第43話 西都リジナス(4)

 有力貴族マノウォーン家の姫であるラットリーが、王家への忠誠の証として人質に出されたのは十三歳の時。目に一杯の涙を溜めて迎えの馬車に乗り、生まれ育ったリジナス城を後にして王都ラプナールへ向かった彼女だったが、着いた時には王宮内の様子が何やら騒々しく、人質の受け取り手続きどころではないほどに混乱していた。


「おおルワンよ。何たることじゃ。しっかりいたせ」


 この日、王宮の一角で火災が起こり、中にいたルワンが巻き込まれてしまったのである。間一髪、炎上する建物から救助されたルワンは昏睡状態で、政務の途中で急報を聞いて駆けつけた父王のメクスワンの呼びかけにも反応しない。


「幸い、火傷はほとんど負っておりません。ただ煙を大量に吸ってしまったためか、意識が……」


 姉のピムナレットや兄のアピワットらが侍医たちと共に懸命に介抱を試みるが、ルワンは苦しげに目を瞑ったまま意識が戻らない。しばらくして、まるで悪夢から覚めたかのようにハッと目を開いたルワンは横たえられていた寝台の上で身を起こすと、心配そうに自分を見つめている姉王女の顔を見て言った。


「……誰?」


「えっ……? ルワン、何を言っているの?」


「姉上、もしかしてルワンは、記憶を失ってしまったのでは……」


 可愛い末っ子の王子の身に起きた事態を理解した王家の面々はひどく悲しみ、運命を呪った。煙を吸ったことによる影響か、奇跡的に一命を取りとめたルワンはその代償として脳に障害を負い、それまでの記憶を全て失ってしまったのである。ルワンの右足が動かなくなったのもこの時のことで、記憶と同じく脳の一部が損壊したことによる神経の麻痺が原因だろうと考えられた。


「僕は、誰なんだ……?」


 それまでに習得してきた知識や経験の全てを忘れてしまったルワンはこの日を境に、再び人生を一からやり直すことになったのである。




「懐かしいですね。こうして殿下のお伴をして歩いていると、私が人質として王都に来た頃のことを思い出します」


 マノウォーン家のお膝元であるリジナスはナピシム随一の交易都市として栄え、街は活気にあふれている。人々が行き交う広い大通りを歩きながら、声を弾ませてラットリーは言った。


「そうだね。ラットリーが支えて一緒に歩いてくれたから、あの時も頑張れたんだ」


 神経の麻痺を治すには、とにかくその部位を動かして刺激を与える作業療法が一番だと医者は言う。右足が麻痺してしまったルワンは毎日のように広い王宮の敷地内を歩き回って運動し、重い障害の克服に努めた。その地道で困難な歩行訓練に付き添い、つらさで挫けそうになるルワンを励まして懸命に介助してきたのが人質として王都に来たばかりのラットリーだったのだ。最初は杖を突きながら短い距離をゆっくりと歩くだけで精一杯だったルワンだが、あれから四年が経った今では杖など必要なく、右足を引きずり気味になりながらも自力でかなり自由に歩くことができるようになっている。


「それにしても賑やかな街でござるな。さすがナピシムの西の都と呼ばれるだけのことはある」


 大路に面した商店街の活況を眺めて藤真が感嘆を漏らすと、ラットリーは自慢げに小さく胸を張る。好景気に沸き繁栄しているリジナスだが街並みにはどこか上品な文化都市としての落ち着きや美しさも見られ、マノウォーン家の歴代当主が優れた統治手腕をもって経済と学問・芸術の発展に心血を注いできたことがよく分かる。


「なかなか綺麗な街でしょ? 困窮した物乞いもいないし治安もいい。私たちマノウォーン一族が代々、領民を大事にして彼らの幸せのために知恵を絞ってきた結果だわ」


 王家の外戚として絶大な権勢を誇るマノウォーン家は、王朝を牛耳り私利私欲のままに国政を操る悪徳貴族のように非難されることも多いが、実際は彼らも常に国のため、民のためを思って力を尽くしてきたのだということはラットリーは断固とした自信を持って言い切れる。その証拠として挙げられるものの一つが、豊かに栄えるこのリジナスの街なのだ。ルワンも歩きながら周囲の光景に感心したように目を奪われていたが、やがて不意に立ち止まり、足元に視線を落として呟くように言った。


「ジラユートやターナットたちが頑張って築き上げてきたこの街も、ここにいる民たちの暮らしや命も、もしゾフカール軍に負ければ全て失われてしまうんだ……」


 若い主君の独白めいた言葉に、藤真とラットリーは驚いて顔を見合わせる。実は二人がルワンを城下に連れ出した本当の目的は、戦が始まる前にリジナスの街とそこに暮らす人々の姿を実際に目にし、自分が守るべきものが何なのかを肌で感じておいてほしかったからなのだ。


「このリジナスにも他の都市や村にも、そこに暮らして一度きりの人生を送っている民が大勢います」


 年下の主君の純粋な瞳に視線を合わせつつ、ゆっくりと説くようにラットリーは言った。


「私たち王侯貴族はその民から税を召し上げ、あれこれと命じて彼らを統治している訳ですけど、だからこそ民を全力で守り、彼らがより良い暮らしができるように、せめて悲惨な目には可能な限り遭わないように助け導いていく努めがあります。私たちが民にはない特別な権力や武力を持つことが認められているのは、結局のところそのためだと言っていいかも知れません」


 王となってナピシムを再興するのがルワンの目標であり使命ではあるが、そもそもそれは一体何のためにすることなのか。そうした根底の部分での目的意識がなければ最後まで志を貫き通すのは難しいし、仮に首尾良く戦に勝って王になれたとしてもその更に先へは繋がらない。水上村でヨーギたちにも語っていた民のための政治、民のための戦いという意義づけを、ここで改めてルワンに考えてもらえたのはラットリーとしては嬉しかった。


「せっかくですから、近くの村へも少し足を伸ばしてみましょう。この辺り一帯の地形なども、戦をする上ではしっかり把握しておく必要がありますしね」


 ラットリーはそう言って、ルワンと藤真を街の北側に広がる山がちな農村部へと誘った。

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