おまけエピソード テラスのある家で

おまけ テラスのある家で

テラスのある家で


 車を裏の駐車場に停め、鍵を開けて離れに入って、タジャは嘆息した。

 いつものように静かな部屋なのだが、大きな作業台に沢山の書類を置いたまま、妻が突っ伏していていたからだ。

「……寝るならベッドで寝ろ」

「タジャさん?」

 言い方はきついが、優しい夫の声に、彼女が驚いたように、だが緩慢な動作で顔を上げた。

 長い睫をしばたたかせるが、その目の様子から彼女が眠っていたわけではないことに、タジャは気が付く。手元に置いてある書類は、仕事の書類だ。娘が生まれてからしばらくして復帰し、それをどうにか再開しようと躍起になっている。

 が、妊娠したことで、それも頓挫しているのだろう。

 自分の力で出来るだけの事をやりたい彼女が「病気じゃないから」と笑顔で無理しているのを、タジャは心を痛めながら見つめていた。


「……具合はどうだ?」

 そう言って、彼女の横の椅子に腰かける。

「……俺の臭いも、具合が悪くなるようならば距離をとる」

 言いながら、彼女の艶のある黒髪を撫でる。サラリとした感触は変わらないものの、黒髪の隙間から見える頬は少し痩せたように感じられた。

 アンジェラの時は、とにかく眠気にやられるつわりだったが、今は様々な臭いが駄目らしい。胃がむかついて、時たま吐き戻しているのも見てきた。

 代われるものなら代わってやりたい。

 そんな気持ちが伝わるからだろうか。

 嫌味ではなく、心配で訊いてくる夫の言葉の意味をちゃんと理解して彼女は目を閉じながら微笑む。


「……大丈夫。タジャさんの臭いは、落ち着くから」

 そう言って、その肩に頭を持たせかけてくる。久しぶりの妻の香りに、タジャも目を閉じた。

 アンジェラが生まれてから、二人だけの時間をとることが何かと難しくなった。

 眠る時も、今は間にアンジェラがいる。

 それを煩わしく感じることは無論ないし、小さな娘の存在と寝顔は、タジャに言いようのない幸福感を与えてくれている。ただ同時に、腕を伸ばせばすぐ抱きしめることのできる距離に妻がいないことを、やはり少しばかり寂しく感じる日もあった。



「……アンジェラは?」

 そう聞いてくる妻に、目を閉じたまま「コダマさんの店だ。ステラが見てくれている」と伝えると、彼女は申し訳なさそうに震える息を吐き出した。

「……ふがいない母親で、ごめんなさい……」

「誰がだ」

 すぐさまそう答えて、タジャは彼女の体を抱きしめる。

「子育てして、家事もして、仕事もして。そんな人間、他にはいない」

 そう言って背中を撫でてやるが、彼女はすぐさま首を横に振る。

「……結構いると思う」

「いや、いない」


 こちらもすぐさま否定して、タジャは優しく彼女を抱きしめた。

 腕の中にすっぽりと納まる体が心地よい。出産経験があるとは思えないほど、その体は今も変わりなく、以前のように細くて張りがあって、なのに柔らかだ。

 その黒髪に唇を付けて囁く。

「少なくとも、アンジェラが一番愛する母親だし、俺の最高の妻だ」

「……嘘ばっか」

 そう言いながらも、彼女は少し嬉し気な声を出した。

 彼の広い胸に身をゆだねたまま、彼女はもう一度息を吐く。


「いったいいつになったら、つわり……おさまるのかな」

 その細い腕をタジャの腰に回しつつ、彼女は深呼吸する。

「……タジャさんの香りは、好き」

 そう言って、思い出したように微笑んだ。

「アンジェラのも、好き」

「俺もだ。アンジェラのも、お前のも好きだ」

 呟くと、腰に回っていた手がほどかれた。それに気が付いて目を開けると、彼女が腕の中からジッとタジャの事を見上げてくる。

 その細い指が、眼鏡にそっと触れた。


「……小さな手のあと……またアンジェラが、眼鏡を取ろうとしたの?」

「そうだ。あとピアスもとろうとした」

 耳についた小さな玉に触れて見せると、彼女はフフフと声を上げて笑った。

「私のも、とろうとする、あの子」

「……問題だな。何か代わりのものを持たせよう」

 真顔でそう言うと、今度こそ彼女は笑顔になる。花が咲いたような笑顔というのは、こんなのを言うのだろうなと、タジャは思う。


「リロイ君とクルーガー君は、元気だった?」

 少し調子が良いのか、二人の神父のことを聞いてくるので、タジャは思わず渋面になった。

「元気だ。今頃蟹を食べているだろうな。それから、制御装置のことを心底感謝していた」

「そう? よかった」

 赤い腕輪を思い出して微笑む妻に

「つわりが早く治まるよう、ずっと祈ると言っていたぞ」

と教えると、彼女は「あんまり効果なさそう」と、自分と同じことを呟いた。


 制御装置はまだあるものの、量産は出来ない。ただそれだけ効果のある優良品なので、一つ作れば十分に生涯使えるような代物だ。それを難なくあげてしまった妻に、ふと疑問に思ったことを口にした。


「あの制御装置は、どうしたんだ? 倉庫の分を渡したのか?」

 会社の法務関係をこなす妻は、社屋の管理もしている。制御装置の一つを渡したところで、彼女以上に商品の在庫を分かっているものはいない。その為、中から一つ彼女が取り出したところで、誰も気にすることは無いだろう。

 だが、こちらの答えに妻は少し膨れて見せる。


「そんなことしません。ちゃんとお代金を支払って買いました」

「……高かっただろう?」

 その金額を思い出し、初めて制御装置を購入した時の金髪の神父の様子を思い出す。まだ少年だった彼が、数字の多さに顔を青ざめさせていたのを、妻と二人で見て、失礼ながら思わず笑ってしまったものだ。


 妻はコクンと頷いた。

「高かった……けど、昨日ものすごく頑張ってくれたし……」

 そう言って、彼女の指はゆっくりとタジャの眼鏡の蔓に触れた。灰青色の目が見えやすいように眼鏡をはずして見上げてくる様子は、昔からと変わりない。

「それに……タジャさんを無事に返してくれたから、そのお礼だと思えば高くない」

「……心配かけてすまない」

 昨夜の事件のことを思い出し、タジャは眉を寄せる。

 非常事態だったので、詳しい説明もせずにそのまま現場へ向かい、帰宅は午前様になっていた。今朝も早くから各所に奔走していたので、彼女に直接話せないままだったが、秘書であるステラの話や、新聞を読んで、大まかなことは理解していたのだろう。

 それでも責めずに、ずっと待ってくれていた。

 彼が無事であるよう願いながら。


「……無事でよかった」

 そう呟いて、彼女は改めてタジャの背に腕を回してくる。

「一緒に行きたかったけど……アンも、お腹のこの子もいるから……」

「いなくても連れていかない。危ないからな」

 改めて抱きしめ返して言うと、胸に顔を埋めたまま彼女は怒った声を出す。

「……危ない事はしない約束だったのに」

 その声の調子に、いつもタジャはヒヤリとさせられる。

 怒った彼女は、誰よりも怖いから。


 だが、妻はすぐに優しい声音で、囁いた。

「……絶対。絶対、私より長生きしてね」

「……ああ。分かってる」

 それを言われると、いつもタジャは少し悲しくなる。約束だから仕方ないが、彼女がこの世を去る姿なんて考えたくもなかった。

 その気持ちにすぐ気が付いたのか、妻はふと顔をあげると、タジャの唇に自らの唇を重ねる。

「大丈夫。一人になんかさせないから」

「……先に死ぬのにか?」

 言葉の矛盾に対して、ついそんなことを言ってしまうのは、学者としての生真面目な性格からだろう。夫の変わらない頑固さに笑いながら、妻は頷いた。

「一人にさせない。約束する」

「……信じる」

 そう返して、タジャもまた自ら唇を彼女の唇に重ねた。

 初めて口づけした時と変わらない感触に、胸が熱くなる。


 思い立って、タジャは妻をひょいっと抱き上げた。

 突然のバランスの変化に「ひゃっ」と悲鳴を上げた妻だったが、すぐさま彼の首に腕を回してしがみつく。ジッとこちらを見る妻に、タジャは淡々と呟いた。

「少し休め。ベッドまで運んでやる」

「……眠れないと思う」

 頬を赤らめて上目遣いにそう呟く彼女の頬にキスしてから、タジャは笑った。

「寝るまで、隣にいる」

「……余計、眠れないと思う」

 まるで重さを感じないような足取りで、二階への階段を昇る夫に、やや抗議の色を残して言いはしたものの、彼女はされるままに、タジャの腕の中で落ち着いていた。

 ベッドに横たえられて、上から布団をかけられる。

 その横に自らも上着を脱いで寝転んだタジャを見て、彼女は困ったように微笑んでから囁いた。


「タジャさん?」

「なんだ?」

 髪を優しく撫でながら聞き返すと、妻は変わらない最高の笑顔を見せた。

「大好き」

「俺もだ」


 こんなの、あの二人の神父が聞いたらどう思うだろうな。

 

 そんな事を考えながら、タジャは愛する妻の香りに埋もれていった。

  

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