第3話
「清洲さんって河原君の彼女なの?」
「? ううん、許嫁だよ?」
「今どき古臭いなー。恋愛感情とかあるの、って意味」
「そりゃあるよー。生まれた時から一緒だもん」
クラスの女の子にずばっと訊かれて、私はあははははっと笑って答える。そう言う意味じゃなくてー、ともっと言いたそうだったけれど、メグが彼女の肩を叩き、ふるふるっと頭を振った。何かに納得したらしい女の子は自分の席に戻っていく。写真を貼られて二日目、三時限の休み時間だった。
どうやら私と潤の関係は一歩進んだものとして把握されているようであり、要するにえっちぃ仲だと思われているらしい。それは流石に無いだろうと思うのだが、高校生ともなるとリアルな話のようだった。中学の頃なんて一年でピアス空けてる子がいてそれがかっこいーとかオトナっぽーいとか言われていたのに、高校ともなると恋愛かあ。しかも肉体関係。
いずれ持つことになるだろう所帯や子供の事を考えると、私にもそれは結構リアルな話だった。先日押し倒されたらどうする云々かんぬんの話もしていたけれど、そう言う意味だったのかとやっと納得する。まあ潤がそんなことをするはずはないだろう。なんてったってそんな事しなくても、いつだってオールオッケーなのが私の姿勢なのだから。そんな事は潤が一番よく知っている。だから泊まりに行っても来られても、客間で夜中まではしゃいでいるのが精々だ。それをお母さんにいい加減にしなさい、と怒られるまでがワンセットみたいなところがある。
私たちの関係はキス以上はまだない、プラトニックなものだ。だけどそのキスがえっちぃものになりつつあるのも事実である。えっちぃ。身体中くっつけて、抱き合って、唾液を交換して飲み込み合って。美味しいと思ったことはないけれど他人のだったら嫌だと思ったことはある。潤だから許してる、愛してる。潤じゃなかったら、なんて考えると、ゾッとするぐらいだ。潤以外の人とキスをする自分なんて、今は考えられない。社会に出たら学生の潤が子供っぽく見えちゃったりするんだろうか? オジサマに心揺らされたりするんだろうか?
考えるだけでゾッとする。セクハラを受けたらどこに、と考えたところで社長令嬢にそんなことする男もいないか、とホッとする。問題は女子社員の方かもしれない。先日の女子のように、私にいちゃもん付けて来るのかも。その想像は割とすぐに出来た。潤みたいな男の子が女の子にもてないはずはないのだ。私もそれ絡みで嫌がらせは受けて来た。靴の中にナメクジ、ってのが今まででは一番しんどかったかな。
ロッカーのカギはちゃんと掛けよう、うん、と一人納得するとメグが何やってんだか、と言った様子で見て来る。そりゃ将来のシミュレーションだよ。男より女の方が厄介なのは知っている。私も女だからだ。だから潤に手を出して来る女の子にはちょっとした嫌がらせもする。先日のキスの見せ付けのように。
でもそれもそろそろ危ない気がするんだよなあ。だって潤、えーと、その、ちょっと硬くなってたし。さすがに学校で初めてを過ごすというのは嫌だ、しかも誰が来るか分からない場所で。外で、なんて、声が響くから余計に嫌だ。どうせならそれ系のホテルに行った方がましである。
でもああいうところも不潔だって言うから、やっぱり独り立ちして部屋を借りてからだろう。私が先に独り立ちして、潤がそこに入ってくる予定だ。部屋代は潤が私に追いつくまで半々、私が寿退社したら全部潤に寄り掛かる予定である。そこまで話は進んでいるのだ。よく考えたら恐ろしい両親だな、と、時々思う。
休日は潤が遊びに来ても良いことになってるし、ベッドも面倒だから最初からダブルベッドを入れる予定だ。となると泊りになった場合一緒のベッドになるけれど、多分潤は自立するまで何もしてこないだろうと思う。
でも子供の頃から少林寺拳法習ってる潤に本気でそんな事されたらどうなるだろう。うーんと考え込んでいると、チャイムが鳴った。いかんいかん、数学の準備。会社の経理が出来るように選択理系にしたけれど、古典はあるんだから詐欺だよなあなんて思う。現文はいつもテストでぎりぎりだ。私は社長に向いてない。社長夫人になろう、思って昨日から潤のうちに泊まり込みで和食を教えてもらっている。きゅうりの漬物とか美味しい。あとそれにトマト入れると酸っぱくて堪らなくなる。割と好き、酸っぱいの。
言ったらつわりの時にも食べられそうで良いわねえ、とおばさんには言われた。おばさんのつわりの時はどうだったんですか、と聞いてみると、食べづわり、と言うらしく、何か食べてないと堪らない状態だったので、トマトを延々と食べていたそうだ。だから今でもちょっとトマトはね、と遠い目をしていた。私は何つわりかなあ。言ってみると、十年後には分かるわよ、と撫でられた。十年は長いなあ。でもそのぐらいだろう。
大学を出て五年は働いておかないと、お得意様を作ったり引継ぎを始めたりはしていられない。その頃には私も社会人九年目だ。自分の固有の友人関係が出来ているかもしれない。今までは全部潤と一緒だっただけに、それはちょっと怖い想像でもあった。社長令嬢。腰掛け勤務。色々言われてるだろうな、多分、裏では。それでも媚びを売って来る人ばかりが入って来る訳じゃないだろう。メグだって入社してくれる予定だし、それまで何とか頑張ればいい。メグも四年制大学行くみたいだけど。結局最初の四年間は自分で地盤作りかあ。
不安だ。メグも潤もいないところで私に何が出来るって言うんだろう。経理事務か。その為に覚えたエクセルだしな。仕事をしっかりやれば人望は付いて来る、とは、父の言葉だ。だったら私も精々頑張ってそれらをこなして行こう。と、当てられて黒板前に向かう。東京学芸大クラスの問題でぼーっとしてた頭が錆びるほどじゃない。こんなものより恐ろしいものは世の中に山ほどあるのだ。人脈か。結婚式で私の方だけ友人席がら空きなのは嫌だしな。精々精いっぱい作って行くとしなくては。高校の級友で友達って呼べるレベルの相手もそんなにいないしなあ。メグと潤に頼りっぱなしだよ、これじゃ。塾でも違う高校の子は多いし。なんだかんだ名門なのだ、この学校。その名門校に行って進学しない私は変な奴なのだ。だって潤と一緒にいたいから選んだ学校だったし。メグも丁度一緒だったし。だったら私に選択肢は、特にない。馴染みの二人がいる学校で、過ごしたいと思ったのだ。青春時代を。その最後の三年間を。
さて、今日も私は潤の家に帰り、同じように帰って来たおじさんと道場帰りの潤をお風呂を入れ、夕食に出したのは豚汁だった。何でも入ってるからまず失敗はしないだろうとのことで、確かに材料を切るのは大変だったけれど煮込むだけだったから楽なレシピだった。豚肉、じゃがいも、人参、糸コン。
まるで東洋風のカレーだな、と思ったら、そうかもね、と笑われた。味は悪くなかったと思う。潤もお代わりしてくれたし。ただし潤は秋になると出されるさつまいもの豚汁も好きらしい。それはメモに取っておこうと、私は大分分厚くなったレシピノートに書き込む。マナちゃんは熱心だなあとおじさんに言われ、そんなことないですよーと頭を掻く。ただ私は潤好みの味を知っておきたいだけだ。潤のお嫁さんになるために。十年後の為に。
この家族の中に入るのは違和感がなくて、もう二十年近いお付き合いなんだもんなあとしみじみしたりした。お父さん同士はもっとだろう。一緒に脱サラして今の会社を立ち上げて、今は共同で社長業をやっているぐらいだ。そして子供同士を許嫁にして、やがて私達の子供が社長になるんだろう。私も高卒で入社することになるんだから頑張らなくちゃな、と思う。そして貯金を溜めて結婚資金にするのだ。夢のある話である。最初何か月かはマンションの家賃半額出してもらう予定だけれど。
社長予定の潤は流石に大学に行ってもらう事になっているけれど、その資金もうちで半分出すことになっている。未来への投資だ。父達二人が決めた事。私にもせめて短大、と言う話が出ていたけれど、私より潤の方が大事だから辞退したのだ。高卒でも大丈夫。塾で習うだけ習っておくから。それに私、経理に関しては才能がある。地頭が良いってことだろう。今日も客間でおじさんの古いPCを借り、昔の経理をやっつけている。この作業は、流し込みに近いけれど楽しいから好き。
さてとそろそろ眠らなくちゃ明日に響くな、と客間でパジャマに着替えていると、コンコン、とノックをされた。どうぞ、と言うと、ドアノブを回したのは潤だ。流石に潤のベッドには寝られない体格になったから客間なんだけど、どうしたんだろう。こて、と首を傾げると、ぱんつ、と言われる。
「パジャマからはみ出てる」
「あちゃ、ごめん」
「それでマナ、明日はどうするの?」
「お弁当の作り方習ってから、家に戻って、教科書替えたりするつもり。そしたら朝ごはん食べに来た潤と時間も合うかなって」
私達の家はそう離れていない。幼馴染のご近所さんだ。それも二人が同時に建て売りに出されていた家を買ったからだけど、貯金で買えたと言うのだからすごい。ニコニコ現金一括払いが一番安く付くのを知っている買い方だ。賢い。流石ダブル社長。太っ腹だし経済が分かっている。銀行はたまったもんじゃないだろうけれど、二軒同時に一括なんて。売れ残るより良いのか、それでも。暫くは住宅街も私と潤の家しか売れてない時期があったし。今はあちこちぎゅうぎゅうだけど、あの頃はスカスカだった。
そう、と言った潤が、不意に近付いて来る。それからぎゅっと私の両手を握って、すり、とそれに懐いた。どうしたんだろう、なんか弱気だな。少林寺の練習試合で負けでもしたんだろうか。まさかね。小学校からやってる潤に、勝てる人は少ないと言う。おまけに本人が熱心に取り組んでいるものだから、体力作り、なんかの人はまるで歯が立たないらしいと聞いている。
らしいというのは私も元そこの門下生だからだ。当時からの友人にメッセージアプリで教えて貰える。今日は特に何もなかったから、そうじゃないんだろう。どうしたのかな? 甘えたな時期?
「明日は家でご飯食べてって。そしたら原付でマナの家まで送るから、そこで教科書替えて」
「髪巻く時間がないよ~……」
「一日ぐらいストレートでも、マナは可愛い。なんなら編み込み作ってあげる。母さんで散々練習したんだ」
「そうなの? 明日体育あるもんね、その方が良いかな……」
「絶対良い」
「潤の絶対なら大丈夫だねっ」
「ねえマナ」
「ん?」
捨てられた犬みたいな声で、潤が私を見上げてくる。
「俺も一緒に寝ちゃダメ?」
……。
いやいやいやいや。
「さすがに客間のベッドは狭いよ。潤のベッドだって狭いからここで眠るんだし」
「くっ付いて寝れば大丈夫だよ」
「駄目。大丈夫じゃありません。狭くて悪い夢見るよ、落としちゃうかもしれないし」
「そっか」
しょんぼりした潤の頭を、顎先ですりすりする。意味はないけれど、両手にすり付く頬は離れた。ちょっとじょりじょりしていたのに気付いて、はー、と私は息を吐く。そして今度は自分から、潤の頬に触れた。きょとん、とされて、可愛いな、なんて思う。こんなに可愛いのに。
「お髭生えてる」
「あ、もう夜だから」
「夜になるとお髭生えるの?」
「朝に剃るからね」
「そっかあ」
へらっと私は笑った。
「潤もすっかり大人なんだねえ」
ぎゅっと抱きしめられて、髪にすりすり懐かれる。でも結婚は出来ない歳だって言うんだから、日本の法律は不思議だ。肉体が成熟している時期に許せば良いのに。来年にはお互い結婚できる歳になる。入籍はするけれど結婚式はお互い社会に出てからだと言われて来た。そう、言われて来た。
まだまだ知らない事だらけの潤。否、知らないことが増えた潤。豚汁が割と好きとか知らなかった。オムライスが好きなのは知っている。ぽつぽつと色んな事を知って行かなきゃならないのに、一緒に過ごせるのはあと一年ちょっとだなんて、勿体ないよなあ。
「大人だよ。豚汁にさつまいもを強請らなくなったぐらいには、大人だ。俺だって。だからマナと一緒に寝たい」
「だからそれは駄目。落ちちゃうのも落としちゃうのも嫌だよ、私」
「抱き合って眠れば良い」
「そんなに寝相良くないよ」
「俺が抱える。それでも駄目?」
「だーめ。どしたの、何かあった? 聞いて欲しい事でもある?」
「あるよ。俺はずっとマナと一緒に居たい。愛し合っていたい。許嫁でなくても愛されていたい。言いたいことは、たくさんある。聞いて欲しい言葉は、山ほどある。でもマナはいつも片付けちゃう。『許嫁だから』で済ませちゃう」
「潤? だって私達、許嫁じゃない」
「じゃなきゃマナは俺を愛してくれないの?」
ぐず、と泣き声が聞こえて。驚いてしまう。
え、だって。私達許嫁だから、今日も料理習いに来たんだよね?
許嫁じゃなくなったら潤の事、私はどう思うんだろう?
それは考えた事のない、発想だった。
あんなにキスして抱き合って来た潤の事。
何とも思わなくなるわけが、ない。
「潤、落ち着いて聞いて。私は許嫁じゃなくなっても潤が好きだよ」
「嘘だ! 色んな人から手紙も貰うし、社会人になっちゃうし、俺の事なんかどうでもよくなっちゃうに決まってる! 四年も離れちゃうんだよ、俺達! そんなの耐えられない!」
「潤、」
「だから一緒に寝てよマナ。寂しくさせないで。何にもしないから、ただ抱き合って寝かせて。今はそれで我慢するから。それだけで我慢できるように、頑張るから。許嫁でも許嫁でないマナでも愛してる。マナが他の男に取られるぐらいなら、引き寄せて無理やりキスして黙らせる。そのぐらいマナが好きだから、だから」
ぐずぐずの鼻水音。くすっと笑って私は少しその胸を押して身体を引き剥がし、かぷっとその鼻を嚙んだ。金髪をびくっとさせた潤は、涙も同時に引っ込める。
「そんなに不安だったの? 潤。応援団長さんのこと」
「……うん」
「大丈夫だよ、だって私、潤が嫌いだったらキスしてあんなくたくたになったりなんかしないもん。信じてくれないと嫌だよ。確かに私も許嫁って言葉に腰掛けて潤の事見てなかったかもしれないけれど――」
でも。
「潤はその言葉、ずっと重く受け止めてたんだね。もしかしたら私よりずっと、その言葉に腰掛けて来たのかも。公衆の面前でキスしたり、抱き合ったり。不安じゃできないよ、そんなこと。嫌われちゃうかもって、怖くなるもの」
「怖いよ。今だって怖い」
「でも、抱き合って寝たいって素直に言えちゃうんでしょ?」
「マナは嫌?」
「嫌な人の鼻水なんて舐めません」
「ちゃんと言って」
「好きだよ、潤」
へらっと笑うと、潤は私を押し倒す。
ベッドがぎしっと言って、おばさん達に気付かれないかとヒヤッとした。
「卒業する前に、一緒に寝てみたかったんだ。ちゃんと好きなのかどうか確かめたくて、堪らなかった。本当に同じベクトルの好き同士なのか、知っておきたかった」
「だからっていきなり押し倒すのは無しでしょう~……おじさんたちに見付かったらどうするの」
「もう見付かってるよ、多分。この部屋に来る前に、トイレ行く父さんとすれ違ったから」
「ええええええ」
「だから一緒に寝よ、マナ」
「仕方ないなあ……まあ私は潤のこと好きだから、許してあげるけどね」
「許嫁じゃなくても?」
「なくても」
「へへっ」
目元を赤くした潤にちゅっとされる。おやすみのキスだから、それだけだ。舌を突っ込んたり唾液を交換したりはしない。そんな事したら眠れなくなってしまう。興奮して? 恥ずかしくて。ああ、私も潤のこと好きなんだなあ、なんて思ってみたりして。
それにしても許嫁って言う言葉は一種の呪いだな。これからはあんまり使わないようにしていこう。でないと潤が不安がる。私は好きな人を苛めて喜ぶタイプじゃない。なので好きな人と呼ぶことにしよう。昔っから今まで、変わっていないけれど言い方を変えるだけで潤の安心度が変わるのなら。
一生懸命愛するから、一生懸命愛してね。とりあえず学校でのキスはちょっと控えめにしよう。それにしてもあの写真撮ったの誰だったんだろう。あの時のシャッター音は、誰が発したものだったんだろう。
思いながら私は潤と脚を絡めて、胸に抱きしめられることにする。
やっぱり狭いけれど、キス出来る近さって言うのは良いのかもしれない。
ちょっとお髭の生えてる顎をぺろっと舐めたら、ぴゃっとされた。
私の許嫁は、好きな人は、随分可愛らしい人だったようだ。知らなかったことがいっぱいで、胸がいっぱいで、私も潤に抱き着いて目を閉じた。
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