第22話 ペーパーナイフの使い道
「今日も王宮に行かないつもりですか?」
ソファーにだらしなく転がって本を読むコレットを見て、アナベルがため息をつく。
エリクの女神の魔法が消えたと思しきあの日から、コレットは体調不良を理由に王宮への訪問を控えていた。
王宮側からはお見舞いの言葉が綴られたカードが届いたが、形式的な挨拶だけのそれはどう見ても使用人の代筆。
今までならあり得ないその対応に、何も知らないアナベルは困惑しているようだった。
「コレットにも一応伝えておきますが……殿下とエルノー公爵令嬢の婚約の噂が流れています」
「そう」
ナタリーはエリクに好意を持っているような素振りだったし、公爵令嬢なのだから身分も釣り合っている。
お似合いの二人ではないか。
そもそも王宮を訪問していたようだし、あるべき姿に戻っただけなのだろう。
「もちろん、ただの噂ですけれど。こんなに可愛いコレットがいるのですから、他に目移りするはずもありませんけれど」
何やらぶつぶつと文句を言っている様子からすると、アナベルの方は未だにコレットが可愛く見えているらしい。
これが女神の魔法のせいなのか、魔法は無関係なのか。
考えても仕方がないのでひたすらに本のページをめくる。
エリクの目が覚めた以上、もう王宮に行く必要もなくなるだろう。
となればアナベルやトゥーサンに同じことが起こった場合……シャルダン伯爵家を追い出された場合を想定して動いた方がいい。
現実逃避を兼ねて現実を見据えるというのも変な話だが、とにかく無一文で放り出されても生きていけるように準備だけは怠らないようにしなければ。
「よし。あとは行動あるのみ」
コレットは本を閉じると、体を起こしてソファーから立ち上がる。
前回の教訓を活かして地図を頭に叩き込んだので、王都と周辺の街なら迷うことはないはずだ。
最低限の読み書きや街での暮らし自体はわかるし、やはり一番の問題は仕事と家か。
幸い今はお小遣いをもらっており、特に使い道もない。
これで街の外れにでも部屋を借りておくのはどうだろう。
追い出された際に取り上げられるかもしれないが、手元に残れば儲けものだ。
「コレット、どうしたのです?」
となると、一番の障害からまずは排除しなければ。
コレットは優しく厄介な異母姉に、にこりと微笑んだ。
『エリク様に訪問できないお詫びの手紙を書いたから、届けてほしいの』
その一言に、アナベルは一も二もなくうなずいた。
本当なら使用人に任せればいいのにアナベルが手紙を王宮に届けると言い出したのは、各種情報漏洩の件でそれなりに王宮に顔が利くようになったからだろう。
あるいは、エリクの対応の変化を見極めようとしているのかもしれない。
それもどうなのかとは思うけれど、今回は都合がいい。
できるだけ簡素なワンピースを着たコレットは、アナベルを見送ると邸を出る。
もちろんアナベルの指示でつけられている数名の使用人も一緒だが、それは想定済みだ。
この時間に一番混んでいる市場の周辺は、平民育ちのコレットにとって庭のようなもの。
人混みと小さな路地を駆使すると、あっという間に撒くことができた。
「家出するわけじゃないし、すぐに帰るから大丈夫よね」
今日はあくまでも部屋を探すための下見だ。
それでもアナベルに行動を知られれば、狙いを察してしまうかもしれない。
限られた時間で効率よく回らなければ。
昔住んでいた家の周辺ではシャルダン伯爵家にバレる可能性が高いので、それとは反対の方角がいいだろう。
地図で位置関係は把握しているが、街並みや治安は実際に見てみないとわからない。
石畳の路地を抜けて進んで行くと、だんだんとお店や大きな建物は減り、平民達の暮らす小さな家が増えてくる。
そんなに広い部屋は必要ないので、この辺りで探すのもいいかもしれない。
そのまま小さな川にかかった橋の前に出たが、そこでコレットの足がぴたりと止まる。
橋の向こうは明らかに建物の雰囲気が違っていて、恐らくはあまり治安がよろしくない。
一人で暮らすからにはそういう場所は避けたいし、今は一応貴族令嬢なので近付かない方がいいだろう。
すぐに踵を返そうとするが、路地を塞ぐようにして男性が二人立っていた。
通行人にしては動かないし、まっすぐにコレットを見ている。
嫌な予感がして何となく振り返ると、橋の向こうにも一人の男性の姿があった。
……失敗した。
簡素なワンピースとはいえ、それは貴族令嬢の視点。
平民から見れば明らかに上等な服だとわかるし、一人で歩く姿は格好のカモでしかない。
ちょっと街並みの下見だけのつもりだったので、油断していた。
内心では焦りながらもどちらにも動けずにいるコレットに、橋と路地の両方から男性が少しずつ近付いてくる。
「お嬢さんみたいな可愛い子が、一人でこんなところを歩くのは感心しないな」
「……私に何か用?」
「怖がらなくていいぞ。ちょっと一緒に来てもらうだけさ」
愛想笑いを浮かべているつもりなのだろうが、どう見ても悪人面だ。
このまま捕まればどうなるかなど、あまり考えたくない。
路地は完全に男性が塞いでいるし、橋を渡ったらより危険な地域。
こうなったら、川に飛び込むか……いや、それでも追われればすぐに捕まるだろう。
「お金は持っていないし、身代金も期待できないわよ」
「そっちも捨てがたいが、バレると面倒だ。それよりもお嬢さんみたいに若くて可愛い子は、引く手あまただからな」
誘拐からの身代金ではなくて人身売買の方向とは、まったく最低だ。
コレットはため息をつくと、ポケットを探ってペーパーナイフを取り出す。
本当は護身用に刃物が欲しかったが、アナベルの目を盗んで持ち出せたのはこれくらいだった。
「おいおい、それで俺達と戦うとか言わないでくれよ」
嘲笑しながらも男性のうち半数が剣を握るあたり、女相手だからと油断はしてくれないらしい。
剣を習ったこともないコレットがペーパーナイフで男性三人を相手にしたところで、末路は見えていた。
「そんな馬鹿なことはしないわ」
コレットはにこりと微笑むと、ペーパーナイフの刃先を自身の頬に突きつける。
彼らはコレットを『若くて可愛い子』と言った。
それならば、その価値を下げることはしたくないはずだ。
ペーパーナイフでは切ってもたいした傷をつけられないが、突き刺せばそれなりの怪我になるはず。
まずはこれで交渉して、隙をついて逃げるしかない。
問題はコレットの考えが合っているかどうかだが……どうやら賭けに勝ったらしい。
男性達の表情から笑みが消え、その動きがぴたりと止まった。
「冗談はやめておけ。お嬢さんにそんな勇気はないだろう」
「あったらどうする?」
コレットは震える手を隠すようににこりと微笑むと、そのままペーパーナイフを頬に押し付ける。
圧迫だけではない鋭い痛みと共に温かいものが頬を伝う気配がして、男性達が一気に表情を強張らせた。
「おまえ……」
男性達が一歩コレットに近付いた瞬間、周囲に凍てつくような冷たい声が届く。
「――動くな」
コレットを含む全員がびくりと肩を震わせるのと、路地の奥から一人の少年が姿を現すのはほぼ同時だった。
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