足音は何処へ

 翌朝、朝食のスコーンもそこそこに、公爵に取り次いで貰うことにした。ロクテーヌ=シャンペルレという令嬢をもっと知らなければならなかった。

 公爵は多忙で朝からずっと書類に目を通していた。執務室の壁一面を埋める本棚はシェリーの背よりも高く、王宮の似た部屋を想起させた。遠慮気味に執務室に踏み入ったシェリーを公爵は温かく迎え入れてくれたが、ロクテーヌの話題になると難しい顔で深くため息をついた。

「ロクテーヌが部屋から出てこなくなったのは、一年ほど前からだ」

「一年前……ですか?」

 思っていたよりも最近だったので、シェリーは驚いた。ロクテーヌに関する噂はもっと昔から出回っていたはずだ。シェリーの疑問を予期していたのか公爵は苦笑した。目元の皺が深くなり、より柔和な顔立ちに見えた。

「たしかに昔から社交界を嫌って部屋で本ばかり読んでいたが……今ほどじゃない」

「その頃からロクテーヌ様はああいうお方だったのですか? ……つまり、その」

 恐ろしいほどの美しさと威圧感を持つ令嬢だと口に出すのは憚られた。言葉を探して視線を彷徨わせたが、いい回答は浮かばない。

「君が言いたいことは分かる」

 公爵は肩を落とし首を左右に振った。

「ロクテーヌは……私の知っているロクテーヌは……聡く、心優しい子だった。昨日、使用人たちがあの子を女神のように美しいと讃えているのを聞いたよ。だが、私にはそんないいものには見えなかった」

「公爵……」

 力なく笑う公爵が痛ましく、シェリーはそっと肩に手を添えた。素晴らしい功績や身分も今ばかりは消え去り、ただ娘を案じる父親の顔があった。どうにか力になりたいとシェリーは記憶を辿る。

「一年前と言えば前公爵が亡くなられたのもその頃でしたわ」

「ああ、まさにそうだ。ロクテーヌはよく懐いていたから、深く心を痛めただろう。……だが」

 親しい人の死を悼み、深い悲しみにくれたとして、ここまで人が変わるものなのか。公爵の困惑はおそらくその一点であり、令嬢ロクテーヌの変貌は説明できないほど大きなものだとうかがえる。

「今は娘のことが分からない」

 その時、窓から強い風が吹き込んだ。侍女として染みついた動作ですぐさま窓枠に手をかける。視線を感じた気がして窓の外を窺ったが、誰もいない。昨夜の出来事を思い出し、背筋が冷たくなった。

「こんな話を客人にしてしまってすまないね」

「いえ、そんな」

「君が重宝されているのも分かる気がするよ」

 思いがけない褒め言葉に、シェリーの心は舞い上がった。侍女として仕えているというだけで身に余る幸福だというのに、役に立っているのであればどれほど嬉しいことだろう。シェリーは緩む口元を押さえて、淑やかな令嬢であり続けた。

「……では、そろそろ本題に移ろうか」

「ええ。よろしくお願いいたしますわ」

 シェリーは背筋を伸ばし、机の上に書状を広げた。王の使者として一度話を進めると、視線の件はあっという間に頭の中から消え去った。

 シャンペルレ公爵に対する印象は、シェリーの中で刻々と変化していた。王宮で話に聞いていた公爵は強大な権力を持つ名家の切れ者だったが、城で歓迎してくれた公爵は温厚で優れた領主だ。そして対面して仕事の話を進めると、その二つが両立しているのだとわかった。言葉は至って穏やかで終始笑顔だったが、話に隙が無い。あわよくば王家に有利な条件で話を進めてほしいと仰せ付かっていたが、ほとんど不可能だ。

 公爵の執務室を出た頃には昼になっていてシェリーはぐったりと肩を落とした。王の使者もこなせる完璧な侍女への道のりは険しい。しかも午後は城下の視察でもどうかと公爵に提案されており、それがシェリーの気晴らしのためであることは明らかだった。相手の方が何枚も上手だ。

 シャンペルレ家の衛兵を二人だけ護衛に付けてもらい、シェリーはルデジエールの街へ繰り出した。とはいえ城に到着する前に軽く視察しているため、大まかな地理は把握していた。街中は平穏そのもので、絵にかいたような理想的な領地だ。事前の報告でも他の領に比べて犯罪率が低いとあり、農夫や街娘に話を聞いても齟齬がない。犯罪率は領の豊かさと反比例することから、豊かな領地だと断言できる。

 店が立ち並ぶアールゼリゼ通りを下り、数か所で足を止める。年頃の娘よろしく、甘い香りに誘われてスコーンやカヌレやチョコレートを手に取った。重要な使命を負っているとはいえ、折角の見知らぬ土地を満喫したいのが人情というものだ。

 シェリーが何処に向かおうとしても護衛二人は止めない。放任的な態度は統治に後ろ暗いところがない証拠なのだろうか。シェリーには分からない。



 ルデジエール城の地下にはワイン倉庫がある。石造りの倉庫は夏場でも冷気が漂う場所で、ワインの他にも様々な食料品が保管されていた。シャンペルレ家にとってワインは特別なものであり、倉庫の多くを占めている。

 地下倉庫は薄暗く、昼間でも手燭が必要だった。黒髪をゆったりと編みこんだ女中が足元に気を払いながらワイン倉庫へと進んでいく。樽やボトルに詰まったワインが倉庫の壁に積みあがっている。年代や種類別に並んだその一角に、王宮行きのワインも整列している。女中は眼鏡に手燭の灯を反射させながらワイン倉庫を奥へ奥へと進んだ。

 使用人に公務の内容が知らされることはないが、今回の訪問はワインが目的だという噂があった。

 シャンペルレ家のワインは言わずと知れた名産品である。豊かな大地と確かな技術が育んだワインは国内外問わず人気の逸品だ。国内であれば貴族同士の話題にも上り、味を知らないと馬鹿にされるほどだ。

 女中はワインの人気にさして興味がなかったが、王家へ献上するワインを確認するために時間を割いたのだった。最上級のワインを用意してはいるが、何種類もの銘柄が混在しているため入念な確認が必要だ。間違えたところで至高のワインであることに変わりはないが、公爵家の落ち度とされては堪らない。

「……?」

 ふと、女中は人の気配を感じて足を止めた。目を凝らしたものの何も見えず、暗がりに声をかける。

「誰かいるのですか?」

 耳をすませ返事を待ったが、自分の足音が反響するだけだ。不審に思いながら手燭を掲げて歩を進めた。普段目につかない倉庫の掃除は適度に手を抜いており、高く積まれたワインの隙間には埃もある。棚を一つ通り過ぎ、二つ通り過ぎ、最後の棚の前で手燭の灯がその輪郭を映し出した。女中は思わず息をのむ。

「……シェリー様?」

 それは先日からルデジエール城に滞在している王の使者だった。目を見開き、微かに口を動かす。しかし意味を成す言葉が紡がれることはなく、女中は首を傾げた。シェリーの前に並んだワインは埃一つなく磨き上げられている。王へ献上する予定のワインである。しかもシェリーはそのうちの一本を胸に抱えているのだった。

「どうか、されましたか?」

 シェリーの肩がびくっと跳ねた。

 たとえ地下への入り口が開放されていたとしても、倉庫なんて客人が入り込むような場所ではない。いくら公爵が温厚な方とはいえ、王の使者としての品格が問われる。真面目な印象だっただけに、不快感よりも疑問が勝った。ワインが気に入ったのなら使用人経由で所望すればいい話だ。

「わ、私……迷って、しまって」

 シェリーは目をそらし、抱えていたワインを棚に戻した。

「まあ、失礼いたしました。私共がご案内するべきでしたね。どちらに向かう予定だったのですか?ご案内致します」

「あっ……いえ、結構ですわ。お仕事を中断させてしまっては申し訳がありませんもの」

「ですが……」

「上に戻ったら近くにいる方に聞きますわ。どうぞお気遣いなく」

 そこまで言われては強く出ることもできず、女中は引き下がった。そそくさと立ち去るシェリーの背中を視線で追いかける。石階段を上る足音が地下倉庫に反響していつまでも聞こえていた。

 迷ってしまって、とシェリーは言った。迷ってしまったとして、明らかに趣の異なる地下への階段を下りたとして、その上でワインが並んだ見事な倉庫に見惚れてふらりと入ってしまったとして、だ。手燭を持たずにその全てを行うことは可能だろうか。女中は腕を組み、口元を指で叩いた。勿論、不可能だ。地下倉庫は足音が良く響く。女中の足音を聞きつけて手燭を咄嗟に消し、隠し持ったのだろう。

 地下倉庫に興味を引かれたものの、後ろめたさから不審な行動をとったのだろうか。

「……」

 女中は考えるのをやめて、献上品の確認を始めた。赤ワイン、白ワイン、ロゼ。コク深い年代物とフレッシュなヌーボー。国王陛下の好みに合わせて最終的な数はシェリーが決める。ふと足元に薬包紙が落ちているのを見つけると、女中はすぐに手を止めた。

 手のひらに乗せて薬包紙を開くと、中には白い粉が入っている。

 ワインボトルにたった一匙加えるだけで、人を死に至らしめる毒薬だった。



 シェリーは地下倉庫を離れ、廊下を進みながら唇を噛んだ。女中の平然とした態度が何度も思い出された。あの分厚い眼鏡の下で、さぞ常識のない失礼な人間だと軽蔑したことだろう。王家の献上品を見つけるところまでは順調だったが、せめて夜中にするべきだった。苦しい言い訳を思い出し、後悔ばかりが頭を占める。

 きっとあの女中は公爵に報告し、シェリーの失態として国王陛下のもとにまで届くだろう。どころか、国王陛下を貶める事態になりかねない。シェリーはぶるりと震え、改めて己の迂闊さを反省した。

 しかし、公爵がシェリーを咎めることはなかった。午後に予定していたワインの選定も和やかに進み、地下のワイン倉庫など話題に上らない。藪蛇をつつくのも躊躇われ、王の使者としての役割を順調に果たしていく。

 一日の行程を終えた後、隠れて女中たちの噂話に耳をすませてみたもののワイン倉庫での一件について誰も話していなかった。ロクテーヌの美貌に驚く声や、来客を歓迎する声、あとは美味しいパイの話だとか些細なことばかりだ。あの女中は誰にも報告しなかったのだろうか。そうだとすれば何とも気の利いた使用人だ。王家に仕える侍女として見習いたいものがある。

 夜が更けると、シェリーは昨夜同様に日記帳を広げた。今日の出来事もまた、ありのまま記載するのが憚られる。そもそもシェリーにとって日記は趣味というより実務の側面が強い。いつか再び王の使者を拝命した際に参考になるような内容こそ記載するべきだ。他人の城のワイン倉庫に入らないほうがいい、なんて書けるわけがない。羞恥でどうにかなってしまう。

 悩みぬいて、結局当たり障りのない内容を書いていると遠くから足音が聞こえた。

 昨夜と同じだ。

 指先から凍えてしまったかのように身動きがとれない。どんな物音も気取られそうで、微かな呼吸すら躊躇われる。足音が部屋の前を通り過ぎるまで、両手を胸の前に合わせ息を殺して待った。そこまで寒い夜ではないのに両腕に鳥肌が立っている。

 令嬢ロクテーヌの足音に、似ている。ほんの僅かな時間しか会っていないというのに、シェリーの直感がそう訴える。

 ただ、恐ろしかった。得体のしれない何かが舌なめずりして獲物を待っている。そんな感覚に震えた。夜はすっかり深く、誰も起きていないような時間だ。足音が去ると、体中に血が巡りようやく動けるようになった。そして扉を開けて廊下を確認したが、その先には全く同じ光景が広がっている。壁に揺れるタペストリーを小さな黒猫が見つめて、鳴き声をあげた。

 シェリーは恐怖から目をそらすように慌てて部屋に戻り、日記を放置して毛布を頭までかぶった。強張った指先が震えていた。見るべきではなかった。すべて忘れて、なかったことにしてしまいたい。結局その夜は目が冴えわたり明け方まで眠れなかった。

 同じ夜が何度か続いた。シェリーは反省を生かして早くに横になるようにしたが、足音のことを考えてしまい寝付けなかった。そうしてベッドの上で丸くなっているうちに同じように足音を聞きつけてしまうのだった。毎日ろくに眠れないまま朝を迎えた。

 気もそぞろに向かったワイン醸造所の見学も心の靄を払拭するには至らなかった。見事な葡萄畑の先にある醸造所は設備どころか景色も素晴らしい。報告書が捗り、醸造所でいくつかのワインを献上品に追加した。

 公爵の計らいで城下を視察する機会も何度かあった。平穏な光景に一時癒されるが、城に戻ればたちまち消える。夜になれば足音が響き、息苦しく朦朧としたまま朝を迎える。直接ロクテーヌに聞こうとも考えたが、彼女は噂通り部屋から出てこない。

 ルデジエール城の巧みに手入れされた美しい庭園には薔薇が咲き誇り、柔らかな日差しが降り注いでいたのにシェリーは沈んだままだった。余程酷い顔をしていたのか、庭園を案内している最中にミルティーニが足を止めた。

「シェリー様、何か困っているのではありませんか」

 躊躇いながらそっと添えられた温かな手のひらに、何もかもを吐き出したくなる。ミルティーニは、優しく純粋な思いやりでシェリーを包み込む。小さな白薔薇、大輪の赤薔薇が放つ香りに眩暈がした。

「ひょっとして、あの客間が合わなかったのでしょうか。部屋を変えることもできますし、お好みのものがあれば何でも用意致しますわ。それに、そうね、今夜はシェリー様のお好きな食事を作らせましょう」

「……大丈夫ですわ」

「でもっ……」

「少し、疲れていただけですから」

 お気遣いありがとうございます、と微笑むと、ミルティーニは寂しそうに眉を下げた。ルデジエール城に到着してから衰弱しているのは誰の目にも明らかだ。しかし、何と言えばいい。毎夜足音に悩まされていると? 得体の知れない令嬢を恐れていると? 姿を見てもいないのに憶測で公爵家を貶めるような真似はできない。

「私、いつでも力になりますわ」

 ミルティーニは強く手を握った。澄んだまなざしに、勇気を分けてもらった。立ち向かう勇気だ。

 シェリーはついに廊下で足音を待ち伏せる決心をした。恐ろしいのは得体が知れないからであって、きちんと向かい合って理解すればいい。もし正体がロクテーヌだったとして、勝手に恐れているだけだ。あの愛らしいミルティーニの姉で優しい公爵の娘なのだから当然素敵な人物ではないのか。

 しかし、その夜に限って足音は現れなかった。たまに通りかかる衛兵から隠れて部屋に戻るも、いつまでも廊下は暗いままだった。待ち伏せがばれていたとしか思えないほど、不自然に。

 シェリーはこれ以上有耶無耶な恐怖心を抱えるつもりはなかった。部屋の前の廊下はすぐ行き止まりになっており、足音が通り過ぎるという事実から導き出される答えは一つ。隠し通路だ。

 ルデジエール城は古くから続く名家シャンペルレ公爵家の城である。隠し通路の一つや二つあったところで何ら不思議はない。これほどの広さになれば間取りの違和感を最小限にして作ることが出来る。違和感が少ないどころか隠し通路を探しても場所の見当がつかないほど巧妙だ。

 隠し通路があるとすれば、足音が消えた先、すなわち行き止まりになっている壁である。シェリーは壁に手を這わせ、隅々まで調べた。

 壁には大きなタペストリーがかかっていた。葡萄の蔓が作りだした縁の中に戦場と処刑を描いており、人々を襲う炎の臨場感が素晴らしい作品だ。有名な史実の一場面であるとすぐに理解することができた。壁一面を覆っており、上方には窓とその周辺を華やかにするレリーフがある程度だ。タペストリーをめくって壁を押してみたが、ただの壁でしかなかった。

 絶対に存在するはずの隠し通路に中々たどり着けずもどかしい。そう簡単には部外者に見つけられないように作っているのだ。慣れないことをするものではないな、と半ば諦めかけて近くの彫像にもたれて息を吐く。寛ぐ獅子を表現した彫像だ。その背にシェリーを乗せられるほど大きく、石膏だが瞳も爪も尻尾も生きているかのように生々しい。思わずその鬣に触れた。

 視界の端で炎が振らめいた。

「⁈」

 シェリーは何度か目をまたたかせ、タペストリーを注視した。戦場の炎が今まさに燃え盛っている。風がタペストリーを揺らし、そう錯覚させているのだった。シェリーは息をのんだ。夜中の城内で、いったいどこから風が吹いているというのだろう。おずおずと近寄り再度壁を調べると、風を吸い込んでいる場所があった。思い切り押し込むとその入口は開かれた。

 タペストリーに隠れるようにして、下へ続く狭い階段が広がっていた。薄暗く、隠し通路の先は見えない。シェリーは深入りをせず振り返った。獅子は相変わらず寛いだ様子で廊下に佇んでいる。

 獅子の彫像が隠し通路を開く鍵だったのだ。そして偶然鍵が開いたとしても、タペストリーに隠れて見つけられない。手の込んだ隠し通路である。

 いや、何より重要なのは、公爵令嬢ロクテーヌの消えた足音はこれで全て説明出来るということだった。安堵とともに、彼女への恐怖が急速に消え去るのが分かった。そして重要な疑問に辿り着く。

 ロクテーヌは毎夜何処に向かっているのだろうか。ロクテーヌが部屋から一歩も出ないというのは使用人たちも噂していた事実だ。事実であり大嘘だ。つまり、城の人間を欺いて何かを行っているのだ。

 その夜も朝までほとんど眠ることが出来なかったが、これまでとは違った。頭が冴えわたり、手足に力が漲った。最近はほとんど手をつけなかった食事も、全て平らげた。ミルティーニが自分の事のように嬉しそうで、いいことをしたような温かい気分になった。

 公爵やミルティーニは知っているのだろうか。そんな考えがよぎったが愚問だった。彼らは何も知らず、ロクテーヌだけが異端なのだ。ほとんど直感のようなものだったが、シェリーは確信していた。

 ロクテーヌの正体を知りたい。美しく恐ろしい令嬢の夜遊びは何なのか暴いてみたい。それができるのは夜遊びに気付いたシェリーだけだ。好奇心と正義感が混ざり、シェリーは薄く笑った。

 こんなにも足音が待ち遠しい夜は初めてだった。さっさと日記を書き終えると燭台を準備して息を殺した。なにも直接対峙する必要はない。足音を追いかけて、気付かれないように帰ってくればいいのだ。

 そして今夜も足音が響いた。あの固いヒールが大理石の床を叩く音だ。足音が通り過ぎ聞こえなくなるのを待ってから、シェリーは廊下に飛び出した。予想通り、黒猫が物寂しそうにタペストリーを見つめている。主人が消えた隠し通路の先を。

 すぐさま獅子の彫像に駆け寄って隠し通路を開いた。タペストリーに隠れた入口は薄暗く不気味だった。シェリーは意を決して足を踏み入れると、手燭で足元を確認しながらゆっくりと階段を下りて行った。しばらくすると遠くで通路の入り口が閉まる音がした。

 狭く汚い通路だった。所々でクモの巣が髪に引っ掛かったし、埃っぽくて呼吸するのも嫌になった。精々一人分の幅しかないので、膨らんだスカートの裾が壁に触れるのが気になった。手入れされていない通路は、使用人の誰も隠し通路を知らないということを意味する。

 手燭では足元しか照らすことはできず、出口は見えなかった。何処までも続くような階段を何度か折り返し、やがて終着点に辿り着いた。

 隠し通路は行き止まりになっていた。

「……そんな」

 思わず口に出していた。同時に背筋が寒くなるような感覚があった。当然ロクテーヌはこの通路から去ったのだろうが、シェリーにはどうやれば出口が開くのか、あるいは何処に出口があるのかも分からない。このまま通路に閉じ込められてしまったら、助けに来てくれる可能性があるのは当のロクテーヌだけだ。

 焦燥感にかられ、周囲の壁を手当たり次第に押していく。何か手がかりがないかと必死に調べたが、ただ石の壁が並んでいるだけだ。体力も削られて疲労が強くなっていく。蝋燭は二本目に差し掛かり、シェリーはその場にしゃがみ込んだ。本当なら床に腰を下ろしてしまいたいところだが、埃が酷くそんな気にもならなかった。

「……!」

 シェリーは手燭で床を照らし出し、埃が示す痕跡に注目した。白い埃が積もっているこの隠し通路において、足跡はよく目立つ。シェリーとロクテーヌの足跡は大きさも形も異なり、非常に判別が付けやすかった。ロクテーヌの足跡が密集している壁を、シェリーは思い切り押した。

 壁が動くとともに、シェリーの目に光が飛込んできた。新鮮な空気を思い切り吸い込み、安堵を浮かべて顔をあげるとそこは地下のワイン倉庫だった。壁の燭台が灯され、以前訪れた時よりも明るい。そしてその中央に立つ女性はシェリーに微笑んだ。

「あ……あな……たは……」

「ああ、そういえばまだ名乗っていませんでしたね。私、ソミュールと申します」

 それはワイン倉庫で遭遇した黒髪の女中であった。胸のあたりまで編んだ黒髪は平々凡々で、分厚い眼鏡によって落ち着いた印象を受ける。

「な……なぜあなたが……!」

 戸惑いを隠しきれないシェリーに対してソミュールは至って冷静である。腕を組み、口元に手を添えてじっとシェリーを眺めている。

「なぜでしょうね。私としては何故あなたがここにいるのかを伺いたいのですが」

「っそれは……」

 淡々とした口調に気圧されてシェリーは押し黙った。そして同時に正常な思考回路を取り戻していく。そうだ、きっと仮定から間違っていた。

「あの足音は……あなたのものだったんですね」

 シェリーは小さな声で呟いた。今となってはどうして足音だけでロクテーヌだと断定してしまったのか分からない。黒猫がロクテーヌの部屋から滅多に出てこないからと言って、彼女とつかず離れずでいるとも限らないのに。

 ソミュールはくす、と笑った。大人しそうな外見に不遜な態度がちぐはぐだ。

「足音、ですか。何故ばれたのかと疑問でしたが……成程。そういうことだったのですね」

 次から気を付けましょう、と一人納得してソミュールは懐から薬包紙を取り出した。ありふれた薬包紙だが、シェリーには心当たりがある。ワイン倉庫に侵入した際に落としたはずの薬だった。

「……!」

「先日拾ったのですが……中身はよくご存知でしょうね?」

「っ……はい」

 誤魔化せないと悟り、シェリーは項垂れた。ソミュールにはワイン倉庫に侵入した現場を目撃されていて、震える指先の言い訳も思いつかない。

 ソミュールは昼間の謙虚な姿など全く見せずに続ける。

「簡潔に伺いましょう。シェリー様、あなたはこれをワインに混ぜて陛下に飲ませようとしましたね」

「…………はい」

 シェリーは節目がちに答えた。手燭の炎が瞳に映って妖しく揺らめいた。

 美しい宮殿に劣らぬ凛々しい立ち姿が目に浮かぶ。一国を統べるべくして生まれた神のような存在は、思わずひれ伏してしまうほどの迫力を持ち、けれど自室では少年のような笑い方をする。侍女として彼の人のために一生を捧げ、令嬢としての人生は潰えた。全てを捧げる覚悟を決めた。

「私は、私は……ただ……」

 あの素晴らしい敬愛する国王陛下が、永劫神聖なる国家を治めんと祈っている。それこそが侍女の使命であり、国家の繁栄と王家の栄華となるのだ。

「ただ、陛下のお役に立ちたかったのです」

「……何故これが役に立つのかは知りませんが、そうされると困るのですよ」

 ソミュールは眉をひそめ、薬包紙をシェリーに向けた。薬包紙を支える指先が白く美しかった。

「一度なら、見逃して差し上げます。これは諦めてください」

 きっぱりと告げられ、シェリーは考えた。一考の余地もない、下らない提案だ。

「何故諦めなければならないのでしょうか」

「話になりませんね。毒見があるでしょうから陛下の口に触れることはないにしろ、このワインは紛れもなくシャンペルレ家からの献上品です。こんなものが入っていると知れたら……」

「ですから、何故困るのですか? こんな名誉はありませんわ!」

 シェリーにはなぜソミュールが邪魔をするのか分からなかった。シャンペルレ家でことを終えようとしたのは、王宮の警備には隙が無いからだ。ワインにたった一匙を混ぜるだけなのに、それが難しいからだ。むしろ名誉を譲ることを感謝してほしいくらいだ。

「もう、時間の無駄です」

 ソミュールは吐き捨てるように言った。またしても違和感に包まれ、首を傾げた。この女中の態度はどうだ。仮にも名門シャンペルレ家の誇り高き女中が客人に対して傲慢かつ高圧的な態度で不快感を隠そうともしない。質問は意図せず口からこぼれた。

「あなたは……あなたは、何なんですか⁈」

「気が付きませんか?」

 ソミュールはにっこりと笑った。厚い眼鏡の向こうでは心の底から見下しているような、嫌な笑い方だった。それは恐ろしいほどの威圧感と静謐な気品を纏い、再びシェリーをあの神聖で息苦しかった大広間に連れ戻した。

「……そんな、馬鹿な事が」

「さて、そんなに馬鹿な事でしょうか」

 ソミュールが分厚い眼鏡をはずすと、その奥の瞳は美しい碧色をしていた。黒髪のウィッグの下から柔らかな金髪が現れる。雰囲気や声音までまるで別人だ。

 答えは非常に単純だ。夜な夜な響く足音はロクテーヌのものと同じだった。黒猫は彼女に懐いていて、それなのに追いかけた先にいたのはソミュールである。

「ソミュールというのは、私付きの女中の名前なのですよ。女中という立場は何かと動きやすいですからね。私は、私の推薦で、私の女中になったんです」

「……嘘。そんな……そんなの、バレないはずがありませんわ!」

「あなたも気付かなかったではありませんか。ロクテーヌ=シャンペルレは変わり者で部屋から出ないのですから、そう難しくはありませんよ。こうした来客がなければ、の話ですが」

「そんな……」

 足から力が抜け、シェリーはその場に座り込んだ。己の目も耳も信じることができず、全てを否定するように首を左右に振る。ロクテーヌ=シャンペルレに関する噂の一部は事実だと思っていた。公爵もミルティーニも部屋から離れないロクテーヌを案じていた。そんな心優しい家族を欺いていたと言うのか。

 一体なぜ、と尋ねる前に、ぴしゃりと厳しい声が響いた。

「フィード、待ちなさい」

 脈絡なく叱責が飛んだので、シェリーの方はびくっと跳ねた。ロクテーヌの碧い瞳はシェリーではなくその先を睨んでいる。暴れまわる心臓を抑え、視線を辿り振り返る。

 手を伸ばせば届く距離に背の高い男がいた。

「!」

 喉の奥から小さく悲鳴が出た。物音も気配もなかった場所に当然のように立っている。いつからいたのかもシェリーには分からない。

「待ちなさいはねえだろ。こいつ、もう駄目なんじゃねえの?」

 突如現れた彼は不服そうな顔をロクテーヌに向ける。いきなり親指を向けられて反射的に顔を背けたが、男の方はシェリーをちらりとも見ない。何がどうなっているのか分からないが、この身分も何もなさそうなフィードと呼ばれた男はロクテーヌと対等に話せるらしい。

「まだ聞きたいことがあるんですよ。ただでさえ度し難い単純な思考をお持ちなのですから、せめて勝手な判断は遠慮して頂きたいですね」

「……すげー丁寧に馬鹿はじっとしてろって言われた気がすんな」

「そう言いました。ところでシェリー様、最後に一つ伺っても?」

 ロクテーヌは指を一本立てて見せた。警戒しながら何とか頷く。

「どうやって隠し通路のことを知ったのでしょう。あれは私以外の人間は誰も知らないはずの入口でして」

「……?」

 ロクテーヌ以外知らない、なんてそんな馬鹿げたことがあってなるものか。このルデジエール城の城主はシャンペルレ公爵である。城に一番詳しい人間も、一番自由に歩き回れる人間も、公爵であるべきだ。現に王宮もレッティーニ家もそうである。シェリーの知らない部屋もシェリーが立ち入ることが出来ない部屋もあるが、その逆はあり得ない。

「ただの偶然だ」

「……あなたには聞いていませんが」

「待ち伏せされた日、そのまま監視しとけっつったのはお前だろ」

「そうでしたか?」

「おいなんだその目は」

 フィードは諦めて肩を落とした。

「気付いて、いたのですか……」

 シェリーは愕然と目を見開いた。意を決して待ち伏せした夜、ロクテーヌが現れなかったのは偶然ではなかった。シェリーがいたから現れなかったのだ。

「その結果シェリー様が隠し通路を見つけたとは聞いていませんね」

「俺はちゃんと監視したし、バレたのは隠し通路だけだ。バレたってどうせ結論は変わらねえだろうが」

「……一度、監視の定義について話す必要があるようです」

 さあ、とロクテーヌは手を合わせ、シェリーに向き直った。相変わらずこの世のものと思えぬ美貌だが、口元には笑みが浮かび威圧感が緩和されている。

「シェリー様、あなたは駄目です」

「はい?」

 あまりに唐突な言葉についつい声が裏返ってしまう。

「あなたの存在自体がシャンペルレ家の邪魔だと言っているんですよ」

「は……はあ……」

 間抜けな返事だったが、それ以外に何といえばいいのかもシェリーには分からなかった。ロクテーヌはにっこりと目を細めた。そうすると愛らしいミルティーニの笑顔にどこか似ていた。やはり姉妹なのだな、と関係ないことを思い浮かべながら、つられてシェリーも笑う。そして、そういえば、と首を傾げた。

 そういえば、この男は何者だったのだろう。

「残念ですが死んで頂きますね」

「え……? 今、なんと言」

 言い終える前にシェリーの首が胴体から切り放された。支える力を失った体は糸が切れた人形のようにぐしゃりと床に倒れていく。ワインでも溢してしまったかのように倉庫の床が鮮血で染まっていく。王の使者の首を手のひらに収めて笑う彼の口元は赤く濡れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る