Floating man

@yujiyok

第1話

突然雨が降ってきた。

傘を持っていなかったので、僕は急いで帰ろうと足を早めた。

多少濡れても10分程だ。と思っていたら雨足は急に強くなり、いよいよ大雨になった。

僕は一番近いデパートに入り、少し落ち着くのを待つことにした。

同じような人がぞろぞろ入口に集まる。強く地面を叩く雨の音が街を包み込む。

軽くため息をついてから、6階か7階に本屋があるのを思い出し、そこで時間をつぶすことにした。

エレベーターに乗って階数を確認し、ボタンを押した瞬間思い出した。

そういえば、前にこの本屋に来た時もやはり雨だった。スニーカーの裏が濡れていて、歩く度にキュッキュッっと音がして、それが静かな店内に響き渡り恥ずかしい思いをしたのだ。

みんな知らん顔してるけど、ちっちゃい子のサンダルかよって思われてるに違いないと思って、なるべく音が出ないようにそろりそろりと歩いた。

今日もスニーカーだ。しかもつい最近買ったばかりの。

エレベーターが本屋に着いた。僕はゆっくりと足を出す。できるだけひっそりと歩き出したが、音は全くしなかった。

良かった。新しい靴は違うのか。僕は安心して堂々と歩いた。

1時間ほど店内をぶらぶら歩き回り、欲しい本をいくつか見付けたが、読みかけの本が終わってからにしようと思い、結局何も買わずに店を出た。

雨は傘がいらないくらいに収まっていた。


その翌々日、僕は目を付けていた本を買おうと、また本屋に入った。

今日は革靴だ。キュッキュッはないが、コツコツコツが響くに違いない。でもキュッキュッよりは恥ずかしくない。

エレベーターを降り店内を歩くが、全く音はしなかった。床を見るが変わった様子はない。

立ち止まって耳をすます。他の人の足音は確かに聞こえる。

なぜ僕の靴は音がしないのだろう。ごく普通の革靴だ。人並みにコツコツコツと鳴ってもいいはずだ。

僕はわざと音をたてるように力強く歩いた。が、音はしない。

妙に気になり、片方の靴を脱いで裏を見てみた。何の変わりもない。

指でコンコンと叩いてみたが、コンコンとちゃんと音がする。

ともかく、静かに歩けるのは良いことだと思い、目的の本を買って静かに店を出た。

たいして気にしたことはなかったが、外を歩いていても靴音がしない。この靴に衝撃吸収機能とかあっただろうか。

なんとなく腑に落ちないまま、まっすぐ帰ることにした。足音もなく、静かに。


大通りから帰る時の近道に、ちょっとした空き地がある。ビルに囲まれて日当たりが悪いので、雨が降るとなかなか乾かない。

そこまで来ると、ぬかるんだ地面に水たまりがいくつかある。

汚れるのは嫌だが、近道なので通る。水たまりを避けて砂利の混じった土の上を歩く。

何の音もしない。空き地を通り抜け、振り返る。自分の足跡はひとつもない。

靴の裏を見てみる。全く汚れていない。

どういうことだろう。空き地を歩いた形跡が全くない。


家に着き、靴を脱ぐ。改めて裏を見るが、やはり特別変わった所はない。

靴下を脱いで洗濯機に入れる。裸足で部屋に入ると、ふと音をたてようと思いフローリングの床の上で足踏みをしてみる。全く音がしない。おかしい。

バスルームに入り、浴槽に少しだけ水をためてその上に立つ。足踏みする前に気付いた。冷たくない。

ぞっとした。何かの病気だろうか。感覚がなくなる何か。

浴槽を出て足の裏を見る。濡れていない。触ってみる。感覚はある。

部屋に戻って足元を見る。そして、テーブルの上にあるピザのチラシを足の下にすべり込ませてみた。

紙はするっと足の下を通り抜ける。

僕は浮いているのだ。ほんのわずかに。


一体どういう仕組みなのか、調べることにした。

物を踏んでみるが、足の裏に一切触れない。丸めたティッシュを踏んでもつぶれないし、目覚まし時計の上に乗っても当たることはなく痛みもない。

何か見えないクッションのようなものが張り付いていて、重みを吸収するのだろうか。

しかし、靴下はぴったり履いている感覚はある。靴もしっかり履いている。

自分の意識の問題かもしれないが、足に直接履いているものは、このバリアーは通り抜けるらしい。

普通にさわれるし、足をふくらはぎに当てても触れる。自分の体は通り抜けるのだ。

あぐらをかいても寝てても普通なのに、立つとわずかにすき間ができる。

原因は全く分からないが、とにかく僕は常に5ミリくらい浮いている。

なるべく周囲から浮かないように気を遣って、ひっそり生きてきたのに、体が浮くとは全く意味が分からない。

浮くことの利点はなんだろう。足音がしない。足の裏、靴下、靴の裏が汚れない、くらいしか思いつかない。


結局、僕は今までとたいして変わらない日々を送る。

足音がしないというのは、なるべく注目されずに静かに暮らしたい僕にとっては、だいぶ楽である。

だいたい僕は大きな音が嫌いなのだ。

物を書くペンの音、グラスをテーブルに置く音、雑誌のページをめくる音、扉の開け閉め、椅子を引く音…世の中にはあらゆる場面で、いちいち大きな音をたてる人がいるが、僕は本当にそれが嫌で、テレビCMですら、叫んだり大きい声を出すものが流れると、ついイラッとしてしまう。

なぜみんな静かに生きられないのだろう。

常日頃そう感じていた僕に、神様がくれたプレゼントなのかもしれない。

どこを歩こうと走ろうと、どんなに激しく足を踏みしめても全く音がしないのは、僕にとっては大きな解放である。

自分がたてる音をいつも気にかけていたからだ。

もう雨の日の本屋で恥ずかしい思いをすることもない。


ある雨の日、近所のカフェで本を読んでいた。

壁に面して長いソファーがあり、その前に小さめのテーブルと椅子が並んでいる。

テーブルは自由に動かすことができ、基本は2人用として、狭い間隔をおいて1つずつ置かれている。

一番端がベストポジションだが、大抵は埋まっている。そして多くの一人客はテーブルひとつ飛ばしで、ソファー側に座る。

今日は、店に入ったタイミングでちょうど一番端のソファーの人が帰る時だった。

運がいい。すかさずそのベストポジションを確保し、コーヒーを買いに行った。

大きいサイズのコーヒーをゆっくり飲みながら本を読んでいると、女の人がコーヒーを持って近くまで来た。

本から目を上げて横を見ると、テーブルひとつ飛ばしで一人客と二人客で埋まっていた。

あいだの席に座るには、隣の人に気を遣いながら狭いすき間を通ってソファーに座らなければならない。

椅子に座ると、その後ろの通路スペースが狭くなるので、ほとんどの人はソファー側に座る。

今のようにひとつ飛ばしで空いている場合、両端の隣を選ぶのが王道だ。端の人が帰った時に、すぐに移動できるからだ。

女の人は僕の隣を選んだ。コーヒーを置き、テーブルを少しずらす。すみません、と小さな声で言いながらソファーに座る。バッグを置き、テーブルを戻す。

僕は感心した。彼女はほとんど音をたてなかったのだ。

多くの人は、カップを置くテーブルを動かすバッグを置くソファーに座る、全てにおいて少なからず音をたてる。わざとではないので、僕は本から意識を離して、隣が落ち着くまで我慢する。

しかし無音とは珍しい。どんな人だろうと僕は興味を持ち、気付かれないように隣を盗み見た。

若い人だ。20代前半だろう。髪は明るい栗色のショート。派手の一歩手前の柄のワンピース。手には淡いピンクの薄手の手袋をしていた。

少しギャップを感じた。こんな娘でも静かに振る舞う術を知っているのだ。音をたてずに物を動かすには、少しだけ技術がいる。コツというか力加減があるのだ。

どんな顔かちゃんと見たくて、上半身を後ろに伸ばし、さりげなく横を見た。

色白の綺麗な横顔。ふと、彼女がこちらを向いて一瞬目が合った。

僕はあわてて、首をひねったり、コリをほぐすフリをしてから本を広げた。

文字を目で追っていたが、何も頭に入ってこなかった。

見た目は少し派手だが、しつけがしっかりしていたのだろうか。それとも僕と同じように音をたてるのが嫌なのだろうか。

どうも本に集中できない。気分転換でトイレに行くことにした。邪魔にならないようにテーブルのすき間をすり抜ける。

トイレで手を洗って少しスッキリする。手を洗った後は、エアータオルもうるさく感じるので、基本ペーパータオルか自分のハンカチを使う。

トイレを出て自分の席まで来ると、隣の席の女の人が小さく「あっ」と声を出した。

「えっ?」見ると、彼女は前かがみになり僕の足元を見た。

ドキッとして足元を見ると、床にコーヒーがこぼれていた。

僕はもろその上に立っている。どうしよう。実際には踏んではいない。床はえんじ色だ。足跡が残らなくてもバレないだろう。

僕はゆっくりと足をはずし、そのまま席についた。すぐに店員がモップを持ってやって来た。

「すみません、大丈夫ですか?」

店員が僕の足元を見て聞いてきた。

「あ、大丈夫です、へへ」笑ってごまかした。

店員は素早く床を掃除し、去って行った。

隣の女の人ばまだ僕の足元を見ている。何かおかしいだろうか。そんなはずはない。動じないことが何よりの良策。ふと彼女の手元を見ると、彼女は手袋をはずしていた。細くて白い綺麗な手だ。

彼女は僕の視線に気付くと、急いでバッグから淡いグレーの手袋を出してはめた。

手のモデルでもやっているのだろうか。きっと傷付けたり汚したくないのだろう。

彼女は携帯をいじりだした。手袋をしていても操作できんるんだなぁと思った。

僕は本を広げた。しかし、どうも隣が気になる。僕の足元を見ている気がするのだ。

集中できないのに長居する必要はない。

何かひょんなことで僕の秘密がバレてもつまらない。

冷めた残りのコーヒーを一気に飲むと、僕は本をカバンにしまい、傘袋に入れたビニ傘を持って席を立った。

そして静かにすき間をすり抜け、カップを下げ棚に置き、店を出た。

あの娘が僕の席に移動した時、何か異状に気付くだろうか。いや、大丈夫だろう。

よほど注意深くなければ気付かれまい。だいたい世の人々はすれ違う人間に対して興味を持たない。

自分が思うほど周りは自分のことは見ていないものだ。

こうやって傘をさして、音をたてずに歩いていても、誰ひとり気にしない。それでいい。

僕のささやかな奇跡はひとりで楽しんでいく。今すれ違って行く誰かがどんな小さな奇跡を持っていようと、僕は気にしない。

きっと、みんなそれぞれの秘密を隠しながら生きていくのだ。

それが自分のためと信じて疑わずに。

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