非常口
もうすぐ五十路のお父さんと、二十代半ばの彼女さん。
二人がどのような出会い方をしたのかは知らない。聞いたかもしれないけれど忘れた、興味がない。
小学校五年生の終わり頃には彼女さんが我が家に来るようになり、ご飯を作ってくれるようになった。最初の頃はあんまり美味しくない上に見た目も良くなくて、無理して食べてたんだけど、いつだったか、味の感想を聞かれてうっかり正直なことを言ってしまったら、彼女さんは料理教室に通うようになった。それからは見た目も味も良くなって、お父さんは嬉しそうだ。
彼女さんは一緒にご飯を食べない。お父さんと仲良く一緒に過ごして、料理を作って、そして帰る。お父さんは一緒に食べたそうにしているし、ボクの前でボクに何も言わずに、彼女さんに食べていかないかと誘っていたけれど、そのたんびに彼女さんから色んな所を口付けされて誤魔化されてきたから、その内お父さんは何も言わなくなった。
彼女さんの仕事が休みなのか、毎週水曜日と日曜日に我が家に来る。
日曜日に来る時はボクに遠慮しているのかそこまで大胆なことは……ボクの目の前でお父さんの顔に口付けするのは大胆に入るんだろうか。取り敢えずそれくらいのことしかしないけれど、水曜日、ボクが学校に行っている間は派手に楽しんでいるらしい。うっかりドアを開いて、あらら~な声を聞いて以来、水曜日は七時になるまでドアを開けないことにしている。
友達と遊んだり、図書館で本を読んだり、勉強をしたり。
そんな生活を一年と少し。
気付けばボクは中学生になり、その日は家のドアの前に座って、傍にある閉ざされた非常口を眺めていた。
友達は用事があり、図書館は臨時休業。他に行く場所もなくて、ドアの前に座って時間を潰すしかなかった。暇で仕方ないし、通りかかった隣人の視線が気になって落ち着かない。もうお父さんと彼女さんのことなんて気にせずに入ってしまおうか、とか考えるんだけど、やっぱり娘として、父親が若い女性とあれやこれやしてる所に行くのはちょっと嫌だ。だからここにいるしかない。
カバンに入れていた本は読み終わってしまったから、仕方なく国語の教科書を読んでいた。織田作之助の『アド・バルーン』。パラパラと頁を捲っていたらここに止まった。織田作之助って知らない人だな、信長の親戚かなと思いながら読んでみたら意外と面白くて、読んでいる間は退屈を忘れられた。
読み終わって顔を上げたら、人が至近距離にいたからびっくりした。
「べほっ!」
「べほ?」
「……き、気にしないでください」
びっくりしすぎて変な声を出してしまった。
ボクの傍にいたのは、全身真っ黒な人だった。
パーカーも、目深に被ったフードも、サングラスも、履いているデニムも靴も、何もかも黒い。座り込むボクに合わせてしゃがみこんでいるけれど、それでもその人の身体がかなり大きいのがよく分かる。少し威圧感があった。
「えっと、何ですか?」
距離をあけようと後ろに下がりながら訊ねてみる。何を思ったのか、その人は距離を詰めてきた。
「俺さ、二階に用があるの」
「……そうですか、ここは三階ですよ」
「みたいだね。ほら、ここのエレベーターってさ、漢数字で階数表記してるじゃん? それでうっかり押し間違えちゃったー」
「……」
だから何なんだろう。
それなら、ボクに構わずさっさとエレベーターを使うなり、廊下の真ん中ら辺にある内階段を使えばいいのに。
顔に出ていたのか、だってさー! なんてその人は気持ち大きめに声を出した。
「見てー、この荷物。パンパンに膨らんだ袋三つ分の大荷物を。これ持って駅からここまで頑張って来たんだけど、着いてみたら階数間違えたじゃん? やっと解放されるって思った時にこの仕打ちってあんまりじゃなーい? 俺やる気なくなっちゃったー」
「それは……ご愁傷様です……」
「ちょっと休んでから二階に行こうと思ったら、暇してそうな女の子が視界に入ったんだよ」
「へー」
「でさ、女の子、一袋でいいから持ってくれない?」
「……」
袋が置かれているであろう、その人の真後ろに視線を向ける。確かに三つ、パンパンに膨らんだ袋があった。視線をその人に向け直すと、にいっと笑みを浮かべられた。
「どう? すぐ下だよ?」
「……」
「お礼はねー、駅前で買ったマドレーヌとアイスココアなんてどう?」
「……」
「あ、いかがわしいこととか考えてないしするつもりもないから安心して。てか、これから向かう所に美人過ぎる女の人がいるから、そんなこと企んだら殺されちゃうよ」
「……美人過ぎる女の人?」
「俺のねえさん。柿原とおるって人」
「……っ!」
柿原さんは知っていた。
道を歩いている時にすれ違ったり、エレベーターで一瞬乗り合わせたりする女性。
地毛なのか染めているのか、白っぽい金色の長い髪がふわふわしていて可愛くて、袖先が広がったチョコレートブラウンのカーディガンがお気に入りなのかよく羽織っていて、その下に白いワンピースなどを着ているのを見掛ける。森ガールっぽい感じの人。
確かに美人さんで、そもそも目を引くけれど、何より特徴的なのは、杖。足が悪いのか、茶色い杖をつきながら歩く姿をよく目にする。
杖をつきながら、真っ直ぐ前を向いて歩く姿がなんだかかっこよくて……ちょっと、少し、お話してみたいなと、実は思っている人だ。
その柿原さんの、弟さん?
目の前の人の顔をじろじろ見るけれど、フードを目深に被っているし、サングラスしているし、似ているかはよく分からない。
「俺とねえさん、血は繋がってないから、似てないよ」
「そう、ですか」
「でも、ねえさんに負けないくらいイケメンだから! モテすぎて困るぐらい! だからこんな感じなのー」
「自分で言いますか?」
「まあまあ。で、どうする? 俺のこと、助けてくれる?」
「……」
七時まで時間がある。教科書で暇を潰すことはできる。自称柿原さんの弟さんは胡散臭い。
──でも、柿原さんとお話してみたい。
「……その、何かしてきたら叫びますし、暴れますから」
「いいよー」
そんなこんなで、ボクは一袋持って弟さんの後ろをついていく。弟さんは不審な行動はせず、普通に階段を下り、柿原と表札に記されたドアの前で止まり、袋を一つ足元に置いてから鍵を使って中に入る。
「ねーえーさーん! たーだーいーまー!」
「うるさっ、近所迷惑でしょうが」
わりと近い場所から声がした。女の人の声だ。ごめんごめんと言いながら弟さんは袋を持ち直して中に入っていく。ボクも後に続く。
そして、
「なんか遅くなかった? どこで油売ってたのよ。……あら?」
柿原さんと目が合った。
美人過ぎる、なんて弟さんは言っていたけれど、確かに、美人過ぎる。森ガールファッションも相まって、妖精さんみたいだ。
「あなたは?」
「……あ、と、富樫です! 三階の、富樫めぐみです!」
「富樫さん……ああ、あそこの」
何で一緒にいるの? と弟さんに訊ねる柿原さん。弟さんが、袋持つの手伝ってもらったと言えば──弟さんの頭に握り拳を落としていた。
「女の子に重い荷物運ばせて、挙げ句私の家に連れ込むってどんな神経してんの?」
「いやー、暇そうにしてたからー」
「犯罪! 一歩間違えたら通報案件!」
「あ、の」
後ろ手にドアを閉めながら声を掛けると、柿原さんははっとした顔をしてボクを見る。その顔は一瞬で柔らかな笑みを浮かべた。
「その、愚弟が迷惑掛けてごめんなさいね」
「いえ! そんな! ボ、ボク、その……」
「ん?」
「かっ……柿原さんとお話してみたくて、弟さんについてきました」
「え、そうなの?」
顔が熱くなっていく。自分の言ったことが恥ずかしくなってきて、俯いてしまった。
それ以上何も言えずにいたら、とん、とんと音が近付いてきた。顔を上げたら、柿原さんが杖をつきながらボクの元に来てくれていたらしい。
「とおるでいいわ、めぐみちゃん。もし良かったらだけど……じゃあ、お話しない?」
「……っ! し、したいです!」
さあこっちに来てと優しい声で促され、柿原さん、いやとおるさんについていく。
たどり着いたのはダイニング。四人掛けのテーブルの席に座るよう言われ、椅子に腰を下ろすと、とおるさんはボクの正面の席に座る。
そういえば弟さんいないなと辺りを見回したら、キッチンで動き回っている姿が目に入った。
「今日はね、マドレーヌをあいつに買ってこさせたから、アイスココアと一緒に食べましょうよ」
「……弟さんにも言われました。マドレーヌとココアをお礼にって」
「あらそうなの。私より先に言うなんて生意気ね。罰としてあいつ抜きで楽しみましょう」
「いいんでしょうか、そんな」
「そういうプレイだと思って喜ぶから大丈夫よ」
よく分からないけれど、とおるさんがいいと言うならいいんだろう。
待っている間、学校の話を訊かれたからその話をした。ボクの話よりとおるさんの話を聞きたいなと思ったけれど、ずっと憧れていた人が喜んでくれるならいいかと、できるだけ楽しかったことを思い出して話してみる。
とおるさんがどの話も笑ってくれて、さて次は、なんて考えた所で、弟さんが戻ってきた。
「ココアは私、マドレーヌはめぐみちゃんね」
弟さんは三人分持ってきたけれど、とおるさんは当たり前のように弟さんの分をボクととおるさんの傍に置いていく。
「えー、俺の分なんだけどー」
「あんたはそこで黙って話聞いてなさい、おびと」
「おびと?」
「愚弟の名前よ」
とおるさんに指差され、弟さんはぺこりとお辞儀した。
「黒崎おびとでーす。よろしくー」
結局、冗談だったみたいで、弟さんこと黒崎さんの分のココアとマドレーヌは黒崎さんに渡されて、三人で楽しくお喋りをした。とおるさんは時折袖で目元を拭いながら笑い、黒崎さんはとおるさんに頭を叩かれながら笑い、ボクもお腹を抱えながら笑う。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、そろそろ帰らないといけない時間に。
良い思い出ができたなと思いながら、そろそろ帰りますと言えば、二人は残念そうな顔を浮かべてボクを見る。
「まだ話し足りないわ……そうだ。めぐみちゃん、もし迷惑じゃなかったらまたうちにいらっしゃいよ」
「えっ、そんなっ、迷惑じゃ」
「ないない! むしろウェルカム! 私、在宅で仕事してるから、病院の時以外はいつでもうちにいるの。時間に融通利くし、めぐみちゃんの好きな日に遊びに来たらいいわ」
「……」
「むしろお願い、来て! 私、可愛い妹が欲しかったの! 気分だけでも味わわせて!」
可愛い弟いるじゃん! の声は、とおるさんの耳に入っていただろうか。
ボクも、辛うじて聞こえただけだ。雑音が聞こえないくらい、その、嬉しい!
「では、お言葉に甘えて!」
そうやって、ボクのとおるさん宅への出入りが始まった。
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