閑話4 夜の散歩

 リュカくんとのイベントが起きた日の夜。寮の部屋をこそこそと抜け出した俺は、無人の談話室を覗いて落胆した。談話室で話し込んで部屋に戻るのが遅くなった――という口実は使えなくなってしまった。


 消灯までの一時間、俺は夜の散歩に行くことにした。


 夜練をする生徒は引き上げた後らしく、無人のグラウンド越しに見る校舎は少し不気味だった。寮の建物を出て、どちらへ行こうか左右を見渡す。学園の地図を思い浮かべ、東へと足を向けた。


 食堂棟のあたりで夜行性の妖精からギフトを差し出された。手足の生えたエリンギのような妖精は、暗い中でもぼんやりと光っている。


「ありがとう」


 傘のくぼみをつつきたくなる衝動を抑えながら、俺はしゃがんでギフトを受け取った。エリンギ妖精の手足は短く、もたもたと動く様は見ていて微笑ましい。


 エリンギ妖精は軸を折ってお辞儀すると、高速回転をしながら空へと消えていった。


「マジか……」


 妖精も見た目通りではないのだ。


 寝巻きにはポケットがなく、すべすべとした白い石の感触を指で楽しみながら、夜の学園散策を再開した。


 パジャマが広まるのはまだ先のことなのか、寝巻きは男女問わずネグリジェが一般的だ。歩き始めは股下がスースーする感覚に抵抗感があったが、浴衣を着たと思えばあまり気にならなくなった。それでも外を歩くには不適切だったらしく――


「デフォートくん! 何かありましたか?」


 途中で出会った魔法科のエリス先生には驚かれてしまった。


「あー、いや、夜の散歩です」


「寝巻き姿でですか? ……悩み事でも?」


 眉根を下げる先生から目をそらし、俺は頬を掻いた。


「そう、見えますよね……」


 エリス先生は人間と妖精のハーフという設定だ。どことなく人間と異なる容姿は、発光も相まって、夜に見ると神秘的な美しさすら感じてしまう。見た目は二十代半ばだが、老成した雰囲気のある不思議な人だった。


「この間、新しいハーブティーを買ったのですが、一緒に味見しませんか?」


 エリス先生のお誘いに、俺は「はい」と返事をした。中身が四十の俺でも、先生はつい甘えたくなってしまうような包容力を持っているのだ。


 学生寮には宿直室があり、先生や職員たちが交代で泊まり込んでいる。俺はてっきりエリス先生が今夜の当番だと思っていた。先生は学生寮の反対に向かって歩き出した。


「宿直室に行くんじゃないんですか?」


「茶葉は部屋にあるんです」


 先生たちの住む職員寮は、食堂棟を挟んだ向かい側に位置している。生徒は立ち入り禁止、というイメージがあるのだが大丈夫だろうか。不安が顔に出ていたのか、エリス先生は声を出して笑った。


「消灯時間の少し前に戻れば平気ですよ~」


 そういう心配をしているわけではないのだが……。


 職員寮のデザインや大きさは学生寮とさして変わらない。それでも色調の違う石レンガが使われているせいか、全く知らない建物のように思えた。


 三階の端にある部屋へと通され、リビングのソファに座る。


「居心地の良い部屋ですね」


 失礼にならない程度に部屋を見回し、俺は感想を述べた。間取りや物の少なさはホテルのミニスイートルームを思わせるが、無機質な感じはない。板張りの床に敷かれた毛足の長いラグや、窓際に置かれた鉢植えの緑が暖かみを感じる空間を作り出していた。


 エリス先生はこぶしを口に当ててクスクスと笑った。


「ありがとうございます。ふふっ、以前ブレク先生が来た時とは大違いです」


 ブレク先生は「俺の部屋と違って、いい匂いがしますね!」と言ったそうだ。元騎士の部屋は、さぞ汗臭いのだろう。


 お茶の準備をする先生の後ろ姿を眺めながら、俺はどうこの場を切り抜けようか考える。夜の散歩の理由を話すのは少々ばつが悪い。


 部屋にはキッチンがなく、エリス先生は戸棚からアイロンストーブを取り出した。先生が振り向いてほほ笑む。


「今、がっかりしたでしょう?」


「少しだけ」


 てっきり魔法でお湯を出すのかと思っていた。


 アイロンストーブは、鉄製のこてのようなアイロンを温めるために使われる生活用具だ。アイロンを温めるだけでなく、暖をとったり簡単な調理をしたりもできる。


 前世ではキャンプ用具として知っていたが、この世界では広く一般家庭でも使われている。鉄製の箱の上に、ガラス戸のついた小さな薪ストーブが載るような見た目は同じで、燃料が蝋である点だけが異なっている。


「魔法だと好みの温度にするのが難しいんですよ。でもご期待に応えてあげましょう」


 手招きされ、俺はエリス先生の隣に立った。扉を開けた火室に向けて先生が指を鳴らす。


 ポッという音を立て、芯に火がともった。


「俺、こういうちょっとした魔法が好きなんですよね」


 魔法の扱いを学ぶようになってわかったのが、魔法は発動よりも制御が難しい、ということである。アニメや映画のような派手な魔法に目を奪われがちだが、さりげなく使われる魔法には技術が詰まっているのだ。


「デフォートくんも、すぐに使いこなせるようになりますよ」


「実は、そのことで相だっ……」


 先生の人差し指が俺の唇を封じた。


「さっき悩んでいたのは違うこと……ですよね?」


 見透かされるような瞳を向けられ、俺は苦笑する。このまま魔法の教えを乞う、という方向にもっていきたかったのだが。


 先生に促され、俺はソファに戻った。戸棚の上に置かれたアイロンストーブの小さな炎が、俺のためらいを少しずつ燃やしていく。


「大したことじゃないんですが……」


 先生が腰を下ろすのを待って、俺は話し始めた。


 同室の子たちが始めた恋の話を、俺は聞き続けることができなかった。


 初めは町で見かけた女の子について話していた。あの店の看板娘が可愛いだとか、あの奥さんは美人だとか、他愛のないものだった。


 彼らの話に出てくる人のほとんどが、知り合いか二十以上年下ということもあり、俺は本を読みながら彼らの話を聞き流していた。


 それは次第に熱を帯びていった。


「そういう年頃だし、話をすることが悪いとは思いません。でも、いたたまれなくて……」


 思春期の若者たちの青く、時にむき出しの情熱は、自分が十代のころを見ているようだった。恥ずかしさを覚えた俺は、理由をつけて部屋から逃げ出した。精神年齢は四十だというのに、俺はまだ過去の自分を冷静に見つめることができないでいた。


 話し終えて一息つくと、エリス先生が言った。


「ふふふ。デフォートくんは初心なのですね」


 先生の言葉に、俺は驚いて目を丸くした。もちろん先生に話したのは「同室の子たちが始めた恋の話に、恥ずかしくなって逃げ出した」ということだけだ。けれど、初心と言われる四十路の男って……。羞恥心が顔を赤く染め上げる。


「おっ、お茶、いただきます」


 下を向き、俺は熱心にテーブルを見つめた。逃げ出したい。先生の視線が痛い。


 エリス先生が笑みをもらした。


「意外ですね。なんとなく、大人びた印象を持っていたものですから……」


 「大人」と言われてテーブルのカップに伸ばしかけた手がこわばった。俺の正体に感づいている、なんて考えすぎだとは思うのだが……。


 目の端にキラキラが舞い、俺は恐る恐る顔を上げた。エリス先生は俺に手を伸ばしたところで動きを止めていた。色素の薄い目が、俺を見つめ続けている。キャラクターイベントだ。はたから見れば異様な光景なのだが、俺はエリス先生の追求から逃れることが出来て安堵した。


 先生が動かない間に、恥ずかしさで騒ぎだした気持ちを落ち着ける。顔の熱が冷めるのとともに恥ずかしさは消えていったが、代わりに後悔がにじみ出てきた。


 キャラクターイベントを起こすことは、ゲームをクリアするために必要だ。


 頭で理解していても、やはり心は追いつかない。エリス先生に甘えた自分が情けなくなってくる。


 彼らと距離を縮めれば、好感度が上がってしまう。最初は知り合いから友達という変化だとしても、時が進めば片思いの相手になってしまうのだ。


 俺は改めてカップを持ち上げた。


 お茶は花のような香りが甘く、一口飲むとはちみつの優しい味が広がった。




 先生の入れたハーブティーに、罪悪感を和らげる効果を求めるのは、間違っているだろうか?

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