第40話「乙女の叫び」
制服に着替えた美羽は、急ぎ足で階段を駆け下りていた。
玄関先にあるデジタル時計を見ると、九時を少し過ぎた時間だった。
どんなに急いでも魁利のレースまでに間に合わない。そう頭ではわかっている。でも、終わり間際でも少しでも、その場に向かうことが今、美羽がやるべきことだと思った。
ローファーを履き、ドアを開けて家を飛び出す。長らく乗っていない自転車なんてあてにならない。走ったほうが早い気もする。
桐生ダムまでどのくらいだろう。こんな時、車があれば……なんて考えるだけ無駄だ。
息が切れるまで、肺を限界まで追い込んででも走ろう。
そう美羽が心に決めた丁度その時だった。遠くから迫ってくるけたたましいロータリーサウンド――その音の主は青いRX8で、美羽宅の目の前まで猛スピードで迫ってくるとドンピシャで止まった。
目の前で起きたことに理解が追い付かず、ただ立ちつくしてしまった美羽だったが、RX8の助手席ドアが乱暴に開けられ、その中から出てきた人物を見てさらに言葉を失った。
「お姉ちゃん! 早く乗って!」
「……乙女?」
「話は後! 今は急いで!」
「っ! うん!」
RX8特有の観音開きのドアが開かれ、乙女は後部座席に乗り換えた。
美羽は促されるまま助手席に乗り込みシートベルトを締める。その瞬間。
「っ!」
RX8のエンジンは瞬時に高回転までふけ上がり、クラッチミートとともにアクセルターンで車が百八十度回転すると、スキール音が収まると同時に猛然と来た道を戻り始めた。
何が何だかわからない美羽に、最低限の説明をしようと乙女が口を開く。
「この人は北佐久の顧問。今日見学に来たの、桐女と金山の試合を」
「えっ……」
美羽が驚いて運転手を見ると、米田は進行方向をしっかりと視界に捉えながらも、軽くお辞儀をした。
美羽は余計に意味がわからなくなった。去年度優勝校である北佐久が、一体なんでこんな弱小である桐女の偵察に来ているのか。
「……乙女は、なんで来たの?」
「どういう意味?」
「部員の頭数が足りないような弱小校にわざわざやってきて……もしかして新田さんの引き抜きとか?」
「……」
他意があったわけではない。美羽は思ったままを口にしただけだった。
けど、それがわかったからこそ乙女は許せなかった。
「ねえ、お姉ちゃん。それ、本気で言ってる?」
「……何? どういうこと?」
明らかに怒気をはらんだ声色だった。その理由が美羽には見当もつかない。
「お姉ちゃんはこれから何しに行くの?」
「……」
ああ、そういうことか。そこまで言われて美羽は、乙女が勘違いをしているのであろうと考えた。
今日、美羽自身が走る予定なのだと、そう思っているのだろう。
「乙女、違うの。私は今日、見学でもいいから来てほしいって新田さんに言われて……」
「そうなんでしょうね。で? お姉ちゃんはそれを真に受けたわけ?」
「……」
勿論、走ってほしいという気持ちが魁利にはあるだろう。だけど、それに関しては明確に断っているし、今更そんなふうに責められることでもないはずだ。
「乙女は北佐久の選手だろうけど、私は違うんだよ。桐女の選手じゃない」
「……だから?」
「私が走ったら、おかしいでしょ?」
「……」
正論だった。けど、正論で黙るくらいなら乙女だってこうしてやって来たりはしない。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「私ももういい歳だし、わからないでもないよ。お姉ちゃんが走らなくなった理由」
「っ……」
「でも、だからって……なんであきらめなきゃならないの? 私がそれを望んだ?」
「ううん。違うよ。私自身が決めたこと」
だから、乙女を責めたことはない。自分の出した結論なのだから。
「なら、なんで嘘ついたの?」
「……え?」
「私と走るって約束……まさか忘れた?」
「っ!」
忘れるわけがない。
心の中に確かにあるしこり。一時の糾弾から逃れるためについた、愚かで確かな罪だと美羽は思っている。
「お姉ちゃんのお友達だよね? あの、電話してた人」
「……うん」
「お友達は随分とお姉ちゃんのこと信頼してたみたいだけどさ、私はお姉ちゃんが平気で約束を破るって知ってるから」
「っ……そんなことは……」
「違うって言えるの!?」
「っ……」
走らないって決めた。
その美羽の決意は乙女に対する裏切りでもある。
「新田魁利が本気で言ったから観に行ってあげるんだよね? じゃあ、私の言葉は本気だと思えなかったってこと?」
「違う……」
「じゃあ、なんで約束を反故にするの?」
「それは……。違うよ……」
「違くないでしょ!? 現に今、お姉ちゃんは走ってないじゃない!」
「っ……」
返す言葉が見つからなかった。走るということから目を逸らし、乙女からの言及を頑なに避け続けてきた結果がこれだ。
いつか乙女も諦めてくれる。過去の美羽には価値を見出さないだろう。そう思っていた。
……美羽にとって、都合の良い解釈だ。
「乙女は現役選手の中でもトップクラスでしょ? 私はもう昔走っていただけの人だよ」
「都合の良い理由を見つけて満足? ふざけないでよ! ただ、怖いだけのくせに!」
「っ」
ドキリとした。美羽自身の甘さを見抜かれたような、そんな気がした。
実際昨日、シミュレーターなんかをやって、現実を思い知らされたばかりだ。走らないと決めた美羽にとっては、これ以上ない後押しになった。
そう思い込んでいた。けど……。
「お姉ちゃんは、自分が車から逃げた気がして怖いんだ。向き合ったら、逃げたという事実を直視しなきゃならなくなるから怖いんだ。……チャンスはいくらでもあったでしょ? きっかけは私でも、再開するチャンスはいくらでもあったでしょ? それでも背を向けた。その理由に私を使わないで!」
「そういうわけじゃ……」
「ならなんで、この間走ったのよ!」
「っ……」
本当にその通りだ。
自発的に走れるチャンスには、気づいても気づかぬふりをし続けていたというのに、走ることの言い訳を用意してもらったら、走りたくなってしまったのだ。
「ねえ、お姉ちゃん。あの新田魁利が、私にお願いしてきたんだよ? お姉ちゃんを走らせてほしいって」
「……え?」
「新田魁利なんてプライドの塊で、中学時代も周りに対して敵意むき出しで、トゲトゲしまくってた。その中でも、私には特にだよ。犬猿の仲と言ってもいいくらいだった。まあ、私も敵意むき出しだったしね。なのに、私にお願いしてきたんだよ? これがどういうことかわかる?」
「それは……」
練習試合に出られないと困るから……。
「それほどまでに、お姉ちゃんの走りに魅せられたんだよ!」
「えっ……」
「新田魁利に頼まれごとをされるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないと思ってた。……それが、お姉ちゃんを走らせてほしいだなんて……ひどすぎるよ」
「……乙女」
「こんなの悔しすぎるよ! ずっと頑張ってきたのにっ……。北佐久の部長だって、楽しそうにお姉ちゃんの話をしてた! 私の走りを見て、あそこまで目を輝かせていることなんてないのに! 結局、お姉ちゃんの走りに私はまだ及ばないって、そういうことでしょ!?」
「そんなこと……」
ない。だって昨日、美羽は乙女に勝てないと知ったのだ。
美羽が走るのをやめた後も、乙女は努力を積み重ね続けていて、その結果生まれた差を身に染みて痛感させられたのだ。
だから、乙女の走りが美羽の走りより劣っているなんてそんなこと……。
「あるんだよ!」
「乙女……」
「そんなにも、そんなにもお姉ちゃんの走りがあの頃のまま健在だって言うならさ! ブランクなんて感じさせないくらい走れるって言うならさ! この一戦だけでもいい……私にも見せてみなさいよ!」
「……っ」
「お姉ちゃん!」
乙女のほうが優れていると、美羽は、そう言うつもりだった。
でも、その言葉は声にならなかった。してはいけないと、そう思ったからかもしれない。
美羽は唇を噛み、そして目を瞑った。
数秒。自分の意思を確かめるように、美羽は自分の内側へと意識を向ける。
「乙女。私は――」
ゆっくりと、でも確かに強い眼差しで美羽は目を見開いた。そして……。
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