第5話

「旦那様になら……食べ、ら……れても……」


 舌足らずな口調で呟いた後、言葉は途切れ、そのうちに穏やかな寝息が聞こえ始めた。

 志穂の髪を撫でてあやしていたクレイズは寝付いたのを確認すると――。


「~~~~~っ!」


 唇を引き結んで声を押し殺して叫んだ。


 ――私になら食べられても? 食べられても!?


「~~~っ! ~~~~~っ!!!」


 心の中でひとしきり叫んだ後――。


「いや、落ち着け。落ち着くんだ、私……!」


 自分自身に言い聞かせるように小声で呟いて、フ……と鼻で笑った。

 そもそも志穂が言う〝食べられる〟という言葉の意味がクレイズが考えている意味とは違う可能性が高い。クレイズのこの世界で〝食べる〟というと〝食物を食べる〟以外にも〝異性を食べる〟という意味でも使う。大人な男女のうにゃらららを指す意味でも使う。

 話の流れからしても〝食物を食べる〟方。そうに決まっている。

 だって――。


「年端もいかない子供の言うことだ! 深い意味などあるはずがない!」


 というか、そもそも――。


「どちらの意味であろうとも私は! 食べたりしない! だから、なんの問題も! ない! 動揺することなど! 何も! ない!」


 押し殺した声で叫んで、ふー……と細く長く息を吐き出した後――。


「……」


 クレイズは改めて腕の中で眠る志穂に目を向けた。幼い子供らしい緩み切った寝顔に苦笑いする。

 メイド長のシルキーから志穂が寝ている様子がないとの報告を受けていた。ベッドが合わないのか、枕が合わないのか。シルキーも試行錯誤したようだがだめだったらしい。

 シルキーの話を聞いて、あるいは……と思ったのだが――。


「やはり、心の問題か」


 すやすやと気持ちよさそうに眠る志穂の、あぶら汗が残る頬を手の甲で撫で、クレイズは表情をかげらせた。口に入りそうになっている黒髪を耳の後ろへと払う。顔にかかった前髪を撫で、額にキスをしようとして――はたと動きを止めた。

 額へのキスは悪夢を見ないためのおまじない。親や乳母が幼い子供相手にするものだ。クレイズの腕の中で眠る少女は一見すると十才かそこらの幼い子供に見える。でも、長いまつげや薄く開いた妙になまめかしい唇、話をした印象はもっと大人に思えた。だとすると、額といえども寝ているあいだに口付けするのはまずいだろうか。

 悩んでいたクレイズだったが――。


「……っ」


「志穂?」


 志穂が苦悶の表情を浮かべるのを見て、悪夢にうなされているらしいことを察して――。


「……」


 額にそっとキスを落とした。悪夢が去るように。優しい夢が訪れるように。そう祈りをこめて。

 そのまま。抱きしめて、あやすようにぽん、ぽん……と背中を優しく叩く。


「……」


 しばらくすると再び穏やかな寝息が聞こえてきた。見れば志穂は幸せそうな、緩み切った寝顔に戻っている。

 ほっと息をついたクレイズだったが――。


「しかし、やはり……この状況はまずい……!」


 自身の腕を枕にしてすやすやと眠る志穂を前に声を押し殺して叫んだ。志穂が寝入ったところでソファか他の部屋にでも移るつもりでいたのだがそうもできなくなってしまった。

 この一週間、ろくに寝ていなかった少女がようやく寝付いたのだ。それもこんなに気持ちよさそうに、安心しきった表情で。

 起こす気なんて毛頭ない。毛の先ほどもない。ないのだけれど――。


「~~~~~っ!」


 絹連れの音と近くなった体温にクレイズは再び唇を引き結んで無言で絶叫した。

 発育の良い体と老け顔を活かして余裕のある大人の男ぶってみたけれど、実際のところ、全然そんなことはない。

 志穂を抱き上げてベッドに運んだ時も腕力的には全く問題なかったけれど羞恥心的には大問題だった。頭を抱えて床を転げまわって悶絶する寸前だった。腕枕もそう。あやすように背中をぽんぽんした時もそう。

 顔が真っ赤になっているのを志穂に気付かれなくて良かったと思う。それと、メイド長のシルキーと領主補佐のデュラハンがこの場にいなくて良かった、とも。

 もし二人がいたら鼻で笑われるか、からかわれるか、白い目で見られるか。そして、こう言われただろう。


「子供相手ですよ、クレイズ様」


「たかが添い寝でしょう、クレイズ様」


 と――。


 だが、そうは言っても。例え、本当に幼い子供だったとしても。このまま――志穂に抱きつかれたまま眠ることなんてクレイズにはとてもできそうに――。


「……って、私は少女趣味の変態では! ない! 取って食ったりなど! しない!」


 志穂を起こさないように声を殺して絶叫して、クレイズはくしゃりと前髪を掻き上げた。志穂は相変わらずすやすやと眠っている。よく見ればクレイズの服を握りしめ、しがみついている。これではますます身動きが取れない。

 顔を真っ赤にして視線をさまよわせ――。


「……どうしたものか」


 クレイズは困り顔で呟いたのだった。

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