05-残響と裾、釦




 "自由の剣"事件、当日。

ミーシャの目の前で、ユキオが龍門に同行を断られ、姉妹が家を出て。

二人きりになった静かな家で、ミーシャは崩れ落ちたユキオを静かに見守っていた。


 正直に言って、ミーシャはナギの事が憎かった。

結果として告白を断ったミーシャの言う事ではないが、まるでナギがユキオを寝取っていったように感じたのだ。


(ユキさんは、私だけに告白したのに)


 ユキオは、ナギに告白はしていない。

これはからかいついでに聞きだしたので、間違いないだろう。

けれど間違いなくその時、ユキオの心はナギに向いていた。


(理解、できない)


 ナギはあのままユキオと共にある事を選べば、結ばれる事ができたはずだ。

しかしその未来を捨て去り、意味の分からない殺戮と革命に残る全てを捧げて見せている。

その決意と言葉を聞いていないミーシャに、彼女が何のために何を為そうとしているのかは、分からない。

しかし少なくとも、ナギがミーシャが何よりも価値を感じているものを投げ捨てていることは、確かだった。


(許せない、けど)


 斬首結界。

ナギの切り札たるその力は、この時点でミーシャは詳細を知らなかったが、最低限勇者が攻めあぐねるほどであることは確か。

ハッキリ言って、ミーシャはナギに殺意を持っていた。

しかしながら、その難易度と、既に勇者と敵対していることを思えば、わざわざ自身が手を下すまでもない、とも考えていた。


 そのミーシャの前で、ユキオは凄まじい形相で、絞り出すように言って見せた。


「ナギを、殺す。……仮に、この手で殺す事に、なったとしても」


(私の、ために? ……いや)


 一瞬、ミーシャは勘違いをした。

ユキオが、自分のためにナギを殺そうとしてくれているのではないかと。

すぐにそれは間違いなのだと思い直す事ができたものの、それでも重ねた想いは決してなくならない。

その醜い勘違いを押し込めようとするミーシャの前、ユキオは言う。


「大丈夫。勝算は、ある。汚れていい服装で……浴室に来てほしい」


 浴室。

ユキオが汚された、そしてその映像を何度もミーシャが見た、その現場。

辛うじて返事をしたミーシャは、ふらふらと危ない足取りで部屋に戻った。


 念のため、と唱えつつ、ミーシャはまず全裸になった。

自身の体を全身鏡でチェックしながら、ウェットティッシュとタオルを使い、全身を丁寧に拭った。

その上で万が一を考え買ってあった、複雑なレース編みの入った、煽情的な下着を身に着けた。

そのまま軽く、ポーズ。


 ミーシャは今年、21歳である。

銀髪赤目の珍しい容姿、雪のように白く滑らかな肌、つけた下着はコントラストが映えるよう黒を選んでいる。

スタイル維持にも努力は欠かしておらず、胸もヒマリより大きい。

ネット上で見たグラビアアイドルと比べても、恐らくは戦えるな、と自画自賛。

所謂勝負下着の上、汚れても良い服を、しかし幾らか肌の露出を多くしながら着こなして見せて、浴室に向かう。

深呼吸。

曇りガラス越しに見える、愛する人のシルエットを見据えながら、ドアに手をかけ、開く。


「ぁ……」


 最初に目に入ったのは、光だった。

その日その時、浴室の窓から太陽光が強く差し込み、ユキオがまるで後光を背負っているかのように、強く光輝かせて見せたのである。

遅れ光量に順応した目が、その肢体を映して見せる。


 下の肌着一枚の、ユキオの肉。

光に照らされたその肌は白いのにどこか艶めかしく、筋肉が描く複雑な曲線が、どこまでも辿っていける優美な角度を描いている。

肘の裏、その内側の窪みが、ミーシャに向け投げ出されていた。

少年の未成熟なそれを思わせる肘窩が、ミーシャの目を釘付けにし、口内に涎を分泌する。

視線を逸らすと、今度は、ユキオの膝小僧が目に入った。

小さく、薄い膝がしら。

白い肌の中、そこは少しだけ赤味が強く、ミーシャはそこに吸い付きたくなるような引力を感じた。


 何とか視線を逸らし、顔をだけ見ようと視線を上げようとし……太ももを辿り、股間に行きつき。

……気のせいでなければ、甘く、勃起している。

下着を僅かに押上げ、そのモノの形を明らかにして。

気のせいか、酸っぱい、鼻に刺激を与える臭いを僅かに感じ。

歯噛み。

釘付けになって剥がれようとしない視線をどうにか跳ね上げると、今度はその腹に行きつく。

脂肪を極度に避けようとしないユキオの腹部は、腹筋はほんの薄っすらと割れているだけだ。

手でその薄い線をなぞってやりたい欲求を、なんとか抑えつつ、ミーシャは一気に視線を上げる。


「う……」


 ユキオは、ミーシャではないどこかを見ながら、苦悩に顔をゆがめていた。

恐らくは、川渡に汚された日の事を、思い出しながら。

その歪んでしまった唇に、口付けてやりたい。

そのまま舌を入れ込み、頭を抱いてやりたい。

ミーシャは、その衝動を抑えるので、必死だった。

ユキオの口唇が、滑らかに歪むその光景に、ミーシャは思わず生唾を飲み込んだ。


 前後の状況から、性的な誘いではないと解っている。

恋人のような相手をこれから殺しに行くと宣言した少年が、舌の根の乾かぬ内に他の女を誘う訳がない。

そう解って居てなお、目の前の少年から漂う色香が、ミーシャの理性を惑わしていた。


「随分と、セクシー路線ですね?」


 辛うじて、ミーシャは、口を開くことに成功した。

毒気を抜かれた様子のユキオが、感謝を視線に乗せつつ、解説を始める。

これからユキオが行う物事は、観測者が居た方がリソースが節約できる。

理論上成功率は100%。

ただし終えると、汚れたうえで気を失ってしまうのだという。

そのフォローが、ミーシャが呼ばれた意味だった。


「では……始めるよ」


 そう告げて、ユキオは……断頭台を、自らの首に作り上げた。

ダン! と、大きく重い物を叩きつけた音。

血飛沫が輪になって広がり……、遅れ、ユキオが崩れ落ちる。


「ユキさん!?」


 叫びユキオを抱えると、彼は既に気絶していた。

その首に赤い痕と、それを覆う青白く光る糸が残っている。

ユキオは、ギロチンで首を落とし、そしてその首が落ちる刃に追い付くような超速度で、首を編み上げ再接着したのだ。

つまるところ、ユキオは自らの首をアタッチメント化することに成功していた。

それも恐らくは、ナギ、あの女を殺害するために。


「……焼けちゃいますね」


 思わず、ミーシャはボヤいた。

感情の内容こそ殺意であるものの、それでも今ナギは、自分よりも強い感情をユキオに持たれている。

今のこの光り輝きつつも怪しい色香のある少年に、である。

あぁだが、その美しい少年は、今意識を失って、ミーシャの手の中にあった。

ミーシャは、そっとユキオの首の、その痕に触れた。

青白く光る線を、なぞっていく。

支える手を構える腕を調整しつつ、ぐるりと一周。

終えて持ち上げた手には、ユキオの傷跡から漏れた、血がべっとりとついていた。


「ん……」


 ミーシャは、その掌にそっと口付けた。

鉄と脂の臭いに味。

その唇が、真っ赤に鮮血に染まり……、ミーシャは浴室内の鏡を見て、そっとその口唇の血化粧を直した。

綺麗に、唇が赤く染まるように。


 それからミーシャは、ユキオを湯船に座らせ、洗い場の血を流した。

そしてユキオの体に付いた血を拭い取り、彼を抱えようとして……気づく。

一度、パンツを脱がせた方が良いのではなかろうか?


「…………いや、本当に、必要ですよね?」


 人が死ぬと、不随意筋がその緊張を辞め、人糞を垂れ流す。

ユキオは死んでこそいないが、自らの首を刎ねた以上、一瞬死んだようなものだった。

とすれば、脱糞していてもおかしくない。

当然それなら、パンツを脱がせて掃除をしてやらねばならない。


「……に、臭いは……」


 ミーシャは、ユキオの尻に鼻を近づけた。

特段、変な臭いはしない。

僅かながら、汗と皮脂と、そしてアンモニア臭。


「……触診、触診ですからね?」


 ユキオのパンツは黒いボクサーパンツで、伸縮性の高い化繊製で、ピッタリとフィットしている。

生の尻と形は変わらないその尻を、コホンと咳払いしてから、ミーシャはそっと撫でた。

冒険者らしく筋肉が付いており、ゴツゴツと硬い。

しかし硬いながらにプリッとした弾力があり、これが少年の尻なのかとミーシャは関心してみせた。


「……や、でも大丈夫そう、ですかね?」


 言いつつも撫でる手を止めず、徐々に触れる範囲を広げていく。

するとふと湿り気を感じ、その箇所で手を止める。

尻の割れ目を辿りにたどったその先……、柔らかい感触のあたり。


 無言でミーシャは、ユキオを仰向けに横たえた。

上下する胸を数秒見つめてから、その股を開かせ、間に体を押し入らせる。

深呼吸をし、パンツのゴムに、手をかける。

ポロンと中身が零れだすのに、なるべく視線をやらないように、そのままパンツを引き下げる。

ある程度まで引き下げてからは、ユキオの脚を動かし、片足ずつ脱がせた。

脱げたパンツに手を触れ、なるほど、と頷く。


「やはり、小のほうが少し、という所ですか。事前にトイレぐらい行っていたでしょうが、ある程度は仕方ないのでしょうね」


 さて、と呟き、ミーシャは再びユキオの体に目をやった。

今度こそは、全裸になったユキオ。

ミーシャに脚を広げられ、まるでミーシャに股間を見せつけるような姿勢をさせられていて。

意識のないまま、穏やかに呼吸をしつつ、その淫靡な物を露わにしている。

その股の間に立位でマウントを取るミーシャは、その少年の血で唇を血化粧しているのだ。


「なんていうか……強姦魔の気持ちになりそうです……人格ねじれそう……」


 身震いし、恐怖と興奮で半々の心地。

それを恐怖に偏った台詞をわざわざ口にする事で、ミーシャは自身の内心を欺瞞した。

そうでなければ、本当にこの場でこの少年を押し倒してしまいかねなかったのである。


 ミーシャは唇の血化粧を舐めとり、無心でユキオを清めた。

流石に股間を拭くときには生唾を飲み込み、息が荒くなったものの、なんとか性的な行いは控えた。

ちょっとぐらい色々揉んでしまったかもしれないが、それはコラテラルダメージというものだろう。

最後に新しい同色のボクサーパンツを履かせて、ユキオの部屋のベッドに寝かせた。


 ユキオが目を覚ますまで、1時間となかった。

同じ部屋で見守っていたミーシャは、寝ぼけ眼で起きたユキオの準備を手伝った。

長丁場だろうからと用意していた軽食を取らせ、着替え武装を終えたユキオを見送る。


「ありがとう、ミーシャ。……行ってくるよ」

「行ってらっしゃい、ユキさん……」


 愛する人を殺すために家を出るユキオを見送り終え、ミーシャは深くため息をついた。

ミーシャは、ユキオの事を愛している。

それが性欲によるものなのか、それとも純粋な愛情によるものなのか、ミーシャには解らない。


 あの日川渡に汚されたユキオを見て、ミーシャは凄まじい興奮を感じた。

それは今でも変わらず、ミーシャはいつもユキオの様々な映像を使い、日夜自身を慰めている。

選別の前夜、ユキオに抱きしめ慰められ、泣き疲れて寝落ちするまでユキオと抱きしめ合った日。

あの日からか、それともそれよりずっと前からか、ユキオはミーシャにとっての特別だった。


 自身の愛が何に起因するものなのか、解らず。

しかしどちらにせよ、ミーシャはユキオにその愛を伝える事が、許されない。


「……もう、嫌です」


 玄関口、ユキオを見送り閉ざした扉を見つめたその姿勢のまま。

ミーシャは呟き、涙した。

目尻から溢れる涙滴を、流れるままにそのまま零す。


「ユキさんに、愛していると、伝えたい」


 受け入れてもらえるかは、分からない。

何年も前に告白を断った相手であり、ユキオはその後別人を……ナギを愛するようになった。


 今日ユキオは、きっとナギを殺害するだろう。

ミーシャはナギの実力の程を知らなかったが、ユキオの恐怖と評すべき戦闘能力は知っている。

ユキオが明確に勝ちを見て準備している今、その殺意は必ずナギを始末してくれる筈だ。

しかし愛する人をその手で殺したユキオが、そのすぐ後に愛の告白に応じてくれるとは、限らない。

傷が癒えるのが何年後なのかは、分からないとしか言えないだろう。


 それでも。

もう、後悔はしたくないから。


 ミーシャは、ここに至るまでを振り返った。

過去。

物心つく前のおぼろげな記憶、二階堂家に引き取られヒカリに迎えられ、育ち、ユキオの告白を断り、川渡がユキオを汚し、ユキオがミーシャを慰め、そして青と赤。

ユキオはナギに恋をし、ミーシャはそれを見ている事しか許されず。


 それを成し遂げた所で、ユキオが受け入れてくれる保証なんてない。

それどころかその代償に、ユキオは反発すらするだろう。

けれど、これからもユキオが誰かに恋し愛するのを、見ている事しかできないなど耐え切れない。


 ――ミーシャの内心に、決意が沸き立った。




*




 再び、U市北西の低山地の草原。

先の仙人達との戦闘痕が残り、草の高さや量はまばらで地面が見えている部分も多々ある。

初対面でスカートを捲ってきた女仙達の事を思い出す。

泣きながら、絶望した顔で自身のスカートを捲ってくる美女達は、子供であればトラウマの一つでも植え付けられそうな光景だった。


「……ここ、かな」


 前回運命転変を使った場所。

遺体の発見場所ということにもなり、現場保全のため囲いが作られているそこに、立ち入る。

爆発の前兆がそうさせたのか、地面の草はなくなり地肌が丸出しになっている。

白っぽい灰色の土は、いかにも栄養素が少なく、低い草しか生えなさそうな見目だ。

僕はその中心に腰を下ろし、胡坐をかいた。


「じゃあみんな、護衛は頼むよ」

「安心してね、うへへ、お姉ちゃんは今お姉ちゃんパワーMAXだからねー」

「私は妹パワーが足りない。終わったら早急にハグが必要」

「うん、頼むね」


 言いつつ、呆れながら見守るコトコに目配せする。

溜息をつきながら頷いてくれるのに安堵しつつ、最後に視線をソウタへ。

こっちを見もせず、横顔だけ見せて鼻をほじっていた。

元々少なかった期待を無くし、汚いなとだけ内心ボヤいて視線を姉妹へ。

目の保養をしつつ、手を組み座禅を組む。

目を、閉じる。


 運命転変。

僕の切り札であり、固有術式"運命の糸"の到達点。

戦闘中に使えば、それは数秒程度時間を撒き戻し、他の可能性に前提条件を組み替えた上で時間を再開させる。

親和性の高い相手だと運命転変の発動を感知されてしまうが、基本的には相手の切り札を知ったうえで時間を撒き戻し、有利な状況に組み替えたうえで時間を再開する、といった運用をしている。


 そしてコイツは、何も戦闘中にしか使えない技ではない。

非戦闘時、鍛錬での使い方の方が、むしろ強力なのだ。

運命転変は、0%でなければ、リソースの足る限りその可能性を引き寄せ成功させることができる。

ファジーな使い方であればあるほどリソースの消費は多くなるが、それでも恐ろしく有用な技であることに間違いない。

普段使いでは剣のコツや糸の使い方のコツの会得に、切り札としてはかつてナギとの決戦前、自身の首を切断しアタッチメント化した技を強制成功させた。


 そして前回。

仙人の自爆を見て使った運命転変は、違和感だけで使い方の分からない術式を使用できた。


 恐らくは、仙人達を使役していたのは、魂に関連する固有術式なのだろう。

そして僕は、運命転変の力により、その術式の汎用版を、正体を知らずに使っていたのだ。

であれば。

おおよそどんな術式であるのか認識できた今なのであれば。

その魂の汎用術式を、運命転変で会得できる可能性がある。


 もちろん運命転変は、リソースが足りなければ成功しない。

0%でなければ理論上発動自体は可能だが、それに足る燃料を注がなければ成功はしないのである。

もしかしたら、春先の僕では同じ状況でも、成功はできなかったかもしれない。

だが今の僕は、かつての僕と違う。

左目に宿る青い光、恋する人をこの手に掛けたその残り香が、僕を圧倒的なまでに強くしていた。


「運命、転変」


 瞬間、見えていないはずの世界が、色を変えたのを感じた。

全てが黒くなり、その上におぼろげな白い輪郭線が描かれるだけの、不安定な世界。

その中心で僕は座禅を組み、ピッタリと動きを止めている。

呼吸は長く、細く。

外部の音や振動が次第に消えてゆき、肌に触れる空気の動きさえも感じられなくなってゆく。

呼吸と心臓の動きが、嫌に五月蠅い。

そのうちに息を吸って吐くという感覚すらなくなり、心臓の音すらも聞こえなくなってゆく。

最後に心臓のその鼓動、体に血を押し流すその動きすらもが意識から消えてゆき、無に沈んでいった。


 肉体の感覚を無くした僕は、意識一つとなっていた。

五感すべてが掻き消え、物を考える頭すらもが主体的に考える力を失い、ただただ感じたモノを受け取るだけになっていた。

何時しか、視覚的ではない輪郭線だけの外界は見えなくなっていた。

暖かい常闇の中、僕は確かに、見た。

銀。

赤。

白い手。


「……ぷはぁっ!」


 息を大きく吐き出す。

座禅を崩し、地面に手を突き倒れそうな体を支える。

肩で息をし、足りない酸素を兎に角供給する。

ぶわっと全身から汗が吹き出し、体中が汗でグチャグチャになった。


「ユキちゃん、大丈夫!?」

「スポドリ。そこそこ冷えてるよ」


 心配する姉さんに答える余裕もなく、ミドリが差し出したスポーツ飲料を手に取り、ガブ飲みする。

500mlのペットボトルを、そのまま一気飲み。

それでも足りないのか、摂取した水分が次々に汗になって出てくるかのようだ。

全身から吹き出す汗が止まらず、結局それは2本目のペットボトルを飲み干すまで続いた。


「……なん、とか、会得したよ。魂の固有術式の、汎用版」


 どうにか人心地ついた僕の言葉に、皆が安堵の雰囲気を見せる。


「多分、自己使用と、同じタイプの術式の利用検知ぐらいはできるようになった、と思う。

 自己使用は……多分、死にづらくなる感じかな。魂を改変する事で、脳じゃなく魂に全情報を置いて置けるようになる感じ、っぽいね」

「なるほどな……。まぁ本格的に検証したら他の利用方法も出るかもしれんが、現状だとそんな感じか。

 まぁ最低限、探知ができるようになったのはデカいな」


 コトコが呟くのに、頷く。

しかし、と僕は自身の掌を見つめた。

無限と思えるほど吹き出た汗は止まったが、疲労のあまり震えている。


「……見ての通りだけど、消耗が想像以上だ。ちょっと……一度本格的に休まないと、役に立てそうにないかな」

「……ベンチで寝たぐらいじゃ辛そうだな。ホテルで部屋借りて、休憩させたほうが良さそうだ」


 コトコの台詞に、休憩……ご休憩……と謎の呪文をボヤく姉さんは置いておいて。

ミドリに視線を、こちらを心配そうに見つめる目と、目が合う。


「ミドリ、少し背を……いや、肩を貸してくれるかい?」

「勿論。……でも、姉さんじゃなくて、いいの?」

「うん。それにさっき、ハグしてほしいって言ってただろう? そのものじゃないけどさ。……あぁでもゴメン、ちょっと汗臭いかな」

「大丈夫。貸す。オールオッケー」


 物凄い早口で言うと、ミドリが僕の前で背を向け、腰を下ろす。

ん、と後ろ手を伸ばすのに、思わず目を瞬いた。

ミドリとて後衛とは言え、上位の冒険者だ。

僕の体重ぐらいは支え切れるとは思うが、しかし。


「おんぶできるの? 結構重いし、体格的にキツくないかい?」

「重くて、大きな兄さんにのしかかられる……? 今エッチな話した?」

「してないよ……。まぁ、大丈夫って事だね」


 呆れながら何とか膝立ちになり、ミドリの背に体を預ける。

腕を絡め、体を密着させる。

しっかりと太ももを持ち、ミドリが腰を上げた。

ミドリの肩にアゴを乗せ、ふぅ、と力が抜けて溜息。

その息が少しかかってしまったのか、ミドリが小さく呻いた。


「ん……兄さんの重みと、匂い……くんくん」

「嗅ぐのはちょっと止めてくれ……流石に恥ずかしいよ……」

「……もう一回言ってくれる? 「流石に恥ずかしいよ」って。できればもうちょっと耳元近くで」

「コラ……」


 コツンとやるのは体勢上無理なので、声で小さく叱るだけにする。

何故かそれに、ミドリが身震いした。

この娘、無敵か?

内心で呟きながら、ミドリの背の、規則正しい揺れにぼんやりと眠気を増幅されてゆく。

山道を出るよりも早く、僕は意識を手放していた。




*




 蝉の鳴き声が、太陽光の暑さをより増しているようだった。

風の少ない立地に、じっとりと湿った空気が、重く、滞っている。

汗の皮脂の臭さに草の青臭さ、湿気のぬめりある質感の空気、夏の辛さを閉じ込めたような空気であった。


 木々の影を抜けると、本格的な陽光が射してくる。

生命を焼き殺さんばかりの熱に、龍門は思わず目を細めた。

日除けに黒いパナマハットを被っているが、それでも普段通りの黒づくめのスーツでは辛いところがある。

流石にサマーウールでアンコン仕立てのスーツだが、それでも人が死にそうな陽気が相手では焼け石に水といった所だ。


 坂道を登ると、幾分風が通り空気が良くなる。

舗装された道を暫く上り、階段を上がってゆくと、小高い丘の上、他のそれより大きなスペースにそれがあった。

墓だった。

整備された芝生の中心、黒々とした幅広の墓石が置かれ、多くの花が添えられている。

幅広の石には龍門の妻、二階堂陽花里の名が刻まれていた。


 龍門はまず、墓を観察し、汚れがない事を確認する。

龍門は妻が亡くなってから15年、ほぼ毎月墓参りに来ている。

初期はそれこそ絶えない程の人々が墓参りに来ていたのだが、流石に年月が経つと人は減り、墓の整備も頻度がまばらになりつつある。

尤も人が来るのは勇者展の前後であり、つまるところ来月である。

案の定墓石に汚れを見つけ、桶から水をかけてやった上で、スポンジやブラシで磨いてやる。

終えて水を交換してやり、それから持ってきた花を供える。

最後に線香を供え、両手を合わせた。


 どれ程経ったか、気づけば太陽の位置が高く昇っていた。

目を開き合わせた手を離すと、見知った気配を感じ振り返る。

半袖のシャツにスラックス、まるでサラリーマンのような出で立ちの男。

福重国久、忍者と呼ばれる龍門の戦友である。


「……福重、君もか」

「えぇ。……後ほど、少しだけ雑談をしても」

「構わない」


 龍門が引き場所を譲ると、福重は持ってきた花と線香を供え、両手を合わせる。

こちらは1分程度の簡素なもので終わった。

龍門と福重は連れ立って霊園の入口近くまで戻り、自販機で買ったペットボトルの茶を口にする。


「15年、ですか。早いものだ」

「……あぁ。我々の中でただ一人、本物だったヒカリだけが……死んでしまった……」


 龍門は、勇者パーティーと呼ばれる4人組の中で、ヒカリだけが真に勇者と呼ばれるにふさわしい本物だと思っていた。

そしてそれは、実物を知る人々にとっても同様だった。

龍門は主体的に動くことがまずなく、ヒカリの補佐を主としていた。

薬師寺アキラは自己中心的な研究者で、フェイパオはアキラ中心主義。

勇者パーティーを纏めていたのは、ほとんどヒカリのカリスマ性によるものだった。


 ヒカリは、名家の八重樫家の長女だった。

八重樫家は武門の家で、生まれた時からヒカリは戦いに身を置くことが決まっていた。

生来の資質から回復や補助を主として扱っているが、近接戦闘とて達人級の実力だ。

ヒカリの所作は美しく、厳しく躾けられた事がよくわかるというのに、名家生まれを鼻にかけるところを感じさせず、多くの人を惹きつけた。

固有は非常に強力な「光の象徴」。

回復術式の発動速度の速さと強さから、前線での回復と補助を一手に引き受ける、聖女と呼ばれるようになる。

人類の守り手としても、人が寄って縋るヨスガとしても、超一流の天才。


 対し龍門は、古い家の生まれだが然したる資産もなく、親戚も潰え、ほとんど一般家庭の出。

たまたま八重樫の旧当主に目を掛けられていたから、ヒカリと出会う機会があっただけ。

人の世にも珍しい無固有の人間であり、戦闘能力には期待できないと言われていた。

それで遠く離れ、手が届かない所に輝くヒカリを守るため、龍門は剣を鍛え続けた。

それは固有に依らない超級の剣術として練り上げられ、ヒカリのフォローもあり龍門は人類でも有数の剣士として名を上げることに成功した。


「今でも、ヒカリのあの時の話を覚えている。

 人魔大戦の初期、攻めてきた水の四死天との戦いの時だ」


 確か、侵攻開始から半月ほど経った頃だろうか。

水の四死天は仙人や竜の死霊を用いて侵攻し、その死霊たちが無数と思えるほどの物量を誇り、いつまで戦えば勝てるか解らなかった時である。

様子見とばかりに前線に出てきた水の四死天と皇竜の死霊に蹂躙され、人々は絶望に落ちた。

無限の物量を越えた先にある、全く敵う気配すらない圧倒的強者。

絶望的な戦力差に、会議室に詰める幹部たちは、あるものは青ざめ、あるものは諦観に顔色を染めていた。


「どうすればいいんだ……」


 その場の誰しもに、有効な作戦は思いつかなかった。

やる気のない四死天は死霊たちを本能のまま本土に押し寄せるようにだけ命令しており、あまりにも単純明快な動きをしている。

つまるところ罠に嵌め放題なのだが、どれほどの罠を駆使し策を弄しても、恐るべき物量を削り切れない。

それでも指揮官である水の四死天を倒せば、となるが、その実力は圧倒的で、更にその傍には竜国最強であった皇竜の死霊さえも居た。


 当時の皇国最強の戦士は、既に勇者たち四人に相当していた。

位階は75~80といった所、大国最強格の戦士としては平均的な強さだろうか。

しかし竜国最強の皇竜は位階90ほどあったはずで、それを倒した水の四死天はそれ以上の強さだろう。

どちらか片方であればまだしも、両方を倒すというのはかなり厳しい。

分断も、皇竜が四死天の護衛のような立ち位置でいる以上難しいだろう。

そんな現状確認の話が出尽くすと、では具体的にどうしよう、という話が誰からも出てこないのだ。

沈黙に満ちた会議室の中、一人ヒカリだけが、叫んで見せた。


「なんとかしましょう!」

「なんとかなるまで、死に物狂いでジタバタして、兎に角なんでもしましょう!」


「……ここに居る、龍門君を見てください。

 彼は……、無固有。固有術式がないと判断され、小さい頃は落ちこぼれ扱いされてきました。

 でも皆さん、知っていますよね? 彼の強さ。

 私たちの中でも最強格、薬師寺の賢者も天仙もとっても強いですが、龍門くんはそれに見劣りしない、我々の秘密兵器です!

 さて、龍門くん。君は……無固有と診断されて。

 それで今の強さになれる、具体的なビジョンがあって、どうすればいいか明確に解って、その道を辿ってきましたか?」


「いや。片っ端から道場やら何やらに行って剣を学んで……。それこそ君の言うように、死に物狂いでジタバタして。気づけば此処まで、辿り着いていた」


 龍門の台詞に我が意を得たりと頷き、ヒカリが辺りを見渡した。

彼女にはその一つの所作だけで注目を集め、次ぐ言葉を心に染み入らせるような、天性の扇動者としての資質があった。


「その通りです! 絶望的な状況で、辿り着く場所が解らなくて、どこに足を踏み出すかも思いつかなくて、けれど時間も状況も待ってはくれなくて。

 そんな時、上手い方策が思いつくまでじっとしていても、何も解決しません!

 そんな時こそ、動いてジタバタして、なんでも試して死に物狂いで齧りつくことで、前に進めるんです!」

「今ならなんと! ジタバタのプロである龍門くんと! 彼をプロデュースした、ジタバタ・プロデューサーたる私が居ます!

 なんとかしましょう! 動いて、ジタバタして、兎に角試して……! みんなで、明日を迎えましょう!」


 「……みんなの、明日のために!」


 冴えたやり方を見つける事ができるような、明晰さではなかった。

しかしヒカリは、誰かの心に光を照らす、天才だった。

暗く沈んだ人に、足を踏み出す価値を、前に進む意味を、生きる希望を与える才能があった。


 再び奮起した皆は、勇者たち四人を皇竜の元に送り込む事に成功した。

死闘の末に四人は皇竜の死霊を下し、続く水の四死天に圧倒される中、龍門が勇者の聖剣に覚醒する。

人類存続のための光。

あらゆる災害や試練から、人類を守り続けてきた究極の一。

龍門達は四死天を撃破し、勇者と呼ばれるようになった龍門は、始めてヒカリと対等の立場となり。

……秘めていた恋に、現実味が生まれて。


 そして。

倒した魔王の最後の呪いが、ヒカリから寿命の多くを奪っていった。

魔王を倒して5年後、ヒカリはその命を散らした。


「ヒマリが3歳で、ユキオが2歳、ミドリが1歳か。

 ……あの子らは、ほとんどヒカリの事は覚えていないだろう。

 ヒマリが辛うじて、という程度か」


 ミドリを生んだ後のヒカリは、殆ど病院から出られなくなった。

龍門も子供はベビーシッターに任せきりで、自宅よりも病院に居る時間が長いほどだった。

時折ヒカリに怒られては、渋々と家に帰った物だ。

我ながら人間として駄目すぎて呆れ果てる事なのだが、それでも後悔がないあたり、自分はやはり駄目な人間なのだろうと自嘲する。


「しかしヒカリの面影を見るのは、ヒマリとミドリの姉妹よりも何故か……ユキオにあるな」

「……確かに、あの姉妹には、龍門さんの面影が濃いですね」


 福重の言葉に、龍門は己の掌を見つめた。

今でも、龍門は自分がそれをできるか分からない。

土壇場でヒカリの言葉を、願いを思い出した時、剣を振るえるかが分からない。

しかし、だからこそ敢えて、口に出す。


「確定はしていない。まだ、調査は必要だ。

 けれど、もしもそうなのであれば。

 私は、ユキオのために……ヒカリの遺志を、踏みにじってでも。

 ……この手であの娘を、始末する。

 ユキオの手を借りずに」


 龍門は自分でも、ヒカリの意志に反する事ができるかどうか、分からない。

それでも、ユキオの事を思えば。

妻の面影を色濃く見せるあの子の事を思えば、きっと成せるのだと、強く信じる。


「必ずだ」


 重ねて呟き、龍門は立ち上がる。

福重の視線を背に受けながら、一歩一歩、踏みしめるように霊園を去って行った。




*




 糸剣は、硬い。

途中に衝撃緩和の柔らかさなどは仕込まれておらず、剣先の感触は持ち手に伝わってくる。

それは切っ先の感触で刃が立っていたか知るためであり、視覚野の反応速度を超えた剣戟が何を切ったか知るためのものでもある。

だがそれ故に、その日糸剣は、僕に伝えてきた。

人肉を突き進む感触。

運命の異性だと信じた人の、そのその首元を貫く感触を。


「だいすき」


 同時に魔剣が僕の首を刎ね、僕の生首が空を舞う。

空中をゆっくりと回転しながら、"血吸い鎌切"が砕けるのを見る。

血のシャワー。

非現実的なほどに鮮やかな、血の雨でできた虹。

血と脂から生まれた光のスペクトル、人類の分類方法がナギと僕の首無し死体を飾り立てていて。


「――はっ!」


 覚醒。

バッと上体を起こし、荒い呼吸で胸を上下させる。

あの日から幾度となく見た、ナギにとどめを刺した時の悪夢。

体の底から湧いてくる寒気に震える体をどうにか抑えようと、両手で体を包み、抑えようとしてみせる。

目を閉じ、深呼吸。

すると、ふと、横から僕を、柔らかいモノが包んだ。


「だいじょーぶ」


 澄んだ声。

鈴の音のような硬く透き通ったそれが、僕の中に響き渡る。

そうだ、大丈夫なのか、と理屈ではなく納得が体の中を反響した。

あれほど感じていた寒気がなくなり、代わりに体温の暖かさがじんわりと染み入る。


「だいじょーぶ、だいじょーぶ」


 そっと、頭を撫でられる。

ふと、小さい頃の事を思い出した。

何が切っ掛けか忘れてしまったけれど、兎に角悲しいか悔しいかそんな感じで、一人で隠れてグズグズと泣いていた時。

ヒマリ姉は僕を探していたけど見つける事ができなくて。

ミドリは僕を見つけて、何をしていいか分からないという顔で逃げ出して。

けれど最後に僕を見つけたミーシャは、そっと僕を抱きしめて、静かに頭を撫でてくれたのだ。

ミーシャが、ミーシャだけが。


「……震えは、止まりましたか?」

「……うん」


 答えると、そっと暖かいモノが離れていく。

いつも通りのメイド服の、ミーシャがそこに居た。

ベッド脇の椅子に腰かけ、ミニスカートからニーソックスに包まれた膝頭を出してニコリと微笑んでいる。

ようやく、人心地がついて、頭が回ってくる。

辺りを見渡すと、見知らぬ部屋だ。

どうして此処に居たんだっけ、と記憶をたどる。


「あれ、僕は消耗が大きくて、休息のためにホテルで寝てて……あれ、なんでミーシャが?」

「お料理の勉強に、このあたりの特産を食べに来ていたんですよね。龍門さん、賢者餃子に謎の思い入れがあるじゃないですか。

 そこで見かけたので、声をかけたんですよ」


 そういえばそんなことも言っていたな、と思ってから、はたと気づく。

目の前のミーシャは、いつものフレンチメイド姿である。

夏だからかノースリーブタイプになっているが、外を歩いていたらコスプレ姿にしか見えないだろう。


「……今日、その服装で出歩いていたの?」

「いえ、ちゃんと余所行きの服でしたよ? メイド服は常に持ち歩いているだけです。いつユキさん達のお世話が必要になるか解りませんからね!」

「なんなんだ、そのメイドへの拘りは……」


 呆れる僕に、ふんすと鼻息荒いミーシャ。

彼女がメイドに拘りだしたのは、川渡が追い出されて聖剣レプリカの計画が立ち上がったあたりだから、5年と少し前だったか。

最初は違和感もあったが、今はもう既に慣れた。


「さて、ユキさん、具合はどうですか? まだ全快とは言えないでしょうけど、熱とかあります?」


 と、ミーシャが椅子から立ち上がった。

片膝をベッドの上に、片手ですっと僕の前髪を持ち上げ、額を近づけてくる。

思わず、避けた。


「って、なんで避けるんですかー」


 と言われて、思わずミーシャの唇に視線が行く。

気づいたミーシャが、あら、とニンマリ微笑んだ。


「おやおや、ユキさん、エッチな事考えていました? ユキさんのえっちー」

「いや、キミの口からニンニクの臭いしたら嫌だなって思っちゃった」

「ちょっぷ」


 ごつん、と頭を叩かれる。

甘んじて受けたが、体調不良のせいか、割と本気で痛い。

涙目になる僕に、ジト目のままミーシャが両足をベッドの上にあげる。

そのまま四つん這いにベッドの上を這い、どん、と僕の肩を押す。

枕に頭を叩き落された僕の、その肩を、ミーシャの両手が抑えた。


「あの、ミーシャさん?」

「きちんと嗅いでください。ケアしているので、匂いなんてしません!」


 そのまま、顔が近づく。

まつ毛の長さが解るぐらいの距離で、鼻と鼻が触れあいそうなぐらいの近さだ。

カパッと音を立てそうな勢いで、その口が開く。

真っ赤な口内。

弾力のありそうな舌が、唾液の滑りで、テラリと光る。


「はぁぁー」


 鼻に、くすぐったいような吐息が、吹きかけられた。

ニンニクの匂いは、全くない。

むしろ何処か甘く、体の芯が熱くなるような、頭がとろけるような匂いだった。


 開きっぱなしの口の中が、僕の目の前に広げられている。

口内の赤い滑った肉が、凹凸を見せる。

舌がチロリと、僕を誘惑するように動く。

溜まった唾液が、粘ついた音を静かに立てた。

零れ落ちそうな唾液を、ミーシャが口を閉じ飲み込む。

白く細い喉が、嚥下に合わせて蠢く。

生唾を飲む音が、奇妙に大きく響いた。

目と目が、合う。

血のように赤い瞳に、吸い込まれそうになる。


 ふと僕は、いつもの痛みが来ない事に気づいた。

リラックスさせるためか、誰かが僕のファールカップは外したらしい。

僕自身の勃起を妨げるものは何もなく、湯だった頭が目の前の初恋の人に、吸い寄せられそうになり……。


 左目が、痛む。

紺色の、光が見えた気がした。

スッ、と頭の中に昇っていた血が引いていく。


「……そろそろ、行かなきゃ、かな」

「あ、え?」


 気のせいか、トロンとしていたミーシャの目が、覚めたようだった。

ほんのりと赤く染まっていた頬が、青ざめていく。

まるで幽霊でも見たかのような顔で、ポツリと、呟いた。


「長谷部、ナギ……」

「……? どうしたんだい?」


 ナギのフルネームを呼ばれ首をかしげるが、返事はない。

どうしたものかと思っていると、その目が潤み始めた。

すぐに涙が形作られ、ぽたりと僕の頬へと落ちてくる。


「み、ミーシャ?」

「やはり、私には……本来あなたに触れる資格は、ありませんでした。

 清らかで、勇者の息子として育って、その通りの英雄となったあなたには」


 肩にかかる力は強まり続け、手を差し伸べる事も、できない。

何を、と口にするより早く"それ"が行われた。


 ぐっ、と僕の肩を掴む手が、力を増した。

ミーシャが首を垂れ、その頭から……白いモノが、生えてきた。

それは硬く、節くれだった、山羊の物を思わせる一対の角だった。


 ん、と小さく呻きながら、ミーシャが僕の首元に、顔をうずめる。

高く突き出した尻の、スカートがめくれ上がる。

色っぽい下着に何か思うより早く、その手前、腰のあたりから黒い物が生えてきた事に気づいた。

細長く、黒い、滑らかな……尻尾。


「んあ……」


 どこか、艶めかしい声。

ミーシャの背、肩甲骨の辺りが、膨らむ。

夏向けの薄い布地を突き破り、それが飛び出てくる。

節くれだった骨組みに、滑らかな翼膜が張られた……翼。


 そこまで見て、ようやく僕は気づいた。

それはかつて学生の頃に感じ、記憶した、魔族の気配。

そして先の運命転変で入手した魂の汎用術式が知らせる、その気配。


 ――ミーシャの魂が、改変されていた。それもまるで、元に戻るかのような動きで。


 ミーシャが、起き上がる。

背中から破れたメイド服の上半分を、辛うじてひっかけたまま。

所々肌色が見えている上半身を、惜しげもなく見せながら、微笑んで見せた。


「私は……魔王の娘なのだから」


 零れ落ちる涙が部屋の照明を反射し、キラキラと輝いて見せた。



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