パートナーとしてともに
「ステラ……おい、ステラ?」
「あ、え? はわ!? ご、ごめんなさい!」
「俺の前で心ここにあらずとは、ずいぶんと肝が座っていることだ」
「ちが!? ちがいます!!」
しまった。目が覚めてからの回想があまりにも長かったせいで放心してしまった。とんだ一ヶ月だった。いままで生きてきてこんなに濃い25日間があっただろうか。
マリンが、新しく入れた茶をアルトラシオンの前に置く。当然のようにカップを傾ける男は、長い足を組み替えながら、「で?」とステラシアに目を向けた。
今日も、第一王子殿下は上から下まで真っ黒い。あの目覚めた日の楽そうな格好とは違い、魔獣討伐騎士団の騎士服を着ているはずなのに、やっぱり飾り気がない。時たまこの王城内ですれ違う近衛騎士は肩に飾緖くらいは付けているのに、それすらない。足元のブーツもまた真っ黒だ。
チラ、と扉のほうを振り返れば、アルトラシオンの従者兼護衛騎士が静かに立っている。クリフォード・グレン=アルカイディスだ。ジッと見ていたらバッチリ目が合って、ニッコリひらひらーっと手を振られるが、そちらはあまり参考にはならない。
なにせ、上着の前ボタンは上から三つまで開いていて、中のシャツも着崩して、なんなら腕まくりまでしている状態だ。飾緖も肩章もあるのだが、首も鎖骨も胸元も腕も晒していて、あれはあれで、第一王子殿下の側仕えとしていいのだろうか。
扉の外にはもう一人、ステラシア専属だという護衛騎士のイアン(彼もまた近衛騎士団所属である)がいるが、ここで席を立ってその姿を眺めに行くわけにもいかない。彼は普通の格好をしていたような気がするのだが。
「ステラ」
「ひゃいっ」
低く名を呼ばれ、ステラシアは飛び上がった。よそ見をしていたことがバレてしまったらしい。
「俺のところに、侯爵夫人がやってきた」
「は、はい……」
「おまえに教えることはなにも無いと言って、おまえの教師役を辞退していったんだが……」
カチャリ、とアルトラシオンがカップをソーサーに戻す音が嫌に大きく聞こえる。
「なにをしたんだ?」
「なにもしてないですぅぅ!」
あまりにもあまりな問いかけに、ステラシアはもう涙目だ。
だって、本当になにもしていない。
侯爵夫人から出会い頭に、「ステラさんはこの国のことをどれだけ知っているのかしら。わたくしに教えてくださらない?」と、そう言われたから、ステラシアは自分の知っていることをすべて話しただけなのだ。
そうしたらなぜか帰った。帰ってしまったのだ。ステラシアは王家のことを教えてほしいとお願いしたのに。態度が悪かったのかもしれないが、だったらどのへんが気に障ったのか教えてほしい。
(もしやどのへんとかない!? 最初からぜんぶ!?)
そうなんだとしたらもうどうしようない。
ほとんど泣き出す寸前でアルトラシオンにそうぶっちゃけて、ステラシアはヤケクソのようにカップに残っていたお茶を飲み干した。
すかさず、マリンがおかわりを注いでくれる。本当によくできた侍女である。
ちなみに、いいから話せと請われたので、アルトラシオンにも例の侯爵夫人にしたのと同じ話を語って聞かせる。話の途中からアルトラシオンの眉間に皺がどんどん刻まれて、部屋の入り口では第一王子殿下の従者兼護衛騎士が壁を叩きながら爆笑していて、部屋の片隅に下がっていた優秀な侍女がポカンと口を開けて佇んでいる。
はぁ〜と深いため息が聞こえたのは誰からだったのか。うつむいていじけていたステラシアにはわからない。
「なんでそこまで詳しいんだ……」
「マジでこれ教師とかいらなくね?」
「そこの騎士様。お口がどうしてもお悪くなるんですね」
わかった、と呟いたのはアルトラシオンだった。
「歴史の授業はやめだ。所作も問題ないみたいだし、口調も――まあ、取り繕えるみたいだしな」
「うぅっ……んん? 殿下?」
「貴族の名前も家名ぐらいは知っているようだし、あとはその家の当主と後継、担っている職務とその家の執り行っている事業と人となりさえ叩きこめばどうにかなるか……」
なんか、怖い言葉が聞こえる気がするー!
ブツブツとひとり喋り続けるアルトラシオンに戦々恐々としながら、ステラシアは膝の上に置いた手をギュッと握りしめた。
さっきはさっそくやらかした。せっかくステラシアのためにと呼んでくれた講師だったのに、ステラシアのやらかしでアルトラシオンの顔に泥を塗ってしまったかもしれない。
別にステラシアが望んだ教師ではなかったのだけれど、これから仕える主の好意を無下にするのは臣下として最低なのではなかろうか。きゅっと唇も噛みしめる。
「あ、あの、殿下……申し訳ありませんでした。せっかく教師役の方を呼んでくださったのに、わたし……」
「ん? ああ、それは別に構わない。そんなことよりステラ」
スッとテーブルの向かいから伸ばされた腕が、ステラシアへと伸びる。思わず強く目をつぶったステラシアの唇を、長い指がそっと撫でていく。
「唇が切れるだろう。やめろ」
「ぁ……は、はい」
顎を捕まれ上向かされ、唇を噛むな、下を向くな、と視線で強く叱られる。
『あなたの瞳は、綺麗だ』
待って。なんでいまそんなことを思い出しちゃったの。やだ、もう。なんか顔が熱い気がする。
「明日から、側仕えとして正式に働いてもらう。条件は覚えているな?」
「ふあっ、は、はひ!」
フ、とアルトラシオンが笑った。
「……ッ!?」
「ひと月後の、
ステラシアはコクリとうなずいた。知っている。秋になる前の双星の月は、どこの地域でも豊穣祭が行われるのだ。王都の豊穣祭がどんなものかはわからないが、ステラシアがいた地域では、外に店が出て、夜には明かりを灯し、みんなで笑いながら踊っていた。
ステラシアはそれを影から眺めていただけだったけれども。小さなころはまだ、コッソリ紛れ込むことも、友だちができてからは一緒に店を回ることもあったのだけど。いまはもう、取り戻しようもない過去のことだ。
「て、え? や、夜会? です、か……?」
「ああ。約束しただろう? 俺の側仕えとして、朝晩の身支度と、パートナーとしてともにあることを」
「いっ、言い方ーーーー! そんな言い方じゃなかったです!!」
ククッと珍しくアルトラシオンが声を上げて笑う。クシャリと、先ほどマリンが整えてくれた髪を、大きな手のひらが撫ぜる。
「それだけ元気なら大丈夫だな。後ほど教材を届けさせる。出席するのはこの国のほとんどの貴族だ。諸々頭に叩き込んでおけ。…………あまり、無理はするなよ」
無理をさせるはずの第一王子がそんなことを言うものだから、ステラシアはムムムッと唸ることしかできない。
立ち上がり、長い足でさっさと扉まで歩いていくアルトラシオンを追って、ステラシアもまたソファを立った。
「では、またな。おまえは早く第一王子宮へ戻れ。俺はこのまま公務に戻る。夕飯は、ともに食べよう」
「う……はい」
ただの側仕え――それも平民が、王子殿下といっしょの食卓に座るのはどうかと思うのだけれど、なんど訴えても状況が変わらないので、ステラシアはもう諦めた。
あまり言うとこの王子殿下は機嫌を悪くする。態度や声に出すことはないが、話しかけづらい雰囲気がグンと増すのだ。
侍女と護衛騎士が開いた扉を悠々とくぐり抜け、アルトラシオンが去っていく。扉の外に立っていた紺色の髪の護衛騎士が、ステラシアへ小さく頭を下げるのが見えた。
「マリンさん……どうしよう。夜会なんてわたし……っ」
「大丈夫ですステラ様! ステラ様ならぜったい最後までこなせます! ああもういまからステラ様のドレス姿が待ち遠しい! どんなデザインにしましょうか!? きっと殿下が素晴らしいものを贈ってくださいますよ! それにお化粧も! 髪型もですね! 腕がなりますー! あ、あと、わたしのことはマリンと呼び捨てにしてください」
キャッキャとはしゃぐ根拠のないマリンの励ましに乾いた笑いを零し、ステラシアはその場で膝から崩れ落ちたのだった。
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