第2話


「だぁーもう……ほんとダメだ俺はもう……」


 本来なら祝杯を上げていたはずだが、俺の隣には誰もいない。今日だけの話ではなく、この先もずっとだ。2年間隣にいてくれたあの子は、つい数時間前に他人になってしまった。

 せっかく予約したレストランも無駄に終わった。聖夏は前菜に手を付けることなく、店を出て行ってしまった。もちろん俺に『帰るね』と言った上で。そこで引き留める勇気はとっくに消え失せていた。周りの目線を気にせず、ただひたすらワインを飲んだ。

 そうして2軒目。門前仲町にある行きつけのバー「Night Moon」でヤケ酒に励んでいた。正直さっきの店で結構な量を飲んだこともあり、結構強い眠気に襲われた。ただそれよりも今は飲んで潰れてしまいたい気分が勝った。もうどうでも良いのだ。何がどうなっても、地球が滅びても。


「ハイボールおかわり」

「お断りします。飲み過ぎだぞ」

「マスターぁ~何言っちゃってんのさぁ~」


 カウンターで飲んでいた俺の話し相手、マスターの鈴井孝治すずいこうじは良き理解者でもあった。仕事の愚痴やそれこそ聖夏のことだって相談に乗ってもらうことも多かった。今回のプロポーズについても、相当話し込んだ。


「まあなんだ。色々と大変だったな」

「だからぁ! 飲むの! 飲んで全部忘れるのぉ!」

「春日君ってしたらオネエ言葉になるんだな。知らなかったよ」


 マスターから見ても悪酔いしているようだった。正直アルコールのせいで頭が回らないからそれが正しいのかどうかは判断できない。レストランで赤ワインを5杯程度飲んだこともあって、明日は確実に二日酔いだろう。

 でも良いんだ。二日だろうが三日だろうがずっと酔っていたい。もうどうでも良い。仕事なんて放り投げて俺もアメリカに行ってやろうか。ちくしょう。


「マスターってばぁ! ハイボールはっ!」

「代わりに水やるから。早く帰れ。もうすぐ終電だぞ」


 マスターはジョッキに水を入れて乱暴に置く。これ以外出さないという強い意志を感じてしまった。酒ばかり飲んでいたせいか、確かに口の中は異常に乾いている。水に口を付けるとプロポーズ前のあの緊張感を思い出して目から涙がこぼれた。


「お、おいどうした。水飲んで泣くことあるか!?」

「だってぇ……あんなに好きだったのにぃ……」

「……そうだよな」


 泣き上戸というわけではない。酒を飲み過ぎて泣いたことなんて今まで一度もなかった。それなのに、今この瞬間だけはあふれ出る感情を抑えることができなかった。

 マスターが渡してくれたおしぼりで目を押さえる。火照った顔がひんやりと冷めていって、ほんの少しだけ冷静さを取り戻すことができた。


「彼女の海外志向、春日君は知ってたの?」


 再び水に口を付けて、盛大にため息をつく。マスターの問いかけには首を横に振って返した。言葉にすると余計にむなしさが増す気がしたから。

 カウンターに突っ伏せると、一気に酔いが全身を駆け巡った。視界がぐわんぐわんと歪むから、反射的にまぶたを閉じてしまう。


「気持ちは分かるけど、今日は明らかに悪酔いしすぎだ。帰った方が良い。てか帰れ。他の客にも迷惑がかかる」


 他の客って、俺以外に誰もいないだろうが。顔を上げて振り返ると、やっぱり誰もいない。


「客なんていねえじゃねえか。面倒くさいだけだろ、そうだろ」

「酔ってるのにそこは理解出来るんだな。分かったらさっさと帰れ。今日は俺が奢ってやるから」


 少なくとも、それはマスターの厚意である。悪酔いした客の対応は面倒だと言いながら、こうして励ましてくれる姿は大人の余裕すら感じさせる。


「すんません。騒いで」

「落ち着いたらまた来い」


 自分でも情緒がめちゃくちゃだと理解はしている。ただそれを矯正するだけの理性は死んでいるし、自分の力ではどうにもならないと分かっていた。

 店を出ると、クリスマス前の寒風が容赦なく吹き付ける。アルコールで火照った体が一気に冷えていく。今は酒に溺れていたいから、咄嗟とっさに近くのコンビニに駆け込んで、缶チューハイを買った。


「もうやってらんねーな……」


 小さく独り言を呟きながら、缶チューハイを流し込む。よく冷えたソレは体の冷えを助長させる。店で飲んだような熱くなる感じはすっかり陰を潜めていた。不思議と酔いが醒めていく感覚を覚えた。

 終電まであと10分。もう一軒行けば、確実にそれを逃すことになる。最初は朝まで飲むつもりだったが、妙にマスターの顔が浮かんでしまって。缶チューハイを一気に飲み干して、大人しく東西線のホームまで降りることにした。

 自宅は南砂町にある。正直絶対終電で帰らないといけない距離ではない。最悪タクシーでも良い。だがもう良いや。帰ろ帰ろ。


 なんとなく人混みは嫌だったから、一番人が少ない最後方の乗り場で待つことにした。終電まで残り5分を切って、人がホームに駆け込んでくる。あぁやっぱタクシーで帰れば良かった。誰とも話したくないし、話し声を聞くことすら億劫おっくうだ。

 チラリと隣の乗り場を見る。スーツ姿の女性が一人で待っていた。彼女以外に人はいない。髪が長くて顔は見えない。でもスーツってだけで今日の聖夏を思い出しそうになったから、すぐに視線を逸らす。

 電車が近づくアナウンスが流れる。なんとなく振り返って誰もいないことを確認すると、上半身を左右に振って骨を鳴らす。


(……ん?)


 隣で待っていた女性の妙な動きが気になった。おもむろに点字ブロックを越えて、ホームドアに手を伸ばす。もうすぐ電車が来る。酔った頭は、俺が望まぬ形で警報を鳴らした。


「お、おい!!」


 その女性はホームドアをよじ登って線路に飛び込もうとしていた。

 俺は咄嗟に一歩踏み出すと、ぐわんと視界が歪む。頭に血が上ったせいか、冷静になりかけた体が再び『酔い』を思い出している。

 あっという間に彼女はホームドアに片足を乗せていた。頭は痛いが、今この状況はマズイと冷静に判断できる理性は戻りつつある。

 俺は線路側に行ってしまった彼女の腰に手を回す。この際何でも良い。痴漢で訴えられたらその時だ。ホーム側に引き込むと、その細い腕は俺の力にあらがうことができず、素直にこっち側に戻ってきた。『きゃっ!』とか可愛らしい反応も何もない。ただ流れに乗っているだけの無反応ぶりだった。

 腰に手を回した感じ、女性は細身の人だった。とは言え、別に筋肉隆々なわけではない俺にとって、人を引っ張り出すという行為はそれなりに力を使う。勢い余った俺は、背中から地面に倒れ込んでしまった。幸い背負っていたリュックが脱げて頭を守るクッションになってくれたから助かった。女性はそんな俺の上に倒れ込んだ。

 勢いよく横になってしまったせいか、さっきよりも頭がクラクラする。一気にアルコールが全身を巡る。若干の気持ち悪さを覚えながら、俺の上に倒れ込んだ女性をどかす。彼女に気を遣う余裕はなかった。


「だ、大丈夫ですか」


 一応、俺が問いかけると、女性は何も言わなかった。ただうつむいて、フラフラになりながら立ち上がる俺と視線を合わせようとしない。あぁまた思い出すよ。さっきの光景を。別に返事を求めていたわけじゃない。大丈夫ではないから、線路に飛び込もうとしていたのだから。

 そんな事情も知らず、やって来た電車から乗客が降りてくる。彼女は地面に座ったままでいるせいで、乗客たちの視線は自然とそっちに行く。女性は何も言わないから、俺もしれっと終電に乗り込もうとした。あぁ頭がクラクラする。気持ちが悪い。


「――な、なんで」


 でも、その足は止まった。点字ブロックの手前で。

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