第11話:成長、あるいは進化
歩き慣れた道を三人で進んでいき十分ほど経つと、小さい頃から何度も見てきた瑚登子の実家が見えてきた。
『鰻のぼり』と書かれた大きな看板は少し変色しており、自分達が生まれてくるよりもずっと前からこの色だったと両親が聞いたことがある。それだけ歴史のある飲食店だ。
店前には志伊良部長が立っており、こちらに気がつくと小さく手を振ってくれた。
「おはようございます、部長」
「ん、おはよー。話は聞いとるよ。波梛ちゃんじゃね?」
「は、はい。いつもお姉ちゃんがお世話になってます」
「アッハハ。言うてまだ数日じゃけどね」
部長曰く、
部長はスマホをチラと見ると、こちらに再び顔を上げた。
「ほいで、どうする? お昼先にする? 部室先にする?」
「波梛、どっちがいい?」
「今は、まだお腹空いてないかな……」
「ちゅうことは部室じゃね。よっしゃ、ほいじゃお姉さんに付いて来んさい」
部長はここまで年が離れた人と接することが少ないのか、妙に張り切った様子で案内を始めた。
波梛にとっては久しぶりの外ということもあり、あまりずっと歩かせるわけにもいかないため、何度か木陰に入ったりベンチで休憩させたりしながら部室へと向かった。
そうして部長を先頭に歩き続け、ついに波梛は海洋研究会の部室へと辿り着いた。自分の住んでいる町の海小屋すら初めて見る波梛は、キラキラと目を輝かせ目の前の海小屋を見上げた。
「わぁ……!」
「ふふ、どうじゃ波梛ちゃん。これがウチらん自慢の部室じゃ」
「ここで、お勉強してるの?」
「そうだよ。まだまだ覚えないといけない事ばっかりだけどね」
「此岸ちゃんは
部長のその評価が果たして本心からのものなのか、それとも妹の前ということもあって甘く言ってくれているのかは分からない。しかし、表立ってここまで言われたからには、自分もその期待に応えられるようにするべきだろう。
外観を見せるだけでは面白くないだろうとの計らいで、波梛も連れて部室の中へと入ることになった。波梛はまたしても初めて見る景色ということで目を輝かせている。
「お姉ちゃん、すごいね……!」
「お姉ちゃんも初めて見た時驚いたよ」
「ことちゃんは、来たことあるの?」
「瑚登子、聞いてるよ?」
「んっ!? ん、んん……ま、そだね。入部はしてないけどもね、うん」
瑚登子は波梛の前ではお姉さんぶりたいらしく、珍しく部長の居る前でも普通を装っている。瑚登子の外での様子を知らない波梛からすれば、実は極度の人見知りだとは考えたことも無いかもしれない。
「波梛ちゃん、どうね? なんかしてみたい事ある? あるんじゃったらお姉さんがやらせたるで?」
「い、いえ。見るだけにしておきます」
波梛は純粋に体が弱い。何にアレルギーを起こしたりするかも分からないため、今は見るだけにさせた方がいい。波梛本人もそれは分かっているため断ったのだろう。
「あ、ほいじゃったら、座学でもしてく?」
「ざがく?」
「座ってやるお勉強のこと。普通にお勉強って聞いてするイメージが座学って言うの」
「ざがく……! なんだか、オシャレな言い方……!」
「お、さっすが此岸ちゃんの妹ちゃんじゃねぇ。こうに興味示してくれたらお姉さんも嬉しいわ」
部長は波梛が興味を持ってくれたことが嬉しかったようで、すぐにホワイトボードを出して講義を始めた。
講義はまさについこの間教えてもらった内容で、クジラとイルカの違いについてだった。この内容は既に帰宅後に話していたのだが、波梛はまるで初めて聞いたかのように楽しそうに話を聞いていた。
「——っちゅうわけで、クジラとイルカのお話でした」
「すごい……! お姉ちゃんが言ってた通りのだ……!」
「ありゃ、もう此岸ちゃん話しとったんじゃ?」
「すみません。聞かせてあげたくて」
「謝らんでええよ。復習も大事じゃけぇね」
講義が終わるのを待っていたのか、話が終わったところで隣に座っていた瑚登子が 袖を引っ張って耳打ちしてきた。
「陸ちゃん、そろそろお昼近いんだけど……」
「あ、そっか」
いくら波梛の調子がいいとは言っても、さすがに何時間も外に居させるわけにはいかない。もし途中で体調が悪くなりでもすれば、家よりも対応するために時間がかかってしまう。
そろそろお昼時が近いため帰ろうと波梛へと伝える。
「お母さんも心配するかもしれないし、そろそろ帰ろう?」
「う、うん。でも……もうちょっと……」
「なんね波梛ちゃん。まだ知りたい事でもあるん?」
「そ、そうじゃなくて……」
波梛は申し訳なさそうに瑚登子へと視線を向けた。それを見て、彼女がまだ帰りたがらない理由に気がついた。そもそも自分達はまだ約束を全て果たせていなかったのだ。
瑚登子は波梛の意思を同じく理解したらしく頷いた。
「ご飯っしょ?」
「う、うん……!」
「ごめんね波梛。約束してたもんね、瑚登子のとこでご飯食べてくって」
「いいの?」
「うん。お姉ちゃんが約束破ったことなんてあった?」
「ううん」
「でしょ? お母さんにはお昼は外で食べるって電話しとくから、久しぶりに行こう」
波梛は嬉しそうに瑚登子へと視線を向け、瑚登子もまたそんな波梛に優しく笑顔を見せた。
部長はこの後の予定は特に無いようで、本来であればこのまま家に帰るつもりだったらしい。しかし、三人で食事をするという話を聞き、せっかくなので自分も同行したいと話した。
「家帰っても暇なんよね。波梛ちゃんとももっと仲良ぅなりたいし、ウチも行ってええ?」
「もちろんあたしはいいですよ。瑚登子は?」
「あ、ウス。だ、だいじょぶです、へへへ……」
「ことちゃん、具合悪いの?」
「いやいやいやそーんなわけないじゃんかさぁ波ちゃん! 瑚登子姉ちゃんはいつだって、元気元気!」
波梛は気がついていないが、自分には瑚登子が無理矢理取り繕っているのが目に見えて分かる。一見するといつもの彼女のようだが、波梛の前で人見知りを発動している時は微妙に声のトーンが違うのだ。
部長を加えて瑚登子の実家で昼食を摂ることになった自分達は、お母さんへの連絡を終えてから来た道を戻って『鰻のぼり』へと足を運んだ。
もう既に開店しているらしく、瑚登子のお母さんがあたし達を出迎えてくれた。
「瑚登子おかえり」
「んー」
「いらっしゃい陸梛ちゃん、波梛ちゃん」
「お久しぶりです、おばさん」
「こ、こんにちは」
「あら、志伊良ちゃんも一緒なのねぇ」
「うん。さっきから一緒におったんよ」
席に案内されてから聞いた話だが、志伊良部長は小さい頃からここを利用している常連らしい。店に行ったことがあるとは聞いていたが、実際は思っていた以上に通い詰めていたようだ。
水を運んできてくれたおばさん曰く、瑚登子も小さい頃に部長に会ったことがあるらしい。しかし双方とも学校で会ったのが初めてのように感じていたことから、お互いにあまり記憶に残っていないのかもしれない。
「いやぁ、言うて分からんて。ウチが
「瑚登子は……まあ、あれか」
「な、何が言いたいのさ」
「なんでも」
瑚登子の事だから、どうせ人見知りを発動してまともに顔を見ていなかったのだろう。昔からそうだった瑚登子が顔を記憶できるレベルで目を合わせられたとは思えない。
波梛に人見知りなのがバレてしまうことを恐れてか、瑚登子は料理を作ってくると告げ、席を立って厨房へと入っていった。
「部長さん、昔から住んでるんですか?」
「ウチは何歳じゃったか忘れたけど、小さい時に引っ越してきたんよ」
「え、そうだったんですか?」
「ほうよ。あ、方言地元のじゃけぇ、ここ出身じゃ思うとった?」
自分の周りではあまり方言を使う人はあまり居ないが、部長の使っている方言はこの地元で普通に使われているものだ。それもあってここ出身だと思っていたが、部長によると彼女は同じ県内の別の地域から引っ越してきたのだそうだ。
「あ、ちなみにマリちゃんはここ出身らしいで。あん子、ぜーんぜん方言使わんけど」
「ということは、完全に県外から来たのは水上さんだけ、なんですかね?」
「ウチもあん子の地元はよう知らんけど、ほうなんじゃないかなぁ?」
「みなかみさん?」
「ああ、波梛。部活の同じ一年生の子なの」
水上さんに波梛を会わせるのは避けた方がいいかもしれない。決して悪い人という感じではないが、少し雰囲気がピリッとしている人なので波梛は怖がるかもしれない。もっとも、そもそもそんなに頻繁にこの子を連れ出すわけにはいかないが。
そんな話をしていると調理が終わったらしく、瑚登子がおばさんと一緒に料理を運んできた。
テーブルの上には刺身や煮魚定食など様々な料理が並べられた。その中にはこの前瑚登子が作ってきてくれたさんが焼きの姿もあった。
「ありがとうございます」
「気にしないでいいのよ。二人共久しぶりなんだし、いっぱい食べていってね」
「そーそー。私の奢りにしといちゃるからね」
「いいの瑚登子?」
「今日くらいはねー」
そう言いながら瑚登子が席に着く。それを受け、自分達は並べられた料理に手を付けた。
波梛はあまり固いものを食べるのは苦手なため、さんが焼きを小皿に取り、食べやすいように箸で小分けにしていく。
「あ、陸ちゃんさ、あれだから。煮魚、波ちゃんも食べれるようにしといたから」
「波梛に?」
部長が居るため少し声は小さかったが、瑚登子によると今回は味付けを薄目にしているようで、普段からあまり味の濃いものは苦手な波梛でも食べられるになっているらしい。
試しに煮魚を一口食べてみると、薄めの味付けになっており確かにこれであれば波梛でも食べられそうだった。
「ことちゃん、ありがとう」
「ん。美味しく食べなされ」
瑚登子はいつも店では厨房の手伝いをしているらしい。普段から色々な料理に触れている彼女からすれば、味付けをパッと変えるくらいは簡単な事なのかもしれない。
そんな彼女の厚意を無駄にしないために煮魚の身をいくつかほぐし、波梛の小皿へと取り分ける。
「はい、波梛。他のも取る?」
「ううん。今はこれだけで大丈夫」
「そっか。じゃあほら、お口開けて?」
そうしていつものように食べさせようと箸で摘まんで口へと近づけたが、波梛はそれを嫌がった。
「ひ、一人で食べられるよ」
「此岸ちゃん、そうに甘やかさんでも波梛ちゃん一人で食べれるじゃろ。のお?」
「う、うん。自分で出来るよ」
そう言うと波梛はあまり使い慣れていない店の箸を自分で持つと、少し覚束ない動きをしつつも皿に取り分けられている煮魚の身を摘まんで口へと運んだ。
「おっ、上手じゃなぁ波梛ちゃん。ウチが同じくらいん時はもっと下手じゃったで」
驚きだった。まさか波梛が自分で箸を使えるとは思ってもみなかった。いつもは自分か母親が食べさせてあげているというのに、自らの力で箸を持って食事をしたのだ。
部長の目があるということもあって恥ずかしい姿を見せたくなかったのかもしれないが、それでもここまで出来るとは予想外だった。
「ん、あれ? 此岸ちゃん?」
「陸ちゃん……?」
「えっ、お姉ちゃん……?」
頬が濡れる。
「うぅ……くぅ……」
「ちょお、どしたん此岸ちゃん!?」
「す、すびばせん……波梛がっ、波梛が一人で、一人で箸をっ……!」
いつの間にか波梛はあたしが知らない内に成長していたのだ。その事実が嬉しい反面、少し寂しさもあって気がつけば涙が出てしまっていた。
「お、大袈裟だよ……」
「ウチは詳しゅうは知らんけど、波梛ちゃん愛されとるねぇ」
瑚登子が無言で手渡してくれた紙ナプキンで目元を拭う。
「……ごめんなさい。取り乱しました」
「気にせんでええよ。そんだけ嬉しかったんじゃね」
いつの間にか波梛は知らない内に出来ることが増えていた。ずっと自分が見ていてあげないといけない思っていたが、それは波梛に失礼な事だったかもしれない。波梛は体が弱くても、いつまでも子供のままではない。どれだけ遅くても、成長しようと頑張っていたのだ。
「波梛、凄いね。お姉ちゃん、驚いちゃった」
「お、お外だし、自分でも出来るようにしたかっただけだよ」
「それで本当に出来たんだから凄いよ。波梛は凄い」
「や、やめて。恥ずかしいよ……」
それからも波梛は食事が終わるまで、自分で箸を使って料理を口へと運んでいた。やはり覚束ない動きではあったものの、これまでの彼女を考えれば確かな成長だった。
やがてテーブルの上に並んでいた料理を全て食べ終えた頃、店の中には他の客の姿が増え始めた。どうやら丁度12時になったらしく、休日ということもあって来店してきたようだ。
「人、増えてきましたね。波梛、そろそろ帰ろうか?」
「う、うん。ちょっと、人多いの苦手……」
体の弱い彼女にとって、人が多いとそれだけリスクが高まる。毒性の低いウイルスでも症状が出やすい波梛にとって、どんな危険があるか分からない。
すぐに自分達は席を立ち、出口へと向かう。しかし瑚登子は店の外へと出ることはなく、出入り口で立ち止まった。
「瑚登子?」
「店、手伝わないとっぽいからさ」
「ことちゃん、もう遊べない……?」
「また今度遊びに行くよ。それまでまた元気にしときなだよ波ちゃん」
「う、うん。約束、だよ……?」
そうして瑚登子と別れた自分は部長を見送り、二人で家へと帰って行った。
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