誰がなんと言おうと田沼さんが一番かわいい

榊ダダ

第1話 出会うべくして 




 あれを運命と言わずして何と言うんだろう。




 あの日、スニーカーを履いていなければ、

靴ひもがほどけていなければ、いつものバスを逃していなければ、あのタクシーを止めていなければ……私の未来は今とは全く違っていた。




 どれか一つ、どれが欠けても、田沼さんに出会うことはなかった。




 100km以上離れた街で、きっと死ぬまで一度もすれ違うことなく、この人生を終えていたんだと思う。




 あの人に何気なく名前を呼んでもらえる朝は、いくつもの奇跡が積み重なった運命なんだ……








 



【誰が何と言おうと田沼さんが一番かわいい】











 世間では憂うつの代名詞になりがちな月曜日の朝が始まった。



 だけど私は、一週間の中で月曜日が一番好き。だって、今日から5日連続で田沼さんに会えるんだから!





 清々しく晴れ渡る濃い青の空に、見事な入道雲が眩しい。

 朝とは思えない太陽の陽射しを浴びて、水をもらったばかりの葉っぱたちがキラキラときらめいている。



 一軒家が立ち並ぶ下町の住宅街に馴染み、こじんまりと佇むこの会社の1階は、まるで小さな森のように植物で溢れかえっている。

 毎日、そんな緑たちに癒されながら私は2階への階段を上る。



 すでに現場の人たちが全員出払った誰もいない事務所に、毎朝必ず一番に出勤するのは私。

 まず更衣室で制服に着替えると、事務所の入り口にある鉢植えのお花にお水をあげる。 

 そうしていると、一段一段しっかりとコンクリートの階段を踏み締めて上ってくる、あの足音が聞こえてくる。



「あっ!おはようございます!田沼さんっ!」



 二番目に出勤してくるのは、いつも必ず田沼さんと決まっている。



「……おはよう」



 出来る限りとびっきりの笑顔で精一杯心を込めた挨拶をする私に、今日も思い切りのいいほどそっけない挨拶が返ってくる。



 笑顔はない。

 目も合わない。

 なんならちょっと迷惑そう。

 無視するわけにはいかないから、消去法で仕方なく挨拶している。

 そんなふうに見えるのが田沼さんだ。



 田沼さんは私の前を通り過ぎると、デスクや棚、見るもの全てが灰色の事務所の真ん中をスタスタと歩き、奥にある自分のデスクへと向かう。

 その後ろ姿を、私は毎朝ジョーロ片手に見つめる。




 先週より少しだけ太ったかな……?




 創業時から変わっていないという昔の百貨店みたいな渋いチェック柄の制服には、心なしかいつもより横ジワが深めに入っているように見えた。



 身長153cm

 体重52kg



 ……と私は踏んでいる。



 縦も横も、ちょうど良すぎるくらい奇跡的にちょうどいい。



 流行りもすたりもないけど清潔感とつやのあるショートヘアに、少し太めな黒ぶちのメガネ。度の強いレンズの奥からは、つぶらな瞳が常に世の中を斜めに見据みすえている。



 孤高な雰囲気にぴったりな落ち着いた声と、イントネーションのない話し方。

 ちょっと大きめなお尻にちょっと短めな足で姿勢よく歩く姿はペンギンみたいで言葉を失うほど愛しい……。




 いつ見ても、どこをとっても、やっぱり田沼さんはとんでもなくたまらない、私のどツボのタイプだ!




 私が一番に出勤する理由は真面目な新入社員だからじゃない。と言っても不真面目なわけじゃないけど、それより何より、出勤するのが異様に早い田沼さんと二人きりになれる唯一の時間を得るため。



伊吹いぶきさん?」



 うそ!田沼さんに話かけられた!

 この二人きりの時間の中で田沼さんの方から話しかけてくれるなんて、めったにないことだ。今週は週の初めからなんて縁起がいいんだろう!

 


「はいっ!なんでしょうか!?」



 私は使い勝手のいいお庭番のように元気よく媚びへつらった。



「今年の秋分の日って何月何日だか知ってる?」


「えっ!?秋分の日……ですか?」


「そう」



 秋分の日……

 ていうかってことは、秋分の日って毎年日にちが変わるタイプの祝日ってことだよね?それすら初耳なんですけど……



「えーっと……あれですよね!秋分てことは、その日を境に夏から秋に変わる日ってことですよね!」


「……分からないならもう大丈夫だから。ありがとう」


「いや!あの!確か……9月23日あたりじゃないでしょうか!」


 

 せっかくの会話を終わらせたくなくて、無理にでも食い下がった。



「……曖昧だとちょっと」


「そ、そうですよね……」




 私のバカ!!

 日本に生まれて22年、毎年なんにも考えずに秋分の日を過ごして来たバカ女……それが私だ。

 せっかく田沼さんが話しかけてくれたのに!私を頼ってくれたのに!ズバッと秋分の日を言えたなら、少しは好きになってくれるチャンスだったかもしれないのに!!



 また今度、どの祝日を尋ねられてもすぐ答えられるように、今日は一年の祝日を全て暗記するまで決して眠らないと心に誓った。



 入口に近い自分のデスクからそっと様子を伺う。使い物にならなかった私の代わりに、スマホで正解を調べてるようだ。

 


 本人は気づいていないけど、考え事をしてる時の田沼さんは、眉毛がハの字になり、すぼめた唇を前へ突き出してしまう癖がある。

 ふてくされたひょっとこの子どもみたいな可愛い姿を、心で悔し涙を流しながらぼーっと見つめていた。

 




 

 田沼さんとの出会いに運命を感じ、その姿形に一発で魅了されたのは事実だけど、目では見えないその内側にもまた深く惹かれたのには、別の出来事があった。




 それは、入社して間もない春の終わり頃だった。事務所の窓から見える町内で、一匹の野良猫が数匹の子猫を産んだ。



 目の前の道を通学路にしている小学生の女の子たちや猫好きの近所のおばさんは、無邪気で愛くるしい子猫たちに夢中になり、甘やかして可愛がっていた。



 同じ頃、なぜか一羽のカラスがこの辺りの上空に姿を現すようになり、朝昼夕と時を選ばず鳴きわめくようになった。



 子猫を心配する人たちは、子猫を襲おうとしているに違いないとカラスを恐れ、み嫌っていた。



 会社の人たちも同じように、窓を閉めても聞こえてくるカラスの大声に、日々怪訝けげんな言葉を漏らしながら仕事をしていた。



 あれは夕方の4時頃だったと思う。

 何が不満なのか、ただでさえいつもうるさいカラスが、その日はいつもの倍の音量で何かを訴えるように鳴き叫んでいた。

 そのあまりに感情のこもった鳴き声に、この声は本当にカラスか?はたまた人間の子どもの奇声じゃないか?と、事務所内では論争が沸き起こっていた。

  


 答えを確認しようと私が窓を開けると、他の社員さんも続いて席を立ち、一つの窓から一緒に外を覗いた。



 ちょうどタイミングよく道の向こうから大きく羽を広げたカラスが低空飛行で飛んでくるのを見て、誰かが「ほら、やっぱりカラスじゃん」と口にした時だった。



 さっきまで賢い頭脳と立派な黒い羽を持っていたその生き物は、まるで紙ヒコーキのようにアスファルトの道路へ無様ぶざまな胴体着陸をした。



 何が起きたのか、近くを歩いていた下校途中の小学生も、井戸端会議中のおばさんも、塀の上の猫も、すぐには理解が出来なかった。



 上から見ると、ドーム型のバリアでも張られてるみたいにカラスと人間との間には綺麗に一定の距離が出来ていた。そして、そのバリアの中心で、カラスはもう二度とぴくりとも動くことはなかった。



 数分が経ち、事務所から覗く私たちを含めた全員が、ようやくカラスの死を理解したけれど、車も走行可能な道の真ん中で息絶えたカラスに、周りの人たちは困惑して怯えるだけで誰も何もしようとはしなかった。


 

 情けないことに私もその一人で、哀れみを抱きながらもただその光景を見下ろしているだけだった。



 そんな私の視線の先に突然、カラスに駆け寄る見慣れた制服が見えた。それは、ついさっきまで事務所内で仕事をしていたはずの田沼さんだった。



 誰もが近づくことすら躊躇ためらったそのカラスを、田沼さんはビニールの手袋をはめた両手で手際よく持ち上げ、会社の裏の敷地へと運んでいった。



 大人も子どももみんながみんな、そんな田沼さんを目を細めて見ていた。ついには悲鳴を上げる人もいる中、さっきまでカラスのいた道の上を赤い車が猛スピードで走り抜けていった。



 私は思わず事務所を飛び出して階段を駆け降り、田沼さんとカラスの元へ向かった。

 会社の裏庭でしゃがみこんでいた田沼さんは、決して平気なわけじゃなかった。命が消え、ただの抜け殻になったまだ温かい生き物に、みんなと同じく生理的に怯えてしまいながら、それでも悲しみと同情に染まっていた。



「……役所に連絡したらいいんでしょうか?」



 私が話しかけると田沼さんは、



「……野生動物って法的には物扱いだから、それだとゴミとして捨てられちゃう。社長にお願いして会社の裏のスペースに埋めさせてもらう」



 と答えた。



 この子が子猫だったなら、もしくは人間の赤ちゃんだったなら、手を差し伸べる人は他にももっといただろう。



「カラスって悲しい生き物……」



 独り言のように呟きながら、小鳥みたいに目を閉じて眠るカラスの頭をそっと撫でる田沼さんを見た時私は、こんなに優しい人がこの世界にどれだけいるんだろうかと思った。



 冷えた鉄の扉で閉じられていると思っていたその奥に、じんわりと暖かくて美しい心があることを、あの日私は初めて知った。





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