菊花

二十一、記録

 梅妃とは椿妃についての話をした後、他愛もない会話をいくつか交わしてその場を開いた。

 麗殊は荷物箱に入れていた食解き記録を取り出して、文卓の上で開き、昨日行った奇病の食解きのあれこれを書き綴る。


「……っ、」


 すらすらと筆を滑らせる途中、肩から後頭部に掛けて痺れるような痛みが走り、麗殊は掠れた息を吐き出す。


 ──疲労かしら……今朝はよく寝たのだけれど。

 生者相手とはいえ、同じ日に連続して幻食の力を使ったのは、少し無理があったか。どうにも身体が重苦しい。

 しかし、今日は司察局の記録閲覧の許可が降りている。昼過ぎに付き添いの朔が桃晴宮にやってくるはずだ。なんとか、体調を良く保たねば。


 気合を入れるために、尚食局の芙良たちが持ってきてくれた昼餉をたくさん食べた。その食べっぷりを見た栖遥には笑われてしまったくらいだ。

 満たされた腹を撫でながら休息を取っていると、お馴染みの朔が来訪した。

 麗殊は当初のように気を遣うことなく、気軽に声をかける。


「一日ぶりね」

「そうだね。最近は一緒にいることが多いから、今朝の夢に君が出てきたよ」

「……その報告は聞きたくなかったわ」

「酷いなあ」


 大して酷いとも思ってないくせに。

 こちらとしても、もう何度この男と顔を合わせたかは分からない。こちらを見透かす朧鳴帝と似た瞳や、胡散臭い完璧な笑みにも慣れてきた。


 司察局は、茉莉花の咲く大医の仮宿近くに位置している。互いに連携を取りやすくするためだろう。局の大きさは仮宿よりも随分広く、立派な建物からして金がかかっているように見える。

 門を潜り局の中に入るとまず受付があり、数人の宦官──司察が書類を手にしながら控えていた。麗殊は取り次ぎを全て朔に任せ、後ろに立ってやり取りを見守る。

 この十数日間彼と過ごして分かったのだが、後宮の人間は彼の頼みを断らない。皇帝の勅書を携帯しているのもあるが、皆、朔自身がかなりの寵臣であることを理解しているのだろう。


 ふと、受付の奥から視線を感じて麗殊はそちらを見る。すると、司察のうちの一人、二人が麗殊の顔をまじまじと見ていた。

 はて、何か付いているだろうかと思い、小さな手鏡を取り出すが、そこには特に変哲もない薄化粧の女が写っているだけ。では、服装はどうか。今日は栖遥が尚芸局に頼んで作ってくれた白桃色の襦裙を身につけている。高位の妃なのだから同じ服ばかり着ては体裁が悪い、らしい。


 麗殊が宦官たちを見つめ返すと、彼らは何事も無かったようにさっと視線を逸らす。どちらも宦官の中では年長の方で、朧鳴帝よりも十は歳上だろう。


「桃妃、おいで」


 ぼんやりと考え込んでいると、朔に手招かれる。取り次ぎが終わり、一人の司察が記録の保管室まで案内してくれるらしい。

 麗殊と朔は司察について行き、局の奥まったところにある一室へと案内された。扉には大きな錠が付けられていて、司察が懐から鍵を取りだして扉を開く。


「ここには司察局が関わった案件の記録が日付順に並んでいます。百年以内のものはこちらの棚に」


 麗殊たちが中に入ると、司察は左側の壁際にある棚を手で示した。


「複製、持ち出しは禁止しております。ここで閲覧した内容を外に漏らしてはいけません。では、私は外で待機していますので終わりましたらお声がけ下さい」

 

 司察は話し終えると、形式的な礼を執り、房室の外へと出ていく。ぎいっと重い音を立てて扉が閉められ、中には朔と二人きりになった。

 朔は司察が示した壁際に身体を向けて陳列された書物に目線をやりながら、麗殊に話しかける。


「あなたが調べているのは、二十二年前に起きた殺人事件だな。椿妃という妃が主犯だという」

「朔殿も以前から知っていたの」

「まあね」

「あなた、歳はいくつ?」

「ええと……今年で何歳だったかな? 忘れちゃった」


 朔はわざとらしく首を傾げてはぐらかす。どうやら答えてくれる気はないらしい。相変わらず、掴めない男だ。

 麗殊は諦めて朔の隣に並び、書棚に貼られた日付の紙を見ていく。そして、ついに目当ての記録書を見つけた。


「黎晟二十年七月……これかしら」


 麗殊は緑表紙の記録書を一つ棚から引き抜いて手に取る。これは、黎晟帝の御代になってから二十年目の七月の記録だ。これは、椿妃事件が起きた年月と同じである。

 麗殊は固唾を呑み、記憶にある日付の頁を開く。

 

 七日 槐妃、予純、病により逝去 

 九日 椿妃、香雲、世を儚み出家


「え?」


 おかしい。椿妃と槐妃の事件が殺人事件として扱われているのではなく、ただの妃の記録としてしか載っていない。それも、たった二行の。しかも、共に麗殊の知る真実とは異なる。


 ──こんなところまで捏造されているの?

 当時、椿妃事件に司察局は関わっていないのか。

 いいや、甜氏に届いた文書には、後宮で椿妃が槐妃を殺し、処罰として牢の中で毒を飲んだと書かれていた。その証拠は今も燃やさず残っているのだ。罪人の牢獄は後宮の外れにあり、それも司察局が管理している。関与していないはずがない。


 瞳を揺らして動揺していると、朔が麗殊の肩を叩く。


「君が欲しいのはこっちだろう?」


 そう言って朔は別の記録書を手渡し、麗殊は反射的にそれを受け取る。


「これは?」


 数頁ほどの薄い書物。紅の表紙には、大きく禁の印が押されていた。恐る恐る頁を開くと、掠れた墨で黎晟二十八年七月七日という記載が目に入った。

 麗殊は勢いよく顔を上げて、朔に問い詰める。


「これ、どこにあったの!?」

「棚の裏だよ。司察局の中でもごく一部しか知らないんだ」


 そのごく一部しか知らないことを、どうして朔が把握しているのか。疑念が頭を掠めるが、意識は手元の書に吸い込まれていく。我慢ならずに、もう一度頁を捲る。


 黎晟二十八年七月七日、皇后主催の七夕節の宴が開かれた。連日の嵐により参加者は少数に抑え、皇帝、皇太子、皇太孫、皇后、四夫人とそのお付きの者たちであった。

 宴では豪華な夕餉が振る舞われたが、その途中、槐妃が不調を訴え、宴は中止された。大医が治療に当たったが、既に毒素が全身に周っており、槐妃は逝去。

 その後、槐妃の膳に猛毒が含まれていることが判明し、宴の夕餉の膳を担当した椿妃を主犯として捕らえた。宴から二日後、椿妃は罪を認め、賜死により死亡。


 記録の概要はこうだった。麗殊は初めて知る事件の詳細に、鼓動が速まるのを感じる。

 事件が起きたのは、七夕節。奇しくもあとひと月後に、七夕節がやってくる。


 ──もし、私たちの信仰が誤りで、この記録が正しかったら……?

 事実然とした記録を前に、突然、恐ろしい想像が麗殊を襲う。麗殊は椿妃に直接会ったことはない。祖母や母から心優しく気高い人とは何度も聞いていたし、彼女たちの記憶の中で彼女を見たことはある。しかし、本当のことは分からない。


 ──でも、わざわざ隠すくらいだもの。これは真実ではないはずよ……自分を、甜氏を信じて。

 震える手に力を込めて、ぐっと気を保つ。揺れる視界の中で、ある文字に目が留まる。


「皇太孫?」


 先程は流し読んでしまっていたが、もう一度見返してみると宴の参加者に"皇太孫"の字がある。二十二年前は黎晟帝の御代、その皇子は臝寛帝だ。では、孫は──。


「朧鳴帝……主上も、宴に参加していたんだわ……!」


 朧鳴帝は現在三十歳、遡れば事件当時は八歳だ。朧鳴帝は麗殊に対して、まるで椿妃のことを誰かから伝え聞いたかのように話していたが、彼も椿妃と直接関わりがあったではないか。

 ということは、朧鳴帝も事件の真相について何か知っているのでは。


 ──それを彼の口から聞くことができなくとも、彼の記憶を読むことができたら、椿妃事件の鍵が見つかるんじゃ……。

 幻食の儀式で食べる料理は、宴で椿妃が振舞ったものを再現すればいい。尚食局に記録が残っているはずだ。触媒さえ、どうにかできれば。

 予想外のところから真相解明の糸口が見つかり、麗殊に気力が湧いてくる。


「桃妃、何か分かったのか? 主上がどうとか言っていたけど」

「ええ、とても進展したわ。連いてきてくれてありがとう」

「へえ」


 麗殊が口角を上げて言うと、朔は興味深そうに片眉を上げる。

 この男のおかげで重要な記録が見つかった。感謝しなければ。梅妃の件のお礼もまだだし、後で手料理でも振舞ってあげよう。


 麗殊はもう一度赤表紙の記録書を開いて中身を必死に暗記する。それが終わると、待機していた司察に礼を述べ、軽い身体検査を受けた後、朔と共に司察局を出た。


 朔はそのまま仮宿へ立ち寄ると言うので、麗殊は彼と別れ、一人で桃晴宮への帰路に着く。

 先程読んだ記録について考えながら歩いていると、ふと、周囲から囁き声が聞こえてきた。


「桃妃様、四夫人に昇格したのはいいけれど、まだ一度もお渡りがないんですって」

「あら、そうなの? 主上は彼女に魅了されて位を上げたのだと思っていたのに」

「どんな手を使ったのか知らないけれど、お飾りの妃なんて惨めね」


 気づかれないように横目で声の方を見ると、見覚えのある顔が二つ並んでいた。いつの日か朧鳴帝によって九嬪が黄瑞殿に集められた時に共に居た、あまり関わりのない中嬪宮の嬪たちだ。

 彼女たちは道の端で、わざと聞こえるような声量で話し、憎しみの籠った眼差しを向けてくる。八百長めいた昇進に対して気に食わないところがあるのだろう。麗殊が妃になってから、九嬪や嬢妤たちから度々こういった視線を向けられる。


 ──まあ、閏に呼ばれないのは本当だから仕方ないわね。

 今夜は蘭妃が、今夜は菊妃が、などという情報は後宮に身を置く限り嫌でも耳に入ってくる。炉辰や栖遥はそのような話はしないけれど、年頃の宮女たちは皇帝や妃の夜事情を好むのだ。


 朧鳴帝は麗殊の愛など求めておらず、この才が欲しいだけと言っていた。麗殊自身も立場上の寵愛は望むが、彼の真の愛が欲しいわけではない。むしろ、情ならば……。

 そのとき、麗殊の指に触れた大きな手のひらが思い出される。


『あなたの身に何かあってはいけない』


 ──なにを馬鹿なことを……。

 無意識に朔のことを考えていた自分に気が付き、麗殊は首を横に振る。己は既に皇帝の妃として入宮した身だ。それに、今は愛を求められずとも朧鳴帝の傍に近づかねばならない。彼の記憶を見るために。むしろ触媒を手に入れるためにも、閨に呼ばれた方が好都合なのだ。


「待った」

「?」


 悶々としてため息をついた時、突然誰かに肩をとんと叩かれる。

 ここはまだ桃晴宮から離れた道で、他の妃嬪の宮が並んでいる。はて、知り合いだろうか……と後ろを振り向くと見慣れない女が傍に立っていた。

 茶色っぽい髪を一つにまとめ、翠緑の襦裙を着ており、麗殊よりも背が高い。全体的に装飾は少ないが、全体的に纏まりと気品が感じられる。


「誰でしょうか?」


 麗殊が問うと、女は涼し気な目を細くして、手に持っていた扇子を閉じる。そして、その先を麗殊の顎に添えて、くいと持ち上げた。

 女は麗殊の全身を上から下まで見渡し、口を開く。


「あんたが、桃妃だね?」


 そして、女は魅惑的に口角を上げた。

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