06-現実透視筒の請願書




「……ん、完治、だね。全治二週間ってところかな?」

「早くて良かったねー、ユキちゃん。暇じゃなかった?」

「まぁ、最初のうちはね。一週間ぐらいで外出許可は出たから、まぁなんとか」


 その「まぁなんとか」は、主にナギと会っていたので、時間をつぶすのは容易かった、という事だが。

リビングのソファに、僕とミドリは二人で腰かけていた。

ミドリが診療用に触れていた手を戻すのに遅れ、撒くっていた服を戻す。

腹筋……と残念そうな声をダイニング側から漏らすヒマリ姉に、内心溜息をついた。

僕に一切性的な興味は持っていないくせに、からかうためのセクハラに余念がないのはやめてほしいものだ。


「それもこれも、ミドリのお陰だよ。改めて、ありがとう。

 現地でのミドリの治療がなければこんなに短く済まなかったし、後遺症の危険性もあった」

「うへへ。お代はユキニウムでいいよ」


 と抱き着いてくるミドリに、仕方のない子だと抱きしめ撫でてやる。

赤井との死闘でかなりの怪我を負った僕は、一日入院、その後自宅療養の運びとなっていた。

本来ならばこの程度では済まない怪我だったが、奇跡的に傷の鋭さや位置が良く、また応急の処置も適格だったので、たまたまこの程度で済んだとのことだ。

もちろん、ミドリが回復系の術式が得意だったため、自宅療養時の検診が容易かったというのもある。

甲種の回復術式使用資格を持つミドリは、外科系の傷であれば、本職の医者に匹敵する治療ができるのだ。


 国家資格の中でもトップクラスの難易度である甲種回復術式資格は、合格率10%程度と恐ろしい難易度であり、実技もさることながら、筆記も超絶難易度で知られる。

冗談ではなく、僕ら一家で一番頭が良いのはミドリで間違いないだろう。

これで去年義務教育を終えたばかりだというのだから、天才と呼ぶほかない娘だ。

お礼を考えておかなきゃな、と、ぐりぐりと自らの鼻を、僕の鎖骨のあたりに押し付けてくるミドリの頭を、苦笑しながら撫でてやる。

それを見て、プクリと頬を膨らませるヒマリ姉。


「……ちぇ、しょうがないか。ミドリが努力してきたから、ユキちゃんを治せたんだもんね。

 その報酬は取り上げられないや」

「……姉さん、カムヒア」

「ほえ?」


 首をかしげながら近づく姉に、ミドリは、僕に頭を預けたまま、体ごと姉に向き直る。

手を広げ、一言。


「姉さんも、私の事褒めて。ハグして。ついでに兄さんも一緒」

「……!!! ミドリちゃん大好き~!!!」


 ぎゅ、とヒマリ姉に抱きしめられる、ミドリと僕。

大柄な姉は、小柄なミドリと中肉の僕を、いとも容易く抱きしめ、包み込んでしまえる。

三人で抱き合うというよりは、姉のスペースの内側にしまい込まれてしまったような感覚だ。

落ち着くような、落ち着かないような。

相反した心地に、じっと体を任せる。


 そんな風に、ヒマリ姉に抱きしめられるままになって暫く。

ポツリ、と漏らされた声が僕を引き戻した。


「あれ、コレ、もしかしてユキさんの読み物ですか?」


 姉の内側から少し顔を出してみてみると、ミーシャがダイニングテーブルに置いてあった文庫本を掲げていた。

もう片方の手は布巾で、テーブルを拭こうとしていたのが見て取れる。


「あ、ゴメン。邪魔だったね。姉さん、ちょっと片付けて来るよ」

「……ユキちゃん、最近読書し始めたよね?」

「え? うん」


 訝し気な声を上げるヒマリ姉は、僕を抱きしめたまま離さない。

視界の端で、ほうほう、と興味を引かれたミーシャが布巾を置いて、文庫本を手にこちらに近づいてくるのが見えた。

ぐ、と腰のあたりに痛みを感じ、見れば僕を抱きしめるミドリの手が、力を増したようだった。


「カバー、ないですね。若きウェルテルの悩み。超古典じゃないですか」

「へー、ユキちゃん古典文学なんて読むんだ。

 ……どうやって出会ったか、聞いてみていい?」


 特に、やましいことはない筈だ。

答えるのに躊躇する理由は、ない。

ヒマリ姉の声のトーンはいつも通りで、単に疑問に思っただけのようにしか聞こえない。

ミドリはじっと僕を見つめているけど、それはよくある事なので特筆すべき事ではない。

なのに。

何故か、少し、寒い気がする。

二人の姉妹に抱き着かれて、少し暑いぐらいのはずなのに。


「……最近会った人に、勧められたから、だね」


 外出解禁までの一週間を挟んで再開したナギは、少し気落ちしているようだった。

励まそうと色々しているうちに、気づけば彼女の趣味を共有してもらうことになっていた。

その一つが、読書である。

何時も持っている本は何か、と聞いたら貸してもらえたので読んで、感想を言い合って、次に、と勧められたのがこの本だった。

まだ半分ぐらいしか読んでいないが、恋愛小説を、しかし悲恋の小説を異性に進めてくるあたり、本当にナギだなぁって感じのチョイスだと思う。

思うが、まぁ、それはそれとして。


 ミドリの手は、僕の背を回りあばらの辺りを掴んでいたはずが、気づけば脇腹の辺りまで下りていた。

言い換えれば、あと少し下がれば、僕の腰を掴めるような位置。

ヒマリ姉の両手は片方はミドリを、もう片方は僕を抱きしめており……、その手は、やはり気づけば僕の腰近くまで下りてきている。

同時に、二人が互いを抱きしめていた手を、離した。

ミドリの手が、そっと僕の太ももの上に置かれた。

指先が、ギリギリ内股、と言える場所をそっと撫でる。

ヒマリ姉の手が、そっと僕の首元に置かれた。

人差し指がそっと鎖骨のあたりを撫でつつ……、少し角度を変えてグッと上げれば、僕の首を絞められそうな位置。


「誰と、かな?」

「この前、えっちな事した相手?」


 甘い声が、耳元で囁かれた。

二人が僕に甘える時の、いつもの声。

特に抑揚も声の高さも変わっていないのに。

何故か、冷たさを感じる。


「……長谷部、ナギ。友達だよ」

「女の子?」

「……うん」

「同世代?」

「……まぁね」


 ヒマリ姉の手に、力が入った。

僕の首元にあった手が浮いて、少し震えて……ゆっくりと、握りこぶしを作る。

深呼吸、というには、少し浅いそれ。


「んぁぁ悔しい!!!」


 と、叫びながらヒマリ姉は離れ、両手で頭を抱えた。

遅れてミドリも僕から離れ、小さくため息をつく。


「ユキちゃんに同じ趣味を持ってほしくて、カメラ散歩とかめっちゃ一緒に行ったのに……。

 ポッと出の女に寝取られた……」

「油断した……ラッキースケベレベルかと思ったら、ガチ……。

 警戒レベル上げないとヤバイ奴……」


 コミカルな動きをするヒマリ姉に、なんだかホッとして、僕は小さくため息をついた。

クスクスと微笑んでいるミーシャが差し出す文庫本を受け取り、立ち上がる。

部屋に戻って文庫本を片付けてから、一息。

深呼吸をして頭の中を入れ替えながら、一階に降りてリビングに戻ると。


「とーせんぼ!」

「とーせんぼ」


 両手を広げた姉妹に、とうせんぼをされていた。

二人の向こうからは、夕食の支度終わるまでにしてくださいねー、と呑気なミーシャの声。

二人して膨れ面で居るのに、思わず苦笑してしまう。


「どうしたの?」

「ちょっと……」

「そのね……」


 と、二人が視線を逸らしてしまう。

その隙に、と近づいて、膨らんだ頬を同時につついた。

プヒュウ、と空気の抜ける音。

二人の視線が、僕に戻ってくる。


「ほら、可愛い顔を膨らませていないで、教えてくれないかな?

 怒ったりしないからさ」

「その……」

「ナギさんとやらに、一度会いたい」


 言い淀むヒマリ姉にかぶせ、ミドリが言って見せた。

思わず、二人の顔を順に見やる。

ヒマリ姉は、縮こまって不安そうに、僕を上目遣いに眺めていた。

まるで、親に𠮟られる事が分かっていても我儘を言ってしまった、子供のようだ。

対しミドリは、口を結び、鋭い目で僕を真っ直ぐに見つめていた。

決意のような何かをすら感じ、僕は少し、戸惑った。


「ダメ、とは言わないけど。理由を聞いていいかい?」


 僕の困惑を感じ取ったのだろう、ヒマリ姉は、ついに爪先に視線を落としてしまった。

逆にミドリは、じっと僕を見つめたままで、微動だにしない。


「兄さん、今から私、酷い事を言うよ」

「……うん」

「私、兄さんが誰かに影響を受けるとは、思っていなかった。

 兄さんはもっと強い人で、私や姉さんでは、兄さんを変えることはできないと思ってた。

 良くも、悪くも」


 思わず、瞬きの数が増えた。

ミドリの目を覗き込むようにするが、嘘の気配は全くない。

しかし、だとすれば。

ミドリがいう「兄さん」とは、一体誰の事なのだ?

僕は自分が強いとも、誰かの影響を受けづらいとも、考えたことはなかった。

混乱する僕に、続けてミドリ。


「だから……嫉妬している。

 そんな兄さんを、少しでも変える事ができた人に。

 そして、確かめたい。

 どんな人が、兄さんを変える事ができたのか。

 どうすれば、兄さんを変える事ができるのか」

「どうすれば、って、言っても」

「分かってる、兄さん自身が答えるのは難しいのは。

 だから、その人に、会いたい。

 どんな人なのか、この人ならどんな風に兄さんに影響を与えたのか、知りたい」


 軽い眩暈がした。

まるで床が足元からなくなってしまったかのような、フワフワとした浮遊感が過る。

深呼吸。

なるべく新鮮な空気を取り込み意識をしっかりとさせてから……、じっと見つめ返す。

視線は真っ直ぐなままで、僕のそれと、正面からぶつかり合っていた。


「……正直、驚いた。

 それに内容も、今すぐ理解できない部分の方が、多い。

 けど、ミドリが真剣に思っている事だということは、分かった」

「じゃあ……」

「相手がいる事だから、確約はできないけれどね」

「でも、ありがと。検討してくれるだけでも、嬉しい。

 結構、不躾なお願いだったから……」


 と、恥ずかし気に顔を伏せるミドリに、思わず一撫で、頭を撫でてしまう。

うへへ、と何時もの笑みを浮かべるミドリを尻目に、僕はヒマリ姉に向き直った。


「ヒマリ姉のお願いも、同じこと?」

「え、う、あ、はい、そうです……」

「なんで敬語? 分かったよ、二人と同席して話せないか聞いてみる。

 二人の予定は変わっていないよね?」


 首肯してみせる二人に、僕もまた、分かったと頷き返してみせた。

そっと二人の肩に手をやり、ぐるりと反対に向きなおさせる。


「ほら、ミーシャが夕食の支度してくれているし、まずはご飯にしようか。

 ナギに予定を聞くのは、その後にしてみるよ。

 ミーシャ、父さんは今日は出張の予定だったし、待たなくて大丈夫だよね?」

「その通り。今日はシチューですよ~。

 もう暖かくなってきたので、多分ラストシチュー、秋冬まで食べ収めの予定でーす」


 そのままそっと肩を押してやると、二人もゆっくりとダイニングへと向かい歩き始めた。

僕はその一歩後ろを、少しゆっくりと歩いていく。

ダイニングテーブルまでの精々10歩程度の距離を。

全体像を視界に収めたままにするために。

或いは、逃げ腰で部外者面をするために。




*




 あれから、数日。

ナギは奇妙なほど素直に快諾して見せ、三人の予定が合う日の午前中、喫茶店で出会う事になった。

合間に一度近場の魔物討伐を入れ、調子は悪くないと確認し、体調の方はほぼ万全だ。

しかし同時に、ミドリの見せた言葉を、僕は今一咀嚼しきれていなかった。

「僕が強い」「僕が他者の影響を受けない」「ミドリは、僕に影響を与えたい」

そして少なくとも、前者二つは、ヒマリ姉が否定していなかったあたり、近い見解は持っているのだろう。


 僕は、穢れ、醜く、忌避される存在ではあるはずだ。

――フラッシュバック。

シャワーの音。首を絞めようとする手。涙。

吐き気と、憎悪と、異臭。

そして僕は、その上で、姉さんに、妹に。

赤井の揶揄は適格だったと、内心のどこかが自嘲する。


 ……二人は僕の穢れの、全てを知ってはいないはずだ。

なんとなくは察しているかもしれないが、あえて何処まで知っているのかを問いただしたことはない。

そして穢れた僕が、その上で感じる性欲は、悟られていないはず、だ。

正直、あまりに距離が近すぎて、判断が難しいのだけれど。

多分、きっと恐らく、二人は僕の性欲が向かっている事を、意識していない、ように見える。


 兎角。

僕は二人による僕の評価を咀嚼しきれておらず、その先にある、ミドリの展望にも触れることはできていなかった。

分からないままに、当日。

喫茶店に来てナギと合流し。


「ぐはぁ……!」

「の、脳が破壊される光景……!」


 悶え苦しむ姉妹を眼前に収めていた。

なんだろう、これ。


「ユニークな姉妹だね……」

「うん……なんだろうね、この光景」


 三人で行動する際にレストランや喫茶店に入ると、僕は必ず姉妹どちらかの隣に座るようにしていた。

ミーシャが居て四人でもそれは同じで、父さん込みの五人だと、基本は姉妹の間に座る形だ。

だからまぁ、そういえば、四人席のテーブルで姉妹二人の対面に座ったのは、初めてかもしれないが。


「だ、ダメージがでかい……初対面で既に敗北している気がする……」

「糖分……ごめんちょっと糖分で回復させて……」


 それにしてもちょっとダメージ受けすぎではなかろうか?

いや、僕も姉さんやミドリが男友達を連れてきて、二人が座っているのを対面で見たら、こんな感じになるのだろうか。

ちょっとなりそうだな、と内心苦笑しつつ、ナギに向き直る。


「ごめんね、呼び出すような形にしたうえで申し訳ないんだけど。

 二人が回復するまでは、普通に僕ら二人で話していようか」

「……死体蹴りみたいになっていないかい?」


 苦笑するナギを尻目に向き直ると、二人の目の死に具合が増したようにも思える。

ミドリが、目前の甘いコーヒー飲料のストローに手を伸ばし。


「唸れ、私の女子力!」


 ズズズッ! と飲料の嵩が減った。

深い吐息、肩で息をしながら、血走った目でミドリがなぜか、僕を睨みつける。

女子力とは、一体?


「……まずは、二人の関係から話してもらう!」

「そんな話だったっけ?」

「やだもん! 兄さんとナギさんの背景を知らないと、詳しい事が分からなかったりするもん!」


 と。

そんな様子のミドリに困り果てるが、隣でナギが、へぇ、と興味を引かれた様子で呟いた。

思わず視線をやり、ナギの表情が視界に入り。

――初めて見た種類の、笑みだった。

斜に構えた、張り付いたような笑みではなく。

諦めと共感を詰め込んだ、沈み込むような笑みではなく。

興味津々の、目をキラキラと輝かせた笑みではなく。

よく、分からない笑み。


「妹ちゃん……ミドリちゃんって呼ぼうか。

 ユキオが、どうやってボクから影響を受けたか、聞きたい。

 そういう話だったよね」

「はい。それを知るのに、貴方の事を、そして貴方と兄さんの関係を、知りたいです」


 なんとなく、空気は硬かった。

ミドリはいつになくピシッと背を伸ばしていたし、ナギはゆったりとした姿勢を見せながらも、声は硬く感じられる。

ヒマリ姉は半歩引いた姿勢で、ミドリとナギの会話を静観している形。

僕はなんとなく居心地の悪さを感じながら……、けれどまずは、二人の会話を待とうと、腰を落ち着けたままにする。


 それからナギは、ゆっくりと赤裸々に語った。

半年ほどの、公園での無言の逢瀬。

ある日、何気なしに会話を交わすようになり、何度か出会うようになった。

お互いを知るために定番のデートコースとして水族館に行き、そして。


「ふふ、キスはまだ……頬にしたところまでかな。

 この前、初めてユキオからしてくれてけどね」

「……恥ずかしすぎて死にそうなんだけど……」


 と、羞恥で死にそうな僕の隣で、余裕そうに微笑んで見せるナギ。

流石に公共の場でお互いの"赤"を告白したことは除いたが、それ以外の事はほとんど全てが語られた。

僕が家族とのエピソードを嬉しそうに語った事まで話されてしまったのは、痛恨の出来事だった。

途中からあまりの恥ずかしさに俯いてしまい、みんなの顔を見る事ができないほどだ。

話が途切れたのを機に、僕は深呼吸。

甘く冷たいコーヒー飲料で頭を冷やし……、そして気づく。

姉妹は、絶句していた。


「……あの、ミドリ? ヒマリ姉?」

「ん、その、いや」

「あ、うん、いや」


 明確な言葉につながらない、脊椎反射の言葉からの、否定形。

異音同意に紡がれた言葉に、僕は眉を顰める。


 ミドリは、意外そうな表情をしていた。

これは、分かる。

多分半年前の僕に、これから君に彼女……じゃないけど……まぁ、彼女候補みたいな女性ができるよ、と言ったら、絶対に信じないだろう。

ずっと近くで僕を見てきたミドリも同じ感想だろうから、この反応は……理解できる。


 ヒマリ姉は、固まっていた。

表情が完全に動いておらず、しかしかといって感情の発露のようなものが見えない。

ヒマリ姉は元々感情が分かりやすい方で、表情は意図して動かしている感じがあるものの、表情以外の所での感情は割と察しやすい方だ。

なのに何も感じられない事から、考えると。

情報を受け止められていない、というのが一番しっくりくる。

なんだかちょっと、個人的には凹む反応だ。


 二人の反応に陰鬱な気分になる僕を尻目に、なぜかナギは、機嫌が悪そうだった。

表面上は間違いなくニヤニヤという擬音が似合う斜めに構えた笑みを浮かべ、姿勢は緩やかで、余裕があるよう見える。

けれど頻繁に自身の指を触り、組み換え、たまにトンとテーブルを叩いたりするのは……機嫌が悪い時によくやる所作だ。

原因は、二人か、それとも僕か。

少し迷ったけれど……どちらにせよ、僕は手を伸ばし、ナギの手に触れた。

テーブルの上でトントンとリズムをとるその指を、上から覆うように、掌を伏せる。

ちらりと僕を見て、ナギは、クスリと微笑んだ。

多分、機嫌が上向いてくれている、はず。


「あ゛」

「お゛」


 聞いたことのない声に、思わず勢いよく振り向いてしまった。

二人は口を開けたまま、目を大きく見開き固まっていた。

というか、多分、瞳孔が開いている。

これは、どういう表情なのだろうか?

見たことのない表情に、表現や内心の判断に迷ってしまう。


「そういえば、ボクからも二人とユキオの関係について聞いていいかい?

 ユキオからはよく聞いているんだけど、こういうのは双方向から聞くと理解が高まるからね。

 ユキオのこと、もっと知りたいんだよね」

「目の前で聞かれるの、なんか居心地悪いなぁ……」


 呟く僕に、苦笑するナギ。

覆っていた手の指がグイグイと押し上げて反撃してくるので、僕の手は敗北して、そのまま浮き上がり、掌を上にして降参のようなポーズ。

降参した僕の掌に、ナギの掌が合わさり、自然、テーブルの上で手をつなぐような形となった。

なんだか、姉妹側の空気が、重くなったような気がする。

対し、ヒマリ姉が、深呼吸をする。

両手をテーブルの上に突き、肩で呼吸をしながらキッとナギをにらみつけた。


「ユキちゃんは……、世界で一番私を甘やかしてくれるんだからね!?

 ハグしてくれるし、撫で撫でしてくれるし、ソファで寝落ちしたらベッドまで運んでくれるし!

 完璧な、私の、私の、私の弟なんだからね!?」

「…………」

「ちゃんと私からもハグする時もいっぱいあるよ?

 あ、ふーん、もしかしてユキちゃんとハグしたことなかったりするぅ?」

「頭を撫でた事はあるね」

「グェェ」


 ミドリみたいな声を出して、ヒマリ姉が崩れ落ちた。

初めて聞いたな、ヒマリ姉のこんな声……。

知りたかったような、知りたくなかったような。

なんとなく遠い目になる僕を尻目に、ふんすと鼻息荒く、ミドリ。


「兄さんはいくら私がベッタリくっついても、嫌な顔一つしない。

 ずっと、ずぅーっと一緒に居る。

 ユキニウムは私の必須接種栄養分、一日一ハグ」

「…………」

「膝枕してもらうのでも可。

 まぁ膝枕してもらったことのない人の前で言うのはちょっとデリカシーなかったですねごめんね」

「そうだね、ボクがしたのは恋人繋ぎぐらいだなぁ」

「グェェ」


 いつもの変な声とともに、ミドリが崩れ落ちた。

何時になく、崩れ落ちる勢いが強いというか、本気だ。

プルプル震えている辺り、よほどショックだったのだろうか?

いや、立場が逆だったら確かにショックは受けるだろうが……。


「さて、ヒマリさん。まずは貴方から、ユキオの事、聞かせてくれないかな?」


 組み伏せられて掌の上を、そっとナギの指が、撫でてゆく。

妙なこそばゆさに、僕はぶるりと震えた。

崩れ落ちた姿勢から起き上がり……、ヒマリ姉が、少し不機嫌そうな顔で呟く。


「ユキちゃんは……私に、世界一優しくしてくれる人なの」

「ふーん、ご両親より?」

「もちろん! あぁ、お母さんは、物心ついたころに亡くなっちゃったから、ちょっと分からないけど……」

「それは、失礼した……。不躾な質問、済まない」


 と。

定型のやり取りの中。

ナギの目には、どこか苛立ちのようなものが見えた。

心配になって、自由な親指でナギの手の甲を、少し撫でてやり……。

ナギの手に、組み伏せられる。

手をつぶされて、動けなくされて。

刹那、大丈夫、と意図を込めたのであろう視線が、僕をちらりと見た。

すぐに視線は、ヒマリ姉の方へと戻る。


「なんていうか、貴方のユキオに対する言葉が……。

 子供が父親や母親に向けるようなものに、少し似ていたので、つい」

「ちち、おや」


 言葉とともに、ヒマリ姉はそっと僕を見つめ、パチクリと瞬いた。

僕は、他の家族の父娘関係を、よく知らない。

強いていれば、繊維研究の下野間さん、彼の家庭に関する話はよく聞いている。

けれど下野間さんから娘さんへの話は聞くことができても、娘さんから下野間さんに対する感情を聴くことは、できていない。

その他フィクションの題材から知る関係も、当てはめようと思えばできるが。

……よく分からない、というのが本音。


「弟の……年下の……パパ?」


 僕を見るヒマリ姉の目は、少し、見開いていた。

空色と単に呼ぶには濃い、濃厚な青空の色。

見上げていると押しつぶされそうな、重く遠く、けれど自由にどこまでも広がる空。

僕はどこか息苦しく、強く圧迫されるような、不思議な心地を得た。


 ナギの、深い溜息。

冷たい紅茶を数口、口を湿らせ……次は、とミドリに視線をやる。

いつの間にか立ち直っていたミドリが、ナギと視線を合わせた。

少し、空気が緊張する。


「兄さんは、この世で、一番……安心する人、です」

「父親や、お姉さんより?」

「……はい。姉さんといるもの、とても安心しますが……。一番は、兄さんです」


 その言葉に、何時もなら、ヒマリ姉は反応していたはずだ。

けれど何もなく、ただただ僕を見つめて黙っている。

僕は居心地悪いままに、ミドリの言葉に感じるむずがゆさに、身を震わせていた。


「兄さんに、同じ空気を吸ってもらって、同じものを食べてもらって。

 ……まぁ、お昼寝の時ぐらいは同じ所で寝て。

 それが……たまらなく、幸せなんです」

「キミがユキオに向けるのは、父母に対するっていうより……」

「ペットが飼い主に、って言いたかったりします?」


 にゃーん、と呟きながら、ミドリが親指を畳んだ手を上げ、残る四本指を揃えてパカパカと開け閉めして見せる。

何とも言えない顔で答えを濁したナギだが、ミドリの目は、笑っていない。

ミドリはなんと言うか、ヒマリ姉とは別ベクトルで、僕に無防備だ。

ヒマリ姉は僕を信じ切っているのに対し、ミドリは、僕に何をされても許してしまうような感覚がある。

それをナギの感覚で言い表すと「ペットと飼い主」と、なるのだろうか。


「今度兄さんに、試しに首輪でも付けてもらおうかな?」


 と、ミドリの流し目が僕に向けられる。

ペロリ、と赤く小さな舌が、その唇をなめとった。

匂い立つような、艶めかしい仕草。

くらりとするような、眩暈に襲われる。

股間の痛みと、一瞬遅れ、ナギが僕の手を強く握ったのとが、どうにか僕を現実に引き戻していた。

呼吸。

思考の靄を、どうにか、口から吐き出す。


「……馬鹿な、ことを、言わないでくれ」

「ふふふ、アクセとかお願いしたら付けてくれるでしょ?

 チョーカーはダメだった?」

「いや、チョーカー、まぁ、言い方が……」


 それでもまだ、思考の霞が消えていないのか。

僕がはっきりした言い方を口にできず、曖昧な言葉をしか口に出せないのに。

隣から、深い溜息が聞こえた。

見ればナギは、冷たい笑顔をしており……、気のせいでなければ、怒りのような何かが感じられた。

そしてそれは、二人の姉妹に、僕に、そしてナギ自身へさえも向けられた怒りのように思えて。


「……ナギ?」

「……ボクは、もう大丈夫だよ。知りたいことは、凡そ知ることができた。

 ミドリちゃん、そんなに時間はないけど……、何か他に聞きたい事はあるかな?」

「あ、もうこんな時間。

 んー、あー、いや、大丈夫かな。

 あるっちゃあるけど、中途半端になっちゃいそうだから、またの機会で」


 と、腕時計を見つつ、慌て残る飲料を飲み始めるミドリと、続くヒマリ姉。

あたふたと荷物を整理して立ち上がり、ミドリが伝票をヒョイと持ち上げる。

どこか遠い視線で、僕を見つめヒマリ姉。


「じゃ、これから撮影の仕事があるから。

 晩御飯までには戻れる予定だよ。

 ユキちゃんは……、ナギさんに付き合うのはいいけど、羽目を外さず晩御飯までには戻る事」

「あぁ、それはもちろん」


 頷く僕を尻目に、ナギは数瞬目を閉じた。

何かを飲み込むようにしてから、目を開き、頭を下げる。


「本日は、ご馳走様でした」

「ん、私からお願いしたんだから、私のお財布から出るのは当然。

 でもまぁ、良かったら……、また何かの機会は、儲けたい、です」


 ミドリの言葉に、ナギは曖昧な笑みで返した。

ヒマリ姉とミドリもまた、それに曖昧な笑みを浮かべ、去っていった。

あとには、伽藍とした四人席の対面が、空洞のように待っている。

中身を飲み干した後のグラスが、中の氷と、結露とだけを残し、どこか寂し気にたたずんでいた。

ナギが、繋いだままの手を、ギュ、と握りしめた。

僕も、なんとなく、答えて彼女の手を握りしめた。


 ……それからすぐ、僕らは喫茶店を出た。

ぶらぶらと歩きながら、なんとなく昼食のアテを探して歩く中。

ふと、ナギが足を止めた。


「……あ」


 ナギの視線の先には、本屋があった。

店頭には雑誌が立てかけて置かれており、その表紙がいくつも外に向けて飾ってあった。

それは、ヒマリ姉とミドリが表紙になった、ファッション雑誌だった。

十代向けの女性ファッション誌は、休日のコーディネートと称し二人の特集をしていた。

煌びやかで、多くの人の興味と尊敬を向けられる、二人。

思わず目を細めて……。

遅れて、耳に入る、聞きなれた声。

思わず視線をやると、その先には街頭テレビジョンがあった。


「とうさん」


 つい、口を突いて出てしまった。

そこには、父さん……勇者二階堂龍門が出ていた。

何時もながらの黒スーツで、コメンテーターとして、聖剣レプリカによる貢献度調査による犯罪率低下に言及している。

皇国の、そして人類の切り札でもある彼は、前線での戦いよりもむしろ、こういった広報での仕事の方が、公表されている部分では多い。

隣のナギは、当然僕の声にも気づいているようで。

ギュ、と、僕の手が強く握られた。


「……予想は、していたよ」

「…………」

「二階堂という苗字は結構珍しい。

 それだけならまだしも、姉、弟、妹の三人は勇者の子供三人と家族構成が同じだ。

 心の準備はしていて……、そして先ほどのヒマリさんとミドリちゃんは、名前も容姿も、有名な二階堂姉妹と同じで、まぁ本人だった。

 だからキミの父親の事も、確信していて……、切っ掛けが欲しかった、と言う方が近いかな」

「……うん」


 僕は、ちらりとナギの顔を見つめた。

ナギもまた、街頭テレビジョンに出る父さんを見つめていた。

父さん。

勇者。

人類の救世主。

聖剣の担い手。

……僕とナギの運命を、人類の敵と定めたひと。


「外でする話でも、ない。

 個室……うん。

 ユキオ、ボクの部屋に来ないか?」

「……え?」


 驚き体ごと振り向く僕に、ナギはそっと人差し指を立て、唇につけた。

目を細め、真っ直ぐにじっと僕の目を見つめながら、嫣然と微笑んで見せる。


「秘密のお話、しよう?」




*




「暫く、ホテル暮らしでね。

 見ての通り、気持ち広い程度の、普通のシングルルームだけど」


 と、ドアを開け、ナギはユキオを部屋に招き入れた。

安堵と緊張とを綯い交ぜにした表情のユキオを、繋いだ手を引き部屋の中まで連れて入る。

言葉の通り、部屋はシングルルーム。

ベッドと机と椅子程度のシンプルな部屋で、衣装入れとして使われているスーツケースがいくつかあるのみだ。

荷物を置き、軽く身だしなみを整え、ナギはベッドに腰かけた。

迷いを見せるユキオに、微笑んで見せる。


「見ての通り、椅子はあまりクッションが効いていないし、少し高めだから視線も合わせにくい。

 ちょっと行儀悪いけれど、一緒にベッドに座るのが、一番だと思うよ」

「……うん、分かった」


 頷いて素直にベッドに腰かけるユキオは、思っていたより距離が近い。

足と足の間は、精々拳一個分ぐらいだろうか。

体温がギリギリ伝わってくるぐらいの、近い距離。


 ナギは一瞬、姉妹の言葉から、ハグについてを思い出した。

ナギは今のところ、ユキオとハグをしたことがない。

抱きしめ合ったことがなく、お互いを密着させたことがない。

それはなんとなく苛々とする事実ではあるものの、かといって今からハグしはじめるのはなんだか負けた気がするし、第一ベッドの上で隣り合う今の姿勢はハグに向いていない。


 だからナギは、そっと手を伸ばし……ユキオの腰に回した。

ビクリ、とユキオが少し震えて、すぐに落ち着いてみせる。

腰を浮かせて、そっと拳一つ分の距離を、縮めた。

肩と肩とが、触れ合う。

暫時、呼吸の音が互いの耳を支配する。

やがて心臓の高鳴りが収まったころに、ナギが口火を切った。


「色々聞きたいことはあるんだけど……。

 そうだね、まずはこれから聞くことにしようか。

 ユキオは……何が夢だい?」


 横顔から見るに、虚を突かれたようだった。

すぐにナギに向き直ってみせ、視線と視線とが、絡み合う。

ユキオの目は、黒い。

瞳孔と回りの差が殆ど分からず、光の反射をそのまま映しこむような色だ。

ナギは時折、その目に映った自分自身と、目が合う気すらしている。


「そう、だね。難しいけれど……家族に……居場所に、恥じないように、なること。

 "あそこ"に居ても、寂しくないように、なること」

「うん、ボクも夢って中々具体的に言えないから、難しいのは分かるよ。

 でも、我儘を言って悪いけど、聞かせてくれ。

 そのために、具体的にやっていたことって、どんなことがあるんだい?」

「英雄級に……竜銀級に受かって。

 そうすれば何か、変わると思って。

 でも、そうだ、何も、何も……変わらなかった」


 ユキオが俯き、自らの掌を覗き込んだ。

姉妹と会う予定ができてから、ナギは公人としてのユキオについて改めて調べた。

歴代四位の若さで、竜銀級に合格した、新進気鋭の冒険者。


(年齢/合格年)

1位:二階堂ミドリ(14/1008)

2位:二階堂ヒマリ(15/1007)

3位:二階堂(旧姓八重樫)ヒカリ(16/984)

4位:二階堂ユキオ(17/1010)


 3位は幼い頃亡くなったという彼らの母八重樫ヒカリであり、つまり彼ら家族が上位4位までを独占する形となっている。

父二階堂龍門は彼らに比べるとやや遅咲きであり、かつ人魔大戦のタイミングの問題で等級はあと回しだった。

残る勇者パーティーの二人も、一人は研究肌でギルド所属ではなく、もう一人はそもそも竜国の仙人であり、当然ギルドには所属していない。


 ……ナギは、想像する。

15歳の若さで歴代記録を塗り替えたヒマリを褒め称え、それに続こうとするユキオを。

1年後に同い年になり、失敗して次の年を重ねる他なくなり。

そのユキオの目の前で更に記録を塗り替えるミドリ。

そして家族に心配されるほどのオーバーワークを重ね、2年後、ようやく姉と妹に称号が追い付く。

当然持つ位階は、彼女らに到底及ばないまま。

そうまでして得たものは、ユキオの夢に、何も寄与しなかった。


「それから……どうすればいいのか、分からないんだ。

 グルグルしていて、でも前に進む事だけはしなければいけなくて。

 そんな時に君と会話するようになって、本当に幸せなんだ。

 君と一緒に居る時だけは、寂しさを忘れられる。

 でも、それだけじゃあなくて、ぼくは"あそこ"に、家に居ていいんだと、自分を認めたくて」


 ユキオが、面を上げた。

うるんだ瞳、顔をくしゃりと歪め、吐き出すように告げた。


「だから、そう……僕は、英雄になりたい」


 それが、ユキオの寂しさを本当に埋められるのか。

その疑問符を飲み込み、ナギは、告げた。


「……無理だよ」


 断言に、ユキオの目が揺れる。


「だって聖剣が……ユキオの居場所が、家族が掲げたものが、それを、否定している」


 聖剣レプリカによる人類存続貢献度"赤"。

人類の敵対種、魔族の一歩手前。

最低限、重罪を複数犯す以上の罪科を運命に刻まれている存在。

勇者龍門が、息子であるユキオに与えたしるし。

お前は英雄になれないという、宣告。


「……なぜ?

 なぜユキオを、実の父親が"赤"と判定するようなことになったんだ?

 知って隠そうとかじゃなくて、皇国中に貢献度判定をし始めることになったんだ?

 分からない事、だらけなんだ」


 打ちのめされるように、ユキオが幾度か、口を開け閉めした。

吐き出す言葉を思いつかないようなその仕草に、ナギは目を閉じた。

空いた手を腹に置き、深呼吸。


「……いや、過去を明かしてほしいのなら、ボクが自分の分からやるべきか」


 目を開き、ナギは再び、ユキオと目を合わせた。

小さく瞳に映る自分自身と、目が合う。


「ボクが固有術式に目覚めた瞬間、ボクの両親は死んだ」


 再び、ユキオの目が揺れた。

ユキオの腰を抱く力を、少し強くする。


「ボクの術式は……相手の首を強制的に切断するようなモノだった。

 十一歳の、誕生日。

 お父さんとお母さんがケーキを用意していてくれて。

 部屋を暗くして、年齢分のローソクをケーキにさして火をつけて、ハッピーバースデーの歌を歌って。

 あぁ、幸せだなぁ……って思って息を吹こうと力を入れて。

 グッ、って。

 それから変な音がして、ベタベタした液が飛んできて、ローソクが消えちゃって。

 お父さんもお母さんも急に黙っちゃって。

 頑張って明かりをつけて……。

 お父さんもお母さんも、首が取れちゃってた」


 今でもナギは、時折夢に見る。

父と母の首がポロリと取れて、血が噴き出す光景を。

或いは、術式が暴走し、他の大切な友達や、新しい家族たちの首が、ポロリと取れてしまう光景を。


「泣いて泣いて、泣き疲れて気絶するように寝ちゃって……。

 気づいたら、今の家族に助けられた後だった」


 固有術式は、多くの場合5歳から10歳の間に発現する。

それまでに発現しなかった者のほとんどは固有術式を持たない、俗にいう無固有として過ごすことになる。

また、固有術式はまれに発現時に暴走してしまう場合がある。

そのため所定の年齢の子供に、先に簡易な一般術式を教える事で制御を学ばせる教育がなされていた。

そのため当時のナギは、無固有の少女と思われており……万が一固有が発現したとしても、それを制御できると想定される立場にあった。

前例のほぼ無い固有の目覚め方をした、その日までは。


「それから、一年近くかな。

 パパは……新しい家族は、ボクの制御訓練に付き合ってくれて、万が一にも意図せず発動はしないと太鼓判が押せるようになって。

 ……で、ボクが、キミが、十二歳ぐらいの時。

 何があったか、知ってるよね」

「……聖剣レプリカ」

「そう。ボクは初年度の貢献度判定で"赤"と判定された」


 荘厳な剣だった。

レプリカと名付けられているが、それは実質のところ勇者の持つ聖剣と同じ。

器物系の固有には、生成物を複数生成できるタイプがあり、"勇者の聖剣"もまたそれに相当していた。

勇者と聖剣の威厳を損なわないためだろう、豪奢な塚に聖剣を刺しており、その聖剣の柄を握る形で判定は成される。

もしかして自分が次の勇者になれるのかもと、心躍りながらナギはその柄に触れ……。

聖剣は、赤い光でナギを拒絶した。


「パパは、ボクを一人にできないって、本当の家族になった。

 まぁ、つまり……"赤"になって将来の運命が定められたけど。

 "赤"にされたから、ボクは今のパパと家族になれた。

 ボクは、運命の奴隷。

 聖剣に人生を……家族までも決定された女っていう訳だ」


 自嘲するナギに、ユキオは何を言っていいか分からないようで、口を開けては閉めて、言葉になる前の空気を吐き出す事しかできない。

代わりにとばかりに、そっと手を差し出し……、ナギの腰を、抱き返した。

ナギもまた、ユキオの腰を抱く力を、強くする。

ためらいがちに、ユキオが口を開いた。


「十一歳。

 何時か話したっけ、絵のコンクールがあって、発表があって……。

 そのちょっと後、かな。

 当時は僕の家には父さん、姉さん、ミドリ、ミーシャに僕の五人のほか、家政婦が働いていた。

 まぁ今でこそミーシャが何故かメイドを名乗り始めて家事をやってくれているんだけど、幼い頃は難しかったから、ね」

「ミーシャさんは、ユキオの4つ上、だったっけ」

「うん、だから当時十五だったかな。

 そして家政婦なんだけど、割と入れ替わりが激しかったんだよね。

 なんていうか、父さん狙いの家政婦、とても多かったんだ。

 地位も金も力もあって、ビジュアルも良く、若かったから、まぁそりゃね。

 父さんは母さん一筋なんだけど、そんなの見てすぐ分かる訳じゃあないし。

 だから当時の家政婦も、比較的新しい人、だったんだけど」


 一端区切って、ユキオは深呼吸をした。

一度、二度、三度。

振るえる声で、告げる。


「僕はその人に、性的暴行を受けていた」

「……あ、え?」


 予想だにしていない言葉に、ナギはうめき声を漏らした。

性的、暴行。

当時30代であろう龍門を狙っても可笑しくない年齢の……、おそらくは二十代半ばから三十代半ば程度の家政婦が。

当時、十一歳の少年……ユキオに。

……ナギは、男性の二次性徴期の時期に、詳しい訳ではない。

ただ確か女性よりやや遅く始まる程度であり、十一歳という年齢は、下手をすれば、精通をする前後という年齢であることは思い当たった。

下手をすれば、その暴行の最中、ということも考えられる。


「……発覚までは、半年ぐらい。

 父さんはそれを知って、当然、その家政婦を追い出した。

 他の三人は……背景を、知らないはず。

 その家政婦……川渡が僕に対して何かした、ぐらいは気づいていただろうけど……。

 それが性的な事だったとは、多分、気づいていない」


 思わず、ユキオの腰を抱く力が、抜ける。

瞬間、ユキオがナギの腰を抱く力が、強まった。

痛いほどに強く抱きしめる力に、ナギもまた、再びユキオの腰を強く抱きしめる。

か細い声の彼が、どこかへ行ってしまわないよう、掴んで見せるために。


「父さんは、それを切っ掛けに、より犯罪に苛烈になった。

 政府からの聖剣レプリカ計画は、前から打診があって断っていたらしいんだけど、それを機に意見を変えたみたいで。

 テストケースとして、関係者の前で家族の判定をすることになった。

 父さんは、家族がこれに引っかかるとは、全く思っていなかったみたいだった。

 で、まぁ、結果は知っての通り"赤"だった訳だけど」


 自嘲するユキオを尻目に、ナギはその言葉を咀嚼し、整理する。

ユキオが家政婦に性的暴行を受け、そしてそれを龍門は、忙しさにかまけて半年ほど気づけずにいた。

そしてそれを後悔し、今まで打診を断っていた聖剣レプリカによる人類貢献度判別を始める。

それで家族が引っかかるとは夢にも思っておらず、それ故に。


「じゃあ、その、もしかして……ユキオたちを、守るために?」

「直接聞けた訳じゃあ、ないけどね。

 ……関係者、要はお偉いさんの前でだったから、それなりに知られた話になっちゃった。

 あれから毎年続けて計測はしているけど、僕については"赤"から変わらないままだ。

 仮説をいくつか聞かされたけど……まぁ、僕が性的暴行を受けて、人格に影響を受けてしまったことが原因かもしれない、みたいな話もあったよ」


 思わず、ナギはユキオを両腕で抱きしめた。

あ、と声にならない声が、ユキオの口から漏れる。

羞恥や姉妹への苛立ちは、とうに消えていた。

ただただ、目の前のこの少年が、抱きしめ確かめてやらねば、今にも消えてしまいそうなほど儚くて。

その寂しい声色が我慢できなくて。

ナギは、震える手で、ユキオを強く、強く抱きしめた。


「キミは、何も悪くない」


 つまるところ、ユキオが性的暴行を受けていた事は、関係者に知らされていた。

貢献度判別の時期は、ユキオが十二歳になったころだ。

その年齢の子供が、多くの関係者に性的暴行の被害者であることを知られ、そしてそれ故に父の期待に応えられなかったという仮説を聞かされる。

あまりにも残酷で、誰か何とかできなかったのかと、ナギの内心に憤怒が沸き立った。


「傷ついた人が上げる苦しみの声が、時に不快に聞こえてしまうことがあるように。

 傷跡がキミに与える痛みが、キミの運命を塗り替える力を、持っているだけ。

 それで傷つけられた人が悪いなんて事がある訳がなくて……。

 傷つけた人が、悪い。

 キミの責任じゃあ、ない」


 そしてユキオを傷つけたのは、ユキオを守ろうとする者たちだった。

ユキオを守ろうとして、その運命を決定し、夢を二度と叶わないと決定してしまった父親。

ユキオに父性を見て、年下の、知らないとはいえ性的暴行の被害者に、自分の父親になってほしいと望む姉。

ユキオに全てを差し出し、手に入れられる事を望む、その天才性でユキオの劣等を証明してしまった妹。

吐き気のするような仕組みに、ナギの内心に憎悪が沸き立った。


「……だい、じょうぶ。

 傷つけた人が全て悪いんじゃあ、ない。

 凶器にも、凶器を渡した側にも、責任はある。

 ナギだって……悪くなんか、ない。

 ご両親の事に……ナギに、責任なんて、ない」

「……嗚呼」


 深い傷跡を、その傷跡からもう一度血を流す事を厭わず見せてくれたユキオは。

明らかに今一度その告白で傷つきながら、それでも自身だけではなく、ナギの事を想う事ができていた。

ユキオは、兎角自分よりも他者を優先することができる人だった。

傷つき、血を流す人を見たとき……自分の流れる血を抑える手を放し、まず誰かの流す血を抑え癒すために、その手を使える人だった。

あまりにも優しく、美しく。

そんな人がこんなにも傷つく世界の間違いに、ナギの内心に悲哀が沸き立った。


 ナギは、そっと抱きしめたままのユキオの頭に掌を。

初めてのデートの時のように、灰色の髪を、撫でてやる。


「だいじょうぶ」


 ユキオの耳に、口づけんばかりの距離で、囁いた。

ユキオが身じろぎし、安堵のそれを思われる溜息が、深く絞り出される。


「何も、心配いらないよ」


 ぽたり、と。

ナギの肩に、熱い液体が、零れ落ちた。


「だいじょぶ、だいじょぶ、だいじょぶ……」


 ゆっくりと頭を撫でてやりながら、ユキオの耳元で唱え続けるナギに。

ユキオは、ポロポロと涙を流し続けた。

抱きしめる手は互いに力強く、嗚咽のない静かな涙が、流れ続けて。

やがてユキオの力が、ゆっくりと抜けていく。

ナギはそっとユキオの頭と上半身を支えてやり、重力に負けてゆくそれを、そっと膝の上に横たえてやった。

泣き疲れて眠ってしまったユキオの顔が、露わになる。


 涙の跡でグシャグシャになったユキオの顔は、何時もよりも幾分、幼く見えた。

疲れ果てた、子供のような顔だった。

愛おしいその頬に、ナギは腰を屈め、軽く口付ける。

それから少しだけ迷って……、その喉元に、今一度口付けた。

今度は、強く、長く。

跡がそこに、残るぐらいに。


 ナギは、ここに至るまでを振り返った。

過去。

幼い頃、覚醒と両親の死、新しい父、運命の決定、すれ違い、そしてユキオとの出会い。

自らの怒り、憎しみ、悲しみ。

そしてもう一人の自分ともいえるユキオの受けた仕打ち。

全てがナギの中を渦巻き、あらゆる感情が通り過ぎてゆき――。


 ――ナギの内心に、決意が沸き立った。



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