第5話 Hallows’nightmare

 この世には明晰夢という概念がある。

 人の意識が眠りに落ちた後、人がその夢を夢と自覚しながら見るものだ。

 この夢の中では、人はある程度の意志を介入させることができるという。

 意のままに空を飛び、架空の存在を呼び出すなど。つまるところ、現実では実現できないことが、この世界ならできるのだ。

 ただし見る光景は全て虚像。悉くが偽りであることを理解しなければならないが。

「どこだ、此処は――」

 此処にはカタチがなく、果てもなかった。

 周囲に漂うのは黒よりもなお暗い漆黒の瘴気。現実と虚構の狭間。事実と不実の境界線だ。どことも繋がらない暗い闇の底に悠月はいた。

 これはよく見る夢ではない。過去に視たモノとは別物だった。

「あれは……」

 混濁とした意識の海を漂う中で、ソレは妖しくも〝光〟を燈した。

 色が宿る。鮮やかな色合いが猛々しく燃え盛る焔のように変化していく。

 ソレは紅蓮の業火か、はたまた太陽か。次第に強さを増していく輝きは、だがしかし最後には神々しさを喪い、禍々しい煉獄の炎へと。死の体現へと変化した。

「――えっ?」

 それを理解した瞬間、悠月の指先は意志が宿ったように動き出した。

 否、其処に自分の意思は存在していない。背後に湧き出る無数の〝手〟が悠月の身体を強制的に動かしていた。

 〝手〟は赤く血塗られていた。細く長い骨にも似たソレは、およそ生者のものではない。ぼうっと燈った灯火のような輪郭は、次第に悠月に纏わりついて身体を蝕んでいく。

 もう目を瞑ることも許されない。驚愕は理解の範疇を超えていた。夢ならば早く覚めてほしい。その一心で現実を拒み続ける悠月の心の中に誰とも知れぬ声が響いた。

〝ようやくこの時が来たね。さぁ、目醒めるんだ。これでようやく我々の悲願は叶う〟

 声は男とも女とも取れぬ声色だった。重なり合い、木霊する数は恐らく数十。いや、数百はあるだろう。

「嫌だ。違う! 僕はこんなこと望んでない!!」

 拒むことなど出来ないと理解しながらも、悠月は本能でソレに抗った。

〝ダメだよ。君はもう選んだはずだ。その宿命から目を逸らすことは許されない〟

「――ッ!?」

 次の瞬間、悠月の手には凍えるほどに冷たい柄が握られていた。柄から伸びるのは眩いばかりの刀身。この暗闇の中ではその剣はまさしく希望の光であった。

 けれども、安息は絶望によって塗り替えられる。

 剣先から湧き上がるドス黒い汚泥はこの世の悪性を一心に受けた嘆きであった。

 此処に逃げ場はない。これが数多の願いなのだと識った時、悠月は抗えない死の本流に呑まれて姿を消した。


「……き……ねぇ、悠月、大丈夫? もしかして具合悪い?」

 悠月が悪夢から覚めた時。視界に映ったのは自分を心配する玲愛の顔であった。

 いつものような素っ気無い態度ではまるでない。労わるような、腫れ物を扱うような細心の注意で妹は兄の身を案じていた。

 視界が掠れている。視力を補強するコンタクトを着けていないということもあるだろうが、体調不良も手伝っているのは間違いなかった。

「うっ、あぁ……玲愛、か。うん……なんとか、大丈夫、かな……」

「ばーか。んなわけないでしょ。ちょっとおでこ貸して」

 玲愛は兄の口癖のような返答を無視して自分の額を悠月に押しつけた。

「うん、普通に熱いね。ったく、自己管理が甘いぞ。待ってて。体温計と薬持ってくる」

 玲愛はそそくさと部屋を後にした。

 そうして、測定結果の出た体温計を見て、玲愛は更にがっかりしたように溜息を漏らした。

「これは風邪だね。時期的にはインフルの可能性もあり、だけど。馬鹿アニキ。せっかくのハロウィンだっていうのに、なんてタイミングで……」

 玲愛は、小言を言いながらも、ベッドの傍らにコンビニの袋を置いた。

「とりあえず、これはお昼ご飯ね。適当に買ってきたけど、食べれそうなら食べて」

「んっ、あぁ……」

「じゃ、アタシは学校に行ってくるけど悠月は絶対安静ね。早く寝て早く良くなる。いい?」

「……玲愛」

「悠月?」

 何か言いたげなニュアンスを孕んだ呻き声に、玲愛は疑問符を浮かべた。

「今日は……外には、出るな。行ったら駄目だ……」

「はぁ? なに言ってんのいきなり。子供じゃないんだから大人しく寝てなさいって」

 人は誰しも病魔に蝕まれれば人肌が恋しくなるものだ。

 玲愛はこの言動を久方ぶりに見た兄の可愛らしい一面だとしか捉えていないだろう。悠月は確信を得て危険だと諭しているのだが、残念ながら相手には真意が伝わっていないようだ。

 熱に浮かされ、意識が遠退いていく。悠月が最後に感じたのは、外の世界が刻々と侵略を始めた災厄の兆しであった。


 太陽はとうに頂点を過ぎ、気がついた時には薄暮に差し迫っていた。

 あれから何時間経っただろうか。部屋の中はすっかり暗がりに堕ちていた。

 時計の針は無情にも時を刻み続け、遂に約束の時刻が訪れる。

 短針が九時を捕らえ、長針が六時を跨いだ頃。時計を仰ぎ見た玲愛は表情を曇らせた。

「……やっぱり無理だったか。いつも期待して、アタシも大概馬鹿だな」

 リビングにはラップのされた手料理の数々が並べられていた。

 言うまでもなく、玲愛が今日この日の為にと腕によりをかけた一品たちだが、残念ながらそれらは誰の口に運ばれることもなく、冷えて物寂しさを訴えかけていた。

 今頃、駅の周辺は盛っていることだろう。仕事帰りのサラリーマンやお小遣いを手にした子供たちが出店を巡ってはしゃいでいるに違いない。

 玲愛は、約束の時間を過ぎたことをきっかけに、リビングを後にする。

「悠月。じゃあアタシ行ってくるけど、ちゃんといい子で寝てるんだぞー」

 階下から二階の自室で寝ている悠月に声をかけた玲愛は、予定通り自宅を出て行った。

 悠月は、終ぞ動くことすら叶わずに、ベッドに縛られたように床に臥している。

 身体を這いずり廻る悪寒は次第に疼き始め、ついには痛みとなって悠月を襲った。

「うッ……ぐっ、ああぁぁああアアアアアアッッ!!」

 ――崩壊が始まった。

 駆けずり回る掻痒感が全身を焦がす。熱を帯びた頭は仕切りに警告を鳴らし、沸騰した身をすぐさま冷却せよと告げてくる。

 不合理、不両立、背反、撞着。熱を放出しているのは己だというのに、その実、冷やせとは甚だ矛盾でしかない。オカシイ。いつから自分はこんなにも狂ってしまったのか。発熱が理由とはとても考えられない思考のバグに、理性が追いつかない。まるでもう一人の自分が勝手に身体を動かしているかのような錯覚が己を苛んでいた。

 息苦しい、吐き気がする、眩暈がする。ありとあらゆる不調が自身を内側から変えていく。人からヒトならざるモノへと――この時の悠月には既にある種の異常が芽生えていた。

「ぐっ、クソッ……なんなんだ、一体……何が、起きてる……ッ!!」

 万全ではない今の悠月が玲愛の後を追うことは不可能だ。

 だが、行く先ならばわかっている。月見ノ原駅前だ。

「駄目、だ、絶対に止めないと……玲愛を、皆を、あの場所から遠ざけなきゃ……!」

 悠月はベッドから半ば落ちるように這い出ると、勢いのままに部屋を出た。

 行かねばならない。喩えこの身に代えてでも、家族は守らねば。底知れぬ焦燥感が悠月にそう諭していた。唯一、彼が失念していたことを挙げるとすれば、それは、瞳を護る為のコンタクトレンズをつけなかったことだろう。

「天音っ! っ、はぁ……はぁ……いま、どこにいる……?」

 重たい足を引き摺りながら、悠月は外に出た。

 幼馴染の天音にいの一番に連絡をしたのはその身を案じてのことだ。

『あぁ、なんだユウか。どうしたのそんなに慌てて。えへへ、それがですねぇ、忘れ物をしてしまいまして。実はまだ家なんだけどぉ~――』

「だったら、そこから動かないで。いいね!」

『えぇ!? なに言ってんのユウ。皆でお月見するって約束したじゃない』

「あんなものは、紛い物だ。紅い月なんて、ありがたがるものじゃない!!」

 悠月の口調はもはや断言の域であった。あの月の正体を知っている。そんな感じだ。

 鬼気迫る友人の物言いに僅かながら気圧されるも、天音とてこのイベントは楽しみにしていた一人である。当然、黙ってハイ、そうですかと納得できるはずもなく。

『い、いやぁでもさ。言い出したのはあたしなんだし、参加しないってわけにはいかないよ』

「僕が止めさせる。だから天音は家に居るんだ!!」

『う~ん……ほんとにどうしちゃったのユウ。なんか悪い物でも食べた? 具合悪いとか?』

 普段の悠月とはあまりにも様子が違うことに天音は驚きを隠せなかった。

 ともかく天音は、制止を振り切って駅前に行くつもりでいた。

 もしも、偶然に二人がすれ違わなければ、彼女もまた危険に晒されていただろう。「いったぁ~~っ!! もう、なんなの今日は、ほんっと最っ悪ッ!」

 とんだ厄日である。ぶつかった相手は何者か。不埒な輩であればボコボコにしてやろうかとも思ったが、そこには本当に涙を流している友人の姿があった。

「あま、ね……お願いだから、行かないで」

「ぁ……ユ、ウ……?」

 彼女の顔に大粒の雨が降る。

 天音が驚いたのは悠月の瞳に問題があったからだ。

 本来、瞳というのはある程度の色が定着しているものである。日本人であれば黒か茶色がかった色合いが円を成しているはずが、こと今回の悠月にはそれが当てはまらない。虹彩部分がぼんやりと明滅を繰り返し、文字通り虹色に、極彩色の輝きがまるで支配権を争うようにして鬩ぎあっていた。

「どうしたの、その眼……大丈夫?」

 天音は無意識に手を伸ばしていた。だが、悠月がそれを受け入れることはなかった。

 組み伏せた天音を無視して走り出すと、今度はナオトに通話を繋げた。

「ナオト、もうノワールに着いてる?」

『あん? なんだよいきなり。まぁ、居るには居るけど……どうした?』

「玲愛はいる!?」

『いんや。さっきまでは居たけどな。先に駅行くっつって出てったぞ』

「他の皆は?」

『林檎はオッサンと絶賛稼働中。今日は凄いぜ、大賑わいだ。こりゃあ抜け出せねぇよ』

 ケケケと受話口越しに笑うナオト。背後では確かに普段はない喧騒が感じられた。

「林檎。三番テーブルの食事はまだか。待たせ過ぎだぞ!」

「もう、うるっさいよおとっちゃん。ちゃんと作ってるって。――Attendez!!」

 霧島親子は厨房でなにやら言い合っているようだ。ならばむしろ好都合。自由に動けるのはナオトだけだ。

「ナオト、お願いがある。玲愛を連れ戻してくれ。僕じゃ間に合わない!」

『はぁ? 何の話しだよ』

「事情を話している時間はないんだ。お願いナオト! 玲愛を!!」

 あの大人しい悠月がここまで焦りを露わにするとは。捲くし立てる友人の歯に衣着せぬ物言いはナオトにとっても驚きだった。

 これは並々ならぬ事情があるに違いない。そう、判断してナオトは席を立った。

『これは訳有りだな。わかった、任せとけ。オマエも出来るだけ早く来いよ』

「ありがとう、ナオト」

『フン、これで貸し一つだからな。覚えとけよ』

 通話を切ると、悠月は空を見上げた。

 夜空には純白であったはずの満月が刻一刻と赤黒い闇に呑み込まれつつある。

 ――曰く、紅き月は災害の予兆であるという。

 彼の旧約聖書によれば、血のように赤い月が見えた後には巨大な地震が起きたらしい。

 これは母なる大地からの啓示。紅い月の到来は決して吉兆などではない。むしろ忌むべき凶兆であったのだ。

 奇跡の成就には奇跡的な要因がなければならない。種がなければ芽が出ないように、すべての事柄には須らく原因がある。過去、現在、未来を通じて全ては因果関係によって成り立っているのである。――だとするならば。

 生者の生きる世界に在るべき白き月が闇に染まるとき、世界はどうなるのだろう。

 死者の生きる世界に在るべき紅き月が白に染まるとき、世界はどうなるのだろう。

 規則正しく廻る世界の歯車は機械仕掛けの箱のように外部からの干渉を拒絶する。   

 しかしそれは、普段であれば、という話。

 元を辿れば〝根源〟は全て同じなのだ。世界より生まれたモノは、世界へと還るだけのこと。この程度のイレギュラーは、当然許容する。

 むしろ世界にとっては新たな秩序の誕生だと歓迎しているかもしれない。

 悲劇は喜劇と成り、喜劇は悲劇と成り変わる。これもまた観客を飽きさせない為の福音だ。

 新たに生まれた秩序は、生まれたばかりの赤子のように愛らしい。

 歓喜は嘆きに。嘆きは歓喜に。新たに生まれる我が子の産声は、世界にとってはさぞ美しいに違いない。

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