ex01-ミーシャのグルメツアー
1008年春、冒険者竜銀級試験の結果発表。
二階堂ミドリ、最年少合格。
二階堂ユキオ、不合格。
その結果を受けて、我が家ではミドリの合格パーティーが行われていた。
夜半、電球色の穏やかな光に包まれ、僕らは5人揃って食卓を囲んでいた。
「ミドリ、合格おめでとう!」
「ん……ありがと」
食卓に並ぶメインディッシュは、ミドリの好物……ハンバーグに極太のソーセージ、そして僕の作ったカレーライスだ。
サイドに魚介のサラダやバゲット、箸休めのピクルスなどが並び、華やかに演出している。
美味しそうな匂いに満ちた食卓に、皆思い思いに端を伸ばしていた。
甘めのソースで作られたハンバーグは、ミドリの好みにピッタリと合った味で、正直僕はもう少し赤ワインが効いたほうが好みだ。
しかしその僅かな不満も、満面の笑みで肉を頬張るミドリを見れば消えてなくなってしまう。
微笑みながら、僕もまた切り分けたハンバーグを口にする。
「うん、美味しいね。流石はミーシャ、僕じゃこうはいかないや」
「兄さんのカレーも大好きだよ? 我儘聞いてくれて、ありがとう」
「どういたしまして。でも、僕のカレーも、ミーシャ先生のお力添えによるものさ。ね?」
とミーシャに話を振ると、ふふんと微笑みながら胸を張る。
元より強調されていた胸元の白い布地が、はちきれんばかりに強調され、視線を下げればその胸元に吸い込まれてしまいそうだ。
眼福と言えばいいのか、危ないと言えばいいのか、何とも言えない心地になる。
苦笑気味になる僕に、ドヤァと効果音が付きそうな笑顔のミーシャ。
「私がメイド服を纏ってすぐでしたから……3年とちょっとぐらいですかね?
基本ができてからは月1ぐらいですが、ユキさんもまぁ中々美味しいカレーが作れるようになったじゃあないですか。
私の指導が良かった証拠ですね、いやー鼻高々です」
「そだね、私の誕生日のおねだりに応えて作ってくれたんだっけ。私のために覚えてくれたんだよね」
と、こちらも無表情気味ながら、フンスと鼻息を荒くするミドリ。
少しその表情を愛でてから、食卓のティッシュを取り、汚れた口回りを拭ってやる。
次のソーセージに箸を運ぶミドリを見やりながら、僕もまた食事に取り掛かりつつ、周囲に視線をやる。
父さんは相変わらずこういう時は、黙々と食事をしている。
たまに視線を僕にくれるが、やはり僕が不合格になった事を責める心地なのだろうか。
それでもミドリに素直に祝われて欲しいから、なるべくこの場は、僕はそのことを忘れつつ振舞う。
ヒマリ姉さんは、分かりやすい。
最初こそミドリを褒めちぎっていたが、食事が始まると言葉が少なくなる。
食事をしながらチラチラと僕に視線をやり、目が合っては逸らす。
僕の不合格を気にしてしまっているのだろう、後でフォローしなければいけないだろうか。
二人が話しかけない分、僕とミーシャがミドリに良く話しかけながら合格のお祝いを終えて。
そのままミドリを労り愛でながら、風呂に入って寝る時間まで、ミドリを一緒に居てやり。
夜中、自室に帰ってきてから……、ようやく一人になれて。
「…………」
春の夜は、まだ空気が冷たい。
人気のない部屋、空調をつけずにじっと佇んでいると、火照っていた体からゆっくりとその温度が抜けてゆき、冷えて硬くなってゆく。
温度と一緒に、何か大切なはずの物が抜けてゆくかのようで。
体がすっかりと冷えてきたころ、自然僕は独り言ちていた。
「来年の試験に供えて……、スケジュール、作らないとな」
才能が無いなら無いなりに、努力をしなければならない。
"ここ"に居るために。
"ここ"に居ることを、許される存在となるために。
時計を見て、スケジュールを見て、鍛錬計画の見直しを今からざっくり作る事に決める。
就寝予定時間を決め、余裕を持って携帯端末のタイマーをセットし、机に向かう。
計画表に使う大学ノートを取り、ペンを取って書き込み始める。
睡眠時間は脳の習熟と体の成長のため、削れない。
すると昼食を無くし、栄養補助食品でカバーする形で良いか。
週の必要数を割り出し、持ち歩く数や買い出しの頻度を決める。
最近使えるようになった切り札「運命転変」は消費の多さから乱発を控えていたが、これの習熟も必要だろう。
できれば有用な用途を思いつき、日常的に使用する事で練度を上げていきたい。
遊ぶ時間は元々なく家族とぼんやり過ごす時間に使っていたが、それも削って自己鍛錬に当てれば良いか。
と、計画を書き込み続けているうちにタイマーが鳴り、時間を知らせる。
思ったより早かったと思いつつ、ノートの全体を確認。
最低限、まずは試すべきメニューとスケジュールは出来ていたので、これで良しとしパタンとノートを閉じた。
深い溜息とともに、自分を呪いながら、独り言ちる。
「もっと……もっと、頑張らないと」
我が事ながら。
あまりにも空虚に響いた、言葉だった。
*
「……あ」
うめき声。
次いで、ぼんやりと視界が像を結び、辺りの光景を映し出す。
公園、昼、全身の疲労、仰向け、柔らかい物が頭に。
ぼんやりとしたまま起き上がり、倦怠感に頭を抑える僕に、声がかかった。
「大丈夫ですか、ユキさん。ほらドリンク」
「あ、うん、ありがとうミーシャ……」
手渡されたスポーツドリンクを飲みながら、ミーシャの方を見やる。
昼時の公園のベンチ、僕の隣に普段通りメイド服の彼女が腰かけて心配そうに僕を見つめている。
ゆっくりと、何故ミーシャが居るのかという疑問符が湧いてきた。
僕は人心地がつくまでドリンクを飲み、容器を返してからチラリと腕時計を。
朝だと思っていた時間が、いつの間にか昼過ぎになっている。
「……あー、うん」
そうだ、今日は運命転変の応用で技術習得速度を上げられないかと試していたのだ。
とすると、恐らく現状、僕はミスって力を使い果たして気絶してしまっていたのか。
今日は昼頃に家に帰る予定だったから、ミーシャからすれば予定を過ぎても帰ってこない状況だったのだろう。
そして恐らくミーシャは、携帯のGPSを辿って僕の様子を身にきて、介抱してくれたと。
……というか、もしかして今、僕は膝枕してもらっていたのだろうか?
もっと味わっておけばよかったという自分と、恥ずかしさに悶え苦しむ自分と、振った相手を無造作に膝枕するミーシャに戦慄する自分とが居る。
複雑な心地のまま、まずはミーシャに頭を下げた。
「その、ごめんミーシャ、心配かけて。ちょっと無理して気絶しちゃってた」
「駄目でーす。許しません」
と、ミーシャが両手でバッテンを作る。
プクッと頬を膨らませて全身で不満を露わにするのは可愛らしいのだが、許されないこちらとしては面食らうものだ。
どうしたものかと様子をうかがうと、ミーシャは両手を腰に、足を大きく動かし、わざとらしく僕に背を向ける。
「あー、今日はB級グルメツアーに行く予定だったのになー。
どこかの誰かが倒れちゃったので、フォローで行けなかったなー。
誰か一緒に行ってくれる人いないかなー」
その声色もどこかわざとらしく、決まり事を演技するような、舞台の上で観衆に伝わるよう大げさに演技するかのようなものだった。
稚気に満ちた優しさに、僕は微笑みながらその場で膝をつき、手を差し出す。
彼女の顔を見上げ、一言。
「お嬢さん、私と二人でお出かけしませんか?」
「……はい、喜んで」
顔は、逆光で良く見えない。
それでも僕の手を取る彼女の顔は、きっと見えなかったのが惜しいぐらいに、花開くような笑顔だったのだろう。
そのまま僕らは自宅に帰り、着替えて二人で出かけた。
流石にメイド服から着替えたミーシャは、キャスケット帽に水色薄手のオーバーサイズニット、白いペインターパンツと、春らしい姿だ。
少しボーイッシュさを感じる恰好に、口で褒め称えつつも少しほっとする。
あの場こそ乗って気障な誘い方をして見せたが、僕を振ったミーシャにフェミニンな恰好で出てこられたら、どう反応していいか分からなかったからだ。
「ではまず、ラーメンに行きましょう。今の時間なら、ギリギリ並ばなくて済むはずなので」
とミーシャは、僕の手を取り速足に歩く。
流石に僕の方が鍛えているはずだが、まだまだミーシャの方が背は高く、脚のコンパスの長さが違う。
小走りになりながらミーシャについていき、電車を乗り継ぎ繁華街へ。
連れられたラーメン屋に辿り着くと、ちょうど最初の客が捌けて数人の行列が進むところだった。
タイミングよく中のカウンター席に着き、ミーシャお勧めのトッピング付きのラーメンを頼む。
「これは所謂、ハイスペック醤油ラーメンです!」
「ハイスペック醤油ラーメン?」
思わずオウム返しに聞くと、ミーシャはピンと指を立て揺らしつつ、ふふんと不敵に微笑んでみせる。
伊達メガネを付けていれば、メガネをクイッとしていた所だろうか。
「ふふふ……よくぞ聞いてくれました。古典的な醤油ラーメンを現代にアップデートした物で、淡麗、上品系みたいに言われる事もありますね。昔ながらの醤油ラーメンの要素一つ一つを拘りの……」
うんうんと、楽しそうに解説するミーシャの話に相槌を打っていると、頼んだラーメンが届く。
透き通ったスープにコシのある麺、手の込んだメンマにチャーシュー。
僕はもっとガツンと来るラーメンの方が好きだなと思いながら、これはこれで美味しく舌鼓を打つ。
山椒のトッピングが良いなと独り言ちつつ、スープまで飲み切り完食。
無言で食べていたミーシャと共に外に出て、顔を合わせる。
「美味しかったね。トッピングもちょっと独特で良かったなぁ」
「……くっ、申し訳ないユキさん。きちんと下調べしたんですが……。美味しい範疇にあったのですが、もっと上のレベルを期待していました……! ちょっと無難というか、よくある感じに収まっていた……!」
「あ、うん。じゃあ、次に期待かな」
普段食べないジャンルのラーメンだったので細かくは分からないのだが、ミーシャ的にはNGだったらしい。
あまり突っ込んで聞かずに言うと、悔しがっていたミーシャがギラリとその目を輝かせ、握りこぶしを胸にやる。
「次はカレーです! 新規開拓ではなく知っているお店ですが、だからこそ確実な勝利をお届けしましょう!」
「うん……誰に勝つの?」
僕の疑問に答えず、ミーシャが僕の手を取り大股にズンズンと歩き出す。
慌てついていくこと20分程度、繁華街の外れ、人さびれた辺りの小奇麗な店舗に行列が並んでいた。
その最後尾の8人目、店内の客が一巡すれば入れそうなところに辿り着く。
「ふふふ、普段行列はあまり好きになれないんですが……。数店ツアーする時は、多少の行列も腹ごなしのうちという感じですね」
「うん。でも退屈に感じないのは、ミーシャと二人一緒なお陰ってのもあるかな」
「……そう、ですか。はい。うん、ふふふ」
と、ミーシャは口元に手をあて、目を細めて微笑んだ。
じっとしていられないかのようにモジモジとして、自身の指先同士を絡めたり、離れているのに温度を感じるような感嘆の溜息をしてみたり。
その間目はずっと僕の顔を見つめ続けているのだから、溜まらない。
まるで彼女が僕の事を好きなのでは、と勘違いさせかねないほどだった。
そう思って告白して断られたのは、未だに記憶に残っているが。
「……コホン、ここは無水カレーのお店です。水を加えず食材の水分だけで仕上げられていて、とっても濃厚なんですよ。お勧めはキーマカレーで、私は卵とチーズをトッピングするんですよね。ユキさんもどうです?」
「うん。折角だし、ミーシャのお勧めで行こうかな」
と、そんな話を暫くしていると、店内に誘導される。
先んじて注文を通しておいたので、そこまで待たずにカレーが提供された。
真っ白にチーズを広げた真ん中には、半熟卵がポツンと乗っている。
スプーンを入れると下のキーマカレーに白いご飯が顔を出した。
これは美味しいな、と感心しながらあっさり完食。
今度は大満足のミーシャと共に、お店を出る。
ほう、と満足げに溜息をつくミーシャ。
両手を胸に当て、キラキラと輝く瞳でどこか遠くを見つめる。
「やはりここは良いです……。故郷に来た気分になります……」
「故郷」
「私はここで生まれた気がします……」
「それは多分勘違いじゃないかな……」
どこからか5人ぐらいで総突っ込みを入れている声が聞こえた気がするが、気のせいだろうか。
確かに美味しかったが、流石に大げさにミーシャに呆れ気味に呟いた。
そしてその後も僕はミーシャに連れられ、何件も食べ歩いた。
「ちょっと粉物行きましょう! タコ焼きです!」
「そういえば、ここのはタコ焼きじゃなくてタコ揚げだ、っていう人いるよね……」
「私はこっちの方が好きなんですけどねぇ」
「甘味! せっかくなんで、近くにあるたい焼き屋はどうでしょう。天然物ですよ!」
「天然のたい焼きって何だろ……?」
「食べてみてのお楽しみです!」
そうして暫く回り、僕のお腹が膨れてきたころ。
恐ろしいことに、ミーシャはまるで堪えた様子がなく元気にしている。
冒険者は大量のエネルギーを消費するため、体質にもよるがかなりの大食いが多い。
しかしミーシャは一般人であるはずなのに、容易く僕と同程度の量をペロリと食べている。
普段の食事はあまり一緒に取ることがないので、こんなに食べるとは思っていなかった。
そんな風に戦慄している僕の前で、ミーシャはふふんとL字にした親指と人差し指で、顎を挟んだ。
「締めは、ステーキにしましょう!」
「締めステーキ……」
「勿論、焼き加減はレアで!」
締めステーキって、この単語の組み合わせ、もしかして生まれて初めて言ったかもしれないな。
どういう発想なんだろうと思いつつ、ミーシャに連れられお勧めのステーキハウスに入った。
店の奥まった二人席、向かい合って座りなんとなく微笑み合う。
飲み物とカトラリーが先にサーブされ、紙ナプキンを広げながら熱々のステーキを待つ。
「お待たせしました」
と真っ白な皿の上に出てきたのは、真っ赤な生肉だった。
5cm角程度に切られた小さなお肉。
火の通っていないそれは、血が滴り鉄と脂の臭いを醸し出す。
僕は触れても居ないのに、それが人肉なのだと確信していた。
「ミーシャ、これは……」
驚き見ると、にっこりと微笑むミーシャは、何も喋らない。
喋れない。
何故ならその喉が抉れ、空気がスカスカに漏れていたからだ。
まるで丁寧に計って切り取ったかのように、5cm角程度に切り取られた喉。
切り口からは、音もなく血が降りその服を真っ赤に染めている。
「う、うわぁっ!?」
思わず立ち上がろうとして、立ち上がれない事に気づく。
何がと見ると、僕の足を、膝を、亡者のような手が捕まえていたのである。
枯れ果てて今にも折れそうなその手が、万力を込めたかのように震えながら僕の体を捕まえている。
触感は、ない。
まるで何も触れておらず、服と椅子の感触しかないかのようにしか感じられないのに、確かに視覚はその手を捕えており、そして現実として僕の足は動かない。
そしてその手はすぐに増えて、今度は僕の両腕を掴みだした。
「や、止めろ、止めてくれ!」
僕の両手は亡者の手に動かされるままに、ナイフとフォークを掴み、ギコギコとぎこちなくその生肉を一口大に切り分ける。
全力で手を止めようとするが、全く体が言う事を聞かず、それどころかその肉を切り分ける感触を、食器越しに僕へと伝えてくる。
吐き気を感じつつ、僕は全力を込めて口を閉じた。
絶対に口を開けてはならないと、奥歯を割るつもりの力を込める。
しかし何処からか現れた亡者の手が、顎を掴み、また僕の唇を引っ張り、歯茎を撫で、口内に入ってゆく。
然してかからず口はこじ開けられてしまい、その先にフォークを差し込まれた肉片が迫ってくる。
もはや僕は口を自由に動かせず、ただただ涙をポロポロと零す事しかできない。
こじ開けられた口の中に、ひょいとその一切れが、含まれた。
顎を掴む手が、強制的に僕に咀嚼をさせる。
歯が、舌が、その味を、感触を、僕の記憶に叩き込む。
不可能な絶叫が、僕の脳内だけに響く。
やがて気づけば、僕はうつ伏せになっていた。
暗い夜の帳が下りた後、巨大な術式光が背中から僕を照らしている。
僕は頭でミーシャの喉にのしかかるようにしていた。
ボロボロのメイド服を着た彼女の上、僕の四肢はまともに動かず、顎と首、背筋だけで無理やり動いていて。
獣のような声を上げながら、運命の糸キバで彼女の喉を切り裂き、噛みつき、引きちぎる。
肉片が口の中に入り、それを吐き捨てる時間すら惜しい。
鼻がつまり、口から息を大きく吸い込み、肉片のエキスも血も喉から僕の胃腸へと流れてゆく。
それでも時間も余力もなくて、僕は泣きながらミーシャのその喉を貪り食いちぎって、食って、食って、食って……。
「ねぇ、美味しいですか?」
聞こえなかったと確信している声が、聞こえてくる。
「良かったぁ」
言われなかったはずの言葉が、伝わってくる。
「えへへ、火は入っていないですが、まぁ超激レアの肉ってことで、勘弁してください……」
今正に喉を貪られているミーシャが、屈託のない笑顔を浮かべていて。
「だいすき」
上げられたはずのない、僕の絶叫が響き渡った。
*
「……う……」
飛び起きて。
どうにか間に合い、トイレの便器に、胃の中身を吐き出して。
途中から無限に胃液を吐き続けること数分、どうにか体が落ち着いてくる。
何度目かになる水洗で便器の中身を流すと、僕はよろよろと立ち上がり、洗面所に辿り着いた。
口を濯ぎ、それから鏡を見つめる。
「……酷い顔だ……」
死人のような顔だった。
瞼の上は落ち込み、頬はこけて唇はシワだらけ。
先ほど死ぬほど吐いてきたため、目は充血し涙に濡れ、唇は震え肩で息をしている。
ミーシャとの決着からそろそろ四週間、僕はこの間一切肉類を食べられていない。
栄養補助食品でタンパク質やアミノ酸、ビタミンと言った栄養は摂取しているが、それでもどこかバランスが崩れてしまっている気はする。
それに僕は肉の焼ける臭いすらダメで、この間家族らの食事はなるべく外食をお願いしている。
まぁそも、家できちんと家事をする時間を取れる人が居ないので、今は家政婦を雇う事を検討している所だが。
脳裏を、川渡の姿が過る。
歪んだ笑み、裸体、踊る真っ赤な舌、暗い口腔。
頭を振り、どうにか奴の姿をかき消す。
この大変な時に、肉を食べられないわ家政婦に抵抗があるわ、我儘言い放題の自分に苦笑した。
「僕は……本当に役立たずで……」
そして初恋の人を、家族の一員を、凄惨な形で殺してしまった僕は……。
と。
次の言葉が頭の中で組み上がるより早く。
キラリと、鏡に映る僕の右目が、赤く輝いた。
「…………」
黒い瞳が、この瞬間赤く染まり、ミーシャの瞳を、そしてその魔剣を思わせる色となる。
ミーシャの魂の欠片が、表出した事を示す視覚的現象。
魂の声を聞けない、未熟者の僕が捉えられる、唯一の彼女の魂の残滓。
それは心配そうに、そしてまるで慰めるかのように、輝いている気がする。
「あぁ、うん、そうだね」
上半身を、乗り出す。
洗面所の鏡の、その両端を手でつかむ。
ピッタリと鏡の間近に、僕自身の目が、ミーシャの魂が良く見えるように近づいた。
「僕は、君を……殺したくて、殺した」
「やろうと思えば、僕は君と二人きりで逃げる事は出来た」
「何よりも君を優先する気概があれば、君を殺さない選択肢だって、選ぶ事は出来たはずなんだ」
「僕は……そう、しなかった。出来なかったのではなく、しなかった」
「自分自身の意志で決断して、しなかったんだ」
「自分自身の意志で決断して、君を殺したんだ」
「貪り、食い殺したんだ……」
ポロポロと、目尻に溜まった涙が、零れ落ちる。
こうなるともうダメだ。
視界はぐちゃぐちゃに歪んでしまい、僕の赤い目が何を語ろうとしているのか何も分からなくなってしまう。
嗚咽を漏らしながら、僕は鏡に縋りつく。
まるで、その鏡が僕を助けてくれるのだとでも言うかのように。
精神的にも肉体的にも、僕は現状限界だった。
それを糊塗しながらの生活も、所々ボロが出ている。
見なかったことにしてくれる家族に甘えながら、僕はただただ、体中の水分を涙にして零しながら、泣き続けている。
それでも何時かは、僕はまた立ち上がるのだろう。
傷が癒え、そのかさぶたの中に血をにじませながら、歯を食いしばって歩き出すのだろう。
"ここ"のために。
家族のために。
そしてそれを望む、自分のために。
……しかしそれには、今しばらくの時間が要りそうだった。
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