第2話
それからひと月ほどで、傷はすっかり癒えた。
だが、ぼくは相変わらず自分が誰であるか思い出せなかった。
だが、一方で、例のひどい悪夢は何度も何度も繰り返し見た。
その都度細かい設定は違うのだが、おおきく整理すると、夢は三つの異なる世界で生きた記憶の断片らしく思える。
もし、この悪夢が前世の記憶であるならば、どうやらぼくはこれまで時系列も、もしかしたら世界線すらも異なる三度の人生を送り、そのどれも寿命を全うしないうちに死んだらしい。
今生の記憶は皆無なのに、前世の記憶(?)はこれほどリアルに思い出せるのか、これがさっぱり判らない。
その間、ここペンダスでも有数の大商人、ランスウッド家の情報網をもってしてもぼくの家族を見つけ出すことはできなかった。ぼくが誰かから盗んだであろうブローチを取り返しにくる人物も現れなかった。
つまり、ぼくはなんとも宙ぶらりんな状態で、相変わらずランスウッド家でタダ飯を食っていたわけだ。
さすがにこれ以上は迷惑だろうと思う。
「リグナム様、これ以上こちらにお世話になるわけにはいきません」
久しぶりに当主リグナム氏が訪ねてきたある日の夕食時、ぼくは向かいに座る彼に向かい、思い切ってそう切り出した。
「……ふむ。そうは言っても君、どこか行くあてはあるのかね?」
「あ〜、いえ、それは……」
問われてたちまち言葉に詰まる。行くあてどころか、ぼくは自分が何者かすらいまだにわからないのだ。
「そう焦る必要はない。見たところ、君はまだ成人にも達していないだろう?」
この国の成人は十四才らしいけど、そういう問題じゃない。
「しかし旦那様、このまま何もせず、ダラダラと甘えているわけにもいかないと思います」
「ふ〜む。気持ちはわかるが……」
リグナム氏はあごに手を当ててぼくをしげしげと見つめていたが、やがて小さく頷きながら言う。
「だったら、何か簡単な仕事を……そうだな、君、文字とかは読めるかね?」
「え? はい、たぶん」
彼は不思議な質問をすると、背後の書棚から数冊の本を抜き出し、テーブルに積み重ねてぼくの前に押しやった。
「どこでも構わない。試しに何ページか朗読してくれないか」
「はあ、わかりました」
ぼくは言われるままに一番上の本を取り上げると適当にパラパラとページをめくり、目に付いた文章を読み上げる。どうやら、どこかの貴族の日記……というか、備忘録みたいな物らしい。
「うむ、確かに問題なく読めるみたいだね。ではもう一冊」
「あ、はい」
促され、これまた適当に開いたページを朗読する。こっちは貿易の記録簿らしい。文章というより、荷主や船名、荷物の種類と数字の出入りが延々と書き連ねられていた。
「……次だ」
真剣な表情で渡された一番分厚い本を開く。装飾の多い細かい文字がびっしりと並んでいて、文章もえらく回りくどい。どこかの国の歴史をまとめたものらしい。やめろと言われないのでどんどんページを繰るが、彼は次第に難しい顔になって最後にはむっつり黙り込んだ。
「旦那様、あの? 何か間違いでも」
「……ああ、悪い。一つ聞きたいんだが、君はどこで文字を学んだ?」
「え? さあ、たぶん親から教わったのではないかと思いますが?」
「それはありえない。今君が読んだ三冊の書物は、すべて異なる国の言葉で書かれている。ついでに言うと、君が最後に読んだ歴史書は何百年も前に滅亡した国の、もはや誰ひとり使う者もない言語だよ」
「は!?」
ぼくは慌てて手にした本を読み返す。確かに、使われている文字がどれも違う。
普通に読めるものだから、指摘されるまで全然意識すらしていなかった。
「この街……ペンダスは貿易都市だから、複数の言語に通じた人間がいること自体はべつに珍しくもない。だが、そんな優秀な人材はまず間違いなくどこかの商家に抱えられている。市井に埋もれさせておくのはもったいないからな。それに、成人もしていない子供に何カ国語も仕込むほど余裕のある家がもしもあるなら、さすがにそれが私の耳に入らないはずがないんだ。書物は決して安くはない。それが他国の本ならなおさらだ」
「そう……なんですか?」
「ああ。君くらいの年頃の子供がいる商家は多いが、そんな条件にかなう家はこの国に一軒もない」
きっぱり断言されて、ぼくは激しく困惑する。
「でも……」
「となると、もっともありそうな話は、君はどこかよその国からさらわれてきたというものだ」
「ええっ!」
「君の若さでそれだけの知識を持っているということは、君は少なくとも学者か、貴族の家に連なる者だろう」
彼はそう言って大きく頷いた。
「それなのに、この街に誰ひとり君を知る者はなく、みすぼらしいボロをまとい、大ケガをして倒れていた。何らかの理由で他国から奴隷として船に監禁されて運ばれ、隙を見て逃げ出した。頭の怪我はその時のものだろう。そう考えると、もっともしっくりくるんだ」
「あ、そういう……」
自分のことながら現実味がない。だが、リグナム氏は確信を得たように何度もかぶりを振ると、にこやかな笑顔で立ち上がる。
「実はね、当家は間もなく他国から賓客を迎えることになっているんだ。ちょうど君と同じくらいの年齢でね。訳あって当家の養子として迎えることになる。君には、彼女……いや、彼の友人として振る舞って欲しい。家族と引き離されて外国で一人っきりというのはずいぶん心細いだろうからね。どうだい? それが君をここに置く代価だ」
「いえ、どうだいといきなり言われましても……」
「無論、君の家族捜しも引き続き続けさせてもらうよ。だが……そうだな、追われている可能性を考えると、当分は君も偽名を使う方がいいだろうな。ついでに顔も隠すとするか。それでどうだろうか?」
どうだろうか、と聞かれても、ぼくには最初からほかの選択肢などなさそうだ。
そんなわけで、その晩からぼくはランスウッド家の子、アスペン・ランスウッドと名乗ることになり、人前に姿を見せるときは常に顔の半分を覆う覆面をまとうことになった。
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