第58話 当真仁

 走る。全力で走った。体育館を飛び出し階段を飛び越え、校庭を駆け、脚を絡ませ転倒する。


「ゼノン…………ゼェノォォォンッッッ!」


『はい、何でしょう? 当真とうま?』


 砂まみれになりながらオレは、【黒のスマホ】へ叫ぶ。


「レンを、レンを生き返らせろっ!」


 この吐き気の原因、それは嫉妬だった。ビアンカとアンジェリカが幸せそうに笑い合っているのがねたましくてならなかった。オレがやったのに、オレは正しいことをしたはずなのに、妬ましくて妬ましくて仕方なかったのだ。


 どうしてビアンカとアンジェリカは二人とも生きているんだ。どうして? どうして? レンは死んだのに。


『レンは、あなたの弟は死亡し荼毘だびに付され長い年数が経過した為、生き返らせることはできません』


「何ポイントだ!? 何ポイントあればいい!? 億でも兆でも、いくらでも払う!」


『不可能です。出来ないものは出来ないのです』


「お前、何でもできるんじゃないのかよ………できるんじゃないのかよッ!」


 オレは【黒のスマホ】を叩きつける。


「グッ」


 全身を電流のような痛みが走り、地面に突っ伏す。


『警告します。このスマートフォンはあなた自身そのものです。衝撃、破壊、分解などをすることは推奨しません』


「うるせぇ……無能が」


 口の中の砂をベッと吐き出す。


 本当は分かっていた。レンを生き返らせることなど出来はしないと。ただ夢を見てしまった。ゼノンという超常の存在ならもしかしたら、この現実を変えてくれるのではないのかと。


 変わらなかった。変わらずにレンのいない過去、レンのいない今、レンのいない未来が続いていくだけだった。


(どうして……)


 どうしてこんな違いが生まれたのか。大切な家族を守れたビアンカとアンジェリカ。守れずに一人ぼっちのオレ。この差は何なのか?


 ーー助けて。


「……あ?」


 脳裏に蘇る一つの言葉。オレを掻き立てたのはその言葉だった。その言葉を聞かなければ、オレはあの時違う道を選択していただろう。


「こんな、簡単なことだったのか……?」


 今気付いた。レンを助ける方法を、一二年経った今理解した。


「頭悪すぎだろ……」自分で自分が嫌になる。「バカすぎる……ほんとにクズだ……」


 ほんの少し、ほんの少しだけでももっと賢かったなら、オレはレンを助けられたのだ。


「てーいっ」


 背中にズシッとした重みがかかる。


「ひどい顔してるね、センパイくん」


 背中に乗ってきた綾が、オレの涙を指で拭う。


「触るな」


「やだ。今のキミには、人の助けが必要だよ」


 人の助け。オレにそれは最も痛いセリフだった。


「どうやって?」オレは鼻で笑う。「どうやってオレを助けるというんだ?」


「聞かせて、キミの話を」


 綾の真剣な表情にほだされたのか、それとも単に弱っていただけか、オレの口から勝手に言葉が漏れる。


「オレには弟がいたんだ……名前はレン」


 五歳年下の小さな弟。生まれたときは嬉しかった。何かが変わるんじゃないかと思った。両親とオレとレン。四人の生活は確かに変わった。より悪い方向へと。


「一二年前の夏。ちょうど今ぐらいの時期だった。両親は何日も帰って来なかった」


 頭が痛む。狭く汚いボロアパートの茹だるような暑さと臭いをありありと思い出す。


「レンは泣いていた。ずっとずっと、何日も何日も」


 その時のオレは目を閉じ耳を塞ぎ、隅で固まって何もしなかった。


「嫌だった。冷蔵庫の物を勝手に食べて殴られるのも、水道の水を飲んで煙草の火を押し付けられるのも、真冬に外に放り出され凍えるのも、縛られて押し入れに閉じ込められるのも全部。だから何もしなかった。やがてレンは、泣かなくなった」


 レンには羽虫がたかり、開かれてむき出しになった眼球の上を蠅が歩いていた。


 オレは右肩に刻まれた煙草の焼け跡を掻きむしる。


「水もミルクも与えられずレンは死んだ。オレは我が身可愛さに、幼い弟を見殺しにしたんだ」


 頭がズキンズキンと締め付けられる。子供の泣き声を聞くとひどい頭痛に苛まれる【レンの呪い】。それは泣き叫んでも助けてようとはしなかったオレへと向けられた、レンの怨念だった。


「それは…………キミのせいじゃ………」


「オレを保護した大人たちは皆そう言ったな。『キミは五歳だったんだからしょうがない』。『全部親が悪い』って。だがあの時あの瞬間、レンを助けられたのはオレだけで、レンを見捨てる選択をしたのもオレなんだ。そして、」


 五歳のオレでも簡単にレンを助けられる方法があった。一二年経った今頃、やっと気付いた。


「オレはあの時、泣きじゃくるレンを抱き上げて外に出て、叫べば良かったんだ。『助けて! 誰か助けて下さい!』って」


 気絶した母の為に叫んだアンジェリカのように。


「そんな簡単なことも出来ず、分かりもせず、オレはレンを見殺しにした。オレがレンを殺したんだ」


 たった一人の弟だったのに。バカでクズで愚かな兄を持ってしまったが為に命を落とした。ゴメンな……レン。どんな漢字を書くかも分からないオレの弟。


 綾は顔を伏せ、肩を震わせていた。その姿に申し訳なくなる。


「他人に言うことじゃなかったな……すまん」


 立ち去ろうとするが、服が強く掴まれる。


「知ってた」


 涙声で綾は言う。


「ここ……九弦学園高校。ボク……九弦綾。だからね、ゴメン、調べちゃった」


 涙が零れ続ける瞳で綾が何かを謝る。


「キミが五歳まで虐待を受けていたこと。レンくんが亡くなっていたこと。一三歳で施設に保護されたこと。その調査資料を全部読んじゃったんだ」


「ああ……」


 特別とくべつ救済制度きゅうさいせいど。私立・九弦学園高校には、何らかの事情で十分な教育を受けられなかった者を無料で入学、教育を施す制度がある。それに選ばれてオレは、特別救済生きゅうさいせいとしてこの高校に編入したのだった。


 創立者と血縁関係にある綾は、調査されていたオレの素行や生い立ちがまとめられた資料を目にしたのだろう。ひょっとしたら盗み見たのかもしれない。どうあれ、オレには興味がない話だった。


「ボグのばなじずる」


「はあ?」


 ボクの話する? 涙声がひどくて何を言っているのか分からない。


「とりあえず……鼻をかめ」


 【黒のスマホ】でティッシュを買い綾に渡す。綾は三度鼻をかんだ。


「ボクの話するね」


「好きにしろよ……」


 ずっと綾に服を掴まれていた。逃がす気はないらしかった。


「キミを初めて見つけたとき、ボクは屋根の上にいた。キミは生け垣の影に隠れて震えていた。そのすぐ近くに虐殺蜂に襲われ気絶した母親と、助けを求める子供がいたのに」


 この『試験』が開始されて間もなく、オレは生け垣に隠れていた。その最中、虐殺蜂に襲われているアンジェリカとビアンカを発見したのだった。


「それを責める気持ちなんてなかった。ボクにとっては要救助者三名でしかなかったから。だからボクは三人を助けようと弓を構えた。けれどその時、信じられないことが起こった」


 綾がオレに笑いかけたので不思議に思う。


「キミは突然駆け出し、自転車を掴むと、雄叫びを上げてそれを虐殺蜂に叩きつけた。そしてビアンカさんを抱き上げ、アンジェちゃんを引き連れて懸命に逃げた。すごく、すごく綺麗だった…………人が人を命がけで助けるのを見たのは、それが初めてだったから」


「それは……」


 【レンの呪い】にかかっているオレは、子供の泣き声で猛烈な頭痛が起きる。もし子供が殺された場面など目撃したら脳の血管が破裂しかねないという打算からの行動なのだが、それを言って感動している綾の思い出を汚すのははばかられた。


「どんな人なんだろうとワクワクした。でも、実際に会ったキミは、想像していた人物とはまるで違っていた」


「悪かったな」


 どうせこんな奴だよと不貞腐ふてくされたら、綾は首を振る。


「キミは捨てられた野良犬みたいな人だった。警戒心が強くて、誰も信じていないような目をしていて、でも寂しそうだった。キミはボクの出会った誰とも違う人だったから、すごく気になった。だから調べて、ショックを受けた」


「ろくでもない人間だったことにか?」


 親に愛されず弟を見殺しにしたクズ、それがオレだ。しかし綾は再度首を振った。


「キミはすごい」


 綾の言葉に眉根を寄せる。オレにすごい所などあるものか。それでも綾は続ける。


「キミはすごい。キミは親からひどいことをされた。他の人は誰もキミのことを助けてはくれなかった。にもかかわらずキミは、助けを求めている人がいたら自らの危険を顧みずに助けた。誰かに教わったでも真似るでもなく、キミは自らの意思で人を助ける人間になったんだ。それは何よりも尊く、美しいことだとボクは思う」


「なにを……言っている?」


 言っていることがすんなりと入ってこないオレに、綾は満面の笑みを向ける。


「ボクがキミのことを大尊敬しているってことだよ! 当真仁とうまじん先輩っ!」


 綾の言葉は太陽のような温もりを持っていたが、オレの心までは届かなかった。


「お前は勘違いしている……オレが弟を見殺しにしたクズだということに変わりはない」


 他人がどう思おうと、この事実は覆せない。


「キミは本当に優しいね」


「……オレはお前の思っているような人間じゃない」


「レンくんを助けられなかった自分が、そんなに許せない?」


 言葉に詰まる。結局オレは、こんな自分が嫌で嫌でしょうがないのだ。


「全部を忘れて、楽しく生きることもできるよ?」


「そんなことはできない」


 レンの最後の瞬間をこの一二年間、一時も忘れたことなどないのだから。


「本当に、損な人だね……」


 綾が憐れむように微笑む。


「キミには、レンくんを助けられなかった強い罪の意識がある。それは罪ではないとどれほど説得しても、自分自身をキミは許せない。ならキミに必要なのは、罰だ」


「罰……?」


 綾は頷く。


「罰にも色々あるけど、キミが本当に苦しいのは……助けたいと思った人を助けられないこと。助けられたのに助けられなかったことを一番と苦しいと感じるんだと思う。ならボクは、九弦家の力を使って苦しみが絶えない場所へキミを送り込んであげる」


「苦しみが絶えない場所……」


「自衛隊、警察、消防士、医者。彼らは紛争、災害、事件、火災、死に瀕する人々と対面し続ける過酷な職業だ。その中でも一番キツく辛い所へキミを送り込む。そんな場所でキミは、助けられなかった人のことばかりを思い出し、苦しむ」


 もしそんな職業についたらオレの性格上、綾の言う通りになりそうな気がした。


「地獄じゃねえか」


 オレの目を綾が真っ直ぐに見据える。


「苦しみながら生きるーーそれがキミへの罰だ」


「苦しみながら…………生きる」


 悪魔のような提案だが、不思議としっくりきた。苦しいだけじゃなく、苦しみながらも生きる。それは悪くないもののように思えた。


 幸福に生きることなど想像もできないが、苦しみながら生きることは想像できた。そんな風にしか生きられないオレを、綾は手助けしてくれるというのか。


「一つ大きな問題がある。オレはすこぶる馬鹿だ」


 そう言うと、綾は得意げな顔をした。


「大丈夫! ウチの高校にはどんな問題児でも優等生にしてきた信頼と実績の特別カリキュラムがあるから」


 そこはかとなく怪しい気配がするのは気のせいだろうか?


「もしダメでも、九弦家のコネでねじ込めば良いし」


 綾は悪い顔をしている。


「腹黒め」


「ボクは清廉潔白な華の女子高生だよ?」


 綾がおどけてポーズをとる。白と紺の制服は、確かに彼女に良く似合っていた。


「……良かった。顔色が良くなったね」


 そう言われオレは顔に触れる。気を使わせてしまったようだ。


「キミは、苦しんでいる人を助けてしまう人。でも、助けた人にはあまり興味がないんだよね」


 オレが首を捻ると、綾は困った顔をする。


「キミは自分の行動の報酬を受け取るべきだ――みんな、もういいよっ!」


 綾が後ろに向けて声を張り上げると、植え込みの影からソロソロと人が現れる。


「ゴメンなー? いい雰囲気のとこ邪魔して」


「そんな雰囲気は微塵もありません」


「立場上、止める義務があるのだけれど……野暮ね」


「理乃ちゃん? 蹴るよ?」


「…………」


「司賀先輩は何か言ってください!」


 ニヤニヤしている騎士、悩み顔の理乃、口をモゴモゴさせている誠也に綾は声を荒げる。


「トーマ……」


 ビアンカがいた。若返り、元の美貌を取り戻したビアンカは、オレにいきなり抱きついてきて、「ジャークユ、ジャークユ」と涙ながらに繰り返してくる。


「ウクライナ語で、『ありがとう』という意味です……」


 アンジェリカだ。氷像化から解放された少女は母親の言葉の意味を説明すると、オレの手を取り頬を寄せてくる。


「ジャークユ……。ありがとう、お兄さん。わたしとお母さんを助けてくれて、本当にありがとう……」


 アンジェリカも涙を流しながら礼を言う。


 オレは左右から抱き締められ、どうしたらいいのか分からなかった。ただ、これを振り解くのは間違っていることだけは分かった。


「喜べばいいんだよ」綾が微笑む。「キミが自分をどう思っていようと、いいことをしたら感謝される。だから喜んで。キミは人から『ありがとう』と言われることをしたんだ」


 オレは困惑しながらも、ビアンカとアンジェリカからの感謝の声に耳を傾けた。


(ありがとう、か)


 レンは助けられなかった。見殺しにした。けれどビアンカとアンジェリカは助けられた。見殺しにしなかった。それで罪を償えるとは思わない。ただ、今回は間違わなかったとは思う。悔いのない選択ができた。


「後輩……レンはどんな漢字で書くか分かるか?」


 オレの生い立ちを調査した資料を見た綾なら知っているかもしれない。試しに問うと、綾は同情するような顔をして答えた。


「連。連続の連の一文字で連、だよ」


「連か……ありがとうな」


 ずっと知りたかった答えが知れた。


(ごめんな、連。そしてありがとう)


 連は死んだ。オレが見殺しにした。オレのような人間の弟として生まれなければ連の人生は続いていたのかもしれない。でも、そうはならなかった。


 それでも、連がオレの元に生まれたことに感謝したい。連が生まれた喜びが、連が死んだ悲しみが、後悔が、オレを今のオレにした。


 連という存在によってオレはオレになり、それによってビアンカとアンジェリカの命を救うことができた。こじつけかも知れないが、そう思うことを許して欲しい。


(オレの弟に生まれてきてくれてありがとう、連)


 オレを兄にしてくれた唯一人の弟に、感謝の祈りを捧げた。

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