25代 第一次原敬内閣

25代 第一次原敬内閣(2578(大正7・1918)年9月29日~2581(大正10・1921)年11月4日)

▽来歴・概要

 陸奥国岩手郡本宮村(現:岩手県盛岡市)出身。外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣、衆議院議員(明治35年の第7回総選挙以来8回連続当選)、内務大臣などを歴任した。

 児玉内閣の期間中に立憲政友会総裁星亨が枢密顧問官に勅任されることとなった。枢密院官制によって、枢密顧問官は帝國議会と交渉することができないと規定されているため、星は政友会総裁、貴族院勅撰議員を辞職した。後継総裁に副総裁兼幹事長の職にあった原敬に勅命が下された。原は、黄禍論の高まるアメリカとの関係からシベリア出兵にアメリカも出兵させることを強く主張した。この経緯から、戦後を見据えた対米外交もあると元老から判断されたことが、当時政権与党の扱いであった憲政会の加藤高明を抑えて、首班に推薦された経緯である。

 原内閣成立後の政治課題は、欧州大戦終結に向けての取り組みとなった。ドイツ首相マックス・フォン・バーデン公爵による「平和に対する声明」には、聯合国側は拒絶とも、受諾ともどちらの動きにも直ちには繋がらなかった。連合国としては継戦能力が払底してきていることは確かであったが、パリを列車砲の射程内に抑えられたままで講和に応じるというのでは、ドイツ側が優勢であるということを世界に認めるようなものであったため、躊躇していた。

 一方のドイツ・オーストリアといった中央同盟国側にも継戦能力に限界が来ており、バーデン公爵による「平和に対する声明」に対しては弱腰であるという声もあったが、ドイツ参謀本部では内心歓迎する声向があったことも確かである。おまけに、シベリアの地からロシア皇帝軍が赤軍を破竹の勢いで攻め破り、西へ向かっていたことも焦りとなっていた。このままでは、一度集結させた東部戦線が復活しかねないということにもなりかねず、そうなると兵力の再転換には時間がかかり、総崩れとなる可能性が十分にあった。

 英仏側にも白軍と赤軍の戦いの情報は届いており、英仏はこのまま時間を稼ぎ、戦闘再開とすることを考えていたが、10月1日、アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンは突如として、バーデン侯爵の「平和に対する声明」を歓迎する声明を発した。英仏はアメリカの態度の豹変に困惑し、ドイツはすぐさまアメリカの声明を歓迎するメッセージを発表した。一月ほどの間、英仏とアメリカとの間で戦闘再開に向けてのやり取りが行われたが、11月11日、ついにドイツと連合国との間に休戦協定が発効した。

 当初原首相は、自らこの講和会議に出席することを希望していた。諸外国列強の首脳が集まるということで、日本の国際的立場を引き上げることを目的に参戦していた以上、その輪の中に入ることが重要であると考えていた。とはいえ、日本からフランスは船で30日かかる距離である為、この構想は早くに消えることとなった。代わって、政友会の元総裁であった西園寺公望と彼と交互に政権を担当した元同志会総裁の桂太郎の両名が共同で首席全権として派遣されることが決まった。現代においても、政治的な条約の締結に際しては、議会第一党と第二党から全権が選ばれているが、このときのこの二名の派遣がその嚆矢とされている。

 西園寺は、当初ドイツに対する苛烈な賠償を定めようとしていた草案に反対し、カルタゴの和平を強いることは絶対に容認できないとしてこれを改めさせた。イギリスは日本の陸海軍の欧州派遣をとても高く評価しており、西園寺を列強国に相当する待遇で取り扱った。講和条約における少人数の秘密会議である四人会議(英首相デビッド・ロイド・ジョージ、仏首相ジョルジュ・クレマンソー、米大統領ウッドロウ・ウィルソン、西園寺公望)の一員となり、條約の基本的部分の決定に深く関与した。桂は、フランス語がしゃべれなかったので、彼らから一歩引いていたがドイツ側との間の連絡役を買って出ていた。英仏の強硬な姿勢で、講和条件についてはドイツ側と協議して行うものではないという表向きの姿勢は堅持されたが、ドイツ側の反応を知るために桂が秘密裏に接触して、ドイツ側の反応を確認していた。

 中央同盟国との講和条約と国際連盟憲章が採択されたことを受けて、日本は列強入りを果たした。日本国内は戦勝祝賀ムードで覆われ、日本国民は列強国の一員となったことで大いに自信を高めた。原はこの状況を利用して、これまで温めていた政策を通すことを決めた。帝國憲法の改正である。

 帝國憲法の起草に際して中心的な役割を担った元老伊藤博文は、いわゆる小宰相主義を採用した。明治維新によって徳川幕府は消滅したが、徳川将軍家の当主である徳川慶喜は太政大臣として執政の中枢に残った。その慶喜の当初の方針の通り、徳川家が政権の中枢に存在するという体制は明治10年11月まで存在した。その後に内閣制度がはじまったが、初代板倉勝静、2代勝海舟と幕府時代を含めて徳川慶喜の部下だった者が首相となり、慶喜が彼らを後見していた。慶喜は、第一線を引くと同時に自身に代わって、自身がこれまで行ってきた執政や政権担当者への後見を明治天皇が為すように働きかけてきた。皇室への尊崇の篤い水戸徳川家出身の慶喜にとって、天皇を国家統治の中心とする思想は近代国家を創設するにあたって大前提であった。憲法構想にあたって伊藤もこの考え方を前提として草案をまとめた。

 明治憲法体制も30年が経過すると、様々な形で憲法的な習律が確立していた。その一つが内閣制度である。

 明治憲法が採用した小宰相主義とは、大宰相主義に対する言葉である。この大宰相主義とは、内閣総理大臣に各国務大臣に対する強力な統制権限を付与した体制を意味する。その権限の中には自身の命令を以て国務大臣の行政命令を中止させたり、国務大臣が内閣の方針と違った行動を採る時はその大臣を罷免する権能を持つなどがある。大日本帝國の内閣総理大臣にはそのような強力な権限が付与されていない。すなわち、内閣総理大臣を含む国務各大臣が並列して天皇を輔弼する態勢を取っているのである。

 帝國憲法には、「内閣」という用語すら存在していなかった。これは、帝国の統治権は、天皇が親しく執るという、天皇親政を色濃く反映する規定にする必要があったからである。天皇が「大政を委任」したとされていた徳川時代の政体を改めたのが明治維新であったとされている。天皇自ら大政を指示するのではなく、その下に首相を置く内閣の存在は、「幕府的」であるという指摘は常にあった。これがために天皇親政の色を濃くした憲法から、その規定が除かれたのである。

 しかし、憲法の運用と共に内閣制度は存続し、国家統治機関としては欠くべからざる存在となった。この憲法的習律を明文化しておく必要があると原は考え、これがために、憲法にも内閣について規定すべきであると考えた。そしてこの思想は、明治憲法を起草した伊藤にも理解された。

 憲法の改正に当っては、全部改正の形を取らずに、新たに憲法を追加するという「増補」の形を取ることになった。皇室典範は、明治40年に増補という形で修正が入っている。皇室典範は、その制定の前文で祖宗の「遺訓ヲ明徴ニ」にしているということから、法典そのものを修正することがはばかられたがゆえに増補という形が採られた。憲法もまた「不磨ノ大典」として公布されていることから、同じく作り直すというのははばかられたことから、同じく「増補」という形が採られた。

 原首相は、憲法改正をスローガンとして第43議会に臨み、憲法改正の勅命渙発の是非を問うために大正9年2月26日、衆議院を解散した。原内閣は、第42議会で衆議院議員選挙法を改正し、これまで選挙法の対象外となっていた樺太の北部、北海道の千島列島、東京府の小笠原諸島も含めて、台湾と朝鮮の植民地以外すべてに選挙法を施行した。併せて選挙権も直接国税の要件を10円から3円へと引き下げた。また、議員定数は398議席から486議席へ拡張され、有権者数は前回選挙の倍の数となった。

 野党側は更なる選挙権の拡大を掲げて普通選挙運動を展開し、第43議会で法案を提出していたが、衆議院での通過前に衆議院解散となった。野党側は憲法改正の是非を問うとするならば、選挙権の納税要件を撤廃し、日本臣民の成人男子全てが選挙に参加してから為すべきという主張を展開したが、原は現時点での普選には消極的であり、政友会の唱える「初の憲法改正」と言うスローガンの前に敗れた。大正9年5月10日、第15回総選挙選挙が施行され、政友会は議院第一党へ返り咲いた。

 衆議院選挙後、原内閣は直ちに臨時議会を召集する手続きを行った。第44議会で原内閣は憲法改正に向けたスケジュールを開示した。この臨時議会で野党側の意向をある程度聴取し、内閣側で原案を取り纏る。その後、枢密院に原案を提出して、議決を経る。次の通常議会で勅命を奉じて可決を経て、再度枢密院の議決を経るという形となった。

 原内閣の憲法改正を後押しするかの如く、枢密院議長が山縣有朋から伊藤博文へと交代し、会議をリードした。この枢密院会議では、明治天皇の時とは異なり、大正天皇は第一回の会議と最後の会議のみにしか出席せず、ほぼ全てを臣下に任せることとなった。

 大正9年12月27日、第45議会が開会し、同日の原首相による施政方針演説の後、帝國憲法増補案が勅書として衆議院に下付された。4章11条からなる憲法増補案は、前回議会において草案が開示されたこともあり、スムーズに議事は進み、1月中に貴族院でも可決した。その後、枢密院に於いて、大正天皇臨席の下開かれた最終会議で憲法増補案は可決し、大正10年2月11日公布された。

 憲法改正を果たした原の権勢は高まったかにみえたが、次は摂政設置問題が浮上してきた。大正天皇の病状は次第に悪化し、意思疎通も不都合になっていった。原が憲法増補を通して「内閣」の機能を強化したのも天皇の負担を軽減するものであり、原は摂政設置には消極的であった。帝國憲法第75條は、摂政を設置している間の憲法の変更を禁止している。もし、憲法改正前に摂政設置ということになったとしても、原は、帝國憲法増補は、帝國憲法への追加であり、元の憲法を変更するものではないという理由でこれに対処しようとしたが、摂政設置は避けたいことであった。憲法は改正されたが、その後すぐに摂政設置となると憲法を改正するために摂政の設置を推しとどめたと言われることもあって、摂政の設置を遅らせようとした。それだけではなく、原と大正天皇との間には厚い信頼関係があり、個人的な心情もあって、原は摂政設置には消極的であった。

 しかし、摂政設置に対する圧力は日に日に強まっていった。原の他に有力者として山縣も摂政設置に消極的であり、天皇の神聖性を根拠として摂政設置に反対の立場を表明していた。山縣は、皇太子成婚に関わる宮中某重大事件においても成婚阻止に動こうとしていたため、宮中からの印象が悪化していた。原は山縣とも連携を組み、摂政設置を遅らせようとしていたが、政友会の党内からも異論が出始めた。更には、右翼団体から摂政設置に反対するのは、皇太子の資質に疑義ありということかと山縣と原は攻撃され始めた。摂政設置問題を混乱させた責任を取り、山縣は枢密院議長職を辞任した。山縣は原に対して、最早摂政設置を認めるほかなし、自身が顕職を退くから、それを禊として摂政設置に動けと説得するが、原はこれを固辞し、自身の責任で摂政設置を行うわけにはいかないとし、下野を決めた。

 原内閣は、以上の課題以外にも様々な問題に取り組んだ。その一つが教育機関の拡充である。大正7(1918)年12月、原内閣は、大学令と高等学校令を発し、公立・私立大学の設置が認められた。これにより大正8(1919)年2月には慶應義塾大学、早稲田大学、4月には明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、國學院大學、同志社大学が専門学校から大学への昇格が認可された。また議会では「高等諸学校創設及拡張計画」を発表し、4,450万円の莫大な追加予算を伴って可決された。その計画で高等学校10校、実業専門学校17校(高等工業学校6校、官立高等農業学校4校、官立高等商業学校7校)、専門学校2校(外国語学校、薬学専門学校)が新設され、5万人の進学の道が開かれた。

 交通政策においては、鉄道省の設置にみられるように、鉄道路線の拡充強化が主眼とされ、日本全国に鉄道が敷かれていくこととなった。

 原内閣は、摂政設置問題での倒閣となったが、宮中も絡む問題であることから、原の一身上の辞任とされ、政友会内閣の失策とはされなかった。そのため、後継内閣は政友会を母体として、組閣することとなった。政友会内部では、原の責任を問う声もあったが、宮中が絡むことを考慮して、原の総裁職は続投となった。貴族院議員となっていた政友会顧問の山本権兵衛退役海軍大将に大命が降下する運びとなった。

▽在任中の主な出来事

・衆議院議員選挙権拡大(直接国税10円から3円へ引き下げ)

・大日本帝國憲法改正

・宮中某重大事件

・第三次日英同盟協約延長

▽内閣の出した主な法令

・衆議院議員選挙法改正

・大日本帝國憲法増補

▽内閣の対応した帝國議会

第42回帝國議會・通常会

日程

 召集:2578(大正 7・1918)年11月 9日(官報公布10日)

 集会:2578(大正 7・1918)年12月25日

 開会:2578(大正 7・1918)年12月27日

 閉会:2579(大正 8・1919)年 3月26日

 会期:90日、実数90日

議院役員

貴族院議長

6 德川家達(とくがわ いえさと)

 就任:2577(大正 6・1917)年12月 5日(再任)

 退任:2584(大正13・1924)年12月 5日(任期満了)

 生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、55歳

 出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)

 学歴:英イートン・カレッジ

 官職:貴族院議員・華族議員(公爵)

 会派:火曜会

 回数:終身

 前職:麝香間祗候

 特記:德川家達家初代。

貴族院副議長

7 黒田長成(くろだ ながしげ)

 就任:2575(大正 4・1915)年10月 7日(再任)

 退任:2582(大正11・1922)年10月 7日(任期満了)

 生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、51歳

 出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)

 学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業

 官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)

 会派:無所属

 回数:終身

 前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長

 特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。黒田侯爵家当主

衆議院議長

21 大岡育造(おおおか いくぞう)

 就任:2577(大正6・1917)年6月21日(選出)

 退任:

 生年:2516(1856)年7月4日(安政3年6月3日)、62歳

 出生:長門国豊浦郡小串村(山口県下関市)

 学歴:長崎医学校(現・長崎医科大学)、講法学舎

 官職:衆議院議員(山口県郡部区)

 会派:立憲政友会

 回数:12回(1期~3期、5期~12期、14期)

 前職:代言人/東京府会議員

 特記:

衆議院副議長

14 濱田國松 (はまだ くにまつ)

 就任:2577(大正6・1917)年6月21日(選出)

 退任:

 生年:2528(1868)年4月2日(慶応4年3月10日、50歳

 出生:三重県伊勢市

 学歴:三重師範学校卒業、東京法学院(現・中央大学)卒業

 官職:衆議院議員(広島県広島市区)

 会派:立憲国民党

 回数:6回(9~14期)

 前職:小学校教員、弁護士

 特記:

第43回帝國議會・通常会

日程

 召集:2579(大正 8・1919)年11月10日(官報公布11日)

 集会:2579(大正 8・1919)年12月24日

 開会:2579(大正 8・1919)年12月26日

 解散:2580(大正 9・1920)年 2月26日

 会期:会期90日、実数63日

議院役員

第44議会に同じ

第15回衆議院議員総選挙

 改選数:486

 公示日:2580(大正 9・1920)年3月 5日

 投票日:2580(大正 9・1920)年5月10日

 選挙制度:小選挙区制、秘密投票制

 実施地域:48庁府県

 選挙権:

  直接国税3円以上納税の満25歳以上の日本国民男性

下記の者は権利の適用除外

   華族の当主、現役軍人

   禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人

 被選挙権:

  満30歳以上の日本国民男性

下記の者は権利の適用除外

   華族の当主、現役軍人

   禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人

   宮内官、司法官、会計検査官、収税官、警察官

   管轄区内の府県郡官吏

   各選挙区の市町村選挙管理担当吏員

   神官、僧侶、教師

 選挙結果:

  立憲政友会

   前回選挙:137

   選挙直前:135

   獲得議席:249(+114)

  憲政会

   前回選挙:190

   選挙直前:185

   獲得議席:164(△19)

  立憲国民党

   前回選挙:35

   選挙直前:32

   獲得議席:30(△2)

  立憲帝政党

   前回選挙:13

   選挙直前:13

   獲得議席:12(△1)

  無所属

   前回選挙:20

   選挙直前:30

   獲得議席:31

第44回帝國議會・臨時会

日程

 召集:2580(大正 9・1920)年5月14日(官報公布15日)

 集会:2580(大正 9・1920)年6月29日

 開会:2580(大正 9・1920)年7月 1日

 閉会:2580(大正 9・1920)年7月28日

 会期:28日、実数28日

議院役員

貴族院議長

6 德川家達(とくがわ いえさと)

 就任:2577(大正 6・1917)年12月 5日(再任)

 退任:2584(大正13・1924)年12月 5日(任期満了)

 生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、55歳

 出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)

 学歴:英イートン・カレッジ

 官職:貴族院議員・華族議員(公爵)

 会派:火曜会

 回数:終身

 前職:麝香間祗候

 特記:德川家達家初代。

貴族院副議長

7 黒田長成(くろだ ながしげ)

 就任:2575(大正 4・1915)年10月 7日(再任)

 退任:2582(大正11・1922)年10月 7日(任期満了)

 生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、51歳

 出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)

 学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業

 官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)

 会派:無所属

 回数:終身

 前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長

 特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。黒田侯爵家当主

衆議院議長

22 奥繁三郎(おく しげさぶろう)

 就任:2580(大正 9・1920)年6月29日(選出)

 退任:

 生年:2521(1861)年8月1日(文久元年6月25日)、歳

 出生:山城国綴喜郡八幡(京都府八幡市)

 学歴:京都府師範学校卒業、関西法律学校中

 官職:衆議院議員(京都府第5区)

 会派:立憲政友会

 回数:9回(5期、6期補、7期~12期、15期)

 前職:小学校訓導兼校長、京都府会議員、衆議院議員、衆議院議長(19、22)

 特記:代言人試験合格

衆議院副議長

18 粕谷義三(かすや ぎぞう)

 就任:2580(大正 9・1920)年6月29日(選出)

 退任:

 生年:2526(1866)年9月23日(慶応2年8月15日)、歳

 出生:武蔵国入間郡上藤沢村(埼玉県入間市)

 学歴:米ミシガン大学、法学士

 官職:衆議院議員(埼玉県第2区)

 会派:立憲政友会

 回数:10回(5期~9期、10期繰上、11期、12期、14期~15期)

 前職:自由新聞主筆、埼玉県会議員、県会副議長、衆議院議員、衆議院副議長(18)

 特記:

第45回帝國議會・通常会

日程

 召集:2580(大正 9・1920)年11月11日(官報公布12日)

 集会:2580(大正 9・1920)年12月25日

 開会:2580(大正 9・1920)年12月27日

 閉会:2581(大正10・1921)年 3月26日

 会期:90日、実数90日

議院役員

第44議会に同じ

▽内閣閣僚

内閣総理大臣

25 原敬(はら たかし)

 就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(新任)

 退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)

 生年:2516(1856)年3月15日(安政3年2月9日)、62歳

 出生:陸奥国岩手郡本宮村(岩手県盛岡市)

 学歴:司法省法学校中途退学、パリ政治学院・科目履修生(国際公法)

 官職:衆議院議員(岩手県盛岡市区)→(岩手県第1区)

 会派:立憲政友会・総務委員

 回数:8回(7期~14期)→9回(7期~15期)

 前職:郵便報知新聞社記者/外務省御用掛、清国天津領事、仏公使館在勤、農商務省参事官、外務省通商局長兼大臣官房移民課長兼取調局長、外務次官、朝鮮国駐箚特命全権公使/大阪毎日新聞社編集総理、同社長/逓信大臣、内務大臣(25、27、29)、立憲政友会総裁(4)、内閣総理大臣(25)

 特記:

外務大臣

33 内田康哉(うちだ こうさい/やすや)

 就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(再入閣)

 退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)

 生年:2525(1865)年9月29日(慶応元年8月10日)、52歳

 出生:肥後国八代郡竜北(熊本県八代郡氷川町)

 学歴:新川義塾、同志社英学校中退、東京帝国大学法科卒業

 官職:

 会派:

 回数:

 前職:外務省入省、外務省通商局長ロンドン公使館勤務、清国北京公使館勤務、清国臨時代理公使、外務次官、駐墺大使兼スイス公使、駐米大使、外務大臣(24、33)

 特記:明治40(1907)年11月4日、男爵叙爵/明治44(1911)年8月24日、子爵陞爵/大正9(1920)年9月7日、伯爵陞爵

内務大臣

34 床次竹二郎(とこなみ たけじろう)

 就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(初入閣)

 退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)

 生年:2527(1867)年1月6日(慶応2年12月1日)、51歳

 出生:薩摩国鹿児島城下新照院通町(鹿児島県鹿児島市)

 学歴:共立学校、第一高等中学校、大学予備門、東京帝国大学法科大学政治科卒業

 官職:衆議院議員(鹿児島県郡部区)

 会派:立憲政友会

 回数:3回(12期補~14期)→4回(12期補~15期)

 前職:大蔵省入省、愛媛県収税長、内務省転属、宮城県内務部第一課長、岡山県警察部長、山形県書記官、新潟県書記官、兵庫県書記官、東京府書記官、徳島県知事、秋田県知事、内務省地方局長、樺太庁長官、内務次官、内務大臣(34)

 特記:兼鉄道院総裁

大蔵大臣

27 高橋是清(たかはし これきよ)

 就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(再入閣)

 退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)

 生年:2514(1854)年9月19日(嘉永7年/安政元年閏7月27日)、64歳

 出生:武蔵国江戸芝中門前町(東京都港区芝大門)

 学歴:ヘボン塾(現・明治学院)

 官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:立憲政友会

 回数:明治38(1905)年1月29日勅選

 前職:文部省御用掛、農商務省御用掛、同書記官、特許局長、日本銀行副総裁、兼横浜正金銀行頭取、日本銀行総裁、大蔵大臣(23)

 特記:明治40年9月、男爵叙爵

陸軍大臣

17 田中義一(たなか ぎいち)

 就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(初入閣)

 退任:2581(大正10・1921)年 6月 9日(依願免本官)

 生年:2524(1864)年7月25日(元治元年6月22日)、54歳

 出生:長門国阿武郡萩城下菊屋横町(山口県萩市呉服町)

 学歴:陸軍教導団、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)

 官職:陸軍中将→陸軍大将

 会派:

 回数:

 前職:村役場職員、小学校教員、陸軍教導団、陸軍歩兵少尉任官、ロシア留学、満州軍参謀(日露戦争時)、歩兵第三連隊連隊長、陸軍省軍務局軍事課長、陸軍少将、歩兵第二旅団長、陸軍省軍務局長、陸軍中将、参謀次長、陸軍大臣(17)、陸軍大将

 特記:大正9(1920)年9月7日、男爵叙爵

18 山梨半造(やまなし はんぞう)

 就任:2581(大正10・1921)年 6月 9日(初入閣)

 退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)

 生年:2524(1864)年4月6日(元治元年3月1日)、57歳

 出生:相模国大住郡下島村(神奈川県平塚市下島)

 学歴:耕余塾、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)

 官職:陸軍中将→陸軍大将

 会派:

 回数:

 前職:陸軍歩兵少尉任官、歩兵第五連隊付、陸軍大学校(8期)卒業、歩兵第四旅団副官(日清戦争時)、歩兵第五連隊中隊長、第二軍副官、占領地総督部副官/参謀本部第四部員、兼陸大教官、ドイツ駐在、陸大教官、第二軍参謀(日露戦争時)、同軍参謀副長、第三師団参謀長/オーストリア公使館付、ドイツ大使館、陸大幹事、歩兵第五十一連隊長、陸軍少将、歩兵第三十旅団長、歩兵第一旅団長、参謀本部総務部長、独立第十八師団参謀長、功二級/教育総監部本部長、陸軍中将、陸軍次官、兼航空局長官、陸軍大臣(18)、陸軍大将

 特記:

海軍大臣

11 加藤友三郎(かとう ともさぶろう)

 就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(留任)

 退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)

 生年:2521(1861)年4月1日(文久元年2月22日)、57歳

 出生:安芸国広島城下大手町(広島県広島市中区大手町)

 学歴:広島藩校修道館(現:私立修道館中学校)、海軍兵学寮(7期)卒業(次席)、海軍大学校甲号1期

 官職:海軍大将

 会派:

 回数:

 前職:海軍少尉任官、防護巡洋艦「吉野」回航委員、「吉野」砲術長、海軍少佐、海軍大学校教官、海軍中佐、巡洋艦「筑紫」艦長、海軍大佐、高等教育会議議員、兼海軍省軍務局第二課長、港湾調査会委員、兼海軍臨時建築部部員、海軍省軍務局局員]、第二艦隊参謀長、海軍少将、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長、海軍次官、海軍省司法局長、海軍中将、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官、海軍大臣(11)、海軍大将

 特記:

司法大臣

26 元田肇(もとだ はじめ)

 就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(再入閣)

 退任:2581(大正10・1921)年 5月15日(転官)

 生年:2518(1858)年2月28日(安政5年1月15日)、55歳

 出生:豊後国国東郡来浦村(大分県国東市国東町来浦)

 学歴:東京大学法科卒業

 官職:衆議院議員(大分県郡部区)→(大分県第6区)

 会派:立憲政友会

 回数:14回(1期~14期)

 前職:弁護士、衆議院議員(大成会・国民協会・帝国党・立憲政友会)、衆議院副議長(25)

 特記:

27 大木遠吉(おおき えんきち)

 就任:2581(大正10・1921)年 5月15日(初入閣)

 退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)

 生年:2531(1871)年9月19日(明治4年8月5日)、歳

 出生:肥前国赤松町(佐賀県佐賀市)

 学歴:学習院

 官職:貴族院議員・華族議員(男爵)

 会派:研究会・立憲政友会

 回数:明治41(1908)年、伯子男爵議員補選当選(3期)

 前職:東京工科学校顧問、司法大臣(27)、帝国公道会会長、大日本国粋会総裁、

 特記:明治32(1899)年11月1日、男爵襲爵

文部大臣

29 中橋徳五郎(なかはし とくごろう)

 就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(初入閣)

 退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)

 生年:2521(1861)年10月13日(文久元年9月10日)、55歳

 出生:加賀国石川郡金沢町(石川県金沢市)

 学歴:東京大学英法科卒業、東京帝国大学法学部選科卒業

 官職:衆議院議員(石川県金沢市区)→(大阪府第3区)

 会派:立憲政友会

 回数:4回(11期~12期、13期再選挙、14期)→5回(11期~12期、13期再選挙、14期~15期)

 前職:判事試補、横浜陪審裁判所詰、農商務省転籍、参事官、衆議院制度取調局出仕、欧米出張、衆議院書記官、逓信省参事官、逓信省監査局長、鉄道局長/大阪商船社長、宇治川電気株式会社初代社長、日本窒素重役、日清汽船取締役/大阪市会議員、同議長、衆議院議員、文部大臣(28)

 特記:

農商務大臣

24 山本達雄(やまもと たつお)

 就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(再入閣)

 退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)

 生年:2516(1856)年4月7日(安政3年3月3日)、57歳

 出生:豊後国海部郡(大分県臼杵市)

 学歴:慶應義塾中退、明治義塾(三菱商業学校)卒業、

 官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:立憲政友会

 回数:明治36(1903)年11月20日

 前職:郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)入社、日本銀行入行、横浜正金銀行取締役、ロンドン派遣、日本銀行理事、日本銀行総裁(5)、貴族院勅選議員、日本勧業銀行総裁、大蔵大臣(21)、農商務大臣(21、24)

 特記:

逓信大臣

23 野田卯太郎(のだ うたろう)

 就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(再入閣)

 退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)

 生年:2513(1853)年12月21日(嘉永6年11月21日)、59歳

 出生:筑後国三池郡岩津村(福岡県三池郡高田町)

 学歴:

 官職:衆議院議員(福岡県郡部区)→(福岡県第12区)

 会派:立憲政友会

 回数:10回(5期~14期)→11回(5期~15期)

 前職:福岡県会議員、逓信大臣(19、23)

 特記:地域の豪農・野田伊七の長男として出生

鉄道省設置(2581(大正10・1921)年5月15日)

鉄道大臣

1 元田肇(もとだ はじめ)

 就任:2581(大正10・1921)年 5月15日(転官)

 退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)

 生年:2518(1858)年2月28日(安政5年1月15日)、55歳

 出生:豊後国国東郡来浦村(大分県国東市国東町来浦)

 学歴:東京大学法科卒業

 官職:衆議院議員(大分県第6区)

 会派:立憲政友会

 回数:15回(1期~15期)

 前職:弁護士、衆議院議員(大成会・国民協会・帝国党・立憲政友会)、衆議院副議長(25)。司法大臣

 特記:

国務大臣(欧州派兵関連軍務担当)

 山本権兵衛(やまもと ごんべえ/ごんのひょうえ)

 就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(留任)

 退任:2580(大正 9・1920)年 1月18日(免官)

 生年:2512(1852)年11月26日(嘉永5年10月15日)、48歳

 出生:薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島県鹿児島市加治屋町)

 学歴:開成所、海軍操練所、海軍兵学寮(2期)卒業

 官職:予備役海軍大将

 会派:

 回数:

 前職:海軍大臣官房主事、海軍大臣副官、海軍省軍務局長、海軍大臣

 特記:

国務大臣(欧州派兵関連国内政策担当)

 星亨(ほし とおる)

 就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(留任)

 退任:2580(大正 9・1920)年 1月18日(免官)

 生年:2510(1850)年5月19日(嘉永3年4月8日)、61歳

 出生:武蔵国江戸築地小田原町(東京都中央区築地)

 学歴:横浜英学所、開成所、英ミドル・テンプル

 官職:枢密院副議長

 会派:立憲政友会

 回数:

 前職:幕府大蔵局、横浜税関所長、弁護士、自由党員、駐米公使、外務大臣、逓信大臣/衆議院議員(当選回数9回、2期~10期)、貴族院勅選議員、内閣総理大臣(22)、立憲政友会総裁、枢密院副議長

 特記:実父は左官職人。/明治40年11月、男爵叙爵

内閣書記官長

27 高橋光威(たかはし みつたけ)

 就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(新任)

 退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)

 生年:2528(1868)年1月13日(慶応3年12月19日)、50歳

 出生:越後国(新潟県新発田市菅谷)

 学歴:慶應義塾、慶應義塾大学部法律科卒業

 官職:衆議院議員(大分県郡部区)→(新潟県第5区)

 会派:立憲政友会

 回数:

 前職:内外通信社主幹、福岡日日新聞主筆、大阪毎日新聞入社/内務大臣秘書官(原敬)、衆議院議員、内務省参事官、内閣書記官長(27)

 特記:児玉源太郎嫡男

法制局長官

22 横田千之助(よこた せんのすけ)

 就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(新任)

 退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(依願免本官)

 生年:2530(1870)年9月17日(明治3年8月22日)、48歳

 出生:下野国足利郡足利町本城(栃木県足利市)

 学歴:東京法学院(現・中央大学)卒業、代言人試験合格

 官職:衆議院議員(栃木県郡部区)→(栃木県第7区)

 会派:立憲政友会

 回数:

 前職:弁護士、実業界、衆議院議員、法制局長官(22)

 特記:

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る