16代 第三次伊藤博文内閣
16代 第三次伊藤博文内閣 (2560(明治33・1900)年12月20日~2561(明治34・1901)年7月25日)
▽来歴・概要
元長州藩士。第8代、11代内閣総理大臣。枢密院議長。子爵。
立憲政友会は第三次伊藤内閣が発足する明治33年12月から3ケ月ほど遡る9月15日に結党した。総裁に伊藤博文が座り、党幹事長に原敬、党総務委員に西園寺公望侯爵、渡辺国武男爵、金子堅太郎男爵、末松謙澄男爵、林有造、原敬、星亨、尾崎行雄、松田正久などが就任した。
帝国議会開会前の組閣ではあったが、伊藤内閣の滑り出しは問題なかった。衆議院の過半数を与党で占める政権は大隈内閣で初めて出現したが、伊藤等元老集団がこの運営を行うのは初めてであった。数に苦労した彼らは、多数派を占めたからといって奢ることなく、野党側にも配慮した。中でもこれまで野党的な動きをしていた国民協会には注意を払って対峙した。
内閣は予算案及び北清事変に対処するための増税案を提出する。当然衆議院では、野党憲政本党から反対意見が生じたが、衆議院の多数を占める伊藤内閣は予算委員会での質問時間の過半数を野党側に割り当てて、十分にガス抜きをさせたうえで可決し、貴族院へ回付した。貴族院においても元老山縣の意を組んだ官僚出身議員が伊藤内閣の予算案に慎重な討議を行うも原案通りに可決した。この頃以降、山縣は政党内閣制についての否定的な発言を行わなくなった。
明治34年度予算案は政府の目論見通りにスムーズに可決されたが、政友会内部では官僚出身者と自由党以来の在野の政治家(党人)出身者の対立が目立つようになった。彼らの間での対立軸が鉄道敷設を巡る問題である。政友会では、地方選出の議員たちから鉄道の新規着工を要求する予算を求める声が上がっていた。その動きは伊藤内閣の裏の大番頭として尽力していた原逓相が必死に押止めていたが、そんな折に渡辺蔵相が「公債に依存した事業の全停止」を閣議で提案した。当時、鉄道敷設法によって鉄道建設は鉄道公債の発行によって全て賄うこととされており、この提案は新規どころか既存の鉄道工事も全て停止すると言っているのにも等しかった。これに激怒した原や他の閣僚達は、渡辺の更迭を伊藤に要求するが、伊藤は渡辺に陳謝させてその発言の撤回を促した。
この当時伊藤を悩ませていたのは、対露外交である。満洲朝鮮への進出を狙うロシアをいかに押しとどめるかについて伊藤は苦悩していたが、ここにイギリスから日英提携についての提案が飛び込んできた。日英間の提携成立は、ロシアの態度を強化させるとして伊藤首相は、閣外にあった井上馨らとともにロシアとの妥協の道を探っていたが、山縣有朋、桂太郎、西郷従道、松方正義、加藤高明らは、ロシアとの対立は遅かれ早かれ避けられないと判断し、イギリスとの同盟論を唱えた。
伊藤は、元老会議において対露協調の方針模索について再度議論した。その際に、対露協調についての道も残したいとする旨を述べ、伊藤自身がロシアに渡り、ロシア側と直接交渉をすることを希望した。後任の首相には、桂太郎が推挙された。日英提携となり、日本がロシアと争うということになれば、主戦場は満洲ということになる。すなわち、陸軍出身者を首相に宛てることでイギリスに対して同盟締結に対して日本は前向きであるということを暗喩するメッセージとなったのである。
▽在任中の主な出来事
・官営八幡製鉄所操業開始
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▽内閣の出した主な法令
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▽内閣の対応した帝國議会
第15回帝國議會・通常会
日程
召集:2560(明治33・1900)年11月 7日(官報公示8日)
集会:2560(明治33・1900)年12月22日
開会:2560(明治33・1900)年12月25日
閉会:2561(明治34・1901)年 3月24日
会期:90日、実数90日
議院役員
3 近衛篤麿(このえ あつまろ)
就任:2556(明治29・1896)年10月 3日
退任:
生年:2523(1863)年8月10日(文久3年6月26日)、37歳
出生:山城国京都(京都府京都市)
学歴:独ボン大学、ライプツィヒ大学
官職:貴族院議員・華族議員(公爵)、学習院院長
会派:無所属
回数:終身
前職:
特記:近衛家第29代当主。
4 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2554(明治27・1894)年10月 6日
退任:2561(明治34・1901)年10月 7日(任期満了)
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、33歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)
会派:無所属
回数:終身
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。
侯爵
衆議院議長
7 片岡健吉(かたおか けんきち)
就任:2558(明治31・1898)年11月 9日
退任:
生年:2504(1844)年2月14日(天保14年12月26日)、56歳
出生:土佐国高知城下中島町(高知県高知市)
学歴:
官職:衆議院議員(高知県第3区)
会派:立憲政友会
回数:6回(1期~6期)
前職:土佐藩士/高知県会議長
特記:
衆議院副議長
6 元田肇(もとだ はじめ)
就任:2558(明治31・1898)年11月 9日
退任:
生年:2518(1858)年2月28日(安政5年1月15日)、42歳
出生:豊後国国東郡来浦村(大分県国東市国東町来浦)
学歴:東京大学法科卒業
官職:衆議院議員(大分県第5区)
会派:立憲政友会
回数:6回(1期~6期)
前職:衆議院副議長
特記:
▽内閣閣僚
内閣総理大臣
16 伊藤博文(いとう ひろぶみ)
就任:2560(明治33・1900)年12月20日(新任)
退任:2561(明治34・1901)年 7月25日(内閣総辞職)
生年:2401(1841)年10月16日(天保12年9月2日)、59歳
出生:周防国熊毛郡束荷村(山口県光市束荷)
学歴:松下村塾
官職:貴族院議員・華族議員(子爵)
会派:立憲政友会・総裁
回数:2回(1期補、2期)
前職:長州藩士/幕府内務局出仕、内務奉行並、工務奉行
農商務大臣、枢密院議長、
内閣総理大臣(8、11)、枢密院議長
特記:実父は農民。
帝國憲法制定の功により男爵。
日清戦争の功により子爵陞爵。
外務大臣
17 加藤高明(かとう たかあき)
就任:2560(明治33・1900)年12月20日(新任)
退任:2561(明治34・1901)年 7月25日(内閣総辞職)
生年:2520(1860)年1月25日(安政7年1月3日)、40歳
出生:尾張国海東郡佐屋(愛知県愛西市)
学歴:名古屋藩立洋学校(現・愛知県第一中学校)。東京外国語学校(現・東京外事専門学校)。東京大学法学部(現・東京帝國大学法学部)首席卒業。
官職:特命全権公使
会派:
回数:
前職:三菱入社、三菱本社副支配人
大隈外相秘書官兼政務課長、駐英公使
特記:初入閣
内務大臣
21 末松謙澄(すえまつ けんちょう)
就任:2560(明治33・1900)年12月20日(新任)
退任:2561(明治34・1901)年 7月25日(内閣総辞職)
生年:2515(1855)年9月30日(安政2年8月20日))、45歳
出生:豊前国前田村(福岡県行橋市前田)
学歴:東京師範学校中退、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン、ケンブリッジ大学卒業
官職:前衆議院議員
貴族院議員・華族議員(男爵)
会派:立憲政友会・総務委員
回数:2回(1期補、2期)
前職:東京日日新聞記者、英国留学、文部省参事官、内務省参事官、内務省県治局長
衆議院議員(当選回数3回、1期~3期、福岡県第8区)
特記:大庄屋役末松房澄の4男
伊藤博文女婿
特記:
大蔵大臣
16 渡邊國武(わたなべ くにたけ)
就任:2560(明治33・1900)年12月20日(新任)
退任:2561(明治34・1901)年 7月25日(内閣総辞職)
生年:2506(1846)年3月29日(弘化3年3月3日)、48歳
出生:信濃国諏訪郡東堀村(長野県岡谷市)
学歴:諏訪高島藩校長善館
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:立憲政友会・総務委員
回数:
前職:諏訪高島藩士/江戸幕府大蔵局出仕、高知県令、大蔵省調査局長、主計局長、大蔵次官
特記:男爵
陸軍大臣
8 桂太郎(かつら たろう)
就任:2560(明治33・1900)年12月20日(留任)
退任:2561(明治34・1901)年 1月15日(依願免本官)
生年:2508(1848)年1月4日(弘化4年11月28日)、50歳
出生:長門国阿武郡萩町(山口県萩市)
学歴:ドイツ留学
官職:陸軍大将
会派:
回数:
前職:長州藩士/陸軍次官、第三師団長、台湾総督
特記:
9 児玉源太郎(こだま げんたろう)
就任:2561(明治34・1901)年 1月15日(新任)
退任:2561(明治34・1901)年 7月25日(内閣総辞職)
生年:2512(1852)年4月14日(嘉永5年閏2月25日)、48歳
出生:周防国都濃郡徳山横本町(山口県周南市児玉町)
学歴:
官職:陸軍中将
会派:
回数:
前職:周防藩士/陸軍大学校長、陸軍次官兼軍務局長、第三師団長、台湾総督
特記:男爵
台湾総督兼任
初入閣
海軍大臣
8 山本権兵衛(やまもと ごんべえ/ごんのひょうえ)
就任:2560(明治33・1900)年12月20日(留任)
退任:2561(明治34・1901)年 7月25日(内閣総辞職)
生年:2512(1852)年11月26日(嘉永5年10月15日)、48歳
出生:薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島県鹿児島市加治屋町)
学歴:開成所、海軍操練所、海軍兵学寮(2期)卒業
官職:海軍中将
会派:
回数:
前職:海軍大臣官房主事、海軍大臣副官、海軍省軍務局長
特記:初入閣
司法大臣
14 金子 堅太郎(かねこ けんたろう)
就任:2560(明治33・1900)年12月20日(新任)
退任:2561(明治34・1901)年 7月25日(内閣総辞職)
生年:2513(1853)年3月13日(嘉永6年2月4日)、47歳
出生:筑前国早良郡鳥飼村(福岡県福岡市中央区鳥飼)
学歴:福岡藩校・修猷館、米ハーバード大学卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:立憲政友会・総務委員
回数:
前職:元老院書記官、制度取調局御用掛、憲法起草参与、枢密院書記官、伊藤博文首相秘書官
特記:
文部大臣
16 松田正久(まつだ まさひさ)
就任:2560(明治33・1900)年12月20日(新任)
退任:2561(明治34・1901)年 7月25日(内閣総辞職)
生年:2505(1845)年5月17日(弘化2年4月12日)、55歳
出生:肥前国小城郡牛津(佐賀県小城市)
学歴:昌平坂学問所
官職:衆議院議員(佐賀県第2区)
会派:立憲政友会・総務委員
回数:2回(1期、6期)
前職:小城藩士/幕府陸軍局
長崎県会議員、同会議長、司法省出仕
特記:小城藩士横尾只七の次男
農商務大臣
14 林有造(はやし ゆうぞう)
就任:2560(明治33・1900)年12月20日(新任)
退任:2561(明治34・1901)年 7月25日(内閣総辞職)
生年:2502(1842)年9月21日(天保13年8月17日)、58歳
出生:土佐国宿毛(高知県宿毛市)
学歴:
官職:
会派:立憲政友会・総務委員
回数:衆議院議員6回当選(1期~6期)
前職:高知県令
特記:初入閣
逓信大臣
9 原敬(はら たかし)
就任:2560(明治33・1900)年12月20日(新任)
退任:2561(明治34・1901)年 7月25日(内閣総辞職)
生年:2516(1856)年3月15日(安政3年2月9日)、44歳
出生:陸奥国岩手郡本宮村(岩手県盛岡市)
学歴:司法省法学校中途退学、パリ政治学院・科目履修生(国際公法)
官職:
会派:立憲政友会・総務委員兼幹事長
回数:
前職:郵便報知新聞社記者
外務省御用掛、清国天津領事、仏公使館在勤、農商務省参事官
外務省通商局長兼大臣官房移民課長兼取調局長、外務次官、朝鮮国駐箚特命全権公使
大阪毎日新聞社編集総理、同社長
特記:初入閣
内閣書記官長
17 鮫島武之助(さめしま たけのすけ)
就任:2560(明治33・1900)年12月20日(新任)
退任:2561(明治34・1901)年 7月25日(内閣総辞職)
生年:2508(1848)年12月5日(嘉永元年11月10日)、52歳
出生:薩摩国鹿児島城下山之口馬場町(鹿児島県鹿児島市)
学歴:慶應義塾卒業、米国留学
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:
回数:
前職:外務省書記官、外務大臣秘書官、公使館書記官兼外務省参事官(イタリア駐在)
特記:
法制局長官
12 奥田義人(おくだ よしと)
就任:2560(明治33・1900)年12月20日(新任)
退任:2561(明治34・1901)年 7月25日(依願免本官)
生年:2520(1860)年7月31日(万延元年6月14日)、40歳
出生:出羽国置賜郡米沢城下信夫町(山形県米沢市)
学歴:東京大学法学部卒業
官職:
会派:
回数:
前職:農商務省参事官、特許局長、内閣官報局長、衆議院書記官長、農商務次官
特記:
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