第26話 マリーの為に
九月二十日夕刻・・・。陽は既に没していた。辺りはしだいしだいに暗くなり、空には星々が瞬き始めていた。
「そっちだ!!」
「追い詰めろ!!」
「ヤツクニック、ストーイ!!」
法皇国兵達は、しぶとかった。すでに二時間は走り続けていたが、まだ追跡して来る。
「畜生・・・!今まで短距離だってこんなタイムで走ったことなんかなかったわよ!!いやっ・・・諦めるな!諦めたら、そこで全ては終わりよ!シャル、走りなさい!」
自分自身を叱咤激励したが、さすがの彼女も脚が痙攣して倒れてしまった。
「だ、駄目っ・・・もう動けない。逃避行もここまでか・・・。せめて拳銃でもあれば、自決できるんだけど…いやっ、何を考えているの!あなたはマリーの言葉を忘れたの!まだ、あきらめるな!土を掘って体を隠せっ!砂を被って少しでも体を隠すんだ!」
シャルロッテは、地面に這いつくばって草間に隠れた。
「(発見されずに済む可能性はほとんど無いだろうな・・・。だからと言って希望を捨てていいものか。信じることによって不可能が可能になる事だってあるんだ!)」
わざと都合の良いことを考えるようにしながら、彼女はそっと法皇国兵の動きを観察した。
「狂信者共は近付いて来ているけど、秩序だった探し方じゃない。中にはまるで見当違いの場所を探してるやつもいる。うまくいけばこのまま・・・まずい!一人こっちに真っ直ぐ向かってくるやつがいる!一歩ずつ間隔を詰めてくる。こっちに来るな!!」
そのとき、頭上でエンジン音が轟き、ヴァンダーファルケが一機、猛スピードで通り過ぎた。明らかに法皇国兵の間に動揺が走ったのが見て取れた。
「(あれは・・・フィッケルのファルケだな。護衛の戦闘機もいる。でも・・・今の私には、あいつらに『私はここにいる』って叫んで助けてもらうことは出来ない。腕一本でも挙げれば、狂信者共に見つかってしまうわ。)」
ヴァンダーファルケとシュバルツファルケは、何度か上空を旋回していたが、やがて西へと飛び去って行った。
「(行っちゃったか・・・今頃あいつらは『今度ばかりはあの人も助からなかった』とか呟いてるのかな・・・なんだか寂しいな・・・。)」
その頃には陽の残光は完全に消え、暗闇が辺りを包み込み始めていた。
「(!?・・・このまま闇に紛れれば、もしかして・・・。)」
そんな彼女の淡い期待を引き裂くように、今度は複数の犬の吠える声が聞こえ始めた。
「(くそっ!あいつら犬まで連れて来たのか。せっかく濃くなり始めた闇が私を守ってくれると思ったのに・・・!この世に正義はないのかっ!?)」
絶望が、しだいに彼女の心を支配していく。悔しくて、大粒の涙が一滴、また一滴と流れたが、何とか嗚咽は噛み殺して我慢した。と、そのとき、思いもしなかった不思議なことが起こった。
「(えっ・・・!犬が・・・犬が私の横を通り過ぎていく・・・私の匂いを嗅ぎ付けなかったの?えっ・・・何で!・・・それに、法皇国兵の誰もが私を見つけられないのは何故なの???)」
何人もの法皇国兵や軍用犬がシャルロッテのすぐ横を通り過ぎたにもかかわらず、彼女の存在に気付いたものは誰もいなかった。そのまま、兵士達と犬達はゆっくりと暗闇の中に消えて行った。
それから小一時間、念のために伏したままシャルロッテはじっとしていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。辺りに人の気配は無かった。まるでこの世には自分だけしか存在しないかのような静けさだった。
「・・・よし、移動するか・・・。携帯コンパスが燐光性じゃないから暗くなると針が見えない。私が目指すのは西だから、今のうちに方位を確認しておこう・・・。星座が沈む方角が西・・・だよね。ちょうど一際目立つ星々の集まりが見えるな。あれを道標にして移動しよう。」
シャルロッテは、西を目指して歩き始めた。
「お腹が空いたなぁ・・・喉も渇いた。あぁ、ホットミルクが飲みたい!チョコレートも食べたい!・・・くそぉ、お腹減ったぁぁぁ!」
法皇国が見張りの兵士を配備していそうな場所は全て避けながら、丘を登り、谷を下り、小川を越え、沼地や湿原、刈り入れを済ませた切り株だらけのトウモロコシ畑などをシャルロッテはひたすら歩き続けた。全身が痛み、そのうちに足の感覚も無くなって来た。
「ダメ・・・もう脚に力が入らない・・・気力も尽きてきた・・・このまま水も食料も無い状態で進むのは不可能だわ・・・。」
意識も遠のきそうになったその時、シャルロッテは少し先に農家が一軒ぽつんと建っているのを見つけた。彼女は最後の気力を振り絞り、這うようにしてようやくその家までたどり着いた。お世辞にも綺麗とは言い難い、やや傾いたぼろ屋ではあったが、空き家で無いことは、閉じられた窓から微かに漏れる明かりから窺い知れた。
「どなたか!どなたかいませんか!」
扉を叩いて問いかけると、しばらく間を置いてから、ゆっくりと扉が開けられた。そこには、継ぎ接ぎだらけの服を纏った一人の老婆が立っていた。老婆は不審そうに尋ねた。
「・・・どなたかの?」
「・・・夜遅くに申し訳ありません。戦火に巻き込まれて、村を追われた者です。親類を頼るための旅の途中なのですが、喉が渇き、お腹も減ってこれ以上歩くことができません・・・。女の身で野宿もできずに歩いていたところ、お宅を見つけました・・・。どうか哀れに思って、一晩だけ泊めていただけませんか?」
老婆は、シャルロッテを頭のてっぺんから足の先まで、まるで品定めをするかのようにじろじろと眺めた。続いて周りを見渡し、彼女の他には誰もいないことを確認した。
「本当にあんた一人のようだね・・・。若い娘がかわいそうに・・・。汚い家だが、どうぞ、入っておくれ。」
見た目だけは可憐な少女であることが幸いして、老婆は警戒心を解いてシャルロッテを家の中へと招き入れてくれた。
「(・・・やはりかなり貧しそうだな。小さなベッドと古びた戸棚、テーブルくらいしか家具がない。・・・他に人は住んでいなさそうだな・・・。お婆ちゃん一人か・・・。)」
シャルロッテは倒れ込むように床に座った。柱を背にして目を瞑ると、疲労感がどっと襲いかかって来た。そのまま彼女が微睡み始めると、緩く肩を揺さぶられた。ゆっくりと目を開けると、水の入ったコップと微かにカビ臭いコーンブレッドが乗ったお盆を手に老婆が立っていた。
「戦争のせいで、うちも貧乏暮らしでね・・・こんなものしかないけど、良かったらお食べ・・・。」
シャルロッテは驚いた。この老婆が食べるはずのものではないかと疑ったからだった。
「お婆ちゃん、それを私が食べてしまったら、お婆ちゃんが食べるものが無くなるんじゃないの?私は一晩泊めてもらえるだけで、十分よ。お婆ちゃんが食べるものまで奪う気は無いわ。」
それを聞くと、老婆は微笑んだ。
「あんた、いい子だねぇ。こんな老いぼれのことを気にしてくれるなんて・・・。いいんだよ。お腹、空いてるんだろ・・・。どこまで行くのかは知らないけど、お腹が減ったままじゃ辿り着けないよ。」
それを聞いて、シャルロッテの目から涙が溢れた。やはり、これは老婆のなけなしの食料に違い無かった。それを、見ず知らずの私なんかに・・・。
「ごめんね・・・ごめんね・・・お婆ちゃん。」
シャルロッテは腕で涙を拭いながらしゃくり上げた。
「いいから、お食べ・・・たいして美味しいものじゃないけど。」
泣きながら頷いたシャルロッテは、先にコップの水を頂いた。喉がカラカラだったのを思い出し、一気に飲み干した。身体に染み渡るように美味しかった。続いて、震える両手でコーンブレッドを掴むと、一口齧り付いた。途端、彼女は目を見開いた。
「美味いよ、これ!食べ物が、こんなに美味しいって思ったことは未だ嘗てないよ!一口食べるだけで力が蘇り、生きる意志が湧き上がってくる気がする!」
夢中で食べきると、再び老婆にお礼を言った。老婆は、嬉しそうに微笑むとシャルロッテに毛布を掛けてくれた。
「ゆっくり、お休み・・・。」
シャルロッテの意識はここで途切れた。
☆
シャルロッテが目覚めたのは、夜が明ける少し前の午前四時だった。食事を摂り、熟睡した御陰で気力体力共に回復していることが実感できた。老婆は粗末なベッドで未だ寝ていた。シャルロッテは老婆の耳元に顔を近づけると、起こさないよう小声で囁いた。
「ありがとう、お婆ちゃん。このご恩は一生忘れないから・・・。」
毛布をたたんで椅子の上に置くと、シャルロッテはそっと農家を抜け出した。
張り切って外に出たのはいいが、空は雨模様だった。しかし、怯んでいる暇は無かった。シャルロッテは前日と同じように丘を登り、下り、谷を登り、下り、小川を越え、トウモロコシ畑を横切りひたすら歩いた。地平線のあたりで、大砲から砲弾が発射される際のごろごろと呻る音が聞こえたため、この音が方角を知る手がかりとなった。やがて、背後の空から灰色の光が差してきた。これで自分が西へ向かっていることが確信できた。
「お婆ちゃん家を出てから十キロメートルは歩いたかな。昨日は二十キロメートル程は歩いたはずだから、国境線からはまだ六、七十キロメートルはあるか・・・先は長いなぁ。・・・何か目印になるものはないかな?」
シャルロッテは前方に見えていた高さ二百メートル程の丘の頂上に登ってみた。
「これといった目印はないな。小さな村落が三つばかり見えるだけだ。でも、この丘は東西に延びる稜線の始まりだよね。ここを伝えば迷うこと無く西へ向かって歩けるわ。稜線の長さはおよそ十キロメートルか・・・かなりの距離だけど・・・よし!走れば、一時間もあれば稜線の端に辿り着ける!頑張ろう!」
しかし、そう上手くはいかなかった。地形は様々に変化しており、マラソンのようにペースをそのまま保つのは難しかったからだ。その上、再び飢えと疲労がシャルロッテを襲い始めていた。
「ダメだ、まるで身体のガソリンが切れたみたいだ・・・まずは飢えと渇きを何とかしないと・・・。」
ようやく雨が上がり、日が差してきた。ちょうどその時、数百メートル先に二軒程の農家が見えた。シャルロッテは分別をかなぐり捨て、かっぱらってでも食料を手に入れる覚悟を決め、農家まで走った。
ところが、無人のまましばらく放置されていると思わしき家の中には、略奪にでもあったのか、二軒とも食べ物らしいものは何も残っていなかった。納屋の中に積まれたトウモロコシの干し草の中に実が幾つかでも落ちていないだろうかとも思って懸命に探してみたが、ここでも何も見つけることができなかった。
失望したシャルロッテが肩を落としていると、外から何かが軋む音が聞こえてきた。
「何だろう、あの音は・・・そうだ!あれは荷馬車の音に違いない。助かった!人がいるんだ!」
シャルロッテは納屋から外へ飛び出して、荷馬車に向かって声を投げかけた。
「おーい、ちょっと待って!」
荷馬車の荷台には、農夫らしき男と女の子が乗っていた。シャルロッテの声を聞いて、男は馬を止め、彼女の方を振り向いた。
「やぁ。この辺じゃぁ見かけないお嬢さんだね。俺たちに何か用かい?」
善良そうな笑顔を浮かべ、男はそう問いかけてきた。
「私は、戦火に巻き込まれた村から逃げてきたんだけど・・・ここまで来て空腹で身動きができなくなったんだ。すまないが、食べ物を分けてもらえないかな?」
「食べ物、ですか・・・こんなものでよかったら・・・。」
女の子は、袋の中から焼き菓子を取り出すと、シャルロッテに手渡してくれた。
「ありがとう、恩に着るよ。そう言えば、君たちはこれからどこへ行くんだい?」
「私、身寄りが無くて・・・。これからはこの人と一緒に暮らすの。だから、戦場から離れた安全な町に移動するところなの。」
女の子は、一旦隣の男を見てからシャルロッテの方へ向き直り、そう答えた。
「ふーん、戦場はここから近いのかい?」
「ええ、この村から三十キロ程先でドンパチやってるわ。貴女も早くここから逃げないと、何時巻き込まれるか判らないわよ。」
「(三十キロ先が戦場か・・・そこを抜ければ、友軍の元に帰れる!)ありがとう、道中の安全を祈ってるわ!」
シャルロッテは、遠ざかって行く荷馬車に大きく手を振りながら二人を見送った。
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