魔法使いに平穏は訪れない~平穏を返して欲しい魔法使いと魔法使いを目指す少女の日常~『魔法使いのもとには面倒事が舞い込む』

三上堂司

プロローグ 魔法使いの継承、業を継ぐということ


 “魔法使いなんて御伽噺おとぎばなしの中だけの存在だと思っていた───”


 空のどこにも、一片の逃げ場すらないような満月の夜だった。

 まるで、世界そのものの真実を照らし出すかのような、そんな錯覚すら覚えるほどの月光が、未開の森を煌々と照らしている。

 神代かみしろ流哉りゅうやが世界に満ちる非日常、『神秘』と呼ばれるものに初めて触れた夜。

 忘れもしない、ある真夏の夜の出来事だ。


 彼の棲家は、都市の喧騒から隔絶された、山奥にあった。


 アスファルトの道は途切れ、未舗装の獣道を車で揺られること一時間。

 近代的な開発という言葉とはおよそ無縁の、深い緑の中に、そこだけ時が止まったかのように古めかしい西洋建築の洋館が佇んでいた。

 異物。まさしく、周囲の自然から浮き上がった異質な存在。


 近隣に人の気配はなく、最も近い民家ですら山のふもと、徒歩で二時間以上を要する距離にあり、それも数年前に住人が途絶えて久しい空き家だ。


 不便、という二文字では足りないほどの隔絶。

 それでも、彼にとって、その場所は何物にも代え難い───大切な場所であった。


 その日、唐突に祖母に呼び出された事は、今でも鮮明に覚えている。


流哉りゅうや。今夜、二時ちょうどに私の部屋に来るように。

 たりとも遅れてはいけないよ」


 いつもと変わらない静かな声。

 しかし、その響きには有無を言わせぬ圧があった。


 祖母の言葉に、訳も分からず彼はただ頷いた。

 背後で父が息を飲む気配。振り返って見上げたその顔面は、まるで死人のように蒼白だった。

 母は息子の未来を案じてか、瞳に涙を浮かべていた。


 両親が抱いたであろう不安や心配など、当時の彼にはまるで届いていなかった。


 ただ、祖母の揺るがぬ瞳を真っすぐに見つめ返し、肯定うなずく。


 心のどこかで、予感していたのかもしれない。

 この夜を境に、自分の世界が───否、世界のかたちそのものが、根底から変貌してしまうのだと。


 本当に理解していたのか、単なる子供じみた直感だったのか。

 それはもはや確かめようのないことだ。


 そして、何故あの時の祖母が、僅かに───本当に僅かに、悲しげな色を瞳に宿していたのかも、現在いまとなってはもう確かめようもないことだ。


 深夜二時。

 しんと静まり返った館の中、流哉は祖母の部屋の扉を開けた。

 季節外れの炬燵こたつに足を入れ、いつものように番茶を啜る祖母の姿。


 その横顔は、年の頃なら母親よりも若く見えるほど瑞々しい少女のようでありながら、纏う雰囲気は幾星霜いくせいそうもの時を経た古木───あるいは、老いた魔女そのものだった。

 その矛盾した在り様に、彼は眩暈(めまい)にも似た感覚を覚える。


「……先に中庭へ行ってなさい。私はこれを飲み終えてから行くよ」


 促されるまま、彼は重い扉を開けて外へ出た。

 真夏とはいえ、夜の空気はひんやりと肌を刺す。


 闇に目が慣れると、夜とは思えぬほどの明るさに気づいた。

 空を見上げると、煌々と輝く満月。

 そして、夜の天蓋ベルベットに無数の鑽石(ダイヤモンド)を撒き散らしたかのような、満天の星。


 夜の静寂を切り裂くように降り注ぐ、冷ややかな月の光。

 それはまるで、世界の秘密を暴き出すかのような、異質な輝きを放っていた。

 風はなく、木々は息を殺し、ただ遠くで微かな虫の声だけが、世界の深淵から響いてくるかのようだ。

 草や木の匂いが、濃密な空気と共に鼻腔をくすぐる。


 それは、彼がこれまで目にしてきたどんな景色よりも美しく、そして、触れれば壊れてしまいそうなほどに脆く、儚い光景だった。


 意識が、その夜天の美しさに囚われていた、その僅かばかりの時間。

 ふと気づいた時には、祖母が音もなく隣に立っていた。


「流哉、綺麗でしょう。私も、ここから見上げる星空は好きでね。

 昔は、こうして飽きずによく眺めたものよ」


 祖母の視線は、流哉の隣にありながら、遥か遠い過去を見つめているようだった。


 ───流哉くん。君のおばあさんは、“魔法使い”なんだ。


 いつだったか、珍しく父が酔いに任せて吐露こぼした言葉が、不意に脳裏を過る。


 御伽噺おとぎばなしでもあるまいし。『魔法』なんて、信じていたわけじゃない。


 ただ、自分の祖母は、そういう空想の産物としか言いようのない世界の住人であり、そういう生き方をしてきたのだということは、物心ついた頃から、半ば強制的に理解させられていた。


「今日、ここに貴方を呼んだのはね、貴方に神代家このいえごうを受け継いで貰うため。

 私の血筋に連なる宿命さだめ───“魔法”を受け継ぐ準備を告げるため」


 淡々と、決定事項だけが紡がれる。


「貴方に許された選択肢は、ただ一つしかないわ。

 けれど、貴方は私の言葉に否は唱えない。

 そうでしょう? そうなるように、これまで育ててきたのだからね」


 躊躇ちゅうちょも、迷いも、一片たりともない。

 有無を言わせぬ、というより、それ以外の答えは始めから存在していないと、想定すらしていない瞳。


 断る権利など、初めから与えられていない。

 それは、これまでの彼の人生を通して、疑う余地もなく刻み込まれていた。


 流哉は、祖母の双眸を正面から見据え返す。


「何を今更。……ボクが魔法を受け継ぐ事はとっくに決まっていたことでしょう?

 それが少しだけ、早くなっただけの話しでしょう?」


 僅かに、祖母の目が驚きに見開かれる。

 流哉は、そんな祖母の表情を一瞥いちべつすると、再び満天の星空へと視線を戻した。


 祖母は、あるいは悟っていたのかもしれない。

 目の前の孫が、これから何を学び、どのような道へ足を踏み入れるのか。

 そして、それが、これまでの平穏な日々との完全な決別を意味するのだということを。


 二人で見上げた夜空。

 その光景は、この夜、彼の魂に深く焼き付いた。


 この時の彼に、魔法を受け継ぐ事への怖れや迷いなど───まだ、なかった。



 星空を祖母と見上げた夜から二年。

 流哉は祖母からは多くを学んだ。


 世界のことわり、星の運行、力の扱い方。善きことも、悪しきことも、そして、世界のルールそのものに背く禁忌さえも。

 彼女が持つ全ての技術と知識の奔流を、彼は渇いた砂が水を吸うように吸収し、そして───魔法使い、と呼ばれるモノになった。


 そこにある、などと疑いもしなかった魔法が、現実に己の力として存在することを実感する。

 祖母の願いであった後継者としての資格は、確かに得た。


 世界の裏側へ、非常識の世界へと、完全に足を踏み入れてしまったのだという自覚も、おぼろげながらにあった。


 だが、皮肉なことに。

 魔法の師である祖母は、常識の世界の病にむしばまれていた。

 近代医学という枠組みの中で、余命いくばくもない、と。


 超常の存在たる魔法使いが、医学という人の定めたルールによって生の期限を宣告される。

 それは、あまりにも歪で、滑稽な喜劇コメディーのようだった。


 灰色のコンクリート。

 無機質な箱物の内部。

 嘘くさいまでに白一色で染められた部屋。

 清潔ではあるが、どこか生命の温もりを拒絶するような空間。


 その一室に、祖母はいた。


 病室の扉をそっと開けると、ベッドに横たわる、小さな老婆の姿があった。

 数年前まで時折見せていた、あの少女のような瑞々しさは欠片もなく、そこには、たまに見せる外出時の老婆としてのかおだけがあった。


 開け放たれた窓から吹き込む風が、白いカーテンを静かに揺らしている。


「……ばあさん。後は、全部オレが引き受けるから。

 だから、もう、いいんだ。もう、休んでいいんだ」


 ベッドの傍らに立ち、努めて穏やかな声で語りかける。

 表面上は、彼女を安心させるための言葉。


 だが、その裏側───胸の奥底では、まだ聞きたいことが山ほどあった。

 まだ、共に成し遂げたいことがあった。


 しかし、残された時間は、あまりにも、ない。

 それら全てを実現させるには、あまりにも、時間がない。


「流哉、こっちに来なさい」


 祖母は、ゆっくりと身を起こし、力なく手招きをする。

 招かれるまま、流哉はベッドへと歩み寄る。


 その仕草は、かつて最強と謳われた魔法使いの威厳など微塵も感じさせない、ただの弱々しい老婆のものだった。


 悔しさを感じる権利も、情けなさを覚えることも、許されない。

 それは、己が為に、残された時間の全てを使ってくれた彼女への侮辱ぶじょくであり、その意思を踏みにじる行為に他ならないからだ。


 刻一刻と終わりへ向かう時間の中で、彼女の意思を、その魂の欠片かけらを、少しでも多く引き継ぎ、次代へと繋げること。


 それが、神代流哉にとっての、使だった。


「流哉。……今日まで、よくがんばったね。

 ご褒美、と、お祝いを兼ねて、私の部屋を貴方へ贈るわ。

 閉ざすも、使い続けるも、貴方の好きなようにしなさい」


 小さな、皺の刻まれた手が、流哉の手を弱々しく握る。


「……その代わり、と言っては酷な話しだけど、私の───神代かみしろの《魔法№月マジックコード・ツキ》は、流哉が相応しいと思った人に継承させなさい。

 貴方の魔法は、既に連盟から《魔法№ムスビ》と名づけられたからね。

 二重の襲名は『連盟』が認めないし、許されないでしょうから。

 何より、月の運行と、その力そのものを操る私の魔法と、星の運行、世界のことわりそのものに干渉する貴方の魔法とでは、相性が良くないからね」


 祖母の言葉を、ただ黙って聞く。

 手渡された、月の光をそのまま固めたような銀の指輪。その冷たさが、やけに現実味を帯びていた。

 知らず、視界が滲む。彼は、二度、強く頷いた。


 そんな流哉の姿を、祖母は慈しむように見つめ、静かに微笑む。

 彼女は、歩み寄った孫の頬にそっと手を当て、その片方だけが深いあおに染まった瞳を、真正面から見つめた。


「……その瞳の色。

 背負う必要のないものまで背負おうとするから、そんなことになるのよ。

 私のことは、貴方が気にする必要はないと、あれほど言ったでしょうに」


「……後悔なんて、していないよ。

 ただ、やれるだけのことを、最後までやりたかった。それだけだから」


「その結果が“神殺しの烙印”だなんて……まったく救いのない話しじゃないか」


 祖母の声には、諦観と、そして深い悲しみが滲んでいた。

 己のために孫が払った代償。

 それが、彼女には耐え難いのだろう。


 残された時間の少ない自分のために心を砕いてくれる孫の想いは嬉しくとも、そのために一生消えることのない烙印を背負わせたことが、許せないのだ。


 片方だけ変質してしまった瞳。

 その身に宿した強大な力さえ、未だ上手く制御しきれていない未熟な後継者。

 後悔はしていない、と言い切った彼の未来に、救いはない。救われることは決してない。


 それでも、祖母は、再び微笑んだ。その笑みは、まるで聖母のようにも、あるいは───


「じゃあ、流哉。契約を結びましょう。

 私と貴方の、最初で、最後になる契約を」


 凛、とした声が、病室の空気を震わせる。


「契約の報酬は先払いで、私のすべてと、私の部屋を。

 ……求める対価は、ただ一つ。私の魔法を、次へと継承つなぐこと」


 祖母の提示する契約に、流哉は再び、深く頷いた。

 それを見届け、彼女は満足そうに目を細める。


「ありがとう、流哉。……最後に、貴方へおまじないをかけてあげる」


「“ただ、強く在りなさい。信念を貫くためにも強くなりなさい”」


「貴方のこと、貴方の魔法の一部として、これからも見守っているわ。

 挫けそうな時も、困難に立ち向かう時も、───今のように辛そうな時も。私は貴方のそばにいる」


 彼女は、一呼吸置いて続ける。


「それから、私のことは気にしなくていいの。

 ……こうなること、私のじかんがここで尽きることは、貴方が生まれてくるよりもずっと前───私が"魔法使い"になった、あの瞬間から既に決まっていたことだから。

 避けようと思えば、避けられた結末だった。

 変えようと思えば、変えられる未来だった。

 ……けれどね、私は、これでいいと。

 この結末こそが正しいのだと、契約した神の差し出した救いの手を、自らの意思で振り払ったの。

 私は、この運命を受け入れた上で、今日という日を迎えているのですから」


 祖母の言葉が、覚悟が、流哉の胸に深く突き刺さる。


 彼は、静かに瞳を閉じた。

 意識のスイッチを切り替える。

 日常から非日常へ。表層から深層へ。

 身体の奥底、魂の核に座す力へと接続アクセスする。


 体内に魔力と呼ばれる元素───生命の源泉たる純粋な力の奔流を起こし、それを循環させ、現実世界への干渉準備を整える。


 閉じていた瞼が、開かれる。

 その双眸には、先程までの翳りはなく、静かな光が灯っていた。

 そして、常とは異なる光を宿す、ヘテロクロミア。

 片方は夜空に浮かぶ月の如き金。

 もう片方は、呪いによって変質した、底なしの碧。


 室内の空気が、密度を増す。

 常人の瞳には見えざる光───"エーテル"と呼ばれる高密度の純粋な魔力が、燐光のように揺らめき満ちていく。


 魔法を行使するための舞台フィールドは整った。

 後は、世界へと干渉するための言葉を紡ぐだけ。


「───応えろ、星の意思よ───」


「───告げる。時の最果て、新たな世界を構築する───」


「───新たな世界の始まり、古き世界の理は滅びる───」


「───ここに古き理は崩壊した───」


 祖母の身体を中心に、幾重にも重なる光の円環───古き言葉と幾何学模様で構成された魔法陣が展開する。


「───契約執行ルールセット魂譲渡ロード・マテリアル───」


 淡い光が、老婆の身体からほとばしり、魔法陣へと吸い込まれていく。

 それは、彼女の魂そのもの。存在の証明。

 光は魔法陣の中で練り上げられ、濾過され、新たな形へと昇華していき───そして、流哉の身体へと奔流となって流れ込み、同化していく。


 彼女の魂に触れた瞬間、その奥底にあった想いの一端が、激流のように流れ込んできた。

 後悔、安堵、感謝、そして───深い、深い、愛情。


 超えることの出来ない師は、最後まで、超えることも、そのすべてを背負うことすらも、許してはくれなかった。


「……契約完了。

 お婆様。これからは、オレの魔法ちからの一部として、ずっと───」


 ───見守っていてください。

その言葉は、嗚咽に変わって、声にはならなかった。


 この日、彼の祖母は、この世からその姿を消した。

 ただ一人の、敬愛すべき師は、最期の瞬間まで、弟子の未来を案じていた。


 この日、彼は、初めて取り返しのつかない罪を犯した。

 己を導いてくれた始まりの存在を、自らの手で終わらせたのだから。


 この日、神代流哉は、神代の業を継ぐ、本当の意味での魔法使いとなった。


 病室に、無機質な警告音が鳴り響く。

 モニターが、生命活動の停止を示す平坦な線を描き出していた。

 その音は、遠い世界の出来事のように、彼の耳には届かない。


 窓から吹き込む風に揺れるカーテンが、静かに涙を流す彼の姿を隠していた。


 やがて、慌ただしい足音と共に、医師や看護師、そして家族が部屋へと駆け込んでくる。


 緊迫した声。指示を出す声。泣き叫ぶ声。

 それら全てが、まるで厚い硝子壁の向こう側で起こっていることのように、彼の心には何の波紋も描かなかった。


 ただ、胸に刻まれた祖母との最後の契約だけを、繰り返し反芻はんすうする。

 必ず、成し遂げると。


 ───そう、これは、忘れもしない記憶。

 今から十年も昔の、ある夏の日の物語。


 己の無力さと、魔法が決して万能ではないという事実を、骨身に刻み込まれた、始まりの一日。


 魔法という奇跡に至ってなお、超えられぬ壁が存在するのだということ。


 魔法使いは全知全能の神ではない。

 定められ決められた運命みらいは、時に、ただ甘んじて受け入れるしかないのだということ。


 受け継ぐべきものは、完全には受け継げず、ただ預かることしかできなかった。


 努力が、想いが、必ずしも望む結果を結ぶわけではないのだと、教えられた日。


 “神殺しの烙印”などという大仰な異名をされたところで、神の御業とやらは神にしか取り扱うことはできないらしい。


 結果を変えうる力とは、純粋な力の多寡たかだけでは決まらないのだということを


 神代かみしろ流哉りゅうやの、まだ幼かった心に、最初の影が落ちた───忘れもしない、夏の日の記憶。

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