腐朽牙城(ふきゅうがじょう)

きよのしひろ

第1話 出合い

 ぼそぼそと囁く声に意識が復活すると頭の中で半鐘が鳴り響く。

「あ、頭痛っ。……ここ、どこだ?」

アパートの自室じゃないのは明らかだった。背中も痛い。

手を伸ばしてまさぐると木製のベンチだ。

「ああそうだった。夕べ飲み過ぎて公園のベンチで寝ちゃったんだった」

まだ外は暁、星も月もない曇天なのだろうか暗い闇に包まれて、……また睡魔に襲われる……夢か現かわからないまま、目覚めと寝落ちを繰返す。

「いい加減、別れな……」

「下ろせ……」

……

「あんな役立たずの無神経な……」

「意地になってただけかも……ふふふ……」

……

「……そんなことできない……」

「ダメだ、やるしかない……」

争う様な言葉で始まった会話が、気付けば何かを一緒にやるやらないの話になっていた。が、所々しか聞こえなかったし、聞こうともしていなかったから定かじゃ無い。

 ふと今日が平日だったことに気付き、帰らなきゃと薄目を開ける。東雲に移りかけた空はモノトーンの世界に彩りを添えてゆく。

大きく伸びをしてペット茶を一気に空けて乾いた喉を潤し立ち上がる。

すると、茂みの向こうから灰色の影が驚いた様子で走り去った。――ここに俺のいることに気付かなかったのか? ……

 小川三次(おがわ・さんじ)は頭に残っているアルコールを吹き飛ばすような勢いでブルブルっとして、その公園から五分程の自宅アパートを目指しふらふらと歩き出した。


 熱いシャワーを浴びアルコールを確り抜いて口臭消しもスプレーし、勤務先の<原杉総合病院>へ向かうためいつものバスに乗った。

バスは大小様々な公園のある住宅街の中を走って行く、少し離れたところには自動車専用道路の高架が見えている。

近辺には空港や地下鉄の駅もあって豊かな自然環境と近代ビル群の狭間にある調和のとれた地域である。



 その病院は札幌市の東区にある。

会計窓口に勤める白湯小百合(はくとう・さゆり)はこの道一筋はや九年になる。

もっと早くに寿退社する予定だったが、色々あって今は相手のいない寂しさを時折感じてはいるが、院内に親友と呼べる友人もできてそれなりに青春を楽しんでいた。

 病院は月末が近付くにつれ混雑し、

「あとどれくらいかかるの?」、

「まだかよ、早くしてくれ!」、

「帰りのバスに間に合わなくなるから先にしてちょうだいよ!」、……

などと言う患者の声が外来受付から遠く離れた会計係りの小百合にまで聞こえてくるのだ。

 そんな月末を乗り越えると来院数の少ない時期、客が途切れたことをこれ幸いと女子が集まりあれこれ噂話に花を咲かせていると、

「こんにちわ」

カウンターに小百合も敬愛する放射線技師早瀬明(はやせ・あきら)の奥さんの陽子さんと娘で小学生のみなみちゃんの笑顔があった。

二人とも定期的に別々の診療科にかかる関係で、小百合がみなみちゃんを預かることになっている。

「こんにちわ。じゃ、みなみちゃん応接室に行ってようか」

小百合が声を掛けると、にこりと頷くみなみちゃんは可愛い。

周りに声を掛けて手をつないで「今日は、何しよっか?」

「じゃ、お願いします」陽子さんが頭を下げると、みなみちゃんは手を振る。「ばいばい」

 みなみちゃんは口数の少ない娘だった。それである時試しにと思ってSNSで話しかけてみると以外に数多くの言葉が返ってきてびっくりしたのを覚えている。

以来、来院時だけでなく普段からSNSのやり取りをする様になっていった。

そんな話を陽子さんにした時のことだった。

――

「え、そうなの。全然知らなかったわぁ」って陽子さんが言うので、私はスマホの画面を見せる。

「随分と大人っぽい書き込みねぇ、……恥ずかしいわ、自分の娘なのに知らない事ばっかりで」陽子さんが言って、さらに画面をスクロールして、『あらー』とか『まあ』とか驚きの感嘆詞を漏らしてた。

「私もSNSをやってみて驚きました。でも、みなみちゃんはお父さんも大好きみたいですね」

小百合がSNSの中に良く現れるお父さんについて書かれた言葉を見つけて言うと、

「そうなんだけど、でも、私のことはあまり好きじゃないみたいなのよ。口うるさいからかしらね」

寂しそうに微笑む陽子さんを見ていて、私は自分の子供の頃を思い浮かべて、

「私も子供の頃口うるさい母の事を嫌いだとかって口では言いましたけど、でも一番大好きでしたよ」

「そうなのかしらねぇ。でも、ありがとう、あなたにそう言ってもらうと少し気が楽になるわ」

陽子さんのそういう言い方がなんか嬉しくて、私は姉のように思い慕っていた。もちろん、今もだけど。

「だんなさんは、私らが独身の会で飲んでると、結構な頻度で姿をみせて一緒に騒いでいくんですよ。みんなの人気者です。だからみなみちゃんが大好きって言うのも良くわかるんです」と、私はホローする積りで言ったんだけど、陽子さんは、

「あらま、そんな邪魔してごめんなさいね。あのひと騒ぐの好きだから……」

ちょっと誇らしげに微笑むのよ、夫への愛情の深さを感じた一瞬だった……。

――

みなみちゃんと遊びながらそんな事を思い出していた。 

そして思った。 ――陽子さんみたいな結婚できたらいいなぁ……



 ところが、とある日曜日小百合が小川に誘われて中心街にある水族館へ向うため地下鉄ホームで電車を待っていると、早瀬明が入院病棟勤務の村雨みどり(むらさめ・みどり)と向いのホームに寄り添って談笑しているのを目撃してしまった。

見てはいけないものを見てしまった気がして思わず柱の陰に隠れ、

「え、どうして?」

どうみても普通の関係には見えない。「不倫でもしてるのかしら? ……」

電車が入構してきてそれ以上見ていることはできなかったが、「あんなに可愛いみなみちゃんに、優しい奥さんいるのに……考えすぎかな?」

嫌な事を考えたくなくて、無理矢理自分の思いに蓋をして、「たまたま、たまたま会っただけよ。そうに違いない……」と、自身に言い聞かせようとつい口に出してしまってから、はっと周囲の視線に気づき首を竦める。

 そうは思っても水族館の前で小川の顔を見ると我慢できずにその話をすると、「はっはっ、そんな先輩が、有り得ないよ白湯の考えすぎ、そんな話はお仕舞にして中へ入ろう」

……

「さすがにただの水族館では無かったわねぇ、昔の生物の骨格標本なんて博物館みたいだった」

小百合はゆったりとして落ち着いた感じのする館内に満足だった。

「俺も一度来てみたかったんだけど、ひとりじゃな。かと言って誘う相手もいなくてさ」

「あら、それで私に白羽の矢を立てたって訳?」

「お、おう、悪かったか?」

「まぁ、許してやるかわりにご飯ご馳走してね」

「ああ、その積りだよ。中島公園を少し散策してから居酒屋でも良いか?」

……

 青空に深緑、ひと時の森の中の散策。小川のせせらぎの音に池を泳ぐ鴨に見惚れ、いつの間にか自然に同化し深呼吸している。

新鮮な気持ちで公園内を歩いていると前から見知ったカップルが近付く。

「あら、……」

小百合は親友の愛島さくら(あいじま・さくら)の手を引いて男達に背向けて、「さくら、随分熱いわね? ふふっ」ちょっと冷やかした。

「小百合も小川さんとデートなんだ。何時から付き合ってるのよ、聞いてないわよ」

負けじとさくらも反撃してくる。

「いやいや、違う、たまたま水族館に誘われて……付き合ってるわけじゃないわよ。誤解しないでよ」

小百合はちょっと焦って言った。

「そうお、かなり雰囲気良かったわよ。このあと告られるんじゃないの?」やたらとにかにかしているさくら。

「え、まさか。だって、二人だけで会ったの初めてよ。なんぼ何でも早過ぎでしょう」小百合は慌てて手を振って打ち消した。

「へへへ、どうかな? わかんないぞー」さくらが得意のいたずらガキの顔をして言う。

「いやだ、冷やかさないで、で、これから何処行くの?」小百合は恥ずかしいのを誤魔化そうと話題をさくらの方へ飛ばす。

「ひ、み、つ」ちょとさくらが頬を染めた。

「ほー、言わないってことは、愛を交えるってことね。ふふっ」小百合はしめたと思い突っ込む。

「ほら、あんたの彼がこっち睨んでるから、もう行こう」さくらは照れ笑いして話を逸らした。

小百合が小川にちらっと目をやると確かに面白くなさそうな顔をしている。さくらの彼の佐々木信一(ささき・しんいち)も同じような顔をしていた。

「ほんとだ、じゃね」

「……ごめん、待たせて」小百合が言う。

「いや、あの二人恋人なんだな。同じ看護師だもんな、いつから付き合ってんのか全然知らなかった」

「人のことは良いのよ。……あーお腹空いた。お食事、行こ」

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