バケモノ? いえ、ただの規格外です! ~魔法が苦手な少女、無自覚に魔法士の頂点へ~

松虫 大

ボンノ村の少女

プロローグ

この日、王国の片隅にある小さな村は、まばゆいばかりの晴天に恵まれていた。

ちょうど農繁期の忙しい最中で、村全体が活気にあふれていた。

広がる畑には黄金色に輝く麦の穂が風に揺れ、村のあちこちから幼い子供達が元気いっぱいに走り回る声が聞こえていた。

大人達はもちろん、年老いた者や、ある程度の年頃になった子供達でさえ、親の仕事を手伝って額に汗して忙しそうに働いていた。

そんな村の賑やかな流れから取り残されたかのように、ひっそりと佇む小さな一軒家があった。その家はしっかりと戸締まりされていて、中からは何の音も聞こえない。しかし、その静寂の奥では、今まさに新しい命が誕生しようとしていた。


――ん゛ん゛ん゛ん゛……


家の中では、汗びっしょりになった女性が、陣痛の激しい痛みに顔をゆがめ、ベッドの上でうねっていた。

部屋にはハーブと花の香りがかすかに漂い、古い木造の床板が彼女の荒い息遣いに合わせてギシギシと音を立てる。その音は、新たな生命の誕生を告げる鼓動のようでもあった。


「頭が出てきてるんだ。もうちょっとだから頑張りな!」


産婆の叱責のような励ましの声が、部屋に響き渡る。

女の手をしっかりと握りしめた夫もまた、その顔を蒼白にしながら必死で妻を励まし続けていた。


「ヘイディ頑張れ!」


すでにヘトヘトに疲れ果てていた女は、それでも最後の力を振り絞って息む。

彼女の呻き声は、次第に力強さを増していった。

一呼吸、また一呼吸と、時間が永遠のように感じられる中、ついにその瞬間が訪れた。


――ほぎゃあ、ほぎゃあ、ほぎゃぁ……


か細くも力強い赤ちゃんの泣き声が、部屋中に響き渡った。

後に魔法士の天辺てっぺんに立つと称えられることになる、一人の女の子が確かにこの世界に生まれた証だった。






「よく頑張ったなヘイディ」


産後の処置の間、部屋から追い出されていた夫のアランが、ようやく部屋への入室を許され、心底ホッとした様子で、ベッドに横たわる妻に優しく声をかけ、安堵の微笑みを浮かべた。


「アラン……」


精魂尽き果てかのような表情を浮かべながらも、ヘイディは生まれたばかりの赤子を大事そうに抱き、初乳を与えていた。夫が近付いてくると、彼女は顔を上げて、かすかながらも満ち足りた笑顔を見せた。その目には、出産という大仕事を成し遂げた達成感と、新しい命への慈しみが宿っている。

アランはゆっくりとベッドに近付いた。しかし、彼の視線はまず妻に向けられていた。

生まれたばかりの赤子の顔を見るよりも早く、ヘイディの頬をそっと撫で、出産の無事を心から喜び、涙を浮かべながら優しく口づけをした。

アランが我が子の誕生よりも、妻の無事を喜んでいたのには訳があった。

彼ら夫婦にとっては、これが初めての子供だった。そして初産とはいえ、まれにみる難産だったのだ。

ヘイディは陣痛が始まってから、出産を終えるまで三日もかかっていた。二日目の夜には、彼女は意識を失い、一時は母子共に危険な状態となっていたほどだった。

その絶望的な状況を、アランはただ祈ることしかできなかった。

だからこそ、今、目の前で微笑む妻と、その腕に抱かれた無垢な命を見ていると、彼の胸は感謝と安堵でいっぱいになったのだ。


「アラン、何時までも乳繰り合ってないで、自分の子を抱いてやりなよ。まったく仲がいいにこした事はないけどね、儂がいる事を忘れるのだけは勘弁しておくれよ!」


部屋の隅で後片付けをおこなっていたマルタが、目の前で繰り広げられていた夫婦の愛撫に、呆れたように悪態あくたいいた。

彼女は五十年以上もこの村で産婆を務めてきた大ベテランだ。その彼女でさえ経験したことのない難産に、一時はどちらかの命を諦めなければならないと覚悟を決めたほどだった。

マルタは、よわいはとっくに七十歳を超えているが、村一番の産婆として絶大な信頼を得ていた。そのため、今の村長を始め、村の大半の人間は彼女に取り上げて貰ったと言っても過言ではないだろう。先ほど出産を終えたばかりのヘイディも、かつてはマルタに取り上げられた一人だった。

口うるさいため、マルタを煙たく思っている者も多かったが、今回の出産でも老骨に鞭打って、三日間休むことなくヘイディに付きっきりで出産の手助けをするなど、その心根は誰よりも優しかった。

そのため村の皆は、親しみを込めてマルタのことを『ばばさま』と呼んでいた。


「そ、そうだな。ヘイディ、子供の顔を見せてくれ」


「そ、そうね。見てあげてアラン、わたしたちの子よ」


真っ赤になりながら慌てて離れた二人は、取り繕うように咳払いをすると、ヘイディの胸元でいつの間にか寝息を立てる赤子を覗き込んだ。

小さな命は、二人の間に確かな絆を、そして新たな幸せをもたらした。


「まったく……。ヘイディ、あんたはしばらく安静にしてるんだよ!

儂は一旦帰るからね。一応しばらくは様子を見に来るけど、アランはちゃんとヘイディの面倒をみてやるんだよ!」


マルタは腰をさすりつつ、最後までぶつくさ言いながら帰っていった。

二人は揃ってマルタの背に頭を下げながら、その小さな丸まった背中を見送るのだった。マルタの姿が完全に視界から消えると、アランは緊張の糸が切れたように深く息を吐いた。


「それで、どっちだったんだ?」


ヘイディの胸元で眠る赤子を覗き込みながら、アランが問いかけた。


「女の子よ」


ヘイディは優しく微笑みながら答えた。

その声には、母親になったばかりの深い愛情が込められていた。


「何てちっちゃくて可愛いんだ! この子はきっと将来ヘイディに似て美人さんになるよ」


アランは赤子を一目見た瞬間から、すでに娘にメロメロになったようで、目尻は下がりっぱなし、口元は緩みっぱなしとなっていた。その表情は、親馬鹿そのものだった。


「抱っこしてみる?」


ヘイディが尋ねると、アランは驚いたように目を見開いた。


「えっ、で、できるかな?」


「大丈夫よ。ほら抱いてあげて」


ヘイディは赤子をそっとアランの腕に委ねた。

おっかなびっくりという形容がピッタリなほど、アランは恐る恐る赤子を胸に抱いた。

そのぎこちない手つきは、まるで壊れ物を扱うかのようだった。静かに眠る子供の顔を覗き込むアランの瞳には、初めて抱く命への畏敬の念が宿っていた。


「小さいけれど意外と重い、それにとても熱いな。手もこんなにちっちゃいのにちゃんと俺の指を掴んでるぞ」


アランは人差し指を赤子の小さな手に握らせた。

生まれたばかりの赤子は、信じられないくらい小さいのにずっしりと重く、そして命の温もりを感じさせるほど熱かった。


「生きてるもの。重くて熱いのはこの子の命の重さよ」


ヘイディは優しく語りかけた。その言葉は、アランの心に深く響いた。


「大事に育てないとな」


「ええ、期待してるわよ、お父さん」


「お、お母さんもな」


ヘイディの急なお父さん呼びに、アランは若干照れながらも、慈愛に満ちた笑顔を浮かべ、眠っている赤子の顔を見つめ頭を撫でる。


「そうだ、この子の名前はどうする? 前村長おとうさんに考えて貰おうか?」


「うーん、そうねぇ。アランさえよければわたしが付けていいかしら?」


ヘイディは少し考える仕草を見せると、アランの顔を見上げた。


「それはもちろん構わないけど、何か考えがあるのか?」


「ええ、女の子ならずっと考えていた名前があるの」


アランから赤子を受け取ったヘイディは、そう言って我が子を覗き込む。

まだ生え揃ってないが藍色の髪はアランに、小さいながらも少し尖がった耳は自分にそっくりだと思った。

大げさではなく天使と形容できるのではないかと思えるほど、赤子はすやすやと気持ちよさそうに眠っている。その寝顔を見ているだけで、二人の心は満たされていく。飽きることなく、いつまでも眺めていられる二人の宝物だ。

ヘイディは赤子の小さな手を優しく包み込んだ。その手のひらから伝わる温かさは、確かに新しい命の息吹だった。


「……ディアナ。この子の名前はディアナよ」


ヘイディは、生まれたばかりの赤子を抱きしめながら、迷いのない眼差しでアランに告げた。その声には、深い愛情と確固たる決意が込められているようだった。


「ディアナか。いい名前だ。理由を聞いてもいいかい?」


アランは、新しい家族の誕生に喜びを感じながらも、その名前に込められた意味に興味を抱いた。

ヘイディは穏やかに微笑み、語り始めた。


「何代も昔のわたしの家系に、エルフの血が入っているのは知ってるでしょ?」


「ああ、もちろん」


アランは、ヘイディの家族に伝わる遠い昔の血筋の話を思い出す。

亜人であるエルフは、別名「森の人」と呼ばれ、原生林が生い茂るような深い森の奥でひっそりと暮らすと言われていた。彼らは精霊の声を聞き、人よりもはるかに高い魔法への適性を持つとされる神秘的な存在だった。今では滅多に姿を見ることもなくなったエルフだが、かつてはこの村の近くにもエルフが住んでいたという言い伝えがある。

ヘイディの何世代も前の先祖が、そのエルフの一人と恋に落ちた。

それは、今も昔も、人とエルフや小人族など、亜人との間で結ばれることが極めて珍しいことだった。種族ごとに思想、風習、価値観が大きく違うことが、その大きな理由である。

特に、人とエルフではその寿命の差が決定的な障壁となる。

人の平均寿命が五、六十年であるのに対し、エルフは数百年。長い者では千年もの時を生きると言われるほどの長寿を誇る。そのため、確実に後に残されることになるエルフの新婦を哀れんで、二人の関係に猛反対した。しかし、二人は周囲の反対を押し切るようにして結ばれたのだという。

そうして生まれたのがヘイディの先祖であった。

当時の先祖はエルフの血が濃く現れ、寿命も数百年を数えたといわれているが、その血が薄まってしまった現在では、人とそれほど変わらない寿命となってしまった。

しかし、その名残は今も、僅かながら尖った彼女の耳に残っていた。


「何代も前のわたしのご先祖様の名前なの」


ヘイディはそう言って、赤子の小さく僅かに尖った耳に優しく触れた。

それは赤子にもまた、その神秘的な血が流れていることを示しているようだった。


「わたしが小さいころ、おばあちゃんがよく言ってたわ。ディアナおばあちゃんは、それはそれは美しいと評判だったって。本当か嘘か分からないんだけど、当時の領主や国王から求婚されたっていう話もあるんだって」


「きゅ、求婚!?」


アランは、ヘイディと赤子を交互に見比べながら、困惑したような声を上げた。

どこかの王侯貴族ではあるまいし、生まれたばかりの子に求婚の話を持ち出したヘイディの真意が掴めず、彼はただ呆然とするしかなかった。


「ふふふ、今となっては眉唾な話だけどね。それでもおばあちゃんの話だと、数多あまたの求婚を断ってまでディアナおばあちゃんはわたしのご先祖様と添い遂げたんだって」


ヘイディはくすくすと笑いながら、あくまでも伝承としてその話を語った。

アランは、偉大なご先祖様の名前を使用することには納得できたものの、ディアナという名前に決めた理由が、今の求婚の話とどう結びつくのか分からずに、微妙な表情を浮かべた。


「くすくす、もちろんそれだけじゃないのよ」


ヘイディは、アランの困惑した表情を見て、再び笑みをこぼした。


「エルフだけあって、ディアナおばあちゃんは優れた魔法士だったの。結婚したおじいちゃんが亡くなった後も、おばあちゃんは長い間この村を守っていたんだって。

わたしはこの子にはかつてのおばあちゃんみたいに、ささやかでも皆を守れるような魔法士になって欲しいの」


ヘイディの瞳には、愛娘への深い願いと、遠い祖先への敬意が宿っていた。


「なれるかな?」


アランは、生まれたばかりの赤子の未来に思いを馳せながら、問いかけた。


「きっとなれるわ。だって、わたし達の子だもの」


ヘイディは、柔らかい笑顔を浮かべ、アランに語りかけた。その言葉には、親としての確固たる信頼と、未来への希望が満ち溢れていた。

ご先祖様の名前を付けた本当の意味に、ようやく納得できたアランにも、安堵と喜びの色が浮かんだ。


「そうだな。じゃあこの子が大きくなるまでは俺が二人を守るよ」


アランは、力強く宣言した。その言葉は、彼がこれから父親として、夫として、家族を守り抜くという決意の表れだった。


「よろしくね、お父さん」


ヘイディは、赤子を抱いたまま、アランに頭を下げる仕草をした。

その姿は、小さな家族の温かい絆を象徴しているかのようだった。


「ああ、任せろ」


アランはそう言って照れくさそうに窓の外に目を向けた。

窓の外には、収穫を終えたばかりの広大な畑が広がり、夕焼け空が赤く染まっていた。穏やかな風が吹き、どこからか聞こえてくる鳥のさえずりが、新しい家族の門出を祝福しているようだった。

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