今日の絵を描き終えたあとで

 ある日の昼下がり、つまさきを床にこすりつけて、椅子をぎこぎこと揺らしていると、廊下に足音がした。

 扉を開けたのは、案の定、見知った顔だったから、私は目端で捉えてすぐ、さきほどと同じように窓の外を見た。

 窓の外では、青緑に潤った木の葉が、しとしとと降る雨を受けて、空の曇りを映している。ちょうどそれは薄く白い。暗いということは、黒いということではないらしい。

 そうしていたら、窓ガラスの半ば透けている反射越しに、後輩が寄ってきているのがみえた。

 彼女が私の席、というよりカンバスに向かっているから、私も一声「どうかしましたか」などと言おうと思った。

 思っただけだ。むっといわんばかりに不機嫌そうに口を噤んでいるから、そうしたいという気は失せた。


 後輩はなにやら、言いたいことがあるらしい顔つきだが、しかし黙って、それでただこちらの絵を見ている。

 それで私は困った。

 どうしたものだろうか。


 

 私のカンバスには水彩画が描かれている。

 趣味というよりも遊び、といった絵だ。

 真面目ではない水彩画というものはつまり、描こうという気がない像の塊である。

 主題がないということではなく、いうなれば、美しいものを美しく描こうとはしない、ということだ。


 私は後輩をちらりとみて、足の指の腹で床を掴んだ。

 靴底がきゅっと床材を噛んで、椅子が止まる。

 後輩は、視線を感じたのか、なにやら言葉を練っているらしい。

 私は先んじていった。


「なにか、話しますか?」


 彼女は、私の言葉に困惑したような、あるいはアテが外れたような、そんなまごまごした顔をしてから、「はい」といった。

 それから数拍して。


「賞をとりたいので、コツを教えてほしくて」

 視線を私のカンバスに向けた。

「ちょうどこんな、絵を描きたいんです」


 私は困惑した。「これを?」と、つい声が漏れる。

 少なくとも私は、この絵がそういうものとは、思わなかった。


 後輩は続けて言う。

「雰囲気が伝わってくる絵が描きたいんです。でも先生は、それは結果であって、主目的にはならないって」

 私は、「それは、まあ、そうだね」と返した。

 すると彼女は「なんでですか?」という。

 びっくりして、私は「なんで」と生返事した。

 よくわからない。

 ただ、どうやら真剣に聞いているらしい、と感じたから、それでひとまず、口に出した。


「まず、賞をとるために、雰囲気が伝わってくる絵を描く、という目的があるとして。

 すごい雰囲気があるから賞をとれる、ということはないから、かな」


 彼女の表情が疑問をたたえた。

 それをみて、私は勢いでいくことにした。

 たぶん、長々やっても納得いかないだろうと感じたのだ。


「美しい風景を描くというのは、美しい川や木でカンバスを埋めるってことじゃない。

 例えば美しい花をみせるためには、それ以外がないといけない。ええと……

 きれいな花をみたとき、同じものが壁一面にあったら、その中の一輪に目を惹かれることはない。

 これは絵を描くうえでも、絵をみてもらううえでもいえることだよね」


 なにやらむっとした表情が強まったから、私は急いで話すことにした。


「花が目を惹くのは、そこから常にはないことを感じとれるからだと考えれば、どうだろう。

 そういう理屈でいくと、何を伝えようとするかとか、それがどのように伝わるか、というのが大事……

 だと、思う」


 そこまで聞いて、後輩はむずかしげな顔になった。

 しばらくして。


「じゃあ、先輩はどういう考えで描いてますか」


 彼女はやはりむずかしげな顔をしている。

 それで私は、ここで気分、などと答えるわけにもいかないから、ひとまず口をもごもごして。


「今の自分の感性で、描きたいものがどんな要素でできているか、分割する……

 みたいな」


 と、いって。

 それはつまり自分の感じたまま書いているということでは、などと自分で思った。


 けれど後輩はなにやらうなずいて「ありがとうございます」といって、自分の定位置へ去った。

 私はほっとして、さきほどの自分の絵をみた。


 花とは咲いて散るから花なのであり、ほかにないから華となるし、また季節を醸し出すから趣となる。

 そういうわけで、そう描かない花の水彩画とはつまり。

 葉の落ちていない、花の咲いていない、ただ生きている枝と、摘まれた花弁であると思う。

 そういう絵を描いた。

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