第四章 1

最初の月の後半、大寒となった。

 大雪山に入る準備をしなければならない。

 それには、毛皮の外套がいる。

「そんなに寒い場所なのですか」

「寒い寒い。猛吹雪が吹き荒ぶ、一面雪の山だ。そこを越えないと、あんたの故郷のメルツァ王国には行けねえ。毛皮でもないと、凍傷になって指がなくなる」

「……」

 そんな場所、どうやって越えるというのだろう。生きて出られるのだろうか。

 街の店に行ってそのような準備をしようとすると、どうも様子がおかしい。

「毛皮ね。申し訳ないけど、毛皮は今ないんだよ」

「ないだあ? どういうことだよ」

「不猟でね。材料がないんだ。作りたくてもないんだよ」

「困るよ。山を越えなくちゃいけないんだ」

「自分で狩りに行って材料を獲ってきたら、こしらえてあげられるんだけどねえ」

「狩りだあ?」

「そしたらいくらでも作ってあげられるよ」

「二人分の外套と手袋と靴に、なんの獣が何頭分いるんだ」

「そうねえ、鹿が三頭に、狐が一頭、うさぎが五羽ってとこかねえ」

 ヘクターはがくりとうなだれた。自分は猟師ではない。そんな数、この真冬に途方もないものである。しかし、やるしかないのだ。

「……また来る」

 そう言い置いて、ヘクターは店を出た。

「どうするのですか」

「やるしかねえ」

「本当に猟に出るのですか」

「俺一人じゃどうにもならねえ。地元の猟師に金を出して、手伝ってもらう」

 ヘクターは酒場でそれらしい男に話を聞いて、猟師を探した。冬に猟に出てくれるという物好きなどおらず、捜索は難航した。それでも日が暮れる頃にはやってやってもいいという男が見つかって、ヘクターは小躍りせんばかりにその男を歓迎したものである。

 その偏屈そうな猟師は老年を迎えたばかりであろう年齢で、名をヴィクターと言った。「俺はヘクターだ。ヘクターとヴィクター。相性がいいと思うぜ」

 ヘクターはにやりと笑って言った。ヴィクターはそれにも応じず、むっつりと黙ったままだった。しかしヘクターの持った弓には鋭く反応して、眉を釣り上げてむう、と唸って見せた。

 オルキデアを宿に待たせて、二人は冬の山に入っていった。

 雪が積もっていて、なにも見えない。

 と、ヴィクターが白一面の野を指差した。

「見ろ。あそこだけ黒い点がある。あれは雪うさぎの耳の先だ。あれを射ろ」

 ヘクターはその指の先を見て、確かに黒い点があるのを確かめ、その少し下を狙って矢を放った。手応えがあって、血が散った。

「いいぞ」

 うさぎが一羽獲れた。

 次に罠を仕掛けた。

「この辺りはうさぎの足跡がある。針金を使ってこうして輪を作って、足が入ったら抜けないようにしておく。うまくいったらうさきがかかるだろう」

「かかるのはいつなんだ」

「明日見てみればわかるだろう」

 ヴィクターの目はまた、鷹のようにするどく遠くからなんでも見渡せた。

「いたぞ。あそこだ」

「えっ」

「射ろ。右に二十メートルだ」

 と言われてわからないままにも矢を放てば、必ずなにがしかの獲物が手に入った。それは時にうさぎであったり、鹿であったりした。

 一日でうさぎ三羽と鹿一頭を手に入れて、ヘクターとヴィクターは帰ってきた。

「あんた、すごいな」

 寒さで顔を赤くしながらも、ヘクターは酒を飲みながら言ったものである。

「これなら予定よりずっと早く毛皮が手に入りそうだ」

 ふん、ヴィクターは彼に酒を奢られてもむっつりと黙ったまま、なにも言わずにそうこたえたのみである。

「飲んで、身体を温めてくれ。明日も頼むぜ」

 翌朝、罠を仕掛けた場所に行ってみた。うさぎはかかっていなかった。

「こんなもんだ」

 白い息を吐きながら、ヴィクターは言った。

「自然を相手にするっていうのは、こういうことだ」

 それでも、ヴィクターは新しい罠を仕掛けた。

「猟というのは、執念だ。粘った方が勝つんだ」

 その言葉通り、三日後にはうさぎが二羽獲れた。

 その三日の間、ヘクターとヴィクターは鹿を狙っていた。

 大きな牡鹿が、雪の間から顔を出していた。

「急所を狙え。うまくやれよ」

 ヘクターは片目を瞑って、矢を放った。が、矢がそれて、鹿の尻に当たった。牡鹿は矢を尻に当てたまま、逃げていった。

「追おう。遠くには行けないはずだ」

 二人は血の跡を辿っていった。足跡を追っていくと、それは段々と乱れていっている。 かわいそうなことをしてしまった。ヘクターは柄にもなく、そう思った。一思いに殺してしまえば、苦しむこともなかっただろう。次は一度で仕留めなければ。

 血の跡が、丘を越えている。杉の樹の下まで続いていた。

「あそこだ」

 樹の下で休んでいるようである。今度こそ、楽にしてやらなければ。ヘクターは矢をつがえた。その時彼がポキ、と枝を踏んで、気配を悟られた。

 牡鹿がこちらに突進してきた。

 尻から血のつららを垂らして、一目散にやってくる。ヘクターは短剣を取り出して、突撃してくる鹿に向かって構えた。

 牡鹿は怯むことなくヘクターの真正面にぶつかってきて、そのまま短剣を構えた彼と激突して絶命した。雪に埋もれ倒れたヘクターの元へヴィクターが走り寄ってきて、

「大丈夫か」

 と尋ねてきた。

「なんとか平気だ」

 これで、鹿は二頭目である。あと一頭だ。

「日が暮れる。今日はこれで帰ろう」

 宿に戻ると、オルキデアが待っていた。

「毛皮屋さんが来ていました。毛皮を引き取りたいと言っていました」

「明日来るように言っておいてくれ」

 一日山にいたので、身体が冷えた。こういう時は、酒だ。

「さあ飲んでくれ。明日に備えよう」

 ヴィクターは相変わらずむっつりとして、なにも言わない。酒場の喧騒もどこ吹く風、食事もうまいのかまずいのか、感想のひとつも言わずに黙々と食べている。

「ようヴィクター、相変わらずしけた面してやがんな。この冬に猟かよ。物好きにも程があるぜ。さすが、奥方が死にかけてるのに猟に行った男だけあるよなあ」

「……」

 酔った客が、そんな言葉をかけてきた。ヴィクターはなにも言わずに食事をしていたが、酒を飲み干すと、

「明日も来る」

 と言って静かに酒場を出ていった。酔った客はそれをせせら笑って見送った。

 ヘクターはそれを黙って聞いていた。

「ヘクター」

「おかしいな。知り合って短いが、あの男はそんなに冷たい男じゃないはずだ。なんか裏があるな」

「でも、話してくれるでしょうか」

「そうだな。他人の俺たちが首を突っ込むことじゃない」

 放っておこう、ヘクターは酒を飲んでそう言った。

 翌朝罠を仕掛けた場所に行くと、またうさぎが獲れていた。運がいい、ヴィクターはそう呟いた。

「狐は、巣穴にいるところを狙う。すばしっこいから気をつけろ」

 火を焚いて煙で燻して、出てきたところを棒で殴って気絶させる。

「なんか、残酷だな」

「弱肉強食ってやつだ。仕方ない」

 ごめんな、と心のなかで謝った。

 いよいよ残すところあと鹿一頭である。

 しかし、三日探しても五日探しても、鹿どころかリスもいないのである。これにはさすがのヴィクターも参った。

「猟師をして長いが、こんなに獲物がいないのは初めてだ」

 七日目に入った。じりじりと時間だけが過ぎていく。

 ヴィクターの鷹のように鋭い瞳が、ある日真っ白な雪の野原のなかを駆け巡って一点を捕えた。

「あそこだ」

 彼はそこをまっすぐに指差した。

「あそこを射て」

 ヘクターはなにも尋ねずに、黙って矢をつがえた。雪のなかに矢が吸い込まれていって、ドウという音と共になにかが倒れた。

 走って行くと、そこには大きな鹿が一頭、倒れていた。

「やったな」

 ヴィクターはにやりと笑ってヘクターを見た。鹿をうまく解体して、街に運んで行った。 その夜、ヴィクターに約束の金を払った。

「時間がかかって、半月も経っちまった。でもおかけで助かったぜ。あんたのおかけで、大雪山を越えられる」

「この季節にあの山に行くなんざ、よっぽどの物好きだ。せいぜい死なないようにすることだ」

「大金がかかってんだよ」

「俺は約束の金がもらえればそれでいいよ」

「そうかい」

 ヘクターが渡した金の重みを確かめるように袋を持ったヴィクターは、遠くを見るような目になってふっと言った。

「俺は金がないばかりに、大切な女を医者にかからせることができなくて山に行ったことがあった。薬草を採りに行ってね。結局あいつは死んじまったが、それで少しは持ち直すことができて、あいつの誕生日を祝ってやれることができたよ」

「――」

 それは、あの日酒場で言われた妻のことか。死にかけた妻がいるのに、猟に行っていたという話か。

 ヘクターが言葉を出せないでいると、ヴィクターは自嘲するように尚も言った。

「街の連中には間違って伝わっているようだが、正す必要はねえ。俺はそれでいいと思ってる。俺にはそんな価値はないのよ」

 そう言って、ヴィクターは帰っていった。ヘクターはなぜか、それを止めることができなかった。

 オルキデアはそんな彼にそっと近づいた。

「ヘクター」

「ああ」

 頑固で、偏屈な猟師。

 そんなヴィクターにも、愛した女がいたのだ。

「奥さんの誕生日をお祝いできたんですね」

「そうだな」

「よかったですね」

「ああ」

「ヘクターのお誕生日はいつですか」

「そんなん知るかよ」

「え?」

「俺ぁ捨て子だ。捨て子が自分の生まれた日なんぞ知るもんかよ」

 オルキデアは彼を見上げた。青い目が、せいせいとして空を見上げている。その瞳は、卑屈というものを知らないように天空を映し出している。

 オルキデアはなにかを思いついて、笑顔になった。

「じゃあ、今日にしましょう」

「なにい」

「本人が知らないのなら、今日にしてしまえばいいんです」

「おいおい」

「お祝いしましょう。準備しなくては」

「準備って」

「お肉を焼いてもらって、柊の葉を飾りましょう」

「子供じゃあるまいし」

「こういうのは子供も大人もありませんよ」

「そういうあんたは、祝ってもらったことあんのかよ」

「私はお誕生日、覚えていないのでお祝いしてもらったことはないです」

「魔女に祝ってもらったことないのかよ」

「おばあさまは忙しかったのでそういうことはなかったのです」

「……」

 王女なのに、誕生日も祝ってもらったことないのか。

 寂しい子供時代だったんだな。

 ――まるで、俺みたいだ。

 ヘクターの胸が突如として痛んだ。自分とこの女は絶対的に境遇が違うのだという壁が、少しだけなくなったような気がした。

「……じゃあ」

「え?」

「あんたの誕生日も今日だ」

「――」

「あんたのぶんも祝おうぜ」

 そういうわけで、二人は互いの誕生日を祝うことになった。

 ヘクターは街に出て、小さな緑の石の首飾りを求めた。オルキデアは森へ出かけていって、花を摘んで編んでそれを腕輪にした。

 それを互いに贈ったのである。

「あんたの目の色の石にしようと思ったけど、そんなのはなかったら緑にした。安物じゃないぜ」

「私はお金を持っていないから、花を摘んできました。冠はいやだろうと思って、腕につければいいと思って」

「ありがとよ」

「ありがとうございます」

 互いに、初めての誕生日である。

 そうして、柊の葉を飾った肉を切って食べた。伝統の誕生飾りだ。

 その夜は二人ともぐっすりと眠った。

 二週間もすると、毛皮の一式が出来上がった。

 その間、することもないのでヘクターは剣の稽古に勤しんだ。オルキデアはそれを見ながら、ずっとずっと心のなかで思っていたことを、いつ言おういつ言おうとなかなか言い出せず、毎日毎日悩みに悩んで、ある日とうとう決心して、ついに言い出した。

「へ、ヘクター」

「なんだ」

「お願いがあります」

「あん?」

「私に、弓を教えてください」

「あーん?」

 ヘクターは食事の手を止めて、顔を上げた。そして耳に指を突っ込んで、もう一度言った。

「ああ?」

「聞き間違いではありません。私に、弓を教えてください」

「なんだと?」

「一国の王女たるもの、武道の心得くらいなくては務まりません。乗馬はできますが、その他はなに一つとしてできません。これでは、国に帰っても恥をかくだけです。お願いです。私に弓を教えてください」

「……」

 自分を覗き込む、その金色がかった緑の瞳が思った以上に思い詰めているのに、ヘクターは気圧≪けお≫された。それで姿勢を正して、彼は腕を組んだ。

「うーん」

 そして少し考えて、

「今どき、流行らねえんじゃねえのかな。そういうの。武闘派のお姫様なんて、かわいくないぜ。騎士たちがいくらでも守ってくれるだろ。そういうのに任せて、あんたは馬に乗ってなよ」

「だめです。弓くらい嗜んでいないと、舐められます」

「誰に」

「ま、周りにです」

「あのなあ」

 ヘクターはため息をついて、肘をつきながら言った。

「行方不明だった王女が帰ってきただけで、お国の人間は万々歳なんだぜ。なんであんたを舐めるなんてことするよ。あんたはただ、そいつらに笑って愛想振り撒いてりゃいいんだ。それで事が足りるんなら、それでいいじゃねえか」

「だめです。とにかく、だめなんです」

 それでも粘るオルキデアに、ヘクターが先に折れた。

「わかったわかったわかったよ」

 彼は両手を上げた。

「教えるだけだぞ」

 オルキデアの顔がぱっと輝いた。

「本当ですか」

「どうなっても、責任は取らないからな」

「ありがとうございます」

 そこで武器を供給する店に行って、一番弦≪つる≫の張りの弱い弓を求めた。女の力で引くのだから、当然弦の力も影響してくる。矢も、小さいものにした。

 そして街はずれに行って、適当な樹を的にして練習させた。

「左手で構えて、弦を右手で引いて、矢をつがえて、肘を張るな。そうだ。で、指で押さえて……放すんだ」

 パッ、と手を放せば、矢は当然飛んでいく。しかし力は弱いから、的には当たらない。

「あー」

 オルキデアは肩を落とした。

「当たりません」

「最初なんてこんなもんだ。練習次第だ」

 彼女は辛抱強く、何度も矢をつがえた。ヘクターは幾度もそれに付き合った。よく粘るな、と彼が内心感心するほど、オルキデアはよく練習した。

 何度かめで、ようやく的にまで矢が届くようになった。しかし、相変わらず矢は明後日の方向に飛んでいくばかりで、どうにも当たりそうにはない。

 その内、鴉が鳴き始めて日が暮れてきた。

「おい、帰ろうぜ」

「まだです」

「寒いよ」

「もうちょっと」

「おーい」

 まだまだと粘るオルキデアを引っ張って、ヘクターはようやく宿に戻ることができた。

「うひー手がかじかんでるぜ。寒いったらねえよ」

「すみません」

 オルキデアはしゅんとしている。しかし、うん、と一声上げると、彼女はまた顔を上げて、

「私、明日も頑張ります」

「なんだと?」

「人間、鍛錬すればなんとかなるというでしょう。石の上にも三年です。やります」

「おいおい」

「ヘクターは剣のお稽古をしていてください。私は弓です。頑張ります」

 彼は頭を抱えた。これは、止めてもやるだろう。

 仕方がない。付き合うか。

 それで毛皮が出来上がるまでの二週間、ヘクターは剣の訓練をする傍ら、オルキデアの弓の練習に付き添った。毎日毎日、日が昇り沈むまで、彼女はヘクターが感心するほど実践に励んだ。これだけやっていれば少しは上達するだろうと最初は楽観していたヘクターであったが、それはどうやらはずれであったようだ。

 弓が悪いのか矢が悪いのか、それとも弦がしならないのであろうか、オルキデアが一旦手を離すと、矢はへろへろへろとあられもない方向へ飛んで行ってしまって、およそ予想もつかない場所へ着地してしまうのである。

「うーん」

 これにはさすがのヘクターも頭が痛くなった。

「あんた、弓はやめておいたほうがいいな」

「そんなこと言わないで、なんとかしてください」

「俺に言われても困るよ」

「なんとかして、極めたいんです」

「人には向き不向きってもんがある。諦めろ」

「だめです。諦めません」

「無理だ。やめとけ」

「嫌です」

「わがまま言うな」

「わがままではありません。誇りの問題です」

「それがわがままってんだ」

「違います」

「違わないだろ」

「違います」

「あーもう」

 勝手にしろ、とヘクターが折れた。

 ということで、オルキデアはそれからも毎日弓に励んだ。

 しかし、とうとう彼女の放った矢が的に当たることは一度としてなかったのである。

 そうこうする内に、毛皮の外套と手袋と靴が出来上がった。

 着心地はまずまずである。

「ぽかぽかします」

「そりゃよかった。ヴィクターと俺が、苦労して獲った毛皮だ。そうでなくちゃ」

 そうして、二人は山に向かった。

 途中、小さな王国に差しかかった。大雪山手前の、最後の集落である。

 入国すると、まずは宿を決めた。冬、外套を着ているとフードを被る。だから、当然ベールは着けない。それが仇になった。

 酒場に入った途端オルキデアを見た男が、突然彼女の側へやってきてその手を取り跪くようにして言ったのである。

「おお、美しいひと。あなた様のお名前をお聞かせください」

「え、あ、あの」

「どうか、突然のご無礼をお許しください、美しいひと」

「なんだてめえは」

「ああ、うるわしいお方。どうか私にあなたのお名前をお聞かせください」

「無視してんじゃねえ。どこのどいつだでめえ」

 その男は栗色の髪で、青い瞳を潤ませ、自分に酔ったようにオルキデアを見上げ、ヘクターの声などまるで聞こえないように一方的に言っている。オルキデアは彼の言葉に戸惑うのみで、男とヘクターを交互に見るばかりである。

 怒り心頭に達したヘクターは男を突き飛ばした。

「おいお前。このヘクター様を二度も無視しといて立っていられると思うなよ。俺の連れになにしていやがる。その手を離せ」

「なんだね君は。その汚い手を離したまえ」

「この女の連れだ。そう言うてめえは何様だ」

「私こそこの国の筆頭貴族オットー・ヴィッタール公爵だ。この女性に一目惚れした。今から彼女に結婚を申し込む」

「なんだとう」

「彼女は君のような薄汚い男が連れていていい女性ではない。下がりたまえ」

「てめえこそ下がれ。この女はなあ」

 金貨二十三万枚、と言いかけて言い出せず、その言葉を飲み込んだヘクターは黙り込んでしまった。

「彼女はなんだ。言いたまえ」

「ぐぬぬぬ」

「言えないのなら、下がれ」

「うぐぐぐ」

「美しいひと、お名前を」

「え、えと」

「とにかく、この女はおれのもんだ。誰かにやるわけにはいかねえ」

「誰がそう決めたのだ。邪魔をするな」

 このオットーという男はどうやら、オルキデアの瞳の色でピンとは来ないようである。 山間の、小さな国のことであるし、情報もそこまで回っていないのであろう。

 それはそれで都合がいい。ヘクターはそう思った。知られていたら、益々この男はオルキデアを離そうとないだろう。

「美しいお方、どうか私にそのうるわしいお名前をお聞かせください」

「言うな。言ったらおしまいだぞ」

「え、えと、あの」

「君は黙っていろ」

「お前こそ黙ってろ」

「あ、あの、仲良く……」

「あなたは下がっていてください」

「あんたは黙ってろ」

「私の未来の花嫁になんという口をきく」

「誰が未来の花嫁だ」

「彼女のことだ」

「名前も知らないくせに聞いた風な口を利くな」

「なにをっ」

 とうとう掴み合いになって、酒場の主人が真っ青になって止めに入った。

 高名な筆頭貴族が女を間に争いになったとは、随分な話である。

「ヘクター、落ち着いてください」

「落ち着いてられるか」

「あなた様も、公爵様なのでしょう。どうかお名前を大切にされてください」

「む……」

 オルキデアになだめすかされ、二人の男はようやく鎮まった。ヘクターは彼女に囁いた。

「あんた、あの男と結婚したいか」

「い、いいえ」

「じゃ、名乗るな。名乗ったら最後、俺と引き離されて国に連れ戻されて強制的に結婚だ。 そういう筋書きだ。それが嫌なら、絶対に名乗るな。いいな」

「は、はい」

「なにをこそこそしている」

「なんでもねえよ」

「私は決意したぞ」

「なにをだよ」

「君と決闘する」

「なんだとう?」

「この女性を賭けて、君と決闘だ。私が勝ったら私が彼女と結婚する。君が勝ったら君は彼女と行っていい。どうだ」

「俺と決闘だあ?」

 ヘクターはにやりと笑った。

「いい度胸じゃねえか。やってやらあ」

 オットーも不敵に笑って、立ち上がった。

「では決行は三日後。場所は追って知らせる」

 あんななよなよした男、楽勝で倒せる――ヘクターはそう高を括っていた。

 ところが、それは大誤算であったのである。

 三日が経った。

 決闘場所は公爵邸の庭である。

 審判は公平に、両者のことを知らない市井の者が選ばれた。オルキデアは庭から離れた場所に立たされ、手を握り締めて事態を見守っている。

「一本勝負。始め」

 互いに見合い、審判の声で間合いを測り、ヘクターとオットーは睨み合った。

 オットーがまず、斬りかかってきた。

 その意外に鋭い刃風に、ヘクターは思わずのけぞった。そして、これは計算違いだな、と己の考えを修正することにした。彼は一歩退くとトン、と軽く飛んで上段に構え、一気にオットーに叩きこんだ。オットーはそれを受けようとして受けきれず、ぐっと構えたまま固まってしまった。

 二人の剣は噛み合ったまま、しばらく動かない。

 やがてどちらからともなく互いに弾き合うと、ヘクターとオットーは後ろに飛んだ。そして着地と同時に走り出すと、そのまま二人は激しく斬り合った。

 見ているオルキデアははらはらし通しで、次第に切り傷だらけになっていくヘクターが心配で心配でならない。

 もし彼が負けてしまったらどうしよう、もしヘクターが死んでしまったら自分はどうなるのか、それだけを考えては、絶望的な気持ちになって青くなってまたはらはらしているのだ。

 斬り合いは、夕暮れまで続いた。

 その頃には両者は傷だらけ、肩で息をする有り様、見ている方はとてもとても見ていられず、ぎゅっと目を瞑っているとキィンという音がして、その鋭さに思わず目を開けると勝負は今や佳境、ヘクターがオットーを追い込み右から攻め込んでいるところであった。 オットーは防ごうとして防ぎきれず、足が揃ってしまって踏み込めずにつんのめり、けつまずいて転びかけた。

 勝負はそこで決まった。

 ヘクターの剣がオットーの剣を手元から弾いて、その切っ先を喉元に突きつけたのである。

 くっ、という悔しまぎれの声が、公爵邸の庭に静かに漏れた。

「――殺せ」

 オットーは絞り出すように言った。

「君のような無名の戦士に負けたとは家名の名折れ。殺したまえ」

「無名じゃねえぜ。砂漠じゃあちょっとは知られてんだ。俺ぁヘクターってんだ。砂漠のヘクターって言えば、有名人だぜ」

「……そうなのか」

「ああそうさ。そのヘクターをここまで追い込んだのは、あんたが初めてだ。威張っていいぜ」

「ふん」

 オルキデアが駆け寄ってきた。

「ヘクター」

「おう」

「怪我を……」

「こんなんかすり傷だ。舐めりゃ治る」

「剣の傷は、かすり傷ではありません。宿で手当てを」

「ほっとけって」

「だめです」

「いらんいらん」

 立ち去るヘクター、それを追うオルキデア、それを茫然と見守るオットー、彼は立ち上がってオルキデアに声をかけた。

「美しいひと、せめて別れの前に、お名前だけでもお聞かせくださいませんか」

 オルキデアは振り向いて、笑って言った。

「私、あなたと結婚するつもりはありません」

 そして彼女は、すたすたと歩いていくヘクターを慌てて追っていった。

 オットーはそれを、自嘲的に笑って見ていた。


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