星軌をなぞる占星術師
甜茶
星軌をなぞる占星術師
序章:灰白の淵から目覚めて
白と黒だけでできた世界。色という概念が忘れ去られたような空間の中、エリナはぽつんと立っていた。空は深く、重い。空洞のようにぽっかりと開いた大穴の周囲には、煌々と光る塵が渦を巻いていた。
それは星の亡骸か、それとも未だ名もなき未来の記憶か。彼女の足元には、星の破片のようなきらめく砂が散らばり、その先には静まり返った一面の海が広がっている。
風も音もないその場所で、世界はまるで止まっていた。いや、止まっていたのではなく、時間という概念そのものが存在しないようにも思えた。歩けば歩くほど、足元に積もった砂が光を弾き、微かなきらめきで彼女の存在を確認してくれる。その小さな反応が、かえって心細さを際立たせる。
エリナは震えていた。寒さではない。不安とも違う。胸の奥底を掻き乱すような、理由のない恐怖。ここがどこなのか、自分が何をしているのか、理解できない。ただ、たしかに感じるものがあった。
視界の中心に立つ人影に気づいた時、息が詰まりそうになった。
「……お母さん……?」
波打ち際に、亡き母、セレーネが立っていた。藍色の髪が風もないのに揺れ、優しく微笑んでいる。けれどその声は、遠くて聞こえない。唇が何かを形作っているのに、音は海に呑まれて消えてしまう。
エリナは思わず数歩踏み出し、叫んだ。
「待って……!お母さん、そこにいるの……?」
懐かしい姿に涙が滲む。星の砂がぱちぱちと弾けるように足元で音を立てる。それでも気にも留めず、懐かしいぬくもりを求めて手を伸ばす。
だが、その指先がセレーネに触れようとした瞬間──彼女の姿は、まるで霧のように、煙のように、風に溶けて消えた。
「……っ!」
次の瞬間、轟音が空間を満たした。地鳴りのような唸りとともに、海が怒涛のように荒れ狂い、波がこちらへ押し寄せてきた。空が割れたかのような衝撃と共に、足元が崩れ、エリナは叫び声も飲み込まれるようにして水の中へ引きずられた。
「いや……!行かないで、お母さん──!」
声が虚空に吸い込まれ、世界が、反転した。
✦ ✦ ✦
がばりと上体を起こした時、エリナの胸は激しく上下し、息は乱れていた。額には汗が滲み、頬には自然と伝った涙の跡があった。夢から目覚めたというのに、心臓の鼓動が止まらない。
「……夢……?……だったの……?」
部屋の中は静まり返り、窓の外には夜明け前の淡い光が差し込み始めていた。鳥の声もまだ聞こえず、ただ自分の荒い呼吸音だけが現実を証明していた。
それでも、あの光景はあまりにも鮮明だった。波打ち際のセレーネの姿も、光の塵も、押し寄せる暗黒の海も……。瞳を閉じると、またそこへ引き戻されてしまいそうで、エリナは枕を抱きしめたまま小さく震えた。
──落ち着かなきゃ。
自分にそう言い聞かせるように、エリナはゆっくりとベッドを抜け出した。裸足の足が床の冷たさを感じ、彼女は小さく肩をすくめた。部屋を出て、階下へ向かおうと扉に手をかけた時、廊下の一角にある、一枚の扉が視界の端に映った。
セレーネの書斎──。
彼女が亡くなってからというもの、エリナはその部屋の前を通るたびに、胸がきゅっと締めつけられるような感覚を抱いていた。開けてはいけない。開けたら、何かが壊れてしまいそうで。
けれど今日、その扉はなぜか、違って見えた。母が、何か伝えたがっていた。
確信に近い直感が、胸の内に響く。エリナはそっと扉の前に立ち、震える手でドアノブを握った。冷たい金属の感触が掌にじわりと伝わってくる。一瞬だけ、迷いがよぎる。
──でも、もう逃げない。
心にそう言い聞かせ、目を閉じてから、力を込めて扉を回した。
ギィィ、と軋む音と共に、埃の匂いが鼻腔をくすぐった。長らく閉ざされた空気は重く、けれど不思議なぬくもりを孕んでいた。部屋の中はまるで時間が止まっていたかのようだった。
窓際に置かれた机、その上に丁寧に並べられた羽根ペンやインク瓶、小さな観測器具。そして壁際には、本がびっしりと詰まった本棚。見慣れたはずの風景が、今は遠い記憶の中にしか存在しないように感じられた。
「……お母さんの……」
懐かしい遺品たちが、静かにそこにあった。触れると、ひんやりとしていたが、どこか温もりを感じた。エリナはそっと机に触れ、指先で埃をなぞった。
「……久しぶりだね」
思わず呟いた言葉に、返事はない。ただ、埃が積もっていることに気づき、エリナは布を手に取って掃除を始めた。動作はぎこちなく、けれど真剣だった。
時折、ふと手を止めては、思い出に耽る。笑ってくれた母。怒られて泣いた日。髪を梳かしてもらった感触。寒い夜、毛布の中で聞いたおとぎ話。全てが、胸を温かく、そして切なく締めつけた。
そんな時だった。
ふ、と風もないのに、本棚から揺れるような音がした。何かがわずかに動いた気がして、エリナが目を向けた瞬間、一冊のノートがはらりと床に落ちた。
「……今の……」
偶然とも思えず、エリナはそのノートを手に取った。表紙には何も書かれていないが、開いてみると、見覚えのある文字でびっしりと記述が残されていた。
──瞳の観測記録。未来視による変容の影響について。瞳の原理仮説と制御方法。
それは、母が遺した研究ノートだった。エリナの胸に、ぽつりとした痛みが灯る。
『自分の未来は、視ちゃダメよ』
かつて何度も、そう言い聞かせた母の声が、記憶の中で鮮明によみがえる。エリナが持つ「
「……でも、どうしてダメだったの?」
その理由は、最後まで語られなかった。母の瞳が視た未来、その重さ、その恐ろしさ──想像もつかない何かがそこにあったのかもしれない。
エリナは素直に言いつけを守っていたが、今日の夢と、目の前のノートが、胸の奥の何かを揺り動かしていた。
──継いでも、いいのかな?
心の中で問いかける。でも、返事はない。きっと、母は望んでいないかもしれない。エリナはノートをそっと胸に抱いた。母の想いを途切れさせたくなかった。
もしかしたら、それはただの自己満足かもしれない。母の研究を継ぐことが、果たして正しいのかも分からない。それでも、この手に残されたページの重みが、彼女の背を静かに押していた。
だけど、まだ決めきれなかった。不安は、霧のように心を覆っていた。
エリナはそっとノートを棚に戻し、深呼吸を一つして、また掃除を再開した。今日のところは、それでいい。まだ未来は始まっていない。
けれど、あの白黒の世界と、星の砂、波打ち際のセレーネの姿は、きっと忘れられないまま、彼女の胸に深く刻み込まれていた。
✦ ✦ ✦
翌朝、空は見事なまでに晴れわたり、一片の雲さえ浮かんでいなかった。だが、エリナの心は、その空とは対照的に曇っていた。
昨日の夢──白と黒の世界に立ち現れた亡き母。そして、母の書斎で偶然手にした、あの一冊のノート。それらが連なり、彼女の胸の内には言いようのない不安が根を下ろしていた。
それでも、日々の営みは彼女を待ってはくれない。エリナは普段どおり村の暮らしに戻り、畑の手伝いや洗濯、買い物の手配などに勤しんでいた。この村で育った彼女を、村人たちは親しみを込めて接してくれる。
「エリナちゃん、今日もありがとね。うちのトマト、持っていってちょうだい」
「うちのリンゴも甘くて美味しいのよ。いっぱいあるから、遠慮せずにね」
「ありがとうございます。何かお返し、できれば……」
「そんなこと気にしないの。エリナちゃんが元気でいてくれるだけで十分よ」
日常の中の何気ないやりとり。
その中に確かに存在する温もりを、エリナは感じていた。しかし同時に、その温もりでは覆い隠せない影が、心のどこかに確かにあった。
午前中の用事を終え、帰路に着こうとしたときのことだった。村外れで、陽気な中年の男性と鉢合わせた。
「おや、エリナちゃん。今日も精が出るねえ」
その挨拶の最中、ふとエリナの瞳が反応した。彼女の中に、確定した未来が流れ込んできたのだ。
囲いを破って逃げ出す、おじさんの飼っている鶏たちの姿。それは、まるで不可避の運命の断片のように、鮮やかに映った。
「おじさん、鶏が逃げちゃいます。……きっと、すぐにです」
「なんだって?ははっ、また予言かい?エリナちゃんの言うことはよく当たるって評判だからなあ。でも、そう言われちゃ逆に気を引き締めておかないとな!」
豪快に笑って手を振り、「エリナちゃんの予言、今度こそ外してやるぞ!」と、冗談めかして言い残す。
その姿を見ながら、エリナは笑顔を浮かべつつも、内心では沈んだ思いを抱えていた。
──未来は、果たして変えられるのか?
そう自問した数分後、鶏を追いかけて村の道を走り回るおじさんの姿が、エリナの目に飛び込んできた。
「こらっ、止まれ! お前たち、こっちだーっ!」
その騒がしさを前に、エリナは小さく溜息をついた。
「……やっぱり、今回も変わらないんだね」
彼女の瞳が告げるのは、揺るがぬ結果であって、可能性ではない。変えられると信じたかった。だが、再びその希望は静かに砕かれた。
✦ ✦ ✦
小さく息を吐き、気持ちを切り替えようと背筋を伸ばす。昼食の準備に取りかかろうと台所へ立った時、不意に視界が揺らぎ始めた。
頭がぼんやりとし、景色が歪んで見える。そして、視界が真白に染まった瞬間──彼女の
まるで夢の断片が崩れ落ちるように、次々と映像が脳裏を奔った。
霧に沈む深い森。その中を静かに歩む、長い耳を持つ少年と、背に弓を負うその姿。紫の髪を風に揺らし、魔力の気配を纏った一人の魔女。白衣をまとった幼き研究者のような少女が、何かを語りかけている。腰に刀を携えた、鋭い眼差しの狐族の娘。そして、無機質な美しさと神聖さを併せ持つ、人形のような存在。
見知らぬ風景、見知らぬ人々。しかし、エリナの中には確信めいたものがあった。
──彼らに、私は出会うことになる。
映像が途切れたあと、彼女は床に膝をついてしばらく動けなかった。呼吸を整え、胸に手を当てる。
「やっぱり……これは偶然じゃない」
夢、ノート、そして未来視。それらが一つの線となって繋がっていく感覚。何かが、確実に動き始めている。ならば、立ち止まっているわけにはいかない。
母の遺言、「自分の未来は視てはいけない」という言葉。ずっと守ってきた。けれど今は、自らの目で未来を見据えるべき時だ。
母が遺した研究、瞳に関する真実、自分という存在の行方。それらすべてを知るために──エリナは旅に出ることを決意した。
彼女は迷いなく荷造りを始めた。母のノートを丁寧に布に包み、小さな袋に仕舞う。最低限の旅装と、手元にあった少額の鋳貨。そして、机の引き出しから取り出したアミュレット。それは深い青菫色のアイオライトが埋め込まれた小さな護符。
どんなに遠く離れても、この石を見つめるたびに、胸の奥で同じ想いが瞬いた。忘れたことは、一度もなかった。
鏡の前で、旅装を整える。まだ十五になったばかりの顔が、鏡の中で少しだけ大人びて見えた。
濃藍の上衣に、星の文様が細かく縫い込まれた。胸元と裾には柔らかな布が重なり、帯の金飾りが夜明けの光を反射してきらめく。
その姿を見つめ返す瞳は、夜空を映したような深い藍。瞳の中には、小さな星が瞬き、星座の形をなしていた。
エリナはひとつ息を吐き、首元のアミュレットをそっと握る。肌に触れた瞬間、懐かしい記憶が脳裏によみがえった。
日が傾きかけた頃、エリナは村の家々を一軒一軒訪ね、別れを告げて回った。
「旅に出るの?元気でね、エリナちゃん」
「何か困ったら、いつでも戻っておいで」
「ほら、これ持って行きなさい。道中で役立つかもしれないから」
優しさに満ちた言葉たちが、胸に染みた。涙をこらえながら頭を下げたエリナは、ついに村を後にする。
✦ ✦ ✦
その夜。彼女は村から少し離れた小高い丘に座り、空を見上げていた。空気は澄み渡り、星々は一際輝きを増していた。
しかし、その運行はどこか機械的で、あらかじめ決められた軌道をただなぞっているようにも感じられた。
──まるで、運命そのもののように。
幼い頃、誰かに尋ねた記憶がある。
「お星さまも、死んじゃうの?」
そのとき隣にいてくれたのは、大切な人だった。返された言葉そのものは霞んでしまったけれど、その声の調子や、そばにいてくれた温もりだけは、今も胸の奥に鮮やかに残っている。
そのとき、ひと筋の流れ星が空をかすめた。静かで、儚く、ただ美しかった。
考えすぎても仕方がない。未来は視えてしまうのだから、せめてその先を、意志をもって選びたい。
そう思ったエリナは、ゆっくりと立ち上がった。東の空が、ほんのりと朱に染まり始めていた。夜が明ける。今日が始まる。
そして、静かに──歩き出した。彼女の旅が、いま始まろうとしていた。
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