を、もう一度自分の中で再生し、一音づつ僕は日本語に起こす。


 "ユキオ。オマエハ……ワタシトヒカリノ、チヲヒイテイナイ"


 一文字ずつ音声から起こした日本語を、カナから言葉に起こし直す。


 "ユキオ。お前は……私とヒカリの、血を引いていない"


 そこまでしてようやくの事、言葉の中身が僕の中に意味として浸透をしてきて……。

え、と疑問符が湧いて出てきた。


「いや、え、え? でもだって、僕は、父さんの、父さんの……」

「ユキオ、お前の遺伝上の両親は……薬師寺アキラと、フェイパオ。

 私の仲間二人の生んだ、子だった」


 重力が強くなったみたいな気分だった。

内臓全部が飛び出て、腹や背中からボロボロと零れ落ちているみたいだ。

全身が地面に引きずり込まれそうなほどに、体が重い。

口が思うように、動かない。


「16年前、1歳のお前を連れてアキラとフェイパオが我が家にやってきた。

 赤子のお前を、フェイパオの実家……つまり仙人界に預けようとする、その道中だったという。

 生まれて1年経っているというのに名前すら付けていなかった二人に、ヒカリは烈火のごとく怒ってな。

 結果としてお前を我が家に引き取り……、そしてユキオ、お前の名を名付けたのだ」


 父さんの声が、とても遠くに聞こえる。

ぐわんぐわんと耳鳴りがして、言っている言葉が受け取り切れない。

致命的なエラーが生じたのだと、僕の魂が泣き叫ぶ。

震える喉が、どうにかして、僕の口から言葉を吐き出した。


「僕は、父さんの、子じゃあない?」

「違う!」


 僕は、ビクリと跳ね上がった。

椅子が音を立てるほどのそれに、父さんが痛まし気に目を細め……それも一瞬で、すぐに僕の目を真っ直ぐに見つめた。


「ユキオ、私の子は……息子は、お前だけだ。お前一人なんだ……」


 か細い声だった。

先ほどまでの僕にも勝るとも劣らないような、崩れ落ちそうな声。

それは不思議なほど僕の中にすっと浸透していき……内心の動揺が落ち着きを見せる。

次の言葉は、震えずに確りと言えた。


「うん。僕は、父さんの……子。"ここ"の……二階堂家の、子供」

「あぁ、間違いない。なぁ、二人とも」


 父さんの言葉に、隣のミドリがまず頷き、桃色の髪を揺らした。

ぎゅ、と僕の手を握って、僕と目を合わせる。

薄い空色の瞳が、僕の顔を写し込んで見せる。


「兄さんは、私の大切な兄さん。それは何も変わらないよ。だから、大丈夫」

「う、うん……」

「大丈夫、だいじょーぶ」


 ね、と微笑むミドリに、胸の中が暖かくなり、僕はほっと溜息をついた。

次いで、縋りつくように反対側を向いて、ヒマリ姉に視線をやり……その表情を見て、凍り付く。


「姉さん……?」

「え、あ、う……」


 姉さんは僕を呆然と見ていた。

口をポカンと空けて、見開いた目で僕を見つめている。

そこにある感情が何か読み取れず、少なからずそれが動揺であることだけは分かる。

僕は、思わずミドリの手を離し……、代わりに姉さんへと手を差し伸べた。


「姉さん……」

「その、そ、そうだね。ユキちゃんはユキちゃんで……変わらない、よね」


 明らかに言葉に詰まった台詞。

僕の伸ばした手を取らずに、ヒマリ姉はあははと誤魔化しの笑みを浮かべた。

こわばった笑み、その目は笑っておらず、ただ動揺に潤んでいて、そして。


「泣い。てる……?」

「え? あ、え?」


 ポロリと、その目から涙が零れ落ちた。

呆然と固まってしまう僕の前で、ポロポロとその涙は続けて零れてゆく。


「ま、待って。今驚いて、辛い事を知ったのは、ユキちゃんで。

 私じゃない、私じゃないのに、なんで、なんで!?

 とま、止まって……」


 指で涙を拭おうとする姉さんだが、そうやって言い募ってもその目から零れる涙は止まらない。

ばかりか勢いを増し、いつの間にか号泣になり果てていた。

僕は内心の動揺を押し殺し、立ち上がった。

ポケットのハンカチを取り出しながら、姉さんへと差し出しながら言う。


「待って、ほら、そんなに指で擦ったら可愛い顔に傷ついちゃうよ。

 ハンカチを渡すから、ほら……」

「止めて!」


 ぱちん、と。

僕の伸ばした手が、弾かれた。

ハンカチが僕の手から零れ落ち、ひらひらと床に落ちてゆく。

あ、と小さい声が、姉さんの口から洩れた。

ヒマリ姉の顔が、歪む。


「ご、ごめんなさい……。その、落ち着いたら話せるから、だから……い、今は……」


 姉さんは立ち上がると、涙を零しながら速足にその場を去って行った。

階段を上る音、恐らく自室へと姉さんは帰ってゆく。

僕はそれを呆然と立ち尽くしたまま見ている事しかできなかった。


 不意に、現実感が戻ってくる。

姉さんが泣いたショックと拒絶されたショックで埋め尽くされていた頭に、直前に聴いた事実が戻ってくる。

振り返る。

ダイニングの席に着いたまま、僕のことを心配そうに見やる父さんとミドリ。

この二人と、僕は……血がつながっていない。

改めてクラリとするような、事実。


「大丈夫だ」


 不意に父さんが、硬い声で言った。

僕を真っ直ぐに見つめて、微動だにしない体を少しだけ前のめりにして、硬く低い声で。


「大丈夫だ」

「うん……」


 二度の声に、僕は小さく頷いた。

それでも不足だったのか、もう一度父さんは口を開く。


「大丈夫だ」

「そう、だね。大丈夫だ……」


 と、僕は父さんの声に復唱して見せた。

すると父さんは、今度こそ満足してみたのか、薄っすらと微笑んでみせる。

口に出して言って見せたからか、本当に大丈夫な気がして……。

僕は崩れ落ちそうになる心地を、どうにか少しだけ、立て直すことに成功するのだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る