記憶喪失の異世界カードストラテジー
小鳥遊ちよび
青年は、異世界で目覚める――記憶を失い、授かったのは【王の力】――
第一話 霧深き森、目覚め #Ⅰ
冷たい感触が頬を撫でる――
黒髪の少年が、湿った森の地面で目を覚ました。
湿気か、汗か、水分を吸い張り付いた髪を揺らす。
ぼんやりと開いたその瞳は、
どこか夕陽を思わせる淡い色を宿している。
紺色の学ランに包まれた身体が、
濃霧に包まれた大樹の根元に投げ出されていた。
そこは、霧の立ち込める深い森――
湿った空気が肌に絡みつく、冷え冷えとした場所だった。
視界に広がるのは、
見慣れないほど巨大な木々と、
すべてを覆い隠す濃霧――
まるで、この世界そのものが彼を拒んでいるかのようだった。
少年は湿った地面に横たわっている自分の体に気付き、思わず上半身を起こす。
寒さに反応して背中を丸める。
呼吸をすれば冷たい空気が肺を満たし、寒気が背筋を駆け上がる。
巨木が幾重にも並び、視界を覆っている。
その幹は、空を貫かんばかりに高くそびえている。
「ここ……どこだ?」
彼の口から漏れた言葉は、柔らかく、どこか幼さもありつつ、
だが、深みのある落ち着いた声は、霧に呑まれ、音もなく消えていく。
辺りを見回しても、見知らぬ森が広がるばかりで、自分の状況を説明する為の手がかりは何もない。
「なんで、森の中に居るんだ……?」
起き上がり、体を軽く伸ばす。
視線を下げると、着ているのは見覚えのある紺色の何処にでもある学生服――学ランだ。
日本の中・高校生がよく着る、あの制服である。
学生だったことは間違いないだろう。
着心地も違和感はない。
上着の下を覗けば通気性のよさそうな白いポロシャツ――おそらくは学校指定のものか――に、足元には飾り気のない白いスニーカー。
学ランの懐かしい手触りだけが、記憶の底にぼんやりと残っており、浮かび上がってくる。
だが、制服のポケットに手を入れても、スマホや財布も、学生証も、何もない。
家の鍵やポケットティッシュ、ハンカチも、何もない。
ただ、身一つ。
制服の裾には、わずかに湿った泥がついている。
白いスニーカーは新品ではなく、ある程度使っている痕跡はあるが、制服についていた泥らしきものは跳ねてもいないし、付着しているようには見えない。
自分は、森の中を歩いてきたわけではない?
手探りで確認する自分の顔。
鏡も、反射する水面も、ここにはないため、分からない。
思い出せない。
自分がどうして森の中で眠っていたのか、さっぱりわからない。
何が起きているのか?
ただ、不安が彼の胸を締めつける。
ぼーっと周りの景色を眺めているうちに、ようやく頭の中に一つの言葉が出てくる。
ユウマ――それが自分の名前だと思い出すのに時間はかからなかった。
「……名前、だけは覚えてる。でも、それ以外が……」
ユウマは、言葉にできない森の空白を見つめていた。
思い出せたのは、それだけだ。
名前だけ。
それ以外の記憶が朧気であることに気づくと、恐怖がじわじわと胸に広がる。
自分が、どうしてここにいるのか、まるで思い出せない。
直前の記憶は、何だったのか。
学校に居たような気もする。
家で過ごしていたような気もする。
誰かと遊んでいた気もする。
自分が地球という星の――いや、こう説明し始めると頭がおかしく感じるのだが――日本という国で、日本人だということは確か……な気がする。
そんな曖昧な、
夢の中でまた夢を見ていたような、
そんなあやふやな感覚。
正夢?いや、寝ているのだから明晰夢なのだろうか?
本を読んで得た情報の様にも思えるし、もしかしたら自分が好きな作品の情報かもしれない。
自分が、自分でない感覚。
しかしながら、学習した、生きてきたことで培った知識、らしきものはある。
でもそれは、何か第三者の視点で見て得た経験や知識のようで……
そう、
自分という人間が
「どのようにして生きてきたのか」
「誰が周りにいたか」
そういった記憶が、ない。
自分という人間を定義できるような、構成する何かが、欠けている。
……本当に、そんな簡単に忘れられるような記憶だったのか?
俺の人生は、そんなにも、薄っぺらだったのか?
まるで、誰かに“要らないもの”として切り捨てられたような、そんな喪失感だった。
――果たして、俺は本当に「ユウマ」なのか?
記憶は靄がかかったようにぼんやりとしている。
繰り返すが自分がここにいる理由も、どうして森にいるのかも、まるで思い出せない。
あたりを見渡すも、何もない。
いや、
正確には、鬱蒼と繁茂する森が目の前に広がっているのだが……。
この森はあまりにも巨大で、長い年月、誰の手も加えられていないことが素人目でもわかる。
巨大な木が並ぶ森。
ユウマの覚えている記憶にある森とはとはどこか違う。
どこかの神話に出てくるような、現実離れした巨木の群れ。
見上げても、梢は霧にかすみ、どれだけ高いのか見当もつかない。
ユウマが覚えている記憶にある日本に、このような景色は、なかなかにないだろう。
つまり、日本だとしても自分の知らない土地であることは間違いない。
海外なのだとしたら、もはやどうしたらよいのかもわからない。
「いったい、何が起きてるんだ?」
恐怖と不安が次々と押し寄せ、彼の頭の中をぐるぐると駆け巡る。
森は静かだが不気味。
あえて、それから現実逃避をするように思考と独り言を重ねていく――
「事故に遭った?誘拐?なら、頭を打った?でも身体の何処にも痛みはないし――」
「じゃあ……映画の撮影か?ドッキリ?でも、こんな大掛かりな――」
「夢遊病? いや、そもそもなぜ記憶を思い出せないんだ……?」
この感覚は、最初から記憶がない存在――というわけではない。
明らかに、
自分は何かが欠けている。
何かを忘れているという喪失感。
ユウマは実に、気持ちが悪い。
だが、その思考を断ち切るように、
『ピコンッ』
と電子音が突然、鳴り響いた――。
「え?」
それは、耳ではなく脳に直接響くような電子音だった。
頭上から降り注いだように。
驚いて顔を上げると、空中に電子パネルのようなものが浮かんでいた。
まるで夢を見ているような感覚に襲われる。いや、現にそういう状況としかいいえないのだが。
目の前に、パネルが存在している。
ユウマはパネルに目を凝らした。
《対象個体の覚醒を検知。加護システムを起動します》
《補佐機能、起動……記憶情報を参照し、適応ミッションを生成中……》
《ようこそ、新たな世界へ》
《第一章:新たなる旅立ち》
《ミッション1:デッキを選択し、配下を召喚せよ》
《デッキを選択する(0/1)》
《配下を召喚する(0/1)》
「なんだ、これ。……通知パネル?」
一瞬、意味がわからなかった。
これは、まるでゲームの画面。いや、
でも、こんな現実感のあるゲームがあるなんて知らない。
手を伸ばしてパネルを触ろうとするが、指先が空を切る。
「加護システムに、ミッション生成?新たな世界?デッキ……?」
「いや、待て。これ、ゲームか?……まさか
そんな技術があっただろうか。
自分の生きていた現代の技術で、ここまでリアルなものを再現できるゲームはありえたのだろうか。
フルダイブなんていう単語は聞いたことがあるが、そんなものが完成して市販されたという記憶はないし、それは自分の中の感覚でまだまだ先の技術であったはずだという感覚がある。
しかし、今ではその自分の記憶すらも、常識という感覚でさえ曖昧な今、これは頼りにならない……。
だが、……草木の匂い、霧の冷たさ、足元に感じる地面の感触――どれも現実そのものだ。
「でも、こんな高い技術が使われたゲーム……俺は知らない。ゲームにしては、あまりにも、リアルすぎる……」
混乱する頭を押さえながら、ユウマは再びパネルに目を向けた。
まるで夢のような状況だが、今の自分にとって紛れもなく現実であることには違いない。
「ゲームの世界に取り込まれた……ってことか? っハ、いや、そんなバカな……」
ありえない。
けれど、目の前の現象は確実に異常だ。
何が起きているのか理解できない中、唯一の手掛かりはこのパネルだ。
デッキを選び、召喚をしろと言われている。
まるで、ゲームの中のように。
しかし、結局のところ記憶のないユウマが選べる選択肢は少なかった。
記憶もない状態で、何処かも分からない場所で救難を待つ?
連絡手段に使えそうな持ち物は何もない。
このどう見ても深い森だと思われる場所を当てもなく彷徨う?
それとも――パネルに従うか。
恐怖が次第に、焦りへと変わっていく。
目の前の状況を理解しようと、必死に考えを巡らせるが、答えは見つからない。
「(やるしかないのか……)」
従うしかない――直感的にそう感じた。いや、それしかないのだ。それしかすることがないのである。
奇妙で、現実感がない状況に、不安と恐怖はさらに募る。
もう一度、パネルに向けて手を伸ばすと、今度は黒い長方形のシルエットが五つ現れた。
それぞれの中央には「はてな」マークが浮かび上がっている。
どうやら、これが「デッキ」と呼ばれるもののようだ。
なるほど。
言われてみれば、縦長の長方形がトランプカードのようである。
つまりは、カードデッキを示すシルエットなのだろう、と。
やはり何処かゲームの様だと感じながら、ユウマはその中の一つに触れてみる。
ピコンッと音が鳴る。
実感はないが、空中に浮かぶパネルへの操作は間違いではなく、きちんと選べたらしい。
瞬間、パネルが輝きを放ち、選んだデッキの中身のカードたちが視界に広がる。
何の魔法なのか、手品か、はたまたシステムか、宙に浮く数十枚のカード。
――ズキッ。
「――っぅぐ」
カードを見た瞬間、猛烈な頭痛がユウマを襲う。
その瞬間、思い出せていなかった「自分の日常」の一つが、断片的に蘇る。
「これは……もしかして、――
夢中になって遊んでいたゲームの記憶が、鮮明に浮かび上がる。
視界に広がるのは、ユウマが熱中していたカードゲーム――
【
夢か、VRか、本当に現実なのか――空に浮かぶカードは、美しい光を纏っていた。
幻想的な光景に、ユウマはわずかに見惚れる。
慣れ親しんだその輝きは、初めてこの世界で「自分が知っている」ものであり、恐怖をほんの一瞬だけ遠ざけてくれる。
「これは【エデド】だ……間違いない」
自分の手で選んだデッキや戦略が次々と脳裏に蘇る。
だが、思い出すのはゲームに関することばかりで、この世界についての答えは見つからない。
異世界なのか?
ゲームの中か?
それとも新しい体験や実験か?
こんなことが起こるなんて――
いや、信じ難いが、何か異常が起きているのは間違いない。
混乱する思考を必死に整理しつつ、ユウマは視界いっぱいに広がるカードに目を向けた。
再び「ピコンッ」と音が鳴り、
パネルに新たなメッセージが表示された。
《ユウマは深淵文明・アビスを選びました》
《深淵文明デッキ『邪神の覚醒者』が解放されました》
《ミッション1:デッキを選択する(1/1)。完了》
《実績解除:深淵の王の覚醒》
《――祈りの残響が、あなたの選択を歓迎します》
「ああ、やっぱり……深淵文明の初期デッキだったか」
思い出した記憶から、目の前に広がるカードには見覚えがあった。
しかし、 実績解除? 祈りの残響?
意味がわからない。そんな演出、ゲームでは覚えがない。
パネルを操作しても特に画面は変わらず、実績解除については報酬もなければ、特に説明もいなく詳細が確認できるわけもない。
ゲームでは確かに実績解除らしきものがあったが、
取り戻した記憶の中において詳しくは覚えていない部分だった。
だが、ユウマは小さく息をつき、拳を握った――この状況で、ようやく一歩を踏み出せる気がした。
たとえそれが幻想でも、知っている“ルール”があるなら――今のユウマには、それだけが救いだった。
それが、一瞬だけの現実逃避だとしても。
―――――――――――――――
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