29代 加藤高明内閣
29代 加藤高明内閣(2585(大正14・1925)年6月24日~2587(昭和2・1927)年4月25日)
▽来歴・概要
尾張藩の下級藩士である服部重文・久子夫妻の次男として、尾張国海東郡佐屋(愛知県愛西市)に生まれた。明治5(1872)年、祖母・加奈子の姉あい子の嫁ぎ先である加藤家に養子に入る。名古屋藩立洋学校(愛知県洋学校、後の愛知県立第一中学(愛知一中))を経て、明治7(1874)年に東京外国語学校(現・東京外国語大学)に入学。明治14(1881)年、東京大学法学部(現・東京帝國大学法学部)を首席で卒業した。その後三菱に入社しイギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、明治19(1886)年、岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長女・春路と結婚。
大隈外相秘書官兼外務省政務課長を務め、駐英公使としてロンドンに赴任した。帰国後に第三次伊藤博文内閣の外務大臣(第17代)となる。一時官界を離れ、東京日日新聞(後の毎日新聞)社長や衆議院議員を2期務めた後、駐英大使として再度イギリスに赴任。帰国後、第三次桂太郎、第二次大隈内閣の外務大臣(26、28)となり、関東大震災時の山本権兵衛による挙国一致内閣時には文部大臣(31)として入閣した。
第17回衆議院議員総選挙において衆議院の過半数を超えること28議席の272議席を獲得した加藤率いる憲政会は、組閣の大命を受けたその日に閣僚名簿を捧呈し、親任式を挙行した。加藤は、愛知県出身者初の内閣総理大臣となる。政友会による政党内閣を組織した高橋内閣に続き、加藤内閣は憲政会による政党内閣として発足した。
加藤は、高橋内閣が行ったと同様に早期に臨時議会を召集して、加藤内閣としての施政方針演説を実施することとした。内閣発足の2日後、大正14(1925)年6月26日には臨時議会の召集詔書が発せられ、官報で告示された。7月29日、第52回臨時議会が開院式を迎え、翌30日に貴衆各院本会議に於て加藤首相は施政方針演説を行った。加藤首相は、軍縮で浮いた軍事費を装備の更新に充てることや新規の高等教育機関設立に関する追加予算についての説明と次の通常議会で衆議院議員選挙法の改正法律を提出することを宣言した。憲政会の案は、選挙権を満25才以上男子に付与することを定めており、選挙権付与対象者に財産制限を設けない、いわゆる普通選挙法であった。選挙区制は大選挙区制を採用した。この選挙区制度は、東京・京都・大阪のいわゆる勅令指定都市は数区毎や単独の選挙区、人口が比較的多い市(横浜市や名古屋市など)は市単独の選挙区、それ以外は数個の市郡や数個の郡で構成される選挙区に分けられ、3人から5人を選挙区議員定数とした。この選挙区制度を中選挙区制度と呼び、衆議院議員選挙制度は現在に至るまでこの制度によって運用されている。
加藤はこの他にも貴族院改革にも言及した。帝國学士院の会員から数名を互選により選挙して、勅任議員とするものであり、貴族院という「熟慮の府」に相応しい人物を新たに議員としようというものであった。
更に、加藤首相は、各省官制通則を改正して、政務次官と参与官を設置することを提唱した。若手の国会議員にこの職を充て、政策立案能力や政治能力を涵養することで政党政治をより実行力あるものにしようとした。
加藤内閣の提案した普選法案は次の第53通常議会で審議され、貴族院や枢密院の抵抗を承けつつも会期末の大正15(1926)年3月25日に成立した。これにより、制限選挙だったころと比べると有権者数は1700万人と5倍の数に増加することとなった。
加藤内閣期の国際関係は急速な対英接近であったと巷間いわれているが、それは正しくない。むしろ初期の頃は、対英も対米も穏やかな関係を維持しようと務めていた。選挙民の声に押されて、対英関係を強化しようとした憲政会の衆議院議員が、第52臨時議会において「日英同盟ノ重要性ニ鑑ミ日英軍共同演習ヲ実現スル建議」案を提出した。欧州大戦という総力戦を経験した日本軍幹部においてもこの建議は好意的に捉えられ、軍令部ではシンガポールや香港を基地に持つ英国中国艦隊との間で共同演習を行うことができないか、建議案の提出を知るや直ちに研究が始まった。陸軍においても、宇垣陸軍大臣は、欧州大戦後の世界とは、一国だけで戦争をするという時代ではなくなりつつあると述べて、これからは他国との共同作戦といったことも十分考究する必要があると訓示を発した。これにより、参謀本部と教育総監部との共同で考究が始まった。
しかし、この建議案は、立憲帝政党の議員により猛反対を受けた。帝政党代議士の花房承太郎予備役陸軍大尉は、憲政会提出の建議案が委員会審議に廻されると、その委員会で大いに反対した。共同演習ということになれば、必要に応じて日本国軍隊がイギリス軍隊の指揮下に入る可能性が生じるということではないかと議案の提出者を問い詰めると、提出者の憲政会議員がそういうこともあり得ると答えるや否や、大元帥陛下の統帥を他国に渡そうというのは統帥権の干犯であるとまくしたて、このような建議案の提出を許した加藤憲政会総裁を不忠の極みであると反駁した。帝政党の議員は10数名の議員数であり、容易に無視することはできた。しかし、憲政会の幹部会議において建議案を取り下げるよう指示が発せられた。これには、最大野党政友会から何の為に提出したとのかという声が挙がったが、憲政会が総体として親英勢力であることを改めて内外に示すとともに、日英共同軍事演習ということになればアメリカを刺激するようなことにもなるため、そのような内容についてはすぐさま軌道修正するという柔軟な対応を行えるということを示した形になった。
しかしながら経済関係に関しては、動き出していた。フィリピンにおけるマニラ麻栽培事業を中核とする日英の提携は加藤内閣が成立すると急速に規模を拡大していった。英国は日本が主体となっていたダバオ港の港湾規模の拡張工事に対して資金提供した。日本側も英国が整備していたマーシン港拡張工事に対して作業員の派遣を奨励した。香港上海銀行は、太田興業や古川拓殖との間に事業拡大の為の融資契約を結び、ミンダナオ島とレイテ島の一部地域は、日英資本により急速に発展が進むこととなった。
これに対して、フィリピン総督政府のあるルソン島では、フィリピン現地人から不満の声があがっていた。アメリカはルソン島のクラークフィールド陸軍航空隊飛行場に代表されるように軍事基地とその周辺や、フィリピン総督政府の周辺地域など、アメリカ人居住区については発展させたが、その地区にはフィリピン人を住まわせることはなかった。日英の開発地域がフィリピン人の居住を排除しなかったことから、扱いの差でフィリピン人の間で不満が生じていた。アメリカ人当局としてはフィリピンの独立は、フィリピン人自身が責任ある政府を樹立運営できるようになってからであるということから、経済的なことに関しても自立することを要求していたため、アメリカ本国からフィリピンの開発の為の資金を回すということはしなかったのである。
この様な情勢でフィリピン人の間では、日英と協調して生活レベルの向上を図ろうとするものが出始めた。そして、そのような外国勢力に阿るようなことをしていては、アメリカの機嫌を損ね、フィリピンの独立は遠のくとして、これらを掣肘しようとする動きを図る者も出始めた。
フィリピンの独立運動家達の内部で意見が割れているころ、イギリスは攻勢に出た。1925年11月10日、イギリス人商人たちが多く集うレイテ島マーシン市街に「イギリス文化協会」を設置した。同協会は、イギリス文化に関する振興事業を行い、フィリピン市民の文化の向上・発展を図るとともにイギリス・フィリピン市民相互の交流拡大に寄与することを目的として設置された。イギリスは、経済のみならず、文化的な意味合いでもイギリスの影響を浸透させようと手を打ってきた。イギリスは、インド、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、香港、上海を通るシーレーンの強化を図る為、フィリピンの一部に強い影響力を持とうと考えていた。協会理事長には、前香港上海銀行の頭取を務めていた、Glen Kent Beaton(グレン・ケント・ビートン)が就任した。
そして、この動きには日本の右翼団体である「玄洋社」とつながりを持つ日本人商人が、強い関心を見せた。11月10日は、日本国においては嘉日とされている。それは、慶応3年10月14日、すなわち1867年11月9日に時の将軍徳川慶喜が大政奉還の上表を朝廷に提出し、翌15日、すなわち11月10日にそれが受理された日であったからである。朝廷が政治権力を取り戻し、明治維新の始まった日であるともいえ、日本人の一部にこの運動に賛同し、賛助会員となる者が現れた。とはいえ、太田興業や古川拓殖といった現地日本法人の大手は、新たな活動の始まりに敬意を表するという祝辞を述べるにとどめた。東洋拓殖からは、高橋内閣の頃とは変って、商売上の協力関係に掣肘しないとして、放任主義に転じたが、流石にアメリカを刺激するような真似は慎もうと考えていた。
ビートン協会理事長は11月12日にレイテ州知事を表敬訪問し、友好事業への理解を求めたが、レイテ州知事側は、協会の活動がフィリピンの治安に悪影響を与えかねないのではないかと返すなど会談は不調に終わった。更に、ビートンは、11月22日にマニラに赴き、レオナード・ウッド・フィリピン総督を表敬訪問したが、10分程度で会談は終了している。
英国文化協会の存在は、フィリピン領内内部で問題視されるにとどまらず、米本土でも、問題となっていた。米本土では、イギリスがマーシンの地域一帯を自国の勢力圏に組み込むのではないかと恐れていた。クーリッジ政権のケロッグ国務長官は、オースティン・チェンバレンイギリス外相に対して、「英国文化教会の存在は、太平洋の現状維持を規定した四カ国条約に違背してはいないか。」と問いかけた。これに対して、チェンバレン外相は「該団体は、イギリス政府が後援して結成されたものではなく、民間の有志によって設立されたものである。更に英国文化協会は、香港・上海・東京・横浜・神戸・長崎にも支部を設けてあり、マーシンを殊更に対象としたものではない。」として、ケロッグ国務長官からのフィリピンへの植民地侵食の意図を否定した。
英米双方がつばぜり合いを続ける中、大正15(1926)年3月2日、マーシンのイギリス文化協会が入る建物に対して数発の銃弾が撃ち込まれた。ビートン理事長は、イギリス人の生命と安全を守る為として、イギリス人が租借する農場とその周辺の土地、マーシン港湾区域を鉄条網で囲い、農場で雇われていたり、商売上の付き合いがあるフィリピン人以外を締め出すこととした。更に、退役軍人を中心とした「警備員」を常駐させることを布告した。事実上の「租界」地域の創出に他ならないとしてレイテ州知事は鉄条網の解除などを命令したが、ビートン理事長は、犯人の検挙なくして自衛手段の解除はありえない、我々は安全に居住し、商売をする権利があるとして、これに断固として反対した。
再び英米の外交当局で折衝が行われた。チェンバレン外相は文化協会が中核となって布告された今回の措置は、イギリス政府の了解を得てされたものではないということは議論の全ての出発点であるとした。その上で、今回のイギリス文化協会理事長が行った布告が、フィリピン領内でのイギリス人の商行為が安全になされていないということがそもそものすべての原因であるとし、アメリカは四カ国条約によってフィリピンに関する権利を保証されているのだから、その責任を果たすべきであるということを強く要請した。イギリス側はアメリカ側に対して、フィリピン内のイギリス人を保護し、フィリピンの治安を安定させるようにせよと要求し、それができないのであれば自衛の権利ぐらいは認めろと暗に要求したのである。ケロッグ国務長官は、総督を通じてレイテ島の警備を強化するので、イギリス本国から文化協会へ、布告を取りやめて、鉄条網などで囲いを設けるのはやめてほしいと斡旋してもらうよう要請した。
こうして、3月3日のビートン理事長による布告は同月24日にフィリピン総督とレイテ州がイギリス人商人の保有する農場に関する警備強化についての合意が得られたことから撤回された。しかし、この布告騒動が新たな騒動の火種となった。
イギリス人商人の農場で雇用されていたフィリピン人農民が、フィリピンの独立運動家から、イギリスに媚びを売る売国奴的な評価を受けてしまったのである。もちろん大半の独立運動家はアメリカ側がフィリピンの治安維持について重要視し始めたことを理解したため、表立って動くことはなかった。しかし、思想的に先鋭化した一団により、イギリスの農場に雇われているフィリピン人農民の襲撃事件が起きた。
大正15(1926)年5月2日、レイテ州マーシンの郊外に住む、農民の家族5人(夫婦と子供3人)が虐殺される事件が発生し、その農民は夫婦がイギリス人の農場で、その長男が日本の古川拓殖の農場で職を得ていたことから、文化協会のビートン理事長は、再度の囲い込みと「武装化」を布告した。今回は日本側にも被害が生じたことから、囲い込みの範囲が更に拡大し、生命の安全が確保できるようになるまでは、交渉には応じないと断固とした決意をしめした。
英国文化協会への銃撃からわずか2か月という短期間での再度の事件に対して、今度はアメリカ側が折れるという形となる。最長で1年の期限はつけたものの治安回復までの間イギリス人自身の生命と安全を自分たちで守るために、警備員を常駐させることが認められた。ただしこの警備員の人員には、イギリス軍人や警察官を雇用してはならず、アメリカの保護領たるフィリピンにおいてイギリスの国としての介入を許すものではないということは充分に理解するように通告した。
以上の通告の通り、警備員には主に銃器で武装する英日人と警棒で武装するフィリピン人を採用し、マーシンの英日人の農場や居住区とそれ以外の地域の境に数か所警戒所を設置して外から来る人間を取り締まった。
この頃、イギリス・ロンドンの駐英日本大使館とダウニング街10番地、そして大日本帝國東京の駐日イギリス大使館と首相官邸の間では折衝が続けられていた。
明治44(1911)年に更新された日英同盟では、日米開戦となった場合に於けるイギリスの自動参戦の義務はないこととされた。明治42(1909)年、アメリカ合衆国国務長官ノックスによる東清鉄道中立化提案(満州の全鉄道を清国に返還し、列国の管理下に置こうとするもの)に対して、翌明治42年、日露間で第二次日露協約が成立し、両国が極東で保持する権益を相互承認した。即ち、ノックス提案への拒否を表明したのである。これにより、中国への経済的進出を意図するアメリカと日本との間で対立が置き、アメリカは日英の同盟関係を敵視するようになる。イギリス側はアメリカの疑念に対して、總括的仲裁裁判條約を締結した国との自動参戦条項の適用を排除することでアメリカを宥めようとし、これによりアメリカ側は一時は落ち着いたが、決して疑念が解消されることはなかった。アメリカは、ワシントン会議において、日米同盟を廃止に追い込もうとしたが、日本の欧州大戦への参戦と貢献によってイギリス側に同盟廃止の意思はなく、日本側もパリ講和会議においてイギリスが日本を積極的に引き立てたことなどを受けてこれまた廃止するつもりはなく、あくまでも「事務的に」同盟の延長をした。
この結果として、日米間で戦争になった場合にはイギリスには参戦義務はないが、英米間で戦争になった場合には日本に参戦義務があるという不均衡が生じていた。極東の地で英米関係が仇や下でなくなる状況において、イギリス側は、日本に対して、自動参戦条項の適用によらずして独自に参戦することをイギリス外相オースティン・チェンバレンと駐英大使松井慶四郎との秘密協定によって約した。
一方で、加藤首相は、関東大震災時に発効した震災国債、震災手形の事後処理が残っており、戦費の調達には難があるという厳しい財政状況を説明した。斯かる状況では積極的な軍事行動を起こすことは難しいと伝え、イギリスにはアメリカとの仲裁裁判にて事態の解決を図るべく、最大限の努力を望むと伝えた。しかし、その上で、同盟国としての信義に悖る不義理は犯さないことも言明しており、日本海軍は極東地域におけるイギリス軍の後方支援の充実を図る役割を担う形になるだろうと駐日イギリス大使に伝えていた。
フィリピン内部の混乱に対して、米国本国では施策が二転三転した。イギリス文化協会施設に対する発砲事件を受けて、米国の世論は、米軍駐留部隊を増派することで米領フィリピンの治安の悪化をくい止めようとする意見が大勢を占めていた。連邦議会においてもそのような声が挙がっていたのは確かではあるが、議会の大勢としてはやや冷静で、主に共和党の議員を中心として、派兵に費用をかけるよりもこの際イギリスに自身の租界を自力で守らせたほうが得であるという意見が大勢を占めていた。クーリッジ大統領は共和党選出の大統領でもあることから、当初はこの案に賛成していたが、世論の声に押され、在比米軍の増派による治安回復強化の施策を取り始めるに至るようになる。しかし、5月2日の住民虐殺事件以後様相は変化した。
5月2日以後、アメリカ国内の世論はフィリピン派兵をアメリカの正当な権利であるとして、フィリピンの非合法独立組織によるゲリラ活動の討伐を政府に要求した。このような行動は、アメリカに対する反逆であるとして、それを許さぬとする意見が国内を席巻した。政府側としてもこの意見にあらがうことが出来ず、また連邦議会においても派兵論が優勢になっていった。当時民主党選出の上院議員であったHumphrey Simon Worsley(ハンフリー・サイモン・ウォースリー)は、「もしここで、アメリカがフィリピンの治安から手を引くとすれば、アメリカの文明国としての地位は揺らぐ。自国領内では外国人の安全を守るのが文明国足る資格であり、これを放棄して安易な手段を用いて外国人の安全を外国人自身の手に委ねるのであれば、それは文明国の為すべき手段ではない。」と述べ、政府に対して派兵を促した。
今度はクーリッジ大統領の側が火消し役に廻ることとなる。1年の期限付きで治安回復の協力をイギリス側にゆだねたことに対して、連邦議会が反応した。クーリッジ大統領は、フィリピン増派を決定し、速やかな事態の収拾に努め、イギリス側の理解を得て、1年の期限の短縮交渉に臨む次第であることを議会に説明した。
日本海軍の創設は、幕府海軍の創設を以てその肇としている。弘化2年7月1日(1845年8月3日)、幕府老中の阿部正弘と牧野忠雅、若年寄大岡忠固、本多忠徳が、「海岸防禦の事奉はり談合取りはからふべし」と命ぜられ、海岸防禦御用掛(海防掛)に任ぜられた。続いて大目付以下の諸有司や支配向も海防掛に任ぜられて、海防・外交の政策立案と実施の推進力になりうる組織が幕府に成立した。この出来事を以て毎年8月3日を帝國海軍創設の日としている。1925年は、すなわち帝國海軍創設80周年の記念の年となっていたが、関東大震災の復興予算への配分を優先し、1年の延期となっていた。
大正15年8月3日、横浜沖において海軍創設80周年記念観艦式が開かれ、そこにイギリス中国艦隊海軍所属の軽巡洋艦1隻と駆逐艦2隻が参加した。イギリス艦隊の参加については、日本政府内部でも異論があり、幣原外相と濱口蔵相などはアメリカを刺激するとして、招待しない方がよいのではないかという意見があったが、海軍では慶事であることを理由に日本海軍の師匠であるイギリスを招待しないわけにはいかないとして、海軍側が押し切り、決行された。日英同盟の健在をアピールした結果になり、アメリカを刺激する形となった。カリフォルニア州では新聞社が英日の接近と日本排斥の記事を挙げたが、アメリカ政府はその点について反応できうる状況ではなかった。
1926年8月7日、マーシン・イギリス管理区域の一角に居するフィリピン人のホセ・ガルシア・イ・ライアスが射殺される事件が起こった。ホセ・ガルシアは、フィリピン独立運動家の一人であり、イギリスとも強調することでフィリピンの独立を果たしていこうと考えるグループの領袖的存在であった。また、彼はイギリス管理区域の自治委員会に所属しており、イギリス流の住民自治について学びながら、フィリピンの近代化について考究している人物でもあった。
ホセ・ガルシアは、8月5日、マニラ市街にて開かれていたフィリピン議会に出席した後、現在の居住地であるマーシンに戻ろうとしていた。フィリピン人独立運動家、特にイギリス人と懇意にしている者に対しては、在比米軍は監視を強化しており、彼もまた、マニラから出船する際やレイテ島に上陸する際に在比米軍の憲兵部隊から尋問を受けていた。ホセは、レイテ島でも最大の港湾となっているオルモックに上陸し、陸路でマーシンに向かっていたが、イギリス管理区域の2km手前にて、在比米軍の憲兵隊に発見され、尋問を受けた。憲兵隊はホセが旅行トランクの中に隠して所持していた文書を閲覧しようと試みたが、ホセはこれに抵抗した。このやりとりの際に部隊の一人が威嚇のために向けていたピストルが誤射を起こし、ホセは射殺されるに至った。
ホセの文書は、フィリピンの独立運動に関する自身の考えとそれに基づく行動指針を示したものである。ホセの研究によれば、イギリスとアメリカの緊張関係はアメリカ政府の眼をフィリピンに向けさせることができていると評価していた。この状況を利用して、アメリカからフィリピンへのの投資を増やすことに活用できないか2,3の試案が書かれていた。更にイギリスとの協調を維持することでイギリスからの投資が増え、フィリピン経済の更なる発展に繋がることが書かれていた。そこからさらに進めて、対英関係の親善を進めていくことで、他のヨーロッパの国々からの投資も働きかけていけないか、ゆくゆくはマーシンをフィリピンにおける「上海」のような国際交易都市にして発展させていくことはできないか、などなど将来の展望について書かれていた。
ホセの文書によれば、ホセはマーシンに上海租界のようなものを創出させようと考えており、フィリピンを保護領としているアメリカにとっては彼の行為は重大な背信行為であった。この文書を手に入れた在比米軍は、マーシン・イギリス管理区域に対して高圧的な態度で迫ることとなる。
8月12日、在比米軍は、ホセを自治委員会の委員としていた当時のイギリス管理区域をイギリスがフィリピンを領有する足がかりであるとして、イギリス管理区域と英国文化協会を危険視した。彼らは他の委員がアメリカのフィリピン統治を妨害しようとする意図があるかどうかを調査するために、イギリス管理区域を包囲し、イギリス人居留民を威圧した。これに対して、英国文化協会理事長にして、前香港上海銀行理事長であった、管理区域自治委員長グレン・ケント・ビートンは、在比米軍側に猛烈な抗議を行った。この時点では、ホセ・ガルシア・イ・ライアスの死が、在比米軍によるものであるとは思われておらず、抗議の内容はホセ射殺を初めとする悪化する治安の恢復と、米軍の高圧的な租界包囲の解除に対するものに留まっていたが、この騒動のさなかに現地在比米軍による銃撃戦が始まってしまった。
8月14日、ビートン自治委員会委員長と在比米軍部隊スティーヴィー・ダウナー陸軍大佐が会合しているさなか、自治区域を包囲していたアメリカ軍部隊と協同区域の警備隊との間で戦闘が勃発した。戦端を開いたのがどちらの部隊であったかは定かではない。だが、この戦闘は瞬く間に全世界に向けて発信され、英米間で戦争が始まったという印象を強く植え付けた。
すぐさま、ロンドン=ワシントン間で電報交渉が行われ、8月18日、スタンリー・ボールドウィン英国首相は、カルビン・クーリッジ米国大統領に対して、謝罪と賠償、さらにはイギリス人管理区域に対する自治権の保障と管理区域周辺の地域を非武装地帯とするように要求した。人数も武装も米正規軍に対して劣る警備隊の側から戦端を開くなどありえないという理由からボールドウィン首相は、イギリス側から銃撃を仕掛けていないと判断して、今回の不幸な銃撃戦の原因はあくまでアメリカ軍による射撃が発端であったと主張した。
これに対して、アメリカ側では、戦端を開いたのがどちらだったかはあくまでも不明であると主張した。ホセ・ガルシアの文書の存在はホワイトハウスに届いていたが、それがホセの個人的な書き物なのか、イギリス人の関与あるいは承諾の下に書かれたものなのかは分かっていなかった。このため、イギリス人管理区域を軍隊で包囲したこと自体が、イギリス人に対する不当な圧迫を在比米軍が為していたともとられかねず、対応に苦慮していた。
この問題は国際連盟にも持ち込まれた。国際連盟理事会は8月23日に招集され、スイス・ジュネーブの国際連盟本部において、平和的解決案作成の為の会議が開催された。会議では、この問題の当事国となったイギリスと日本は発言せず、常任理事国であるフランス、イタリア、ロシアを中心としてフィリピンにおける紛争解決案が討議された。また、国際連盟の定期総会は毎年9月に開かれており、理事会決議は総会にも提出されることとなった。欧州大戦による未曽有の惨禍の結果、設立された国際連盟は、極東の一角で発生しつつある国際紛争を防止すべく、調停案の策定を急いだ。
8月26日、国際連盟理事会は理事会決議第122号を採択した。同決議は、イギリス政府がアメリカ政府に対して18日に突きつけた要求の一部を取り下げ、現状の維持をアメリカ政府が正式に認めることとイギリス管理区域の外周に非武装地帯を設定することを条件として両国が和解するように働きかけるものであった。実は、イギリスにとってこの勧告は渡りに船の提案であった。ボールドウィンによるイギリス政府からの要求は過酷なものであるという意見が英国世論でもかなりの数を有し、強硬姿勢は戦争を誘発する虞があるとしてそれを嫌う市民の声が多くあったのである。
しかし、ボールドウィンによる要求と国際連盟理事会による調停案に対してアメリカ連邦議会が反発した。事情は定かではないにせよ、在比米軍の治安維持活動に反抗しているのはあきらかであり、イギリス管理区域や自治委員会は解散させて、イギリス人日本人農場への租借許可も取り消せという声が高まりだした。更には、元来モンロー主義を標榜するアメリカ国内では、国際連盟からの勧告それ自体を嫌う声が多くみられたために、国債連盟がフィリピン問題に干渉しようとする姿勢そのものを嫌いだした。
8月30日、米下院では米共和党の一部グループが、在比米軍がイギリス管理区域を強制接収することを求める法律案(フィリピン治安回復法、通称、ジョンソン=カーナード法)を提出した。彼らは、イギリス管理区域の存在がフィリピンの治安の不安定を招いているとして、この特殊地域の閉鎖が必要であると説いた。法律案では、合衆国大統領は、大統領令を以て、米領フィリピン総督にこの英国管理区域の無条件閉鎖を通告させること、受け入れられなければ、在比米軍による強制接収に訴えてでも閉鎖させるように強制措置を命じることを要求し、大統領はこの施策実施の為の予算措置を講じなければならないとする内容であった。この出来事は大きなニュースとなって、国際社会を駆け巡った。
9月6日、国際連盟総会は、理事会決議第122号を採択するとともに、アメリカ政府に対して強硬手段に出ざることを望み、かつ国際社会の平和と安定を維持するために国際連盟の調停を受諾するように望む旨の追加決議を採択した。しかし、これが火に油を注ぐ結果となった。
アメリカはこの時点では、国際連盟に参加していなかった。それがために、当然、連盟理事会においても、連盟総会においても、質問権も発言権も認められてはいなかった。故に、意見を表明する機会を与えられてもいないのにもかかわらず、一方的に勧告を受諾せよとは、全く以て民主主義的ではないとして、下院共和党多数と、下院民主党の一部が同調して、9月10日、ジョンソン=カーナード法は連邦議会下院で採択されてしまったのである。報道はこの件をセンセーショナルに書き連ね、大統領は正義の実現に協力すべしとも書いた新聞社もあったほどであった。
一方でイギリス側は慎重であった。欧州大戦の終結から10年も経過していない当時にあっては英国市民は再び戦争に訴え出ることを望まなかったのである。その英国市民も、国際連盟からの調停をにべもなく断り、あまつさえ英国人の生命・財産を不当に略奪しようとしてきたアメリカに対して悪感情を抱き始めた市民も出始めた。
9月10日の米下院決議の採択の報が出るや、直ちに加藤首相は、鈴木荘六参謀総長と鈴木貫太郎海軍軍令部長に対して秘密裏に使者を送り、秘密裏に戦時大本営の設置に関しての調整を為すように依頼した。加藤の素早い動きに両統帥部長は困惑したが、命下院の情報が世間一般にも知られるようになると、開戦ともなりかねないと判断し、戦時大本営設置への研究を速やかに開始した。この異例ともいえる早期の行動に際して、加藤首相は後日、イギリスに対するバックアップの体制を早期に固めることで日英同盟の成果を強調し、イギリスからの信頼をさらに高めるとともに、日英に隙なしという点を見せることで、アメリカに戦争の発動を躊躇させることを望んでいたと述懐した。
9月13日、アメリカ下院での法律案可決を受けて、東京の首相官邸では、加藤首相、幣原外相、濱口蔵相、若槻内相、宇垣陸相、財部海相の6大臣と、マクレナン駐日英大使、駐在武官のブロウズ海軍大佐との間で意見交換が交わされた。このとき、英米開戦となれば、日本は同盟国として英国に協力するという密約が為された。
このような中でアメリカ連邦議会上院は下院と違ってやや慎重であった。下院での法律案の可決を受けて、上院でも早期に可決すべしという声がアメリカ国民の間に広がったが、上院では法律案に対する審議が遅々として進まなかった。彼らは巧に決議を引き延ばし、大統領とイギリス首相の間での電報交渉に期待をつないでいた。しかし、アメリカ議会議事堂前では、連日にわたって法律案の成立を要求するデモ団体が上院に向けてシュップレヒコールをあげていた。上院議員の中には、選挙民から法律案の成立を要求する手紙が大量に届き、徐々に意見を買えるものが出始めた。
9月29日、ついに上院は下院から送られてきたフィリピン治安回復法案を可決するに至った。これによりアメリカ大統領は拒否権を行使するしかなくなったが、議会での状況を鑑みれば、拒否権を行使したとしても3分の2での再可決は必至であった。クーリッジ大統領は、それでも法律への署名を迷っていた。ホワイトハウス周辺ではイギリス管理区域接収を望む米国市民団体によるデモ行動が活発になっていった。フィリピン治安回復法可決を受けて、イギリス世論は激高した。10月2日の土曜日には、ロンドンのリージェントパークにおいて対米非難集会が開かれ、治安回復法への反発とマーシン地域に居住する英国人保護の為英軍駐留による警護を求める決議が大勢の賛同を以て可決された。
事態は急激に動き始めた。9月29日の米議会での法案成立を受けて、加藤首相は、鈴木荘六参謀総長と鈴木貫太郎海軍軍令部長に対して秘密裏に戦時大本営の設置を指示するとともに、宇垣一成陸軍大臣に対して陸軍三個師団の動員令を、財部彪海軍大臣に対して聯合艦隊に対する出師準備を秘密裏に発するよう指示した。
10月4日、米国政府は英国政府に対して声明を発した。
「米英両国が不幸にしてこのような状況になっている原因はフィリピン領内のマーシンに存在するイギリス人管理区域の存在にある。合衆国は、このイギリス人管理区域を解消することこそが米英両国の関係改善にとって唯一の手段であると判断した。合衆国政府は、英国政府がイギリス人管理区域に居住するイギリス人管理責任者に対して無条件に管理区域の撤廃させ、フィリピン領内から退去すべしとする命令を発するよう求める。この通告に対する回答はワシントン時間本年10月10日正午までに行うことを要す。また、この通告に対し、無条件で肯定的な回答を得られない場合は、在比米軍は、強制的にマーシンの区域に対して強制的な措置を実施し、それについて発生する可能性のある事態に対するすべての責任は在マーシンのイギリス人とロンドンの英国政府にあることを併せて通告する。」
あきらかな最後通牒の形式であるが、合衆国政府はこの行為が戦争につながるということを一言も言及していなかった。確かに、軍が他国の領域に侵入して、他国の軍隊を攻撃するという意味での戦争行為ではないが、少なくとも開戦自由になり得る行動であるということを米国政府は認めなかった。この声明がイギリス側をして激怒せしめたのは言うまでもなく、最早戦争であると言う声がロンドン市でに高まった。
10月5日、東京において再度の日英交渉が開かれ、英米開戦となった際の日本側の対応が決定された。その会合において、6日付で日本政府の名義で米国に対して非難声明を発することが決まった。
「米国がマーシン在住の英国人に対して強制措置を発動する際には、必然的にマーシン近隣に居住する日本人にも被害が出ることは明らかであり、日本政府は在外日本人の生命と財産の安全に責任を持つがため、在比米軍に対して対抗すべき手段の選択を迫られるしかなくなる。また、日本国は英国と同盟関係にあり、友邦の民が危殆に晒されんとされるときには、敢然として立たんとするは先の欧州大戦の時と一切変わりないことを了知されたい。米国政府においては、世界の平和に責任を負う大国の一国であることを自覚し、最良の選択をされんことを望む。」
日本政府の対米非難声明を受けて、米国の世論は一層硬化した。曰く、アメリカは戦争を望んでいないにもかかわらず、日本はフィリピンのアメリカの権益を奪取しようとして、米国に戦争をしかけようとしているという声が挙がった。これには、アメリカの政府首脳が首を傾げた。フィリピン治安回復法は、フィリピン国内における英国人の財産を剥奪しようとするものであることは明らかであった。英国人管理区域を租界のようなものだとすれば、英国の領域に軍を進めようとしているのは自分達であったからである。そうであったとしても、クーリッジは外交声明を巧みに言葉を使って、戦争という単語を使わず、アメリカは戦争をしかけようとしていないということを演出していた。フィリピンにおいて今後戦争が起こったとしても、アメリカから戦争を仕掛けてはいないということを少なくとも外交文書の上からは解釈させるだけの余地を残そうとした。
10月8日、英国政府は声明を発し、マーシンの英国人管理地域を無条件で解消させることはできないが、本来この措置は1年を限りとしたものであったはずで、将来的にこの区域を解消させることになっていることは明らかであるから、国際連盟による調停案の通りに非武装地帯の設定を以て暫定措置とされんことを望むとした。イギリスは戦争回避に向けて、将来的な英国人管理区域を解消させることを約束したが、米国政府は無条件での早期解消以外は認めないとの返答を翌9日に発した。これにて、英米両国の開戦は決定的なものとなった。
10月10日、ボールドウィン英国首相は、イギリス議会において対米宣戦布告についての演説を行い、同日イギリス議会はこれを承認した。議会の承認が得られたことを確認して、オースティン・チェンバレン英国外相は、駐英アメリカ大使に対して国交の断絶と対米開戦宣言文書を手交した。そして、同じく10月10日、英米関係が戦争状態に突入したのを契機として、日英同盟に基づいて日本はアメリカに対して宣戦布告を行った。これによって、日英対米という戦争状態が勃発した。
10月10日、米国政府の声明の通り、在比米軍はレイテ島マーシンの英国人管理区域へ軍を進めた。そして、同じく10日、日本による宣戦布告を受けて、ミンダナオ島ダバオにも軍を進め、両地域を「解放」した。両地域に住んでいた英国人と日本人は、敵性外国人という扱いを受け、財産は没収された。当初の予定では、英国人は北ボルネオやマレーシア、シンガポールなどの英領へ、日本人は日本へと自主的に帰還させることとなっていたが、戦争状態となったため、一時収容施設に送られることとなった。10日の時点では、フィリピン総督政府は、開戦に至ったからと言っても、それは、英日両国が自身の面子の立てる為だと思っており、特にイギリスは欧州大戦時にアメリカから多額の借款をしていた事情から財政的に本気で戦闘に至るとは思っていないと思っていたことから、近々にも収容船舶が来るものと考えていた。
10月10日、日本政府は戦時大本営を正式に設置した。そして、同日、以前から動員をかけていた第4師団、第5師団、第12師団の3個師団に対して正式に動員令を下達した。翌11日には、門司港や長崎港から第12師団、宇品港から第5師団、大阪港から第4師団の将兵が速やかに輸送船に乗り組み、聯合艦隊艦船の護衛を受けて、フィリピンに向けて出征していった。
日本軍の進発から遅れて3日後、英領マレーと北ボルネオからイギリス陸軍の植民地軍の10個師団が同じく順次出航していった。
この日本軍とイギリス軍の迅速な動きにアメリカ国民は激怒した。日本とイギリスはフィリピンでの商売を望んでいただけのはずなのに、これほど迅速な戦争準備をやっていたではないか。やはり日本やイギリスはフィリピンを手に入れようと牙を磨いていただけではないかと。そして、卑劣なイギリスと日本を許すなと言わんばかりに、合衆国陸軍をフィリピンに送り、日本とイギリスを懲らしめ、英日の陰謀的な策謀があったことを世界に喧伝せよと。強硬な世論の一方で、米陸海軍では戦争準備というほどのものは進んでいなかった。米陸軍はフィリピンの治安回復の為の増派を考えており、そのため現地人相手ならば旧式の装備でも充分であろうということで旧式の装備で武装した陸軍部隊が出征準備を整えていたに過ぎなかった。米海軍は、米本土から長距離航海をしてフィリピン沖まで向かっての戦闘を想定していなかった。ハワイ王国での給炭に関しては戦時であっても認められていたが、ハワイ王国内にアメリカ海軍の基地を置くことは四カ国条約によって許されていなかったため、米領グアムまでの長い航海に海軍の将兵が耐えられるか不安であった。いずれにせよ、事が始まってしまった以上、クーリッジ大統領は対英・対日の宣戦布告を議会で取り付けて、戦争状態が始まった。
10月20日、日英両軍は共同でフィリッピン上陸作戦を開始した。英領マレーと北ボルネオのイギリス軍10個師団は、パラワン島に2個師団が上陸し、マレーや北ボルネオとの航路を維持し、パナイ、ネグロス、セブ島にそれぞれ1個師団が上陸した。マーシンのあるレイテ島には2個師団が上陸して、早々に管理区域を接収し、付近で収容されていたビートン英国文化協会理事長以下のイギリス人と日本人を解放した。マーシンを再占領した後は1個師団のみを残し、サマール島やミンダナオ島に向かわせた。日本軍は、第12師団がレイテ島に先行して上陸し、在比米軍に対して攻撃を開始した。ミンダナオ島には北から第4師団が、南から第5師団が上陸して、ダバオを占領した。3個師団からなるフィリッピン派遣軍は、白川義則陸軍大将が軍司令官として、本庄繁陸軍中将が参謀長として軍を率い、ダバオ方面での戦闘に従事した。
いずれの戦闘においても、基本的に在比米軍は米軍と言ってもいわば左遷先の軍隊でもあったことから練度が低く、早々に降伏した。こうして、開戦劈頭に日英両軍は各地で大勝利をおさめ、総数で5万人にもなる大量の捕虜を得た。同時に日英軍はフィリピン各地で戦闘を行ったものの追撃戦を行うだけの余剰戦力は有しておらず、米軍部隊はルソン島に逃れ、首都マニラでの再編成を行う形となった。
捕虜の処遇については、近隣諸国の手を借りることとなった。オランダ領インドネシアやフランス領インドシナに捕虜収容を委託し、その委託料は後日清算することとした。但し、これが国際法上の中立法規に抵触したとして問題となった。
開戦から2週間も経過しないうちに、フィリピンの南部が瞬く間に陥落し、米国民の士気は急速に降下した。日英両国は、太平洋の現状維持を規定した四カ国条約に違反して、米領フィリピンに攻め込んでいるにもかかわらず、当事国の一国であるフランスは沈黙しており、米国民の中には、なぜ自分たちがこのような目に遭わなければならないのかと悲観する声が出始めていた。国際連盟理事会は紛争の早期解決に向けて動いていたが、アメリカ政府としてもこの状態で紛争解決を図るとしても戦前のそれよりも条件が悪くなることは明らかであったことから、フィリピンの奪回に乗り出すことは当然の理屈であった。アメリカにとって唯一安心できることが、イギリス本国が今回の紛争においては、オーストラリアやカナダに対米参戦を命令しなかったことである。もっともこれはイギリスがフィリピン近海での局地戦を意図していたからである。勿論アメリカ側がそれに乗るかどうかはまた別の話ではあるが、少なくともイギリス側にはこの戦闘を北米大陸やオーストラリア大陸など世界各地で戦闘が勃発するような大戦に発展させるような意図はないというメッセージを暗に発していた。
緒戦の敗退に動揺する米国民ではあったが、やられたままで終わるわけにはいかないと本国からフィリピンに向けて陸軍部隊が出征する方針が進められていった。しかし、陸軍の出征には海軍が反対していた。
ワシントン軍縮会議で日本海軍は戦艦「陸奥」の建造が認められたことから、日本海軍は「長門」と「陸奥」の16インチ砲搭載艦を保有していた。これに対して米艦隊は「コロラド」、「メリーランド」、「ウェストバージニア」の3隻を太平洋方面に配備していたため、日本海軍に対して質的には優位にあった。とは言え、日本海軍は日清、日露、欧州大戦と、戦闘を重ねており、艦隊の練度は高いものと考えられていた。欧州大戦では、アメリカ軍は陸軍部隊を欧州大陸に派遣したが、海軍は戦闘らしい戦闘を行っていなかった。このため、アメリカ海軍は質的な優位を維持できるのか不安を抱えていた。イギリス海軍については、西太平洋方面に配属されていたのは、東インド戦隊と中国艦隊の2つの部隊があったが、いずれも旧式艦が配備されていたことから脅威には感じていなかった。
質的に優位な状況にあるのに、臆するのかという米国民の怒りが米海軍を襲い、ワシントンの海軍省にデモ隊が押し寄せて、艦隊の出撃を促した。カリフォルニアの新聞社は社説で、「日本は列強の一角というが老大国イギリスのスカートの中に隠れて、フィリピンの利権をむさぼるような国ではないか。しかもまだ世界各国に移民を送り込もうとしている貧しき国だ。何を恐れることがある。」として、米海軍に決戦を為すように強く主張した。
こうして、国内の声に押されて、米陸軍6個師団のフィリピン派遣と、その護衛及びフィリピン近海での艦隊決戦を意図して、米艦隊の出撃が決定された。11月18日、アメリカ海軍は、太平洋艦隊(戦艦10隻(内3隻は16インチ砲搭載の「コロラド」、「メリーランド」、「ウェストバージニア」の3隻)、巡洋艦15隻、その他の戦闘用艦艇64隻、輸送船200隻)を太平洋艦隊の母港サンディエゴからフィリピン近海に向けて出港させた。
米太平洋艦隊がフィリピン奪回のため米本土を出港した。日英両国がこれを撃滅するべく決戦を挑んだのが、レイテ沖海戦である。
アメリカ太平洋艦隊は12月5日、米領グアムにて最後の補給を行い、一路フィリピンを目指した。日本海軍は、米国艦隊の航路が万一にも日本本土へ向かうことであったことを考慮して、太平洋側の鎮守府付近に艦隊を集結させていたが、米国艦隊がフィリピンに向かうことを確認して、順次フィリピンに出撃していった。そして、12月8日、日本連合艦隊(戦艦6隻(長門、陸奥、扶桑、山城、伊勢、日向)、巡洋戦艦4隻(金剛、榛名、比叡、霧島)、巡洋艦15隻、その他の戦闘用艦艇51隻)及びイギリス東洋艦隊(戦艦2隻(14インチ砲搭載艦)、巡洋戦艦2隻、巡洋艦4隻、その他の戦闘用艦艇24隻)の連合軍は、レイテ島を目指す米艦隊を相手にした一大艦隊決戦が行われた。
12月7日午前7時17分、フィリピンとグアムとの航路を哨戒中のイギリス駆逐艦がアメリカ艦隊を発見し、即座に日英艦隊へ無電を発した。日英艦隊は航行目的地をレイテ島と判断した。日本連合艦隊は北から急行しており、イギリス東洋艦隊は西の英領北ボルネオからスル海、スリガオ海峡を抜けて航行しており、日英艦体で挟撃する形を採ろうとした。
翌日午前9時13分、イギリス東洋艦隊はサマール島の北東沖合60kmの地点でアメリカ太平洋艦隊を発見した。イギリス東洋艦隊単独の戦力では、太刀打ちできないため、東洋艦隊は変針した。日本艦隊との挟撃を企図したが、アメリカ太平洋艦隊は急速に速度を上げて、イギリス艦隊へ向かっていった。徐々に彼我の距離は縮まり、午前10時35分、アメリカ艦隊は戦艦の主報射程圏内に達したことで、砲戦を開始した。
砲戦開始より15分後、アメリカ艦隊による砲撃でイギリス艦隊の駆逐艦に命中弾が発生し、一隻が撃沈したのを皮切りに、イギリス艦隊も本格的に交戦に突入した。11時7分、イギリス戦艦バーラムに対してアメリカ戦艦の主砲弾が命中した。バーラムは大破し、急速に速度を落としていった。戦況はアメリカ太平洋艦隊に傾きつつあったが、11時17分、戦場海域に突如スコールが発生した。季節外れのスコールに英米艦隊はともに慌てて、お互いに照準に乱れが生じた。
11時41分、日本聯合艦隊が戦場に到着し、米艦隊との距離25kmまで迫った。日本聯合艦隊は、旗艦戦艦長門を先頭にして、複縦陣で米艦隊に襲い掛かった。発砲開始からわずか3射目にして、長門の40サンチ砲主砲弾がアメリカ戦艦ニューメキシコに命中し、大爆発を起こさせ、落伍させた。流石の練度に慌てた太平洋艦隊は即座に同口径のコロラド、メリーランド、ウェストバージニアの3隻を英海軍への砲撃から外して、長門・陸奥に砲撃戦を開始した。米艦隊は長距離の航海と目的地直前での海戦といった事情で艦隊の士気を落とし、突然のスコールと言った不運がそれに拍車をかけ、更には優勢の敵の到着と反転攻撃といった指揮の乱れから精彩を欠いており、質的な優位を生かすことができなかった。
砲戦開始からわずか10分後、5発の命中弾を受けた先頭艦メリーランドは大火災の末、その機関を停止させた。コロラドは舵付近に命中弾を受け、戦闘行動に支障が出、ウェストバージニアには、戦艦陸奥のものと判定された砲撃が弾火薬庫に命中し、一瞬にして轟沈した。16インチ砲搭載艦の戦いは完全に日本に軍配が上がった。
戦闘の結果は日英両艦隊に軍配が上がった。イギリス東洋艦隊は、既に戦艦バーラムが大破し、東洋艦隊旗艦であった戦艦ロイヤル・オークにも中破以上の被害が出始めていた。巡洋戦艦ライオン及びプリンセス・ロイヤルの2艦はロイヤル・オークの盾となり大破していた。巡洋艦以下の艦艇にも撃沈3隻、大破12隻という損害となった。イギリスの東洋艦隊は壊滅的な被害を受けた。アメリカ艦隊では、戦艦ウェストバージニア、ニューメキシコ、フロリダ、ユタ、ペンシルベニアの5隻が撃沈し、メリーランド、ネバダ(戦闘終了後に自沈)、コロラド、オクラホマ(降伏)の4隻が大破していた。巡洋艦以下の艦艇も撃沈8隻戦闘不能の大破24隻となっていた。日本艦隊は、戦艦扶桑・山城・比叡・霧島が大破炎上にて戦場から落伍、長門・陸奥・金剛・榛名が中破以上の損害を受け、戦闘行動に支障あるがなおも攻撃を続行中、伊勢・日向が中破の判定となるも戦闘行動に支障なしという状況であった。日本海軍では巡洋艦以下の艦艇が米艦隊に肉薄して、魚雷戦を仕掛けるなどしたため、撃沈4隻、大破19隻と大きな損害を受けた。
この海戦の結果、アメリカ太平洋艦隊はその主力艦の殆ど全てを失った。3隻の16インチ砲戦艦の全てが失われたことは、アメリカの継戦意思に大きな打撃を与えた。加えて、レイテ島に向けて航行中であった上陸軍輸送船団は、流石に護衛艦隊をつけて戦場からは離れた海域にいたものの、日本海軍部隊に後方を遮断され、その全てが捕虜となったことはアメリカ世論を激しく動揺させた。
12月8日の海戦を受けてルソン島に集結していた米軍ではこのまま決戦か降伏かの激論が交わさせていた。制海権を失ったことから補給も断たれた部隊に戦闘を継続することは難しいと考えられた。しかしながら、海戦に敗北して、激しく動揺していた米国民ではあったが、このまま負けたまま終われるか、仕掛けてきたのは英日側ではないか、どうして侵略者に和を乞うような真似ができるかと停戦講和を望む声は小さかった。加えて、米政府や米連邦議会の中でもこのような状況では、講和の条件が厳しくなることは目に見えていたため、ルソン島での決戦に勝利することで講和条件を少しでも緩和させることに望みをつなぐ声が多く、ルソン決戦の声は止むことはなかった。
一方、日本側では、制海権を維持したために大破した主力艦を回航させることができたが、その修理の為に時間と資源に大きなリソースを割かねばならず、関東大震災の復興予算の償還も控えていた日本には、陸軍部隊の追加動員は予算的に厳しかった。イギリスでも、植民地軍を追加して、ルソン決戦を図ろうとする声はあったが、開戦劈頭の奇襲による勝利はできたが、開戦から時間が立ち、戦闘への備えを充実させたであろう米軍部隊を攻撃することは、植民地軍の練度から言って可能かという軍部側の声もあったことで大きな支持は得られていなかった。何よりも、米国をフィリピンから完全に追い出すことになっては、米国も意固地となって引くことができなくなりはしないだろうかという懸念がイギリス首脳にはあった。ルソン決戦を企図する米国側とルソン決戦を避けたい英日側とで奇妙な沈黙の時間が続いたが、事態は急速に動いた。大日本国帝國大正天皇崩御の報が全世界を駆け巡ったのである。
大正天皇は大正15(1926)年年初から風邪を引き、5月に完治したものの再び脳貧血を起こし、ほぼ歩行が不可能になった。8月に車椅子に座ったままの状態で、原宿駅の皇室専用ホームから列車に乗り、葉山御用邸へ移住した。葉山転地後は小康状態となったが、10月末から38度を超える高熱が続いていた。12月8日に呼吸困難に陥り、急遽取り寄せられた酸素吸入器が使われ、新聞号外が出された。この日以降、葉山には皇族や生母柳原愛子、政府高官の見舞が相次ぐ。12月14日には体温が39度に達し、食事がゴム管による流動食に切り替えられた。12月16日、呼吸が浅くなり不整脈が出始める。天皇危篤との報が東京に届くと、加藤高明内閣総理大臣以下全閣僚から枢密顧問官、元老、重臣まで揃って葉山へ駆けつけ、現地は駆逐艦3隻も出動するなど厳重警戒体制がとられた。病状は一時小康状態となったが、12月24日午後から肺炎が悪化し、午後7時に危篤となった。そして、翌日の大正15(1926)年12月25日午前1時25分、皇后や皇太子夫妻、皇族、生母柳原愛子が見守る中、心臓麻痺により崩御あらせられた。
宮内省から午前2時40分に崩御が発表されたが、同時に加藤首相は、ラジオメッセージにより天皇崩御の報を全世界に向けて発表した。そのメッセージ中に加藤は、諒闇(天皇の喪)の明けたる際には、即位の大礼が挙行されるが、その式典には、駐日アメリカ合衆国大使にも是非とも御参列を願いたいという希望を述べた。時季的には。欧米でいうところのクリスマス休戦の申し出に近いが、加藤はそれよりさらに踏み込んで、終戦講和に向けた休戦を申し出たのである。更には、征夷大将軍公爵德川慶久も、大行天皇の発喪につき帝國陸海軍全部隊に対して戦闘行動の一時停止を加藤首相と大本営両統帥部長に指示するとともに、英米両国軍に対しても軍務に支障がない限りにおいて先帝の服喪につき協力を願いたいと「伏して願う」とするラジオメッセージを発した。
世界を駆け巡った天皇崩御の報にスタンリー・ボールドウィン英国首相は、即座に反応した。日本天皇の崩御を悼むとともに、新天皇の即位を祝い、プリンス・トクガワのメッセージに理解を示し、既定の作戦行動を中止するよう軍部に通達を発することを約束した。一方、カルビン・クーリッジ米大統領は、日本天皇の崩御に対して哀悼の意を示し、数日間の戦闘行動の停止を確約したが、米軍の今後の作戦行動については掣肘されないことを述べた。
欧州各国の君主や政府からも次々と弔意の電報が発せられ、欧州各国の市民にもこれを機に平和恢復をという声は高まったが、米国市民の世論は戦争終結へは向かわなかった。元々、共和制の国であり、敵国の君主の死がどうして我々の政治的決断に影響を与えることができるのかということで、逆に戦争継続を望む声に変換されていった。
1927年に入り、新年行事が終了することになると、ルソン島の米軍では戦闘再開に向けた訓練や防御陣地の構築が再開された。米軍は、レイテ島への侵攻作戦ではなく、英日軍を迎え撃つ方針が堅持されていた。ワシントンにおいても同様に戦闘再開への議論が始まっていた。合衆国陸軍は失った兵力を回復させるために徴兵を始めたものの、米太平洋艦隊が壊滅したため、戦力を送り込もうにも送り込むことができず、大西洋艦隊から艦艇を回航させようにももともと大西洋艦隊から太平洋艦隊に戦力を移していたため、めぼしい戦力は存在せず、戦闘再開への手段は存在しなかった。米政府は、米国民に対するポーズとして戦闘再開についての姿勢を示していたにすぎなかった。
斯くして、国際社会において動きが起こった。日露協商を結んでいたロシア帝国は欧州大戦において日本軍の支援を受けて、共産主義勢力を駆逐した経緯から、元々日本寄りの姿勢であった。対中問題においても利権をすみ分け、むしろお互いに協力して対中利権を守っていた。対中利権の確保の問題からは、戦争状態の早期終結が望ましいと判断し、対米講和勧告を為そうとした。ロシアは、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアの列強諸国を招いて、講和勧告の為の会議を開いた。1927年2月4日から11日にかけて、ロシア帝国の保養地ヤルタに露仏独墺伊の外相が集まり、英米日三国への講和勧告会議が開かれた。その会議最終日に、早期の戦争の終結、フィリピン問題の公平なる解決、欧州大戦において範の示された名誉ある講和を目的に、中立国ドイツ国が講和会議の開催国となることが宣言された(ヤルタ宣言)。
英日は、ヤルタ宣言に対して即座に同意を示し、交渉団を送ることを宣言した。アメリカは当初動の動きは鈍かったが、国際社会からの非難の声に圧され、2月27日、フィリピン全島に対して米軍の戦闘行動の停止を宣言した。あくまでも、一方的な宣言であり、武装解除などには応じないというものであったが、米軍による敵対行動は一切行わないという宣であることを以てこの日が西太平洋戦争の休戦が成立した日とされている。但し、正式には、ドイツ国首都ベルリンに於て、Henry Brandon Nash(ヘンリー・ブランドン・ナッシュ)駐独イギリス大使、本多熊太郎駐独日本大使とCyrus Robert Ogburn(サイラス・ロバート・オグバーン)駐独アメリカ大使との間で、Adalbert Arnulf Siebel(アーダルベルト・アルヌルフ・ジーベル)ドイツ国首相を立会人とした休戦協定(ベルリン休戦協定)が締結された3月5日が休戦の日となっている。
講和会議の舞台として選ばれたのが、ドイツ国ベルリン郊外のポツダムにあるツェツィーリエンホーフ宮殿であった。3月15日、第1回の講和会議が行われた。交渉参加者は以下の通りである。
グレートブリテン及アイルランド連合王国
Sir Joseph Austen Chamberlain(サー・ジョセフ・オースティン・チェンバレン)、外務大臣
Henry Brandon Nash(ヘンリー・ブランドン・ナッシュ)、駐独大使
大日本帝國
幣原喜重郎、外務大臣
本多熊太郎、駐独大使
子爵石井菊次郎、駐仏大使
アメリカ合衆国
Frank Billings Kellogg(フランク・ビリングス・ケロッグ)、国務長官
Cyrus Robert Ogburn(サイラス・ロバート・オグバーン)、駐独大使
講和会議においては、イギリスが、
1、レイテ島マーシンのイギリス人管理区域に対する25年の管理期限延長
2、マーシン周辺地域の非武装化
3、戦費及び損害に対する賠償
日本側が
1、フィリピンにおける商業活動の維持
2、戦費及び損害に対する賠償
共同要求として
1、国際連盟を主導とした新たな軍縮会議の開催
2、講和条約締結と同時に拿捕した米艦艇の引き渡し
3、捕虜収容費用の償還
を講和条件として提出した。
講和会議はアメリカ側の抵抗もあって難航した。3月18日の第2回の会合においてアメリカ側は日英両国の出してきたすべての条件に対して、不同意の意思を伝えた。いずれの要求も名誉ある講和に基づく条件ではなく、フィリピンはアメリカの保護領であり、それは四カ国条約に規定されているところであるとして、逆に日英軍が戦端を開いたのを四カ国条約違反であるとして、反駁した。主力艦のほとんどを喪失した米国にとって、軍縮の提案は賛同できるが、アメリカは国際連盟に参加しておらず、自国不在の状況で兵力量を決められることを呑むわけにはいかないとした。捕虜費用に至っては中立国に捕虜を収容させるのは国際法違反であるとして、避難した。
アメリカは全ての提案に対して反対したが、このころになると、米国政府には戦争を継続しようとする意思を欠いていた。とはいえ、ケロッグ長官以下は、戦争再開への意思を示し続けなければ、講和条件の緩和はなしえないとして、強硬な姿勢と戦争再開も辞さずという姿勢を取り続けた。
日英両国は3月25日の第3回会合において、いくつかの要求緩和を為した。まず、軍縮問題に関して、国際連盟総会の関与はさせず、国際連盟理事会に軍縮に関する委員会を設け、その席ではアメリカ代表の発言権と評決権を認めるという方式を採ることで、国際連盟に加盟していないアメリカに対して配慮した。マーシンのイギリス人管理区域の管理期限を10年とした。期限が長期に及べば、植民地化への疑念も生じるが、イギリス人の生命の安全を担保するためにも一定期間の武装は要求されてしかるべきである。特に戦争が起こった以上は、イギリス人に対する悪感情がどうしても残る為に安全を担保する必要があるとした。賠償要求事項から戦費に相当する事項を外した。代わりにイギリスは欧州大戦時の対米債務の一部償却を日本はグアムの割譲を求めた。
講和内容において日英側は大幅な譲歩を行い、国際世論を味方につけた。それでも、アメリカ側は問題の主要因はイギリス人管理区域の存在にあるとして、四カ国条約の順守の絶対条件としてマーシンのイギリス人管理区域の即時解消を求めた。国際世論はアメリカ側のかたくなな態度に対して非難の声を浴びせ、戦争再開やむなしの声も多く上がった。この3回目の会議の直後、ドイツ国首相ジーベルはこの調停が失敗するものであると嘆いたといわれている。
この段階に至って、日英両国全権は本国に談判決裂の了承を請訓した。3月27日、加藤高明首相は、ボールドウィン英首相に対して電話会談を挙行した。加藤はボールドウィンに対して、談判決裂に至る前にさらにもう一段階条件を引き下げることへの了解を取り付けた。この世界史上初のホットライン会談によって両者は、これ以上の戦争継続よりも平和回復を望む点で一致した。加藤は、幣原外相からの請訓に対して戦争再開やむなしの考えに立っていたが、ボールドウィンとの電話会談の前に参内し、講和交渉の状況を奏上した。この際に、昭和天皇は、「米国に対して恥辱を強いることを許さず。乃木の精神において処理すべし。」との強い意向を受けて、交渉続行への意思を固めたとされている。
この首脳会談を受けて、日英政府はドイツ滞在中の全権に対して条件変更の回訓を発した。4月6日、第4回目の会合が再開され、イギリス側はマーシン周辺地域の非武装化を取り下げ、イギリス人管理区域の管理期限を3年に緩和し、3年後には確実に解消することを誓約した。談判決裂とみていたアメリカ全権は、この回答内容にへの了承を即座に本国に請訓した。クーリッジ大統領は、この日英両国の譲歩を受けて条件了承を回訓し、講和会議は再開されるに至った。
その後、賠償と捕虜収容費用の問題において、アメリカ側の抵抗があったものの最終的にアメリカ側は条件を受諾した。賠償については、その名目を日英軍兵士に対する弔慰金という形に返還したことで、賠償という文言を巧みに外したことも理由としてあるが、仲介国であるドイツが、日英側がフィリピン問題でも賠償問題でも譲歩した以上、アメリカ側も譲歩すべきとの強い提言を行ったことがアメリカ側を動かした。国際世論もアメリカが不当な要求を行っていることを非難しており、米国内の世論も講和受諾への賛成が徐々に増えだしたことでクーリッジ大統領も講和条件を受諾するに他になかった。
加藤高明首相は講和会議の結末を見ずして、世を去った。3月27日のボールドウィン首相との電話会談の直後、会談を終えて受話器を置いた途端に倒れたのである。すぐさま東京帝大病院に搬送されたが、治療の甲斐なく翌28日に死亡した。死因は脳卒中と診断されている。加藤は、内閣制度開始後初の在職中に死亡した内閣総理大臣となった。
スタンリー・ボールドウィン首相は、戦後の述懐に於て、「カトウの声には鬼気迫るものがあった。私はこれ以上譲歩しては英国民も反対するし、貴国の民も納得しないのではないか。貴国では、ロシアとの戦争では暴動も起こったはずだ。再戦し、ルソン島の米軍を粉砕する。フィリピンから米軍を叩きだす。そうして、米国の戦争継続意思を完全に破却するしかないと説得したが、カトウは米国のメンツを完全につぶしてはならない。それでは、数年後、十数年後、数十年後に復讐となって、再戦を挑んでくる危険を招き寄せる。東洋平和の確立のために、ここで三国の永久平和を実現させねばならない。ミスター・ボールドウィン、平和だ。名誉ある講和、穏健なる未来は我々の双肩にかかっている。覚悟を固めてほしい。そう言って、私を押し切った。何としてでも平和を回復する、カトウの言葉にはその決意が劔の如く込められていた。」と、電話会談時の加藤首相の様子を振り返っている。
加藤内閣は、若槻内務大臣が内閣総理大臣臨時代理として講和問題に関する指揮を執り、4月24日に幣原全権から講和内容全体についての合意がほぼ得られたと連絡があった翌日に総辞職した。
▽在任中の主な出来事
・普通選挙法成立
・農商務省を廃止し、農務省と商工省に分離
・西太平洋戦争
・ヤルタ宣言
・ポツダム講和会議
・
▽内閣の出した主な法令
・衆議院議員選挙法改正法律
・
▽内閣の対応した帝國議会
第52回帝國議會・臨時会(特別会)
日程
召集:2585(大正14・1925)年 6月26日(官報公布26日)
集会:2585(大正14・1925)年 7月27日
開会:2585(大正14・1925)年 7月29日
閉会:2585(大正14・1925)年 8月18日
会期:21日、実数21日
議院役員
貴族院議長
7 德川家達(とくがわ いえさと)
就任:2584(大正13・1924)年12月 5日(再任)
退任:2591(昭和 6・1931)年12月 5日(任期満了)
生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、60歳
出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)
学歴:英イートン・カレッジ
官職:貴族院議員・華族議員(公爵)
会派:火曜会
回数:終身
前職:麝香間祗候
特記:德川家達家初代。
貴族院副議長
9 蜂須賀正韶(はちすか まさあき)
就任:2584(大正13・1924)年 1月16日(新任)
退任:2591(昭和 6・1931)年 1月16日(任期満了)
生年:2531(1871)年4月27日(明治4年3月8日)、55歳
出生:阿波国徳島(徳島県徳島市)
学歴:英ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)
会派:無所属
回数:終身
前職:宮内省式部官兼主猟官、皇后主事
特記:阿波蜂須賀家第17代当主。/大正7(1918)年3月20日侯爵襲爵(家督相続、父茂韶死去)/明治生まれ初の貴族院副議長
衆議院議長
25 森田茂(もりた しげる)
就任:2585(大正14・1925)年 7月27日(選出)
退任:
生年:2532(1872)年9月19日(明治5年8月17日)、52歳
出生:高知県香美郡佐岡村佐野(高知県香美市)
学歴:明治法律学校
官職:衆議院議員(京都府第1区)
会派:憲政会
回数:11回(5期~9期、10期繰上、11期、12期、14期~16期)
前職:自由新聞主筆、埼玉県会議員、県会副議長、衆議院議員、衆議院副議長(18)、衆議院議長(23、24)
特記:
衆議院副議長
21 松浦五兵衛(まつうら ごへえ)
就任:2585(大正14・1925)年 7月27日(選出)
退任:
生年:2530(1870)年10月9日(明治3年9月15日)、54歳
出生:遠江国城東郡沢水加村(静岡県菊川市)
学歴:東京法学校卒業
官職:衆議院議員(静岡県第7区)
会派:立憲政友会
回数:11回(7期~17期)
前職:静岡県小笠郡会議員、静岡県会議員、同参事会員、衆議院議員、静岡県農会長、小笠郡茶業組合長、掛川商業銀行頭取、堀之内銀行頭取、富士鉱業社長、静岡新報社長などを歴任、衆議院副議長(21)
特記:
第53回帝國議會・通常会
日程
召集:2585(大正14・1925)年11月10日(官報公布11日)
集会:2585(大正14・1925)年12月25日
開会:2585(大正14・1925)年12月27日
閉会:2586(大正15・1926)年 3月25日
会期:90日、実数90日
議院役員
※第52議会に同じ
第54回帝國議會・臨時会
日程
召集:2586(大正15・1926)年10月10日(官報公布10日)
集会:2586(大正15・1926)年10月18日
開会:2586(大正15・1926)年10月19日
閉会:2586(大正15・1926)年10月28日
会期:90日、実数90日
議院役員
※第52議会に同じ
第55回帝國議會・通常会
日程
召集:2586(大正15・1926)年11月10日(官報公布11日)
集会:2586(大正15・1926)年12月24日
開会:2586(昭和 元・1926)年12月26日
閉会:2587(昭和 2・1927)年 5月24日
会期:90日、延長60(30+30)日、実数150日
議院役員
※第52議会に同じ
▽内閣閣僚
内閣総理大臣
29 加藤高明(かとう たかあき)
就任:2585(大正14・1925)年 6月24日(新任)
退任:2587(昭和 2・1927)年 3月28日(在職中死亡)
生年:2520(1860)年1月25日(安政7年1月3日)、65歳
出生:尾張国海東郡佐屋(愛知県愛西市)
学歴:名古屋藩立洋学校(現・愛知県第一中学校)。東京外国語学校(現・東京外事専門学校)。東京大学法学部(現・東京帝國大学法学部)首席卒業。
官職:前特命全権大使/貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:無所属・憲政会総裁
回数:大正4(1915)年8月10日勅選
前職:三菱入社、三菱本社副支配人/大隈外相秘書官兼政務課長、駐英公使、外務大臣(17)、東京日日新聞(後の毎日新聞)社長、衆議院議員/駐英大使/外務大臣(26、28)、文部大臣(31)、内閣総理大臣(29)
特記:明治44(1911)年8月24日、男爵叙爵/大正5(1916)年7月14日、子爵陞爵/大正15(1926)年1月28日、伯爵陞爵
臨時代理 若槻禮次郎(わかつき れいじろう)
就任:2587(昭和 2・1927)年 3月28日(内閣総理大臣死亡による臨時兼任)
退任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(内閣総辞職)
外務大臣
37 幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)
就任:2585(大正14・1925)年 6月24日(初入閣)
退任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(内閣総辞職)
生年:2532(1872)年9月13日(明治5年8月11日)、52歳
出生:堺県茨田郡門真一番下村(大阪府門真市)
学歴:官立大阪中学校、第三高等中学校(首席卒業)、東京帝国大学法科大学卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:同和会
回数:大正15(1926)年1月29日勅選
前職:農商務省入省、外交官試験合格後外務省に移動、仁川、ロンドン、ベルギー、釜山の各領事館在勤、ワシントン、ロンドンの各大使館参事官、駐蘭公使、外務次官、駐米大使、ワシントン会議全権委員、外務大臣(37)
特記:大正9(1920)年9月7日、男爵叙爵/明治生まれ初の外務大臣
内務大臣
39 若槻禮次郎(わかつき れいじろう)
就任:2585(大正14・1925)年 6月24日(再入閣・新任)
退任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(内閣総辞職)
生年:2526(1866)年3月21日(慶応2年2月5日)、59歳
出生:出雲国松江雑賀町(島根県松江市雑賀町)
学歴:司法省法学校首席卒業、帝国大学法科大学(現:東京帝國大学)首席卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:無所属・憲政会副総裁
回数:明治44(1911)年8月24日勅選
前職:大蔵省入省、愛媛県収税長、大蔵省主税局内国税課長、主税局長兼行政裁判所評定官、大蔵次官、錦鶏間祗候、大蔵大臣(22、24)、内務大臣(39)
特記:松江藩下級武士(足軽)奥村仙三郎、クラの次男。叔父・若槻敬の養子。
大蔵大臣
32 濱口雄幸(はまぐち おさち)
就任:2585(大正14・1925)年 6月24日(初入閣)
退任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(内閣総辞職)
生年:2530(1870)年5月1日(明治3年4月1日)、55歳
出生:土佐国長岡郡池村唐谷(高知県高知市)
学歴:高知中学、第三高等中学校、帝国大学法科政治学科(東京帝国大学)卒業
官職:衆議院議員(高知県第2区)
会派:憲政会
回数:5回(13期~17期)
前職:大蔵省入省、専売局長官、逓信次官、大蔵次官、衆議院議員、大蔵大臣(32)
特記:
陸軍大臣
22 宇垣一成(うがき かずしげ)
就任:2585(大正14・1925)年 6月24日(再入閣)
退任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(内閣総辞職)
生年:2528(1868)年8月9日(慶応4年6月21日)、56歳
出生:備前国磐梨郡大内村(岡山県岡山市東区瀬戸町大内)
学歴:成城学校、陸軍士官学校(1期)、陸軍大学校(14期)
官職:陸軍中将
会派:
回数:
前職:教員採用試験合格、小学校校長/成城学校/陸軍入営、陸軍軍曹、陸軍士官学校(1期)卒業(歩兵科11番/103名)、陸軍歩兵少尉任官、陸軍大学校(14期)卒業(3番/39人)、ドイツ留学、陸軍歩兵大佐、陸軍省軍務局軍事課長、歩兵第6連隊長(名古屋)、陸軍省軍務局軍事課長、陸軍少将、参謀本部第一部長、陸軍中将、第10師団長(姫路)、陸軍次官、陸軍大臣(20、22)
特記:
海軍大臣
14 財部彪(たからべ たけし)
就任:2585(大正14・1925)年 6月24日(再入閣)
退任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(内閣総辞職)
生年:2527(1867)年5月10日(慶応3年4月7日)、58歳
出生:日向国都城(宮崎県都城市)
学歴:攻玉社、海軍兵学校(15期首席)、海軍大学校(丙号)
官職:海軍大将
会派:
回数:
前職:海軍少尉任官、「松島」航海士、フランス出張、海大丙号学生、海軍大尉進級、巡洋艦「高雄」分隊長、イギリス駐在、駆逐艦「霓」回航委員長、海軍少佐進級、「霓」艦長、海軍中佐進級、海軍大佐進級、イギリス差遣、巡洋艦「宗谷」艦長、戦艦「富士」艦長、第一艦隊参謀長、海軍少将進級、海軍次官、海軍中将進級、第三艦隊司令官、旅順要港部司令官、舞鶴鎮守府司令長官、佐世保鎮守府司令長官、海軍大将親任、横須賀鎮守府司令長官、海軍大臣(12、14)
特記:都城藩士、財部(児玉)実秋の二男。
司法大臣
32 江木翼(えぎ たすく)
就任:2585(大正14・1925)年 6月24日(初入閣)
退任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(内閣総辞職)
生年:2533(明治6・1873)年12月 5日、51歳
出生:山口県御庄村(山口県岩国市)
学歴:山口中学校、山口高等中学校予科・本科卒業、東京帝国大学法科大学英法科卒業、東京帝国大学法科大学英法科修了
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:同成会・憲政会会員
回数:大正5(1916)年10月5日勅選
前職:内務省入省、神奈川県事務官、法制局参事官、拓殖局部長、内閣書記官長(23、25)、司法大臣(32)
特記:旧姓羽村。江木千之の養子。明治改暦後初の内閣書記官長
文部大臣
34 岡田良平(おかだ りょうへい)
就任:2585(大正14・1925)年 6月24日(再入閣)
退任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(内閣総辞職)
生年:2524(1864)年6月7日(元治元年5月4日)、55歳
出生:遠江国佐野郡倉真村(静岡県掛川市)
学歴:東京府第一中学、大学予備門、帝国大学文科大学哲学科(現東京帝國大学文学部)卒業、同大学院
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:同和会
回数:明治37(1904)年8月22日勅選
前職:第二高等中学校教授、文部省視学官、文部省大臣官房報告課長、参事官、山口高等中学校校長心得、同校校長兼文部省参事官、免兼、文部大臣官房会計課長、文部省実業学務局長、フランス派遣、文部省総務長官(文部次官)、兼任普通学務局長事務取扱、貴族院勅選議員、京都帝國大学総長就任、文部次官、錦鶏間祗候、文部大臣(28、34)
特記:一木喜徳郎の長兄
農商務大臣
30 早速整爾(はやみ せいじ)
就任:2585(大正14・1925)年 6月24日(初入閣)
退任:2586(大正15・1926)年 4月 1日(農商務省廃止)
生年:2528(1868)年11月15日(明治元年10月2日)、56歳
出生:広島県沼田郡新庄村(現・広島市西区新庄町)
学歴:広島中学、東京専門学校政治経済英学科(現・早稲田大学)卒業
官職:衆議院議員(広島県第1区)
会派:憲政会
回数:11回(7~17期)
前職:埼玉英和学校校長代理兼教頭、芸備日日新聞社長兼主筆、広島市会議員、同議長、広島県会議員、広島商工会議所会頭、衆議院議員、衆議院副議長(14)、農商務大臣(30)
特記:
農商務省廃止(2586(大正15・1926)年 4月 1日)
農務省設置(2586(大正15・1926)年 4月 1日)
農務大臣
1 早速整爾(はやみ せいじ)
就任:2586(大正15・1926)年 4月 1日(農務省設置)
退任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(内閣総辞職)
生年:2528(1868)年11月15日(明治元年10月2日)、57歳
出生:広島県沼田郡新庄村(現・広島市西区新庄町)
学歴:広島中学、東京専門学校政治経済英学科(現・早稲田大学)卒業
官職:衆議院議員(広島県第1区)
会派:憲政会
回数:11回(7~17期)
前職:埼玉英和学校校長代理兼教頭、芸備日日新聞社長兼主筆、広島市会議員、同議長、広島県会議員、広島商工会議所会頭、衆議院議員、衆議院副議長(14)、農商務大臣(30)、農務大臣(1)
特記:
商工省設置(2586(大正15・1926)年 4月 1日)
1 片岡直温(かたおか なおはる)
就任:2586(大正15・1926)年 4月 1日(商工省設置)
退任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(内閣総辞職)
生年:2528(1859)年10月13日(安政6年9月18日)、66歳
出生:土佐国高岡郡半山郷永野村(高知県津野町永野)
学歴:高知県陶冶学校(現・高知県師範学校)卒業
官職:衆議院議員(京都府第2区)
会派:憲政会
回数:7回
前職:小学校教員、郡書記、滋賀県警部長、内務本省、日本生命保険会社副社長、同社長、都ホテル社長、共同銀行、関西鉄道、衆議院議員、商工大臣(1)
特記:
逓信大臣
27 安達謙蔵(あだち けんぞう)
就任:2585(大正14・1925)年 6月24日(初入閣)
退任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(内閣総辞職)
生年:2524(1864)年11月22日(元治元年10月23日)、60歳
出生:肥後国熊本(熊本県)
学歴:済々黌(現・熊本県立中学済々黌)
官職:衆議院議員(熊本県第2区)
会派:憲政会
回数:11回(7期~17期)
前職:邦字新聞『朝鮮時報』同諺文新聞『漢城新報』社長兼新聞記者、熊本国権党党務理事、衆議院議員、逓信大臣(27)
特記:
鉄道大臣
6 仙石貢(せんごく みつぐ)
就任:2585(大正14・1925)年 6月24日(初入閣)
退任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(内閣総辞職)
生年:2517(1857)年7月22日(安政4年6月2日)、67歳
出生:土佐国(高知県)
学歴:東京大学理学部土木工学科卒業
官職:元衆議院議員
会派:憲政会
回数:2回
前職:東京府土木掛、内務省鉄道局勤務(日本鉄道、甲武鉄道工事を担当)、工学博士、逓信省鉄道技監、筑豊鉄道社長、九州鉄道社長、南満洲鉄道設立委員、猪苗代水力電気社長、鉄道院総裁、衆議院議員、土木学会第7代会長、鉄道大臣(6)
特記:
内閣書記官長
31 塚本清治(つかもと せいじ)
就任:2585(大正14・1925)年 6月24日(新任)
退任:
生年:2532(1872)年12月5日(明治5年11月5日)、52歳
出生:兵庫県揖東郡旭陽村(兵庫県姫路市)
学歴:第三高等学校、東京帝国大学法科大学卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:同成会
回数:大正15(1926)年1月29日勅選
前職:東京府職員、内務省移、神社局長、地方局長、社会局長官、内務次官、内閣書記官長(31)、大喪使次官兼任
特記:
法制局長官
26 山川端夫(やまかわ ただお)
就任:2585(大正14・1925)年 6月24日(新任)
退任:
生年:2533(明治6・1873)年12月15日、51歳
出生:長崎県
学歴:長崎中学、第五高等学校、東京帝国大学法科大学政治学科卒業、同大学院
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:研究会
回数:大正15(1926)年12月7日勅選
前職:海軍省参事官、兼高等捕獲審検所事務官、兼鉄道院理事、海軍教官兼海軍省参事官、講和会議全権委員随員、法学博士、外務省転籍、臨時平和条約事務局第1部長、条約局長、法制局長官(26)
特記:
大日本帝国歴代内閣 @monamoro
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