10代 松方正義内閣

10代 松方正義内閣 (2552(明治25・1892年)6月20日~2554(明治27・1894年)4月1日)

▽来歴・概要

 元薩摩藩士。男爵。大蔵大臣。

 松方内閣は、超然主義体制における最後の内閣と位置づけられている。この内閣の後も揺れ戻し的な形の内閣は何度か存在したが、政治史的な評価としては、この内閣を境にして変化が生じている。

 小栗・大久保たち政界長老は、この内閣が明治維新政府にとって正念場と心得ていた。選挙干渉事件後の更迭人事で荒れる内務省に山縣有朋を内務大臣として配置し、蛮勇演説事件を起こした樺山資紀に替えて西郷従道を海軍大臣に就任させた。外務大臣には条約改正交渉を継続させるために榎本武揚を留任させて、帝国議会の第一党自由党を懐柔させるために後藤象二郎を農商務大臣に就任させた。大蔵大臣には自身の腹心の部下であった渡辺国武を就任させた。貴族院議員小栗忠順も逓信大臣として入閣し、伊藤博文枢密院議長も班列大臣として入閣した。大久保利通内大臣は一歩引いた立場で遊撃的な動きを行う為、選挙干渉事件で引責辞任した白根專一元内務次官を内大臣府御用掛に引っ張り、政界工作の足掛かりとした。

 第四議会が開会され、当初は松方首相によるこれまでの財政知見が生かされ、議論において野党に切り込んだ。微に入り細を穿つ舌鋒は、政府提出予算案における野党側が求める冗費を徹底的に切り詰めるものであることを証明しつつあった。一方で、野党側、特に立憲改進党は、かつて党首の大隈重信が蔵相であったこともあってか、財政について一家言ある人間も多く在籍していた。大蔵省の非主流派に属していた者の中には官を辞して、代議士となった者もいた。彼らは、本年度予算には未だ無駄があると主張し、衆議院での予算否決を目指していた。

 第三議会のような紛糾状態にはないが、政府側の意図したとおりの議会運営には至らず、野党勢力は政府の新規軍艦建造費を削除した予算修正案が衆議院予算委員会を通過した。松方内閣は帝國議会の停会を発し、閣議で善後策を模索する。山縣、井上を中心に、解散に打って出るべきと主張する閣僚もいたが、これまでの経緯から野党勢力の議会議席縮小は難しいと判断した小栗や伊藤は、別の手段に出た。明治26年2月10日、内閣閣僚、枢密院議長及び貴衆両院議長、副議長へ参内の指示があり、いわゆる「和協の詔勅」が下されるに至った。

 この詔勅によって、政府は新規の軍艦建造費の復活を得て、野党側は帝室費の下賜と職員年俸の1割減と更なる行財政改革を行うことを政府に約束させた。明治政府の進める富国強兵政策は首の皮一枚でつながり、政府の中では、野党との協力体制を構築することの必要性を認識する者が増えた。

 松方首相は、政治の混乱で帝室費の下賜に至り、陛下の宸襟を悩ましたことを深く恥入り、帝国議会閉会後に辞職する意思を漏らしたが、ここで総辞職すれば、野党勢力に付け入るスキを与えるとして、首相職の続投を要請され、内閣は継続した。

 明治初年より政府の掲げる大きな課題は条約改正問題であった。条約改正を実現しようとした榎本外相であったが、議会からその条約を結んだのは他でもない幕府ではなかったかと言う点で攻撃を受け、榎本外相は自身が主導しては、条約改正問題で議会の好意は得られないとと判断し、第5議会終了後に外相を辞任した。外務大臣に就任した陸奥宗光は、青木周蔵駐独公使に命じて英国との条約改正交渉に入った。条約改正においては、日本が外国と同格であることを示すためにも、外国人に日本人並みの権利を保障すべきであるとする意見が政府側の了解事項となった。即ち、これまで居留地内でしか居住を認められなかった外国人にも、居住地外での居住の自由を保障するという内地雑居の解禁を改正方針とした。しかし、内地雑居を解禁する交渉方針に反対する勢力が明治26年10月1日に大日本協会を結成し、国民協会・改進党・東洋自由党・同盟倶楽部・政務調査会を加えた6団体(対外硬派、硬六派)が中心となって、外国人に対する強硬策(現行条約励行運動)を政府に要求した。

 第五議会においても、硬六派の主張は止まらず、12月8日には現行条約励行建議案を提出した。自由党はこの動きには載らなかったが、与党の位置にいた国民協会がこの建議の提出に関わっており、議席状況を鑑みれば可決の公算が強かった。この建議が成立すれば、日本の世論が条約改正に反対を示しているということにもなりかねず、それは英国との交渉に悪影響を生じる可能性が大いにあった。可決を阻止したい松方内閣は、硬六派に建議案撤回を持ちかけたが、応じなかったため、12月30日衆議院を解散した。

 松方首相は、条約改正について政府が本気であることを英国に示すためにも、英語が話せる伊藤博文に首相を交代することを望んだ。伊藤もこれを快諾し、総選挙後の臨時議会開会前に内閣が交代することとなった。



▽在任中の主な出来事

・和協の詔勅

・陸奥演説

▽内閣の出した主な法令

▽内閣の対応した帝國議会

第4回帝國議會・通常会

日程

 召集:2552(明治25・1892)年10月12日(官報公示:13日)

 集会:2552(明治25・1892)年11月25日

 開会:2552(明治25・1892)年11月29日

 停会:2553(明治26・1893)年 1月23日自

    2552(明治25・1892)年 2月 6日至(15日間)

 閉会:2553(明治26・1893)年 2月28日

 会期:92日(2日延長)

議院役員

貴族院議長

2 蜂須賀茂韶(はちすか もちあき)

 就任:2552(明治25・1892)年 6月14日

 退任:

 生年:2506(1846)年9月28日(弘化3年8月8日)、45歳

 出生:

 学歴:英オックスフォード大学卒業

 官職:貴族院議員・華族議員(侯爵・無所属)

 前職:外務省御用掛、駐仏公使

 特記:第14代徳島藩主。

    第13代徳島藩主・蜂須賀斉裕の次男。斉裕は第11代将軍・徳川家斉の二十二男。

貴族院副議長

2 細川潤次郎(ほそかわ じゅんじろう)

 就任:2551(明治24・1891)年 9月30日

 退任:2553(明治26・1893)年11月13日(議員辞職)

 生年:2494(1834)年3月11日(天保5年2月2日)、57歳

 出生:土佐国高知城下南新町(高知県高知市桜井町)

 学歴:幕府海軍操練所、中浜万次郎門下生

 官職:貴族院議員・勅選議員(無所属)

 前職:幕府司法局出仕、元老院議官

 特記:

衆議院議長

2 星亨(ほし とおる)

 就任:2552(明治25・1892)年5月3日

 退任:

 生年:2510(1850)年5月19日(嘉永3年4月8日)、41歳

 出生:武蔵国江戸築地小田原町(東京都中央区築地)

 学歴:横浜英学所、開成所、英ミドル・テンプル

 官職:衆議院議員(栃木県第1区)

 会派:自由党

 回数:1回(2期)

 前職:幕府大蔵局、横浜税関所長、弁護士、自由党員

 特記:実父は左官職人。

衆議院副議長

2 曾禰荒助(そね あらすけ)

 就任:2552(明治25・1892)年5月 3日

 退任:2553(明治26・1893)年8月30日(議員辞職)

 生年:2509(1849)年2月20日(嘉永2年1月28日)、43歳

 出生:長門国(山口県)

 学歴:

 官職:衆議院議員(山口県第4区)

 会派:中央倶楽部

 回数:1回(2期)

 前職:長州藩士/内閣記録局長、衆議院書記官長

 特記:

第5回帝國議會・通常会

日程

 召集:2553(明治26・1893)年10月12日(官報公示:13日)

 集会:2553(明治26・1893)年11月25日

 開会:2553(明治26・1893)年11月28日

 解散:2553(明治26・1893)年12月30日

議院役員

2 蜂須賀茂韶(はちすか もちあき)

 就任:2552(明治25・1892)年 6月14日

 退任:

 生年:2506(1846)年9月28日(弘化3年8月8日)、45歳

 出生:

 学歴:英オックスフォード大学卒業

 官職:貴族院議員・華族議員(侯爵・無所属)

 前職:外務省御用掛、駐仏公使

 特記:第14代徳島藩主。

    第13代徳島藩主・蜂須賀斉裕の次男。斉裕は第11代将軍・徳川家斉の二十二男。

貴族院副議長

3 西園寺公望(さいおんじ きんもち)

 就任:2553(明治26・1893)年11月13日

 退任:

 生年:2509(1849)年12月7日(嘉永2年10月23日)、42歳

 出生:山城国京都(京都府京都市)

 学歴:ソルボンヌ大学卒業

 官職:貴族院議員・勅選議員(侯爵・無所属)

 前職:東洋自由新聞社長/

    駐墺公使、駐独公使、兼駐白公使/

    賞勲局総裁、法典調査会副総裁(総裁は伊藤博文)

 特記:

衆議院議長

2 星亨(ほし とおる)

 就任:2552(明治25・1892)年 5月 3日

 退任:2553(明治26・1893)年12月13日(除名)

 生年:2510(1850)年5月19日(嘉永3年4月8日)、41歳

 出生:武蔵国江戸築地小田原町(東京都中央区築地)

 学歴:横浜英学所、開成所、英ミドル・テンプル

 官職:衆議院議員(栃木県第1区)

 会派:自由党

 回数:1回(2期)

 前職:幕府大蔵局、横浜税関所長、弁護士、自由党員

 特記:実父は左官職人。

3 楠本正隆(くすもと まさたか)

 就任:2553(明治26・1893)年12月15日

 退任:2553(明治26・1893)年12月30日(解散)

 生年:2598(1838)年4月14日(天保9年3月20日)、55歳

 出生:肥前国玖島城下岩船(長崎県大村市玖島)

 学歴:

 官職:衆議院議員(東京府第4区)

 会派:立憲改進党

 回数:2回(1期、2期補欠)

 前職:大村藩士/新潟県令、元老院議官、東京市会議長

 特記:

衆議院副議長

3 楠本正隆(くすもと まさたか)

 就任:2553(明治26・1893)年11月26日

 退任:2553(明治26・1893)年12月15日(議長就任)

 生年:2598(1838)年4月14日(天保9年3月20日)、55歳

 出生:肥前国玖島城下岩船(長崎県大村市玖島)

 学歴:

 官職:衆議院議員(東京府第4区)

 会派:立憲改進党

 回数:2回(1期、2期補欠)

 前職:大村藩士/新潟県令、元老院議官、東京市会議長

 特記:

4 安部井磐根(あべい いわね)

 就任:2553(明治26・1893)年12月18日

 退任:2553(明治26・1893)年12月30日(解散)

 生年:2492(1832)年4月17日(天保3年3月17日)、61歳

 出生:陸奥国安達郡(福島県二本松市)

 学歴:

 官職:衆議院議員(福島県第2区)

 会派:無所属

 回数:2回(1期、2期)

 前職:二本松藩士/福島県会議長

 特記:

第3回衆議院議員総選挙

 改選数:300

 投票日:2554(明治27・1894)年3月1日

 選挙制度:小選挙区制(一部2人区制)

 実施地域:45府県(北海道、沖縄県、小笠原諸島を除く)

 選挙権:

  直接国税15円以上納税の満25歳以上の日本国民男性

下記の者は権利の適用除外

   華族の当主、現役軍人

   禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人

 被選挙権:

  直接国税15円以上納税の満30歳以上の日本国民男性

下記の者は権利の適用除外

   華族の当主、現役軍人

   禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人

   宮内官、裁判官、会計検査官、収税官、警察官

   管轄区内の府県郡官吏

   各選挙区の市町村選挙管理担当吏員

   神官、僧侶、教師

 選挙結果:

  自由党

   前回選挙:88

   選挙直前:76

   獲得議席:120(+44)

  立憲改進党

   前回選挙:40

   選挙直前:42

   獲得議席:60(+18) 

  国民協会

   前回選挙:新党

   選挙直前:69

   獲得議席:35(△34)

  同志倶楽部

   前回選挙:新党

   選挙直前:19

   獲得議席:22(+3)

  同盟倶楽部

   前回選挙:新党

   選挙直前:17

   獲得議席:15(△2)   

  立憲帝政党

   前回選挙:17

   選挙直前:14

   獲得議席:13(△1)

  大日本協会

   前回選挙:新党

   選挙直前:

   獲得議席:9

  無所属

   前回選挙:74

   選挙直前:63

   獲得議席:26

▽内閣閣僚

内閣総理大臣

10 松方正義(まつかた まさよし)

 生年:2495(1835)年3月23日(天保6年2月25日)、57歳

 出生:薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目)

 学歴:藩校造士館

 官職:

 前職:薩摩藩士/太政官民部省出仕、幕府大蔵局出向、大蔵奉行、大蔵次官、大蔵大臣、枢密顧問官

 特記:男爵

外務大臣

10 榎本武揚(えのもと たけあき)

( ~2553(明治26・1893)年4月1日免)

 生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、55歳

 出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了

 官職:海軍大将

 前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使、農商務大臣

 特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男

    男爵

    留任

11 陸奥宗光(むつ むねみつ)

(2553(明治26・1893)年4月1日任~ )

 生年:2504(1844)年8月20日(天保15年7月7日)、51歳

 出生:紀伊国和歌山(和歌山県和歌山市吹上三丁目)

 学歴:神戸海軍操練所

 官職:

 前職:紀州藩士/太政官大蔵省出仕、外務局出仕、駐米公使、農商務大臣、衆議院議員(1期)、枢密顧問官

 特記:再入閣

内務大臣

10 山縣有朋(やまがた ありとも)

 就任:2552(明治25・1892)年6月20日

 退任:2553(明治26・1893)年3月11日(枢密院議長就任)

 生年:2498(1838)年6月14日(天保9年閏4月22日)、54歳

 出生:長門国阿武郡川島村(山口県萩市川島)

 学歴:松下村塾

 官職:陸軍中将

 前職:長州藩士/太政官兵部省出仕、幕府陸軍局出向、内務大臣、内閣総理大臣(9)

 特記:男爵

11 芳川顕正(よしかわ あきまさ)

 就任:2553(明治26・1893)年3月11日

 退任:2554(明治27・1894)年4月 1日(内閣総辞職)

 生年:2502(1842)年1月21日(天保12年12月10日)、51歳

 出生:阿波国麻植郡山川町(徳島県吉野川市)

 学歴:

 官職:

 前職:徳島藩士/江戸幕府大蔵局出仕、内務局転任、内務次官

 特記:

大蔵大臣

9 渡邊國武(わたなべ くにたけ)

 生年:2506(1846)年3月29日(弘化3年3月3日)、48歳

 出生:信濃国諏訪郡東堀村(長野県岡谷市)

 学歴:諏訪高島藩校長善館

 官職:

 前職:諏訪高島藩士/江戸幕府大蔵局出仕、高知県令、大蔵省調査局長、主計局長、大蔵次官

 特記:初入閣

陸軍大臣

6 大山巌(おおやま いわお)

 生年:2502(1842)年11月12日(天保13年10月10日)、48歳

 出生:薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島県鹿児島市)

 学歴:幕臣・江川英龍門下生

 官職:陸軍中将

 前職:薩摩藩士/スイス・ジュネーブ留学、陸軍次官

 特記:初入閣

海軍大臣

7 西郷従道(さいごう じゅうどう/つぐみち)

 生年:2503(1843)年6月1日(天保14年5月4日)、49歳

 出生:薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島県鹿児島市加治屋町)

 学歴:

 官職:海軍中将

 前職:薩摩藩士/江戸幕府陸軍局出仕、歩兵奉行、開拓使転出、内務省工部大学校校長、陸軍参謀本部高級部員、陸軍参謀次長、陸軍次官

 特記:男爵

司法大臣

6 田中不二麿(たなか ふじまろ)

 就任:2552(明治25・1892)年6月20日(留任)

 退任:2552(明治25・1892)年6月30日(司法官弄花事件による引責辞任)

 生年:2505(1845)年7月16日(弘化2年6月12日)、46歳

 出生:尾張国名古屋城下(愛知県名古屋市)

 学歴:尾張藩校明倫堂

 官職:元老院議官

 前職:尾張藩士/江戸幕府文部局出仕、初等教育部長、駐フランス公使、駐イタリア公使

 特記:

7 井上毅(いのうえ こわし)

 就任:2552(明治25・1892)年6月30日(留任)

 退任:2554(明治27・1894)年4月 1日(内閣総辞職)

 生年:2504(1844)年2月6日(天保14年12月18日)、48歳

 出生:肥後国熊本城下坪井町(熊本県熊本市中央区坪井)

 学歴:必由堂、熊本藩校時習館、横浜仏語伝習所

 官職:枢密院書記官兼任

 前職:熊本藩士/太政官大蔵省出仕、幕府司法局出向、内閣書記官、制度取調局、法制局長官

 特記:

文部大臣

7 川路太郎(かわじ たろう)

 生年:2505(1845)年1月28日(弘化元年12月21日)、47歳

 出生:武蔵国江戸番町冬青木坂上(東京都)

 学歴:蕃書調所、昌平黌、横浜仏語伝習所、英国留学

 官職:文部省高等教育局長兼参事官

 前職:幕府大蔵局、文部省初等教育局長。文部大臣(5)。

 特記:男爵。川路聖謨の孫。

    再入閣

農商務大臣

8 後藤象二郎(ごとう しょうじろう)

( ~2554(明治27・1894)年1月22日免)

 生年:2498(1838)年4月13日(天保9年3月19日)、53歳

 出生:土佐国高知城下片町(高知県高知市)

 学歴:吉田東洋門下生、開成所

 官職:民間

 前職:土佐藩士/太政官大蔵省出仕、幕府内務局出向後退官。自由党幹部。

 特記:男爵。初入閣。大同団結運動の指導者。自由党系。

9 井上馨(いのうえ かおる)

(2554(明治27・1894)年1月22日任~ )

 生年:2496(1836)年1月16日(天保6年11月28日)、56歳

 出生:周防国吉敷郡湯田村(山口市湯田温泉二丁目)

 学歴:長州藩校明倫館

 官職:

 前職:長州藩士/太政官大蔵省出仕、幕府大蔵局出向、内務局、内務奉行並、工務奉行、外務奉行、外務次官

 特記:再入閣

逓信大臣

4 小栗忠順(おぐり ただまさ)

( ~2553(明治26・1893)年4月1日免)

 生年:2487(1827)年7月16日(文政10年6月23日)、64歳

 出生:武蔵国江戸駿河台(東京都)

 学歴:

 官職:貴族院議員・華族議員(伯爵・1期・無所属)

 前職:江戸幕府外国奉行、勘定奉行、歩兵奉行、軍艦奉行、若年寄

    法制局長官(1)、内閣書記官長(2)、内務大臣(3)、内閣総理大臣(4、7)

    貴族院議長(1)

 特記:旗本小栗忠高の子。三河小栗氏第12代当主。

    永年の功績、帝國議会開設の功により伯爵陞爵

5 榎本武揚(えのもと たけあき)

(2553(明治26・1893)年4月1日任~)

 生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、56歳

 出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了

 官職:海軍大将

 前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使、農商務大臣

 特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男

    男爵

内閣書記官長

10 平山成信(ひらやま なりのぶ)

 生年:2514(1854)年12月25日(嘉永7年11月6日)、37歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:

 官職:

 前職:幕臣/農商務省・外務省・大蔵省

 特記:

法制局長官

7 尾崎三良(おざき さぶろう)

 生年:2502(1842)年3月3日(天保13年1月22日)、50歳

 出生:山城国葛野郡西院(京都市右京区)

 学歴:オックスフォード大学聴講生

 官職:貴族院議員(勅選)

 前職:三條実美家臣/太政官出仕、元老院議官

 特記:

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