第29話
清水からのメールには十一時に大阪港駅に集合と書かれていた。
朝の弱い私に配慮してくれての集合時間なのかもしれないけれど、家から駅まで徒歩で二十分、電車で一時間弱揺られる距離なので、起きる時間は準備も含めると朝の八時半には起きなければいけなかった。
だと言うのに私の目が覚めたの時には、時計の針は九時半を指していた。家を出る時間だ。
「マジか……」
どう足掻いても遅刻ギリギリの時間だった。
姉がいれば車で駅まで送ってもらうけれど、急いでリビングに降りると脱皮の後が床に散乱していて、それは不可能なのだと理解する。
こうなってしまうと動きながら脳内で自動的に今から取る行動の取捨選択が始まる。
朝食を食べる時間なんてないし、朝風呂なんて以ての外だ。
洗顔とスキンケアを手早く済ませつつ、ヘアアイロンで前髪を作った後は、面倒なので髪を一纏めに結んでしまう。
駆け足で部屋に戻ってタンスを開いたものの、着ていく服で少しばかり考え込んでしまう。
今回のお出掛けにおいて、清水が制服を着てくる可能性はかなり高い。
清水が風邪を引いた時にクローゼットを少し見てしまったけれど、私服と呼べるものが殆どなかった記憶が強く残っていた。
だから外で会う清水はいつも制服姿なのかもしれない。
そうなると私服で行った場合、制服姿の清水が浮いてしまう。だとすれば私が着ていく服は制服しかなかった。
日焼け止めを塗り、家を飛び出した私は運良く、図書館前に停まっていた駅行きのバスに乗り込むことに成功する。
「汗だくにならずに済んだ……とりあえず遅刻は確定だよね」
時刻は十時過ぎ、どれだけ急いだとしても三十分の遅刻はほぼ間違いないだろう。
まぁやってしまった事は仕方ないので、己の深すぎる眠りを反省しつつ、清水に遅刻する旨のメールを送信する。
頬を膨らませて怒りそうな気もするし、私に免じて許してくれそうな気もする。どちらかと言えば後者の方が有り得そうだ。
すると、一分も経たないうちにスマホが震え、『分かりました』との返信が返ってくる。
「これは……どっちだろう?」
清水のメールは、些か友人間でやりとりするには少しばかり文章が固いと思っている。
だから、この文章が普段通りなのか、怒っているのかは文面から読み取りづらかった。
「為せば成る、成さねばならぬ、なんのその」
やればできる、やらなければできない、そんな当たり前の事を一々考えなくてもよい。所謂、深く考えたら負けだという意味で、考えるのが面倒になった時に使っている。
だから、清水の機嫌の善し悪しも会ってから判断すればいい。そう結論づけて私はイヤホンを耳につけた。
ーーーーーー
案の定、三十分の遅刻で大阪港駅に到着し、改札を抜けると海が近い事もあり、潮風の薫りが鼻をくすぐる。
二番出口の階段を駆け足で降り、清水から連絡のあったコンビニを見付ける。
周辺に清水の姿はなく、この暑さなのもありイートインコーナーにいると目星をつけ店内に入ろうとした時だった。
「小深、ここだよ!」
背後から名前を呼ばれ、振り返る。しかし清水と思しき姿はなかった。なかった筈だった。
声の主は、黒のリボンを巻いたカンカン帽を被っていて、身長の低さ故に顔は見えない。
軽やかで真っ白なシフォンワンピースは膝下から透け感があり、目で追うと厚底のスポーツサンダルが快活さをアピールしている。
向日葵でも持たせれば、向日葵の妖精と銘打っても違和感がないだろう。
そんな向日葵の妖精は私の前で立ち止まると、元気よく顔を上げる。
「いつもより、小深の顔が近く感じる……!」
やはりと言うべきか、向日葵の妖精の正体は清水だった。
初めて会った時から黒の印象しかなかった事もあって、夏の少女像を纏う彼女に全く気付けなかった。
今こうして目の前にいる清水を認識し、存在を咀嚼する事でようやく本当に清水なんだと受け入れる事が出来た。
「あー、遅刻してごめんね」
「うんん、大丈夫。待つ時間、結構楽しかった」
そう言って、清水は数歩下がると、カーテシをする様にワンピースの裾を持ち上げる。
持ち上げられた裾のレースから覗く白い脚は、かつて感じた不健康さとは縁遠く感じてしまった。
「どう、かな?」
手を離し、ひらひらとスカートを揺らす清水の言葉で、感想を聞かれているのだと遅れて理解する。
「うん、可愛いよ」
「っ……!! 嬉しい」
カンカン帽を深く被り、顔を隠す仕草にすら胸がざわざわと揺れ始める。
これが所謂、ギャップ萌えというものなのかもしれない。
私が同じ服を着たとしても与える印象は全く異なる。きっと私では可愛さよりもスタイリッシュさが際立つ気がした。
清水のワンピース姿をじっくり見ていて、思わず第二の失態を自覚してしまう。
「ごめん清水、てっきり制服で来ると思って……」
傍から見れば、お洒落をしてきたと分かる清水の服装に対して私は制服姿だった。
浮いてしまうという感情よりも、流石に申し訳がないという気持ちが先行する。
普段なら決してする事のないありえないミスだったが、清水は文句の一つもなく、にこやかに笑ってかぶりを振った。
「学校の制服、リボンを取ったら私服みたいだから」
黒のブラウスと青のチェックスカートは、確かに私服っぽさがあるものの、あくまでそう捉えられると言うだけでもある。
ローファーではなく、スニーカーを履いてきた事は不幸中の幸いかもしれないけれど。
「気にしないで、行こ?」
申し訳なさそうな表情が出てしまっていたのか、清水はそれ以上話を続けず、手を差し出してくる。
気を遣わせてしまったな。
私は反省の意を込めて、彼女の差し出した手をしっかりと握る事にした。
大通りを少し歩くと、遠目に見えていた観覧車が次第に大きくなってくる。
集合場所から予想はしていたけれど、向かっている先はやはり天保山だった。
海を渡った先には、大阪随一と呼び声の高い観光スポットであるユニバがあり、それと対を成す海遊館がきっと私達の目的地なのだろう。
「今から、三つの選択肢を、出します!」
「唐突だなぁ」
ショッピングモールに入るや否や、問答無用と言わんばかりに選択肢を突きつけられてしまう。
以前、私が清水に出した選択肢を思い出してしまう。
ただ、相手に合わせた臨機応変な予定の組み方をしている点には素直に感心しておく。
「カフェ、お好み焼き、オムライス。どれでもいいよ」
見事にジャンルもバラけていて点数が加点される。
もしかして、こういう予定を立てる事に手馴れているのかもしれないな。
一人旅に行く人は、当日は気の向くまま旅をするらしいけど、事前に決行する気のない旅程をしっかり組む事が多いと千早から聞いた事がある。
「その中だったらオムライスかな」
「えっ……!?」
「えっ」
選択肢の中から選んだ筈なのに、清水から驚きの声が上がり、私はそれに対して驚きの声を上げてしまう。
「小深はカフェを選ぶって、思ってた……」
驚いた理由は大した事じゃなかったみたいだ。
「でもお昼ご飯ならオムライスじゃない? カフェでもいいけど、お腹膨れないし」
時刻も十二時前だから、お昼ご飯に選ぶには最適だと思ったんだけどな。
ちなみに、お好み焼きは好きだけど、油ハネがあるから今回は選ばなかった。
「カフェは下調べしてたけど……オムライスはお店しか、調べてない……」
選択肢はあっても予想した選択肢じゃない場合、混乱するパターンの予定の立て方って珍しいな。
手馴れているという評価は、一度白紙にしても良さそうだ。
「色々調べてくれたみたいだし、別にカフェでもいいよ」
絶対にオムライスを食べたい訳でもないので、下調べしてくれているなら私はカフェでも良かった。
しかし、清水はダメだと首を振る。
「小深がオムライスを選んだから、オムライスは、絶対……!」
「おぉ、確固たる意思だ」
片手が塞がっているので、拍手はできなかった。
お店は調べているとの事で、清水に引かれるままフロアを移動し、食いしん坊横丁と書かれた大阪らしさを前面に押し出した飲食店街に入る。
昭和の街並みを再現した様なフロアは、流石に夏休みと言うだけあり、軽いすしずめ状態だった。
人混みを抜けながら進むと、清水はオムライスの名店と呼ばれるお店へと入っていく。
「いらっしゃいませー!」
この混み具合だから待つ事を覚悟していたけれど、運が良かったのか店内に入るとすぐに店員が席まで案内してくれる。
通されたのは四人席で、座る為には清水と手を離さなければいけないのだが……固く握られた手は何故か離してくれなかった。
「あの、手を離してくれないと座れないんだけど」
繋いだ手を離そうと軽く振るけれど、清水の反応はなく背後に立つ店員さんの鋭い視線を背中に感じた私は、迷った挙句、諦めて椅子に座る。
当然の如く、私が座った隣の席には清水が座っている。
四人席で隣合って座るなんて、カップルでも中々お目に掛かれない光景ではないだろうか。
元気よく挨拶していた店員さんも、怪訝そうに私達を見ている。違うんです、私もおかしいと思ってるんです。そんな私の心の声は伝わる筈もなく、冷え冷えのお冷を置いて店員は去っていった。
「これだとメニュー見辛くない?」
「大丈夫……」
やっと返事をしてくれたものの、やはり手は離してくれないらしい。
そろそろ手汗を拭きたいし、オムライスを食べる時も繋いだままなのだろうか。
利き手が塞がってるから、それはちょっと困るな。
「私はカレーオムライスにするけど清水は何する?」
「小深と、同じもの」
「ふむふむ。やっぱりそうなるか」
「ダメ……?」
「いいや、いいと思うよ」
清水の言葉を肯定してから、手を挙げて店員を呼ぶ。
俯いてる清水は注文する気がなさそうだったので、私は嬉々として注文する事にした。
「カレーオムライスとハヤシオムライスをお願いします」
「少々お待ちください!」
店員が注文を取って去った後、清水は唖然とした表情を私に向けていた。
「ど、どうして……やっぱり嫌だった?」
「ふふっ、さぁてどうでしょう」
「意地悪な顔、してる……」
美人だとか綺麗だとかの褒め言葉を貰う事は多いけれど、意地悪な顔をしてるは褒め言葉としてカウントしてもいいのだろうか。
不安そうに私を見上げる清水の顔に、ようやく何時もの調子を取り戻してきた実感を得る。
そうそう、私と清水はやっぱりこうでなきゃ。
「まぁ意地悪かどうかは、後のお楽しみだね」
それから暫く、軽い雑談をしていると机の上にオムライスが二つ並べられる。
カレーオムライスは清水、ハヤシオムライスは私だ。
卵で綺麗に包まれた黄金色のオムライスにスマホを向ける。
とりあえずはインスタ用。そして、インカメに変更しスマホを斜め上に持ち上げる。
「清水、ほら笑って」
「えっ!?」
シャターを切る。写真を撮られると思っていなかったのか、驚いて口が半開きになった変顔の清水が映った写真が撮れてしまう。
「アハハっ、変な顔」
「撮るなら、言ってほしかった」
「これも思い出だよ、思い出」
初めて清水と撮った写真だ。写真を撮ろうと思ったのは以前姉に言われたからではない。友達と遊べば写真の一枚や二枚は撮って然るべきだからだ。
スマホを仕舞い、片手にスプーンを握った私は、清水に提案を持ち掛けた。
「さぁ清水にはこれから、二つの選択肢を出します」
「真似された……」
そこはかとなくショックを受けている清水へ、選択肢を告げた。
「一つ、ご飯が食べにくいので手を離してくれたらご褒美があります。二つ、手を離さなくてもいいけどご褒美はありません。さぁどうする?」
「ご褒美……?」
ご褒美という言葉がお気に召したのか、清水は眉をひそめて真剣に考える様子を見せた。
私としては前者を選んでくれたら非常に助かるけれど、そこは清水頼みになる。
「うぅーーーーん、うーん、うぅ……う」
悩むのはいいけど、せっかくのオムライスが冷める前に決めてくれるといいなぁ。
そんな微かな願いが清水神に聞き届けられたみたいで、繋がれた手が強く握られる。
「また手、握ってくれ、る?」
おねだりする清水に、私は「仕方ないなぁ」と頷くと、何十分と握られていた手がようやく解放される。
私の右手はしっとりを通り越して、汗だくになっていた。
ハンカチで拭くのは躊躇われるので、お手拭きで汗を拭い、清水にもお手拭きを渡そうとして、私はある光景を目にして固まってしまう。
あろう事か、清水は私達の汗が混ざった手を辞めようとしていたのである。
「こらッ!」
「あたっ」
思わずチョップを清水の脳天に決めてしまった。
これは暴力ではない、躾だ! そう自分に言い聞かせる。
「痛い……」
清水の泣き言を無視し、お手拭きで清水の手をしっかりと拭き終わると、清水はふるふると肩を震わせ目尻に涙が滲んでいた。
「小深、怒ってる……?」
「これは怒ってる。これも次はないからね。分かった?」
「ごめん、なさい……」
全く、清水は予想の斜め上を簡単に飛び越えていく。
流石に乙女としてあれは許されざる行為だ。恋人相手なら蛙化現象待ったなしレベルなので本当に辞めてほしい。
とは言えだ、遅刻した身である以上、ここで不機嫌になるのは違う。今日は清水へのお礼のお出掛けなのだからと、私は浅く息を吐く。
「ほら、清水」
意気消沈している清水に、私は先程提案したご褒美を贈呈する。
スプーンに救ったオムライスを清水へと向ける。
「はい、あーん」
清水は信じられない物を見たみたいに目を点にしてしまう。
やってる側としても、周囲の目があるからこれはかなり恥ずかしい。世のカップルは見せびらかす様にやってるけど、羞恥心をどこかに捨ててしまったのだろうか。
「ご褒美がいらないなら私が食べるけど」
「あっ、た、食べます……!」
私がスプーンを下げようとすると、清水は慌てて口を開けた。
そう、開けている。食べに来ないのである。
清水の看病をしている時の事を思い出し、少し笑ってしまう。
「はい、あーん」
雛に餌をやる親鳥の役を、またする事になるとは。
口に運んだオムライスをゆっくり咀嚼した清水は、ふにゃりと頬が緩み、はにかんで笑った。
「嬉しい……デート、みたい。幸せ……」
清水の体が左右にふらふらと揺れている。自覚有無は分からないけれど、喜んでいるようだ。安い幸せだなぁと思うが口にはしない。
「じゃ、じゃあ小深も、あーん」
今度は清水がオムライスをすくって、スプーンを口元に運んでくる。
私が違うオムライスを頼んだのは、味比べをしたかったという理由があるけれど、あーんをし合うのは流石にバカップル過ぎやしないだろうか。
隣の女子大生風の人なんかは、さっきからチラチラと私達の事を見ている気がする。目が何回か合っているけど、きっと私の自意識過剰だろう。うん……。
「小深、あーん! あーん!」
駄々をこねる子供のように、あーんを急かす清水に根負けし、私は差し出されたスプーンに口をつける。
バターライスとふんわりとした卵、そこにカレーソースが交わり、確かな美味しさがそこにはあった。
「うん、美味しいねこれ」
今まで食べてきたオムライスの中でもかなり上位に入る美味しさだった。
私が喜んだ事が嬉しかったのか、清水はまたスプーンを私へ運んでくる。
「小深、あーん」
「もう、あーんって言いたいだけじゃない?」
一度受け入れてしまえば、二度目はそこまで抵抗はない。
遠慮なくいただくと、「間接キスだ……」そんな声が聞こえてくる。勿論、隣の女子大生風のお姉さんではない。
私は聞かなかった事にして、自分のハヤシオムライスを一口食べる。
カレーとは違った甘めのハヤシソースが、バターライスとの相性が良い。
両隣の席からは、バカップルの汚名をいただいてる気がしたけれど、もう私は気にしない事に決め、もう一口オムライスに口に運び、舌鼓を打った。
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