5代 第二次大久保利通内閣
5代 第二次大久保利通内閣 (2544(明治17・1884)年11月17日~2546(明治19・1886)年11月25日)
▽来歴・概要
首相就任時男爵。その後子爵に陞爵。在職日数、739日。第一次、第二次通算1211日。
終息したかに思われた自由民権運動の激化事件は、その後も散発的に発生した。未遂には終わったが、自由党員による名古屋鎮台襲撃計画が発覚した飯田事件や政府転覆計画が発覚した名古屋事件がそれである。これらの動きに対応するために、政府は火薬取締規則、爆発物取締罰則を制定し、過激な運動の取締りを強化した。
対外政策では、朝鮮半島にて発生した開化派によるクーデタである甲申政変の対応が第二次大久保内閣の重要事項となった。親日派によるクーデタが一度は成功したかに見えたが、クーデタ勢力は数日にして瓦解した。事件処理に尽力したのが、外務次官の井上馨と閣外で憲法制定の研究作業に尽力していた伊藤博文である。対朝鮮との交渉を井上が、対清国との交渉を伊藤が担当した。
内政においては、教育令の改定が重要事項としてあげられる。初代板倉内閣以来改定に改定を重ねた初等教育拡充の試みは、全国均一の小学校制度を産み出した。尋常科4年、高等科2年。尋常科4年修了程度を義務教育期間と定め、俗にいう「読み書き算盤」を修めさせるとともに「国民教育」を図るために修身の科目を設けた。
財政問題がこの内閣の急所となった。初代板倉内閣から2代勝内閣までにおいて大蔵大臣を務めた大久保忠寛の後を継いだのは、大隈重信である。その彼が明治十四年の政変で失脚した後を継いだのが松方正義である。松方財政の登場である。明治維新以来急成長を続けていた日本経済であるが、同時にインフレの弊害も目立ってきた。松方は、大久保・大隈と続いてきた積極・拡大財政から消極・緊縮財政に政府の財政を転換させた。小栗内閣、当初の蔵相は元幕臣の岩瀬忠震が就任していた。小栗は大久保から松方の緊縮財政の考え方を聞いており、一定の正しさを認めていた。この旨を小栗は岩瀬にも通知していたが、岩瀬は産業振興の観点から緊縮財政は必ずしも正しからずという観点から政府財政の緊縮化には一定の歯止めがかかっていた。岩瀬は在任中に病没したが、後継に松方を推薦しており、松方財政は再び進展することとなった。産業振興を掲げる大久保内閣では、商工大臣に横井小楠が起用され、松方財政とは相容れぬ部分も多く調整は難航したが、小栗が政権を担っていた明治16年度政府予算から徐々にデフレ誘導が始まり、大久保内閣期の明治18年度予算において一定の完成を見た。
デフレ誘導による農作物の価格下落は、地方農村において勢力を誇っていた自由民権運動を支えた地方の地主階級に打撃を与えたという点で、松方財政には、想定外の評価が与えられたが、当時の世評では、不況への誘導としかとらえられなかった。勿論、政府内部及び政府に近い層からは、維新以来の急激な開発のために不換紙幣を乱発してきたことの反省とその整理による財政の健全化と言う松方財政を評価していた。とはいえ、これが政争となった。明治19年度予算案作成においてもデフレ傾向は維持されたが、地方の窮状に対して、大蔵官僚の中にも大蔵省は松方財政を指示する者とそれ以外に分かれた。明治20年度予算案作成においては、インフレ誘導を図ろうとする大蔵官僚(旧大隈派を中心とし、幕臣も多く所属した。)と松方財政を指示する官僚との間の争いで、大蔵省は機能不全に陥った。
松方財政を評価する大久保に松方を切ることはできず、ここに大久保は病気を理由に総辞職の途を選ぶ。大蔵省の混乱を治められるのは、大蔵省の長老のみとの決意により、当時元老院議員となっていた大久保忠寛に後事を託すこととした。来年度予算の決定と執行の確認までという条件で、ワンポイントリリーフとしての大久保忠寛政権は生まれたのである。
▽在任中の主な出来事
・自由民権運動:飯田事件、名古屋事件
・甲申政変
・松方財政
・北海道庁設置
・鎮台制から師団制へ
・(陸海軍統合)参謀本部設置
▽内閣の出した主な法令
・火薬取締規則、爆発物取締罰則両制定
・教育令改正
・帝國大学令、小学校令、中学校令、師範学校令制定
・参謀本部条例改正
▽内閣の対応した帝國議会
・帝國議会設置前
▽内閣閣僚
内閣総理大臣
5 大久保利通(おおくぼ としみち)
生年:2490(1830)年9月26日(文政13年8月10日)、54歳
出生:薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)
学歴:藩校造士館
官職:元老院議官
前職:薩摩藩士/太政官中務省出仕、幕府内務局出向、内務奉行、内務次官、内務大臣
特記:男爵
文部大臣臨時兼任
外務大臣
3 田辺太一(たなべ たいち(やすかず))
( ~2545(明治18・1885)年12月1日免)
生年:2491(1831)年10月21日(天保2年9月16日)、53歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所
官職:特命全権公使
前職:江戸幕府甲府徽典館教授、外国方書物方出役、外国奉行支配組頭、駐仏公使館書記官、駐仏公使
特記:幕臣田辺誨輔(石庵)の次男
男爵
4 杉浦譲(すぎうら ゆずる)
(2545(明治18・1885)年12月1日任~ )
生年:2490(1835)年11月15日(天保6年9月25日)、50歳
出生:甲斐国山梨郡府中(山梨県甲府市)
学歴:徽典館
官職:特命全権公使、元老院議官
前職:江戸幕府甲府徽典館助教授、外国奉行支配書物出役、同調役、外国奉行支配組頭、駐仏公使館書記官、駐蘭公使、外務次官
特記:初入閣
男爵
内務大臣
5 河井秋義(かわい あきよし)
生年:2487(1827)年1月27日(文政10年1月1日)、57歳
出生:越後国長岡城下長町(新潟県長岡市長町)
学歴:長岡藩校崇徳館
官職:
前職:越後長岡藩士/幕府内務局出仕、内務奉行
特記:河井継之助の名で有名
初入閣
大蔵大臣
5 松方正義(まつかた まさよし)
生年:2495(1835)年3月23日(天保6年2月25日)、49歳
出生:薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目)
学歴:藩校造士館
官職:元老院議官
前職:薩摩藩士/太政官民部省出仕、幕府大蔵局出向、大蔵奉行、大蔵次官、大蔵大臣
特記:
陸軍大臣
3 松平乗謨(まつだいら のりかた)
生年:2499(1839)年12月18日(天保10年11月13日)、44歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:
官職:陸軍大将/従五位下・兵部少輔、縫殿頭、正四位下
前職:江戸幕府若年寄、老中、陸軍奉行、陸軍総裁
特記:三河国奥殿藩8代藩主、信濃国田野口藩(竜岡藩)主。真次流大給松平家11代当主。
留任
子爵
海軍大臣
2 木村喜毅(きむら よしたけ)
( ~2545(明治18・1885年5月24日免)
生年:2490(1830)年2月27日(文政13年2月5日)、54歳
出生:武蔵国江戸浜御殿役宅(東京都)
学歴:
官職:海軍大将/従五位下・摂津守
前職:江戸幕府浜御殿添奉行、目付、長崎海軍伝習所取締、軍艦奉行、開成所頭取、海軍所頭取、勘定奉行勝手掛、海軍奉行
特記:旗本木村喜彦(よしひさ)の子。
留任
男爵
病気療養の為辞任
3 矢田堀鴻(やたぼり こう)
(2545(明治18・1885年5月24日任~ )
生年:2490(1830)年1月12日(文政12年「12月18日」)、54歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所
官職:海軍大将/讃岐守
前職:江戸幕府軍艦奉行並、海軍総裁、沼津兵学校校長、海軍兵学校校長、海軍教育部長、海軍省教育本部長
特記:幕府小普請方、荒井精兵衛の三男。小普請方、矢田堀又蔵の養子。
男爵
司法大臣
3 山田顕義(やまだ あきよし)
( ~2545(明治18・1885)年4月1日免)
生年:2504(1844)年11月18日(天保15年10月9日)、40歳
出生:長門国阿武郡椿郷東分(山口県萩市)
学歴:長州藩校明倫館、松下村塾
官職:陸軍大佐
前職:長州藩士/太政官兵部省出仕、幕府陸軍局出向、司法局転任
特記:留任
外国司法制度取調の為渡欧による辞任
4 大木喬任(おおき たかとう)
(2545(明治18・1885)年4月1日任~ )
生年:2492(1832)年4月23日(天保3年3月23日)、53歳
出生:肥前国赤松町(佐賀県佐賀市水ヶ江三丁目)
学歴:佐賀藩校・弘道館
官職:
前職:佐賀藩士/太政官民部省出仕、幕府内務局出向、内務奉行、内閣書記官長
特記:
文部大臣
2 池田長発(いけだ ながおき)
( ~2545(明治18・1885)年7月1日免)
生年:2497(1837)年8月23日(天保8年7月23日)、47歳
出生:武蔵国江戸浜御殿役宅(東京都)
学歴:昌平黌
官職:元老院議官/従五位下、筑後守
前職:江戸幕府目付、火付盗賊改、京都町奉行、外国奉行、軍艦奉行並、文部奉行
特記:旗本池田長休の四男。備中国井原領主(1200石)旗本池田長溥養嗣子。
男爵
外国教育制度取調の為渡欧による辞任
3 森有礼(もり ありのり)
(2545(明治18・1885)年7月1日任~2545(明治18・1885)年11月6日免)
生年:2507(1847)年8月23日(弘化4年7月13日)、38歳
出生:薩摩国鹿児島城下春日小路町(鹿児島県鹿児島市春日町)
学歴:藩校造士館・薩摩藩開成所
官職:
前職:薩摩藩士/太政官治部省出仕、幕府外務局出向、駐英公使、文部局転任、文部省参事官
特記:初入閣。国語英語化論を巡り辞任。
4 大久保利通(おおくぼ としみち)
(2545(明治18・1885)年11月6日任~2545(明治18・1885)年11月30日免兼)
生年:2490(1830)年9月26日(文政13年8月10日)、54歳
出生:薩摩国鹿児島城下高麗町(鹿児島県鹿児島市高麗町)
学歴:藩校造士館
官職:元老院議官
前職:薩摩藩士/太政官中務省出仕、幕府内務局出向、内務奉行、内務次官、内務大臣
特記:男爵。内閣総理大臣臨時兼任
5 川路太郎(かわじ たろう)
(2545(明治18・1885)年11月30日任~ )
生年:2505(1845)年1月28日(弘化元年12月21日)、40歳
出生:武蔵国江戸番町冬青木坂上(東京都)
学歴:蕃書調所、昌平黌、横浜仏語伝習所、英国留学
官職:文部省参事官
前職:幕府大蔵局、文部省初等教育局長。
特記:男爵。川路聖謨の孫。
農商務大臣
3 榎本武揚(えのもと たけあき)
( ~2545(明治18・1885)年12月1日免)
生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、48歳
出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)
学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了
官職:海軍少将
前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使
特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男
男爵
4 田辺太一(たなべ たいち(やすかず))
(2545(明治18・1885)年12月1日任~ )
生年:2491(1831)年10月21日(天保2年9月16日)、54歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所
官職:特命全権公使
前職:江戸幕府甲府徽典館教授、外国方書物方出役、外国奉行支配組頭、駐仏公使館書記官、駐仏公使、外務大臣
特記:幕臣田辺誨輔(石庵)の次男
男爵
逓信省設置(2545(明治18・1885)年12月1日)
逓信大臣
1 榎本武揚(えのもと たけあき)
(2545(明治18・1885)年12月1日任~ )
生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、49歳
出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)
学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了
官職:海軍少将
前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使、農商務大臣
特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男
男爵
内閣書記官長
5 千坂高雅(ちさか たかまさ)
生年:2501(1841)年3月11日(天保12年閏1月19日)、43歳
出生:出羽国置賜郡米沢城下桂町(山形県米沢市松が岬三丁目)
学歴:米沢藩校興譲館
官職:
前職:米沢藩士/幕府内務局出仕、内務奉行、内務大臣秘書官
特記:
法制局長官
4 福岡孝弟(ふくおか たかちか)
生年:2495(1835)年3月3日(天保6年2月5日)、39歳
出生:土佐国高知城下弘小路(高知県高知市)
学歴:吉田東洋門下生
官職:
前職:土佐藩士/太政官刑部省出仕、幕府司法局出向、内閣法制局第一部長
特記:
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