28代 高橋是清内閣

28代 高橋是清内閣(2584(大正13・1924)年6月11日~2585(大正14・1925)年6月24日)

▽来歴・概要

 武蔵国江戸芝中門前町(現:東京都港区芝大門)出身。幕府御用絵師・川村庄右衛門ときんの子として生まれた。仙台藩江戸詰の足軽高橋覚治へ里子に出され、3歳の時に実子として届けられた。横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾であるヘボン塾(後の明治学院)にて学び、後に勝海舟の息子・小鹿と米国へ留学した。帰国後に文部省に入省し、文部省、農商務省の官僚として活躍し、農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。日露戦争が発生した際には日銀副総裁として、戦費調達のために戦時外債の公募で同盟国のイギリスに向かい、公債募集は成功し、戦費調達が出来た。帰国後、貴族院議員に勅選され、星亨内閣で大蔵大臣として初入閣する。政友会の重鎮として、原総裁の下で副総裁となり、清浦内閣退陣後に内閣総理大臣となるとともに第5代の立憲政友会総裁となる。

 外務大臣及び陸海軍大臣以外の閣僚に立憲政友会所属議員をそろえた政党内閣となった。高橋首相は、早期の帝國議会召集に着手した。高橋は陸海軍から加藤軍縮や山梨軍縮により浮いた予算を使用して、装備の更新を行うように迫られていた。但し、本格的な軍拡実施は、軍縮の意義を失わせることから、国内国外の批判を招くことを陸海軍側にも説明し、国防の為の多少の追加予算を作成するにとどめた。これ以外にも高橋内閣では、普通選挙法の提出準備を進めていた。

 第50回臨時議会の冒頭、施政方針演説を行った高橋首相は、帝国議会開設から50回目の開会を迎えたことを深く慶び、この時に当り、立憲政治を一層進めんとするために次の通常議会で普通選挙法を提出することを宣言した。野党憲政会は、施政方針に対する質問で、普通選挙は世界の潮流となりつつあり、我が日本もこの流れに遅れることはあってはならないとして、高橋首相はこれの成立に死力を尽くすかと問い掛け、高橋は無論そうだと答えた。後日、高橋首相は、法案成立に向けた意気込みを語ったとトーンダウンしたが、憲政会側はこれに猛追を加えた。憲政会側は、高橋首相は普選法案に内閣の進退を賭して臨むと述べたのだと新聞各紙を煽った。マスコミ側はマスコミ側で、清浦内閣倒閣時の当初の政友会のどっちつかずの対応に不審を抱いており、これを大いに喧伝した。同時に新聞各紙は普選法案に賛成の方針をたいていの社もとっており、普選法案の成立に向けた世論作りのためにもそのムードを醸成しようとしていた。

 政友会が提出しようとしていた普通選挙法案は、床次内相が中心となって作成したものである。法案は、納税制限を撤廃し、25歳以上の戸主(世帯主)に選挙権を与えるものとなっていた。当時の制限選挙下では有権者数は350万人であり、この法改正により1000万人へと3倍の有権者数になることが予想された。野党憲政会と革新倶楽部が求めていた普通選挙法案では、25歳以上の男子に無条件で選挙権を与えるという形になっており、この野党案では有権者数は1700万人に上ると想定されており、野党案と比べるとはるかに少ない有権者数で抑えられることとなる。納税制限が緩和される毎に選挙費用が増大してきたことに政友会幹部は懸念を覚えており、また、普通選挙に尚早論を唱えていた原前総裁のかねてからの意見もあり、このような法案となっていた。また、英国が1918年の選挙法第4次改正により、21歳以上の男性(無条件)と30歳以上の女性(戸主又は戸主の妻)に選挙権が与えられることになったことを承けて、床次内相は戸主であれば、女性であっても選挙権を付与する形で選挙法案を作成したが、これが仇となる。

 大正13年12月26日に開院式を迎えた第51帝國議会において、高橋内閣の提出した普通選挙法案は野党の批判を浴びる。選挙権を戸主に限定しており、普通選挙法ではないとして憲政会は対決姿勢を深める。同時に小選挙区制を維持したことが、広い民意を救い上げるつもりがなく、国民の代表となるべき衆議院の権威を損ねるとして徹底して反対に回った。高橋内閣は小選挙区制維持を諦め、大選挙区制へと回帰することで妥協を図り、選挙区割りは後日法案を提出する形で野党側と妥協した。政府原案が修正された形ではあるが、修正された法案は衆議院本会議を通過し、大正14年2月24日に貴族院に送られた。

 しかし、3月2日の貴族院の委員会審議でこの法案は審議保留の扱いとなることが決まった。貴族院の選挙法特別委員会は、山本権兵衛内閣における火保法案と同じように、審議未了の廃案にしようとした。女性への参政権付与は我が国では次期尚早であり、選挙区区割りも策定されていない未整備の法案では審議不能というのが理由であった。この動きを主導したのが、貴族院における最大会派研究会であった。

 高橋内閣は、貴族院における政友会系の会派である交友倶楽部を通じて事態の打開を諮ろうとした。しかし、研究会側の姿勢は頑なであり、整備不良の法案を審議することはできないと突っぱねた。並行して内務省では、床次内相の陣頭指揮の下、選挙区の区割りを急ピッチで進めた。原内閣の内相時代に選挙法の改正を担当したときは秘密裏に進めたため横槍は入らなかったが、今回はそうではなかったため、区割りで割を食う政友会代議士からの横槍も入り、区割り作業は難航を極めた。

 高橋内閣は会期末直前の3月23日、30日にも及ぶ会期延長の詔書を発布した。内務省での区割りが完了するまでの間会期を延長し、今国会中の成立を期そうとした。これまでの会期延長は最大9日間であり、過去最長の会期延長となった。これには、研究会側も党利党略を以て選挙法案を通そうとしていると態度を硬化させた。

 衆議院における野党からも、高橋内閣の強引な議会運営に対しては不信感が生じていた。更に、床次内相が陣頭指揮を執る区割り法案について、衆議院選挙区の区割りが与党政友会に有利な形で設定されようとしていることに対してゲリマンダーをもじってトコマンダーであると攻撃し、内閣不信任案の上程に及ぼうとした。政友会は過半数を有しておらず、内閣不信任案の成立は必至であったため、3月25日、高橋内閣は10日間の議会停会を行った。

 停会の明けた4月3日、貴族院選挙法特別委員会は法案を審議未了とする委員会採決を行った。貴族院本会議で委員会決定が覆らなければ、審議未了の廃案となるが、本会議で再度委員会審議に付託されるということは事実上難しく、法案に進退をかけると喧伝されてしまっていた高橋内閣は追い詰められた。憲政会は追撃の手を緩めず、衆議院において内閣不信任案を上程した。5日間の停会の後、高橋内閣は衆議院の解散を決断した。停会明けの4月7日、高橋内閣は衆議院の解散を断行した。

 この解散劇に関しては、英米両国が深い関心を寄せていた。それは、当時の世界情勢が関係している。


 欧州大戦の結果、国際社会の構造に変化がみられることとなった。欧州大戦前の世界は欧州が世界の中心であった。欧州には、太陽の沈まぬ国大英帝国をはじめとして、国際政治の中心といえるフランス王国、新興ではあるが急速に軍拡を進めて国際社会で発言力を高めたドイツ帝国、欧州各国の王室と縁戚でつながるオーストリア=ハンガリー帝国、ルネサンス発祥の地イタリア王国、世界一の領土を持つロシア帝国といった大国がひしめき合っていた。欧州大戦の敗戦国となったドイツ、オーストリアは革命騒ぎも起きたが、戦勝国となった国々も戦争によって疲弊した。これに対してアメリカは大戦期間中に大量の武器の売買によって、大戦前の債務国の状況から脱して、債権国となった。疲弊した欧州に対して振興したアメリカという構図が生じ、国際社会においてアメリカの地位は上昇しつつあった。

 アメリカは大戦末期に欧州大戦に参戦し、軍事力においてもその力を誇示しようとしたが、この試みは当時世界最強と謳われたドイツ陸軍の手によって叩き潰された。戦場においてはアメリカは失笑の対象となった。それでも欧州大戦の戦傷国である英仏に対して債権国たる地位を以てその地位に成り替わろうとした。

 第一の舞台がパリ講和会議である。この会議においてアメリカは、講和会議における少人数秘密会議である四人会議(イギリス、フランス、日本、アメリカ、後にイタリアが加わり、五人会議となる)の一員となり、国際社会における存在感を増すことに成功した。しかし、講和会議に参加したアメリカ全権であったウッドロウ・ウィルソン大統領の提唱した「十四か条の平和原則」のほとんどは無視された。第一に掲げた秘密外交の廃止は、講和会議の時点で四人会議という秘密会議が講和会議の全体を主導していたことから有名無実となっていた。民族自決と言った観念は大国から受け入れられなかった。ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国の解体に繋がりかねないような民族自決の原則は、世界各国に植民地を持つ英仏の側にも悪影響が生じかねないとして受け入れられなかった。国際平和機関の設立に至っては、アメリカそのものが自国の反対で加入できなかった。

 次の舞台がアメリカが主導したワシントン会議である。世界初の軍縮会議の開催によってアメリカのプレゼンスは増したが、十カ国条約は骨抜きにされ、四カ国条約では日英同盟の廃棄はできず、軍縮条約では日英に新造艦の保有を許すなどアメリカにとっては満足のいく結果ではなかった。

 民族自決の原則を世界に推し進めようとして、ウィルソンはその任期中にフィリピンを早期に独立させることを宣言した。パリ講和会議で無視された形となったが、ウィルソンは諦めずに道義外交を推し進めることで、欧州以外の中小国を含めた新興国のリーダーとなり、アメリカの地位を押し上げようとした。この動きはフィリピン人独立運動家たちから歓迎を受けるにとどまらず、日本や欧州各国から「分割」されつつあった中華民国から歓迎の声が挙がり、中国とアメリカを接近させ、十カ国条約に繋がる形となった。しかし、このウィルソンによるフィリピン宣言は合衆国議会の反対によって、撤回を余儀なくされるに至った。

 ウィルソンの後を受けたウォレン・ハーディングは、フィリピン独立を時期尚早と考え、独立に向けた取り組みを停止させた。この動きは、フィリピンの独立運動家たちから激しく抗議を受ける。1916年にアメリカ合衆国議会を通過したフィリピン自治法により、将来的な独立を約束されたことでフィリピンの独立運動は一時鎮静化することとなった。また、欧州大戦では独立運動を延期し、ドイツと戦うアメリカ合衆国を支援した。そして、その後のウィルソン大統領の宣言により、フィリピンの独立運動は再度活性化することとなった。

 フィリピン独立運動の指導者であったマニュエル・ケソンとセルヒオ・オスメニャはフィリピンの早期独立を求めていなかった。アメリカ合衆国からの完全かつ無条件の独立の保証を取り付け、フィリピンに安定した責任ある政府が創設されるまではアメリカの自治領で独立国家たる力をつける時期であると考えていた。その背景には、アジアで急成長を遂げた日本の進出を危惧する考えも裏にはあった。事実、フィリピン南部のミンダナオ島のダバオでは、後にダバオ開拓の父と呼ばれることとなる太田恭三郎による日本人移民の受け入れが進み、ダバオにおいて日本人街の拡張が進んでいた。

 明治40年5月、太田は、太田興業株式会社を創立した。外国人でもフィリピン会社法に従い、法人組織を設立すれば、土地を買収できることが分かったためである。このフィリピンの法令に従い、1015町歩の土地(約10平方キロメートル、(筆者注)ディズニーランドとディズニーシーの合計面積が1平方キロメートルなので、10個分。あるいは、東京ドーム213個分。)を租借し、その地でマニラ麻の栽培を始めた。マニラ麻の繊維は植物繊維としては最も強靭なものの一つであり、また、マニラ麻は水に浮き、太陽光や風雨などに対しても、非常に高い耐久性を示している。このため、船舶係留用、油井用、農業用などのロープや製祇などの原料として使用されていた。このマニラ麻の栽培と輸出で、ダバオは急速に発展が進み、それが日本人の手によるものであったがために、フィリピン独立運動の指導者たちは、日本の国策としての進出を恐れ、米国の庇護下に独立をしようと試みた。

 この動きを破綻させたのが、先のウィルソン宣言であった。早期の独立という美名に独立運動家たちは飛びつき、そしてそれが撤回されたとなるとたちまちに米国への不満の声を掲げた。ハーディング大統領による完全な棚上げが為されるに至ると、独立運動家の一部は反政府活動を始めるに至った。

 先にみたようにマニラ麻は重要な資源であったがために徐々に需要量が増加し、欧州大戦のころには価格が暴騰した。イギリスは、当初フィリピン人商人から直接購入していたが、徐々に日本人商人がマニラやダバオから上海へ輸出してきたものを購入するようになった。マニラ麻の高騰に際してイギリスは、直接生産を試みることとなった。イギリスのプラット・ブラザーズ社は太田興業と提携を結び、レイテ島南部に入植地をつくることとした。レイテ島南部のマーシンの地にダバオにおけるそれと同様に広大な土地を租借し、日英両国の商会が合弁企業体を設立した。

 この動きと同時期にイギリスは太田興業と協力してダバオ港の整備に乗り出した。英日間での経済的な結びつきを強めるとともに、マニラ麻の供給量を増やすことで市場価格を抑えようとした。日本側は太田興業に加えて古川拓殖株式会社が、レイテ島での開発に積極的に乗り出し、大規模な町が形成されていった。ミンダナオ島ダバオの日本人街と同じように、レイテ島南部のマーシンに道路網、電話網、商店、寺院、神社、教会、邦字新聞社、日本人学校、病院、水力発電所などが設立され、隣り合う形で入植するイギリスのプラット社の居留地と相互繁栄を築き上げていった。

 マニラ麻の増産による税収は、米領フィリピンの経済発展に好影響を与えたが、次第に日英両国によるフィリピンへの経済浸透に危機感がささやかれるようになる。フィリピン独立運動家の多くが議員となっているフィリピン議会は、移民法を改正し、日本人移民を制限しようという動きに出るが、マニラ麻による税収やフィリピンの発展に寄与している日本人の経済活動を制限しようとする動きには、アメリカ人であるフィリピン総督から調停を受ける。ダバオにおけるマニラ麻栽培はアメリカ人が手を付けたことがあったが、採算が取れず撤退した経緯がある。日本人に代わって栽培事業を維持するのは難しいと彼らは踏んでいた。経済的に好循環を生んでいる状況でこれに掣肘を加えるのは、少なくともアメリカ人指導者にとって好ましくなかった。米領フィリピン政府の動きに変化がみられるのは、これもやはりウィルソンの宣言によってである。

 1898年の米西戦争の結果、フィリピンの統治権はスペインからアメリカに移ったが、スペイン統治時代からフィリピンの独立運動は起こっており、スペインに代わってアメリカがこれに対処することになる。1899年2月から1902年7月にかけて、アメリカとフィリピンの独立運動家達との間で米比戦争が起こったが、1902年の戦闘終結後も散発的な反乱は起こっていた。ミンダナオ島においてもこの反乱は起こっており、マニラ麻栽培事業の失敗には、このような現地勢力の反乱・非協力も絡んでいた。一方で日本人がアメリカ人に代わって主体となったとしても、現地勢力からの襲撃という危険が消滅したわけではなかった。先の太田恭三郎は現地勢力との粘り強い交渉の結果、徐々に理解を得られていったが、太田を始めとする日本人の農園は徐々に数を増やし、アメリカ人やフィリピン人の農園の数を超えて増やしていったことで、経済的な支配がはじまるのではという懸念を徐々に醸成させていった。

 ウィルソンの宣言は、独立運動家たちの一部に無秩序な行動を採らせた。大正11(1922)年6月、ダバオやマーシンにおいて、居留民に対する襲撃が相次いで発生した。これに対してイギリス人たちは、フィリピン人官憲を信用ならないとして、自警団を組織することを州政府に求めた。フィリピン総督政府は、イギリス人商人からの武装要求には応じられないとこの要求を蹴った。フィリピン人独立運動家たちが背後にいるのではないかと噂されていた状況で、襲撃者の処罰は独立運動の過激化を誘発するをそれがあり、総督政府は手をこまねいていた。日本側は、親会社的な立場にあった東洋拓殖株式会社を通じて日本政府の動向を探っていた。東拓は、いわゆる日本の国策会社の一つであり、柘植事業に対する資金提供を始めとして、移民募集や移住先の生活支援を行う会社である。当時の日本の内閣は山本内閣であり、山本内閣は親米路線を採る政友会を母体とした政権であった。山本内閣は、自警団設置はアメリカを刺激するとして、東拓を通じて太田興産や古川柘植などに対してイギリス側の主張に同調しないように求めた。

 アメリカからの独立の代わりに日英による支配がはじまるのではという危惧からフィリピン人独立運動家の中に日英人排斥の空気が起こるが、この動きとは別に日英の力を借りてアメリカを追い出そうと考える者も現れた。ホセ・ガルシア・イ・ライアスは、そのなかでも最も知られた人物である。ホセ・ガルシアは、表向きは実業家として、フィリピン国内で成功している日本人マニラ麻栽培業者を尋ねて、栽培方法や経営の状況を観察していた。勿論、事業者にとっては企業秘密もあるため、表面的な親交に終始していた。その中で、福岡で結成された右翼団体「玄洋社」を背後に持つ事業者とホセは昵懇な関係となる。玄洋社の大アジア主義の思想はフィリピン独立の思想と親和性が高く、ホセは後に日本を訪問し玄洋社の幹部と会見を持つことになる。

 米ハーディング政権が1921年3月に発足して以降、フィリピンの治安は徐々に悪化した。更にワシントン会議において、日英同盟が廃棄に至らなかったがためにハーディング大統領はフィリピンの早期独立よりも、独立を遅らせて、日英関係にくさびを打ち込むことを指向し始めた。在フィリピンの米陸軍増強の方針を示し、フィリピンを統治するに足る責任ある政府の樹立は拙速に行うべきではなく、時間をかけてでも人材の育成を進めなくてはならないと述べて、早期独立路線を否定するに至った。フィリピン総督政府のあるルソン島のマニラ周辺には、米陸軍の駐屯地が増設され、シンガポールから香港・上海に至る航路を睨む形をとった。

 英米間の緊張状態に対して、政友会を母体とした政権が続く日本はアメリカ寄りの姿勢を見せ続けた。先に記した自警団設置問題の外、日英資本の農園の拡大案や、移民街の自治に関する共同協定問題、退役軍人の招聘による警備強化案、日英両国がその使用回数で最も多いマーシン港の拡張案などで、日本側はことごとくアメリカを刺激するという理由で消極的であった。この日本側の頑なな態度には、イギリス側も不満に思っていた。加えて、大正12(1922)年9月の関東大震災では、フィリピン総督政府からの対日援助物資が日本に届いたことで、日本人の対米感情が向上した。対米融和を唱えていた政友会にも好感情が寄せられ、日本国内では日米友好の維持発展を求める声が高まった。

 このような日本国内の情勢はフィリピンへの経済的な浸透を図ろうとしていたイギリスにとっては不都合なことであった。イギリスはイギリスで、マニラ麻の大規模栽培に成功した日本人企業を探り、英領北ボルネオや英領マレーで栽培を行おうと考えていた。それだけに様々な施策が停滞している状況は好ましい状況ではなかった。1923年8月、ハーディング大統領の急死により副大統領のカルビン・クーリッジが大統領に昇格した。クーリッジ大統領もまたフィリピンの独立については、特にスケジュールを定めて行うつもりはなかった。日本の政権も親米の政友会政権が続いており、山本権兵衛から選挙管理内閣の清浦奎吾を挟んで高橋是清の政友会政権が続いており、フィリピンを巡る問題には動きは生じそうもなかった。

 しかし、高橋内閣が成立する直前の1924年5月26日に新たに成立した移民法(ジョンソン=リード法)が日本の政界に激震を走らせる。同年7月1日に施行された1924年移民法は、後年排日移民法と呼ばれ、日米関係を決裂させた原因になったと言われている。

 欧州大戦とその後のパリ講和会議における貢献で、日本は列強の地位に昇った。新たに設立された国際連盟において、英仏伊露と並んで理事会の常任理事国に就任して五大国の一角と目された。排日移民法の制定は、日本の大国としてのプライドを刺激した。しかしながら、高橋内閣は、米国を刺激するのは得策ではないとこれまでの対米融和の姿勢を継続した。


 貴族院の研究会が先述した高橋内閣が出した選挙法改正案廃案で暗躍したのは、清浦内閣を倒閣に追い込んだ恨みだけでなく、高橋内閣の対米姿勢に不満があったからであるとも言われている。

 第50回臨時議会を迎えた後、世界各国から祝電が届いた。多くの国は日本政府と日本帝国議会に宛ててこの祝電を送ったが、イギリスだけは違った。当時のイギリスは、労働党のラムゼイ・マクドナルドが首相の地位にあり、彼は他の国々と同じように政府と議会にたいして祝電を送った。これに加えて当時野党であったイギリス保守党の党首スタンリー・ボールドウィンが、政友会・憲政会・革新俱楽部・立憲帝政党・実業同志会の日本の衆議院で議席を持つ5党に対して祝電を送った。政友会は高橋総裁の名義で駐日イギリス大使に直接答礼の書簡を送り、革新倶楽部、帝政党・実業同志会の3党はイギリス保守党に宛てて答礼の返電を帰した。憲政会は若槻禮次郎副総裁を答礼の使者として、イギリスに派遣した。

 突然の日本人の訪問にボールドウィンは驚きをもったが、この機会を最大限利用することとした。若槻は大蔵官僚出身であるが、帝國大学法科大学仏法科を首席で卒業しており、明治40(1907)年から1年間、政府財政委員としてロンドン及びパリに駐在していたこともあり、外交官の共通言語であるフランス語にも通じていた。

 ボールドウィンは、初体面時に多数の記者を目の前にしてフランス語で若槻に話しかけ、若槻もフランス語で挨拶を交わした。野党の副党首である若槻が、外交の担い手としての力を持っていると示したのである。

 ボールドウィンは、英国の国会、ウェストミンスター宮殿に若槻を招待した。ボールドウィンの呼び掛けにこたえ、野党保守党のみならず、与党労働党や自由党の議員も庶民院議場に集い、若槻の演説を聞いた。若槻は、日本の政治家で他国で演説した初めての人物となった。

 若槻のウェストミンスター演説は、世界各国でも取り上げられ、憲政会が一気に国際的な政党として注目を集めることとなった。憲政会総裁の加藤高明が欧州大戦勃発時、日本を参戦に導いた外相であったことから、戦時において敢然とした決断ができる人物としてクローズアップされることとなった。そして、日本国内においても加藤率いる憲政会の人気が急上昇していた。各地の府県会議員選挙や衆議院議員補欠選挙、貴族院伯子爵議員や多額納税者議員の補欠選挙で憲政会支持の議員の当選が相次いでいた。政友会は防戦一方であった。

 この動きに米国は危機感を抱いた。憲政会の総裁加藤高明は駐英大使の経験があり、副総裁の若槻は英国で歓待を受けた。憲政会は、日英同盟を推進した桂太郎が設立した立憲同志会の後継政党であることなどから英国と深いつながりを有する政党である。憲政会が衆議院の第一党となり、政権を獲得すれば、日米関係が変化することは必定であると彼らは考えた。特に、日本の対米感情を悪化させた排日移民法が制定された直後の日本の対米感情が悪化の一途をたどる時期の変化である。選挙民の感情を背景に憲政会率いる日本は英国との距離を詰めて、フィリピン問題で攻勢に出るかもしれないことに米国務省は戦慄した。米国務省はクーリッジ大統領に排日移民法の早期緩和をもとめたが、1924年は大統領選挙の年であり、当時人口増加で重要州となっていたカリフォルニアの意向を無視できなかった。連邦議会で排日移民法制定を熱心に主張していたのは、日本人移民が多く移り住んでいた、カリフォルニア州の住民とその上下院議員であり、同じく1924年は連邦議会の選挙の年とも重なっていたために、連邦議会としても妥協するのは難しかった。


 このような情勢下で、内閣の進退をかけた普選法案廃案の憂き目にあった高橋内閣は、大正14(1925)年4月7日、衆議院の解散を断行した。この前年の1924年11月4日に第二次内閣を率いることになったスタンリー・ボールドウィンは、解散後の4月10日、憲政会の加藤総裁に対して、衆議院選挙の勝利を祈る旨の電報を送った。

 クーリッジ大統領は、日本の政変について記者から取材を受けた際には特に語らなかったが、カリフォルニア州知事のフレンド・リチャードソンが、「婦人参政権は世界の潮流だというのに、日本の議会はこれを拒んだ。日本は大国に相応しくないのではないか。」と語ったことが表に出たために反米感情がさらに高まった。

 ここにおいて、英首相ボールドウィン率いる英国保守党は、一気に攻勢に出た。4月13日、英国保守党は憲政会との間に友党宣言を行った。ボールドウィンは、The Daily Telegraph紙上において、憲政会副総裁若槻禮次郎男爵が訪英した際のウェストミンスターでの演説を引用して、「日英両国臣民は、議会政治の重要性を認識する上で政党の存在を至上のもの考えており、政党を基礎とした政治が行われるべきであることは、最早疑いようがない。」ということと、保守党と憲政会は、「自由主義・民本主義の確立は国政における基礎であるとともに、最重要の課題であることを確信しており、両党は政治におけるこれらの前提を享有している。」として、保守党と憲政会はそれぞれの国で立憲政治の推進を進める為に協力していこうとする議会政治尊重共同宣言を発したことを発表した。このことは東京の加藤私邸において加藤総裁が、ボールドウィン首相との間での電話会談でそのような合意に至ったことは確かであると回答したことで国際的に確かなものとなった。同時に、憲政会が政権を獲得したのならば、今後の日英関係が一歩踏み込んだ形になるだろうということが予想されることとなった。

 一方の政友会の側は、このような効果的な選挙戦術を打ち出せなかった。政友会は解散を打ったのではなく、解散に追い込まれたとみられており、政治的な失策を打ち消すための解散とみられていた。憲政会が行ったような対外宣伝による国内での支持打開に関しても、政友会が対米融和で動いていたことは周知の事実となっており、今更米国から離れるような真似を採ることは逆に難しかった。立憲帝政党が、たとえ同盟関係にあるとはいえ憲政会が外国の勢力と手を結ぶかのようなことをおこなったが、これは日本の独立を侵害するものではないかという主張を行ったが、これは大衆の支持を得るまでにはいかなかった。

 更に、加藤は、総選挙の最中、憲政会が議会第一党になる情勢が確立する以前に、ボールドウィンの助言に基づいて、憲政会政務調査会の各政策部会長を組閣時の国務各大臣として原則奏薦することを発表した。イギリスにおける、いわゆる「影の内閣」制度を導入した端緒とされている。

 選挙区各地で憲政会の候補が優勢という情勢が伝えられ、憲政会がその勢いを維持したまま投票日の6月21日を迎えた。憲政会は地滑り的勝利を手にし、過半数の244議席を上回ること28の272議席を獲得した。高橋内閣は選挙での敗北を認め、辞意を表明した。

 元老会議は異論なく加藤後継で一致し、摂政宮は6月24日午前に加藤高明を宮中に召し出し、組閣の大命を与えた。同日午後、加藤は「影の内閣」を基礎とした閣僚候補者を引き連れ、再度参内して、親任式が開かれた。

▽在任中の主な出来事

▽内閣の出した主な法令

・衆議院議員選挙法改正法律(審議未了廃案)

▽内閣の対応した帝國議会

第50回帝國議會・臨時会(特別会)

日程

 召集:2584(大正13・1924)年 5月14日(官報公布14日)

 集会:2584(大正13・1924)年 6月25日

 開会:2584(大正13・1924)年 6月28日

 閉会:2584(大正13・1924)年 7月18日

 会期:21日、実数21日

議院役員

貴族院議長

6 德川家達(とくがわ いえさと)

 就任:2577(大正 6・1917)年12月 5日(再任)

 退任:2584(大正13・1924)年12月 5日(任期満了)

 生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、60歳

 出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)

 学歴:英イートン・カレッジ

 官職:貴族院議員・華族議員(公爵)

 会派:火曜会

 回数:終身

 前職:麝香間祗候

 特記:德川家達家初代。

貴族院副議長

9 蜂須賀正韶(はちすか まさあき)

 就任:2584(大正13・1924)年 1月16日(新任)

 退任:2591(昭和 6・1931)年 1月16日(任期満了)

 生年:2531(1871)年4月27日(明治4年3月8日)、55歳

 出生:阿波国徳島(徳島県徳島市)

 学歴:英ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ卒業

 官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)

 会派:無所属

 回数:終身

 前職:宮内省式部官兼主猟官、皇后主事

 特記:阿波蜂須賀家第17代当主。/大正7(1918)年3月20日侯爵襲爵(家督相続、父茂韶死去)/明治生まれ初の貴族院副議長

衆議院議長

24 粕谷義三(かすや ぎぞう)

 就任:2584(大正13・1924)年 6月25日(選出)

 退任:

 生年:2526(1866)年9月23日(慶応2年8月15日)、57歳

 出生:武蔵国入間郡上藤沢村(埼玉県入間市)

 学歴:米ミシガン大学、法学士

 官職:衆議院議員(埼玉県第2区)

 会派:立憲政友会

 回数:11回(5期~9期、10期繰上、11期、12期、14期~16期)

 前職:自由新聞主筆、埼玉県会議員、県会副議長、衆議院議員、衆議院副議長(18)、衆議院議長(23、24)

 特記:

衆議院副議長

20 小泉又次郎(こいずみ またじろう)

 就任:2584(大正13・1924)年 6月25日(選出)

 退任:

 生年:2525(1865)年6月10日(慶応元年5月17日)、59歳

 出生:武蔵国久良岐郡六浦荘寺分村大道(神奈川県横浜市金沢区大道二丁目)

 学歴:攻玉社中学校中退

 官職:衆議院議員(神奈川県第2区)

 会派:憲政会

 回数:7回(10期~16期)

 前職:神奈川県会議員、横須賀市会議員、衆議院議員、衆議院副議長(20)

 特記:

第51回帝國議會・通常会

日程

 召集:2584(大正13・1924)年11月10日(官報公布11日)

 集会:2584(大正13・1924)年12月24日

 開会:2584(大正13・1924)年12月26日

 停会:2585(大正14・1925)年 3月25日自

    2585(大正14・1925)年 4月 3日至

    2585(大正14・1925)年 4月 3日自

    2585(大正14・1925)年 4月 7日至

 解散:2585(大正14・1925)年 4月 7日

 会期:90日、実数90日

議院役員

※第50帝國議会に同じ

※貴族院議長德川家達は、2584(大正13・1924)年12月5日に任期満了となり、同日再度勅任されたため、第7代議長となる。12月24日に貴族院本会議でこの人事の「協賛」が為された。帝國憲法大正増補第三條に基づく議院の議長副議長推薦権と従来の天皇大権による任命の折衷。

第17回衆議院議員総選挙

 改選数:486

 公示日:2585(大正14・1925)年 4月20日

 投票日:2585(大正14・1925)年 6月21日

 選挙制度:小選挙区制、秘密投票制

 実施地域:48庁府県

 選挙権:

  直接国税3円以上納税の満25歳以上の日本国民男性

下記の者は権利の適用除外

   華族の当主、現役軍人

   禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人

 被選挙権:

  満30歳以上の日本国民男性

下記の者は権利の適用除外

   華族の当主、現役軍人

   禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人

   宮内官、司法官、会計検査官、収税官、警察官

   管轄区内の府県郡官吏

   各選挙区の市町村選挙管理担当吏員

   神官、僧侶、教師

 選挙結果:

  憲政会

   前回選挙:184

   選挙直前:194

   獲得議席:272(+78)

  立憲政友会

   前回選挙:187

   選挙直前:174

   獲得議席:151(△23)

  革新倶楽部

   前回選挙:33

   選挙直前:30

   獲得議席:22(△8)

  立憲帝政党

   前回選挙:13

   選挙直前:13

   獲得議席:12(±0)

  実業同志会

   前回選挙:8

   選挙直前:8

   獲得議席:5(△3)

  無所属

   前回選挙:

   選挙直前:68

   獲得議席:24

▽内閣閣僚

内閣総理大臣

28 高橋是清(たかはし これきよ)

 就任:2584(大正13・1924)年 6月11日(新任)

 退任:2585(大正14・1925)年 6月24日(内閣総辞職)

 生年:2514(1854)年9月19日(嘉永7年/安政元年閏7月27日)、69歳

 出生:武蔵国江戸芝中門前町(東京都港区芝大門)

 学歴:ヘボン塾(現・明治学院)

 官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:立憲政友会

 回数:明治38(1905)年1月29日勅選

 前職:文部省御用掛、農商務省御用掛、同書記官、特許局長、日本銀行副総裁、兼横浜正金銀行頭取、日本銀行総裁、大蔵大臣(23、27)、内閣総理大臣(27)

 特記:明治40年9月、男爵叙爵

外務大臣

36 内田康哉(うちだ こうさい/やすや)

 就任:2584(大正13・1924)年 6月11日(再入閣)

 退任:2585(大正14・1925)年 6月24日(内閣総辞職)

 生年:2525(1865)年9月29日(慶応元年8月10日)、58歳

 出生:肥後国八代郡竜北(熊本県八代郡氷川町)

 学歴:新川義塾、同志社英学校中退、東京帝国大学法科卒業

 官職:

 会派:

 回数:

 前職:外務省入省、外務省通商局長ロンドン公使館勤務、清国北京公使館勤務、清国臨時代理公使、外務次官、駐墺大使兼スイス公使、駐米大使、外務大臣(24、33、36)

 特記:明治40(1907)年11月4日、男爵叙爵/明治44(1911)年8月24日、子爵陞爵/大正9(1920)年9月7日、伯爵陞爵

内務大臣

38 床次竹二郎(とこなみ たけじろう)

 就任:2584(大正13・1924)年 6月11日(再入閣)

 退任:2585(大正14・1925)年 6月24日(内閣総辞職)

 生年:2527(1867)年1月6日(慶応2年12月1日)、57歳

 出生:薩摩国鹿児島城下新照院通町(鹿児島県鹿児島市)

 学歴:共立学校、第一高等中学校、大学予備門、東京帝国大学法科大学政治科卒業

 官職:衆議院議員(鹿児島県第1区)

 会派:立憲政友会

 回数:5回(12期補~16期)→6回(12期補~17期)

 前職:大蔵省入省、愛媛県収税長、内務省転属、宮城県内務部第一課長、岡山県警察部長、山形県書記官、新潟県書記官、兵庫県書記官、東京府書記官、徳島県知事、秋田県知事、内務省地方局長、樺太庁長官、内務次官、内務大臣(34)、鉄道大臣(2)、内務大臣(38)

 特記:

大蔵大臣

31 中橋徳五郎(なかはし とくごろう)

 就任:2584(大正13・1924)年 6月11日(再入閣・新任)

 退任:2585(大正14・1925)年 6月24日(内閣総辞職)

 生年:2521(1861)年10月13日(文久元年9月10日)、62歳

 出生:加賀国石川郡金沢町(石川県金沢市)

 学歴:東京大学英法科卒業、東京帝国大学法学部選科卒業

 官職:衆議院議員(大阪府第3区→石川県第1区)

 会派:立憲政友会

 回数:6回(11期~12期、13期再選挙、14期~16期)→7回(11期~12期、13期再選挙、14期~17期)

 前職:判事試補、横浜陪審裁判所詰、農商務省転籍、参事官、衆議院制度取調局出仕、欧米出張、衆議院書記官、逓信省参事官、逓信省監査局長、鉄道局長/大阪商船社長、宇治川電気株式会社初代社長、日本窒素重役、日清汽船取締役/大阪市会議員、同議長、衆議院議員、文部大臣(29)、大蔵大臣(31)

 特記:

陸軍大臣

21 田中義一(たなか ぎいち)

 就任:2584(大正13・1924)年 6月11日(再入閣)

 退任:2585(大正14・1925)年 6月24日(内閣総辞職)

 生年:2524(1864)年7月25日(元治元年6月22日)、59歳

 出生:長門国阿武郡萩城下菊屋横町(山口県萩市呉服町)

 学歴:陸軍教導団、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)

 官職:陸軍大将

 会派:

 回数:

 前職:村役場職員、小学校教員、陸軍教導団、陸軍歩兵少尉任官、ロシア留学、満州軍参謀(日露戦争時)、歩兵第三連隊連隊長、陸軍省軍務局軍事課長、陸軍少将、歩兵第二旅団長、陸軍省軍務局長、陸軍中将、参謀次長、陸軍大臣(17)、陸軍大将、陸軍大臣(19、21)

 特記:大正9(1920)年9月7日、男爵叙爵

海軍大臣

14 財部彪(たからべ たけし)

 就任:2584(大正13・1924)年 6月11日(再入閣)

 退任:2585(大正14・1925)年 6月24日(内閣総辞職)

 生年:2527(1867)年5月10日(慶応3年4月7日)、57歳

 出生:日向国都城(宮崎県都城市)

 学歴:攻玉社、海軍兵学校(15期首席)、海軍大学校(丙号)

 官職:海軍大将

 会派:

 回数:

 前職:海軍少尉任官、「松島」航海士、フランス出張、海大丙号学生、海軍大尉進級、巡洋艦「高雄」分隊長、イギリス駐在、駆逐艦「霓」回航委員長、海軍少佐進級、「霓」艦長、海軍中佐進級、海軍大佐進級、イギリス差遣、巡洋艦「宗谷」艦長、戦艦「富士」艦長、第一艦隊参謀長、海軍少将進級、海軍次官、海軍中将進級、第三艦隊司令官、旅順要港部司令官、舞鶴鎮守府司令長官、佐世保鎮守府司令長官、海軍大将親任、横須賀鎮守府司令長官、海軍大臣(12、14)

 特記:都城藩士、財部(児玉)実秋の二男。

司法大臣

31 横田千之助(よこた せんのすけ)

 就任:2584(大正13・1924)年 6月11日(初入閣)

 退任:2585(大正14・1925)年 6月24日(内閣総辞職)

 生年:2530(1870)年9月17日(明治3年8月22日)、53歳

 出生:下野国足利郡足利町本城(栃木県足利市)

 学歴:東京法学院(現・中央大学)卒業、代言人試験合格

 官職:衆議院議員(栃木県第7区)

 会派:立憲政友会

 回数:6回(11期~16期)→7回(11期~17期)

 前職:弁護士、実業界、衆議院議員、法制局長官(22)、司法大臣(31)

 特記:

文部大臣

33 岡野敬次郎(おかの けいじろう)

 就任:2584(大正13・1924)年 6月11日(再入閣・新任)

 退任:2585(大正14・1925)年 6月24日(内閣総辞職)

 生年:2525(1865)年11月9日(慶応元年9月21日)、58歳

 出生:上野国群馬郡岩鼻町(群馬県高崎市)

 学歴:共立学校、第一高等中学校、帝国大学法科大学(現・東京帝国大学)卒業、同大学大学院

 官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:交友倶楽部・立憲政友会

 回数:1908年12月28日

 前職:帝国大学法科大学教授、農商務省官房長、内閣恩給局長、高等捕獲審検所評定官、法制局長官(14)、兼宮中顧問官、貴族院勅選議員、法制局長官(16、18)、司法大臣(28)、文部大臣(33)

 特記:

農商務大臣

29 野田卯太郎(のだ うたろう)

 就任:2584(大正13・1924)年 6月11日(再入閣・新任)

 退任:2585(大正14・1925)年 6月24日(内閣総辞職)

 生年:2513(1853)年12月21日(嘉永6年11月21日)、59歳

 出生:筑後国三池郡岩津村(福岡県三池郡高田町)

 学歴:

 官職:衆議院議員(福岡県第7区)

 会派:立憲政友会

 回数:12回(5期~16期)→13回(5期~17期)

 前職:福岡県会議員、逓信大臣(19、23)、農商務大臣(29)

 特記:地域の豪農・野田伊七の長男として出生

逓信大臣

26 山本達雄(やまもと たつお)

 就任:2584(大正13・1924)年 6月11日(再入閣・新任)

 退任:2585(大正14・1925)年 6月24日(内閣総辞職)

 生年:2516(1856)年4月7日(安政3年3月3日)、57歳

 出生:豊後国海部郡(大分県臼杵市)

 学歴:慶應義塾中退、明治義塾(三菱商業学校)卒業、

 官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:交友倶楽部・立憲政友会

 回数:明治36(1903)年11月20日

 前職:郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)入社、日本銀行入行、横浜正金銀行取締役、ロンドン派遣、日本銀行理事、日本銀行総裁(5)、貴族院勅選議員、日本勧業銀行総裁、大蔵大臣(21)、農商務大臣(21、24)、逓信大臣(26)

 特記:

鉄道大臣

5 元田肇(もとだ はじめ)

 就任:2584(大正13・1924)年 6月11日(再入閣)

 退任:2585(大正14・1925)年 6月24日(内閣総辞職)

 生年:2518(1858)年2月28日(安政5年1月15日)、55歳

 出生:豊後国国東郡来浦村(大分県国東市国東町来浦)

 学歴:東京大学法科卒業

 官職:衆議院議員(大分県第6区)

 会派:立憲政友会

 回数:16回(1期~16期)→17回(1期~17期)

 前職:弁護士、衆議院議員(大成会・国民協会・帝国党・立憲政友会)、衆議院副議長(25)。司法大臣(26)、鉄道大臣(1)

 特記:

内閣書記官長

30 三土忠造(みつち ちゅうぞう)

 就任:2584(大正13・1924)年 6月11日(新任)

 退任:2585(大正14・1925)年 6月24日(内閣総辞職)

 生年:2531(1871)年8月11日(明治4年6月25日)、52歳

 出生:讃岐国大内郡水主村(香川県香川市)

 学歴:香川県尋常師範学校卒業、東京高等師範学校首席卒業、英独留学

 官職:衆議院議員(香川県第5区)

 会派:立憲政友会

 回数:7回(10期~16期)→8回(10期~17期)

 前職:小学校教員、衆議院議員、東京日日新聞編集長、大蔵省参事官、内閣書記官長(30)

 特記:

法制局長官

25 佐竹三吾(さたけ さんご)

 就任:2584(大正13・1924)年 1月10日(留任)

 退任:

 生年:2540(明治13・1880)年3月5日、43歳

 出生:岐阜県養老町

 学歴:岐阜県立岐阜中学、東京府立城北中学、第一高等学校、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)卒業

 官職:

 会派:

 回数:

 前職:農商務省嘱託、農商務属・商工局勤務、法制局参事官、満鉄理事、欧米留学、鉄道院参事・総裁官房監査課兼秘書課、監督局総務課長、鉄道院理事・鉄道院監督局長、鉄道省監督局長、国際連盟交通総会日本専門委員、鉄道会議幹事、臨時法制審議会委員、大阪市電気局長、法制局長官(25)

 特記:

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