第36話 今までの想い
その瞬間、不意に聞こえたのは、ゆかの声だった。
振り返ると、彼女が息を切らしながらこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
「どうして……ここに……」
青木は眉をひそめ、少し苛立ったようにゆかに視線を投げかける。
俺も驚きを隠せないまま、ゆかの顔を見つめていた。
「ご、ごめん、なさい……あきらくんが、もどってこないから、心配で……」
ゆかの表情は不安に染まっていて、まさに彼女らしい優しさが溢れていた。
だが、その姿を目にした途端、青木が告げる。
「楠木が決断できないなら、篠崎さんにはっきりと説明しようか?」
青木はゆかに告げた。
「篠崎さん、僕は君のためにこうしてあげたんだ」
「え、何を……?」
困惑するゆかに対し、
「今目の前で蹲っている男さ、僕はこいつを懲らしめてやろうとしていたんだ」
すると、ゆかは俺の元に駆け寄り俺の名前を叫んだ。
「……あ、あきらくん!」
ゆかは俺のそばに駆け寄り、そのまま膝をついて俺を支えようとする。
俺の腕を取り、心配そうに顔を覗き込むその姿に、胸がじわりと痛む。彼女の眼差しは、今まで俺が傷つけてきたことをまるで忘れたかのように、真っ直ぐで優しい。
「大丈夫? ひどい、ケガしてない……?」
ゆかの声が震えているのがわかる。
その姿に俺は、なぜ彼女がここまで俺を心配してくれるのか、理解が追いつかなかった。
それに対し、青木が冷ややかな声で口を開く。
「篠崎さん……君がそんなに必死で守ろうとしてるこいつは、君を平気で利用しようとした男だぞ?」
青木は冷静に、ゆかを見ながらそう告げた。ゆかは状況を理解できないまま、戸惑った表情で俺たち二人を見比べる。
「で、でもあきらくんが……い、痛そうだよ」
「篠崎さん、こいつが君にしたことを忘れたのか?」
はぁ、とため息をつき青木は語り出す。
「彼は君の彼氏なのに、君のイジメを見て見ぬふりしていたよね。どうしてだろうね」
「……ッ!」
ゆかの心に動揺が走る。青木は続けて揺さぶりをかけた。
「君に変なものを飲ませたよね、あの女子二人に混じってさ」
青木の怒りはそれだけでは収まらず、俺の腹部を思い切り蹴ってきた。
「……んぎっ!」
青木のひと蹴りで俺は情けない声をあげてしまう。
その反動でゆかは尻餅をつくも、青木に駆け寄った。
「やめて! そんな事をしないで!」
「ふざけるなっ‼」
青木はゆかの声をかき消すような大声を上げた。
静まり返る空気。
彼はそんな沈黙を破り、衝撃的な発言をした。
「……わかる? 僕は、君の事が好きなんだ」
「え……」
ゆかは震え声でつぶやく。
その目が揺れ、視線は俺から青木に戻る。その表情には戸惑いと不安が交じり合い、青木と俺の顔を交互に見つめている。
彼女にとって、この状況が理解できないのは当然だろう。
俺も、ただ息を詰めてその場でうずくまる。
青木がゆかに好意を抱いていたなんて、そんなことは考えたこともなかったから。
「どう、して……?」
「君をずっと助けたいと、思っていたんだ」
俺の胸には、奇妙な感情が渦巻いていた。
彼がゆかを好きだと告げた瞬間、どうしようもない嫌な気持ちが込み上げてきた。青木の言葉が俺の胸にじわりと刺さり、心の奥がざわつき、重苦しくなる。
青木の真剣な目がゆかを見据えている。
その視線には怒りと執着が交じっていて、俺が今まで見てきた青木とはまるで違う男の姿だった。
「篠崎さん、君は楠木なんかよりも、僕を信じるべきだ。僕は、君を大切にしたいと思っている。でも、君が今ここで楠木をかばうなら——」
青木が言葉を切り、そのままゆかに手を伸ばそうとした瞬間
「い……いやぁっ……!」
「……えっ!?」
ゆかが俺の前に立って、守ろうとするのだ。
戸惑いながらも俺の味方をする様子を見たとき、胸の奥で何かがざわついた。
彼女が困惑しながらも俺を守ろうとしてくれるその姿が、まるで俺を信じているようで、居心地が悪く……息苦しかった。
青木が冷たい声でゆかに言い放つ。
「篠崎さん、こいつは君に酷いことをしてきたんだ。何度も何度も、傷つけてきたんだよ。それなのに、どうしてまだ楠木なんかの味方をするんだ?」
青木が真剣な顔で俺の所業を並べ立てるたびに、過去のことが頭の中でフラッシュバックしてくる。
俺は確かに、彼女を利用し、何度も酷い命令をして、傷つけてきた。
……それなのに、どうして彼女は俺をかばおうとするのか——その答えがわからなくて、心の中に湧き上がる罪悪感が、ますます重くのしかかってくる。
「で、でも……あきらくんは、いつも寂しそうな顔をしているの……」
ゆかのか細い声が耳に届く。
俺の胸の奥で、じわりと痛みが広がっていく。その言葉は、まるで心の奥深くに隠してきた何かを的確に突かれたようで、息が詰まる。
「私を傷つけたときも……あきらくんは、どこか悲しそうな顔をしていたの。理由はわからないけど……」
彼女が涙目で俺を見つめる。
俺がずっと、気にかけてもいなかった彼女が、俺のためにここまで思いを寄せてくれている。それがわかると、居心地の悪さと自分への嫌悪感が一気に湧き上がってきた。
「だから……どうか、あきらくんを傷つけないでください」
ゆかの懇願に、青木の顔が一瞬険しくなる。
彼はゆかに向き直り、肩を揺さぶって𠮟りつけた。
「まだ分からないのか、ここで僕の手を取れば、辛い日常から救ってあげられる! それがどうして分からないんだっ!」
確かに、青木の手を取ればゆかは救われるかもしれない。散々悪いことをしてきた俺と、正義ヅラしている青木のどちらを周りは信用するかなんて一目同然。
だが——
「あ、あきらくん、頑張って、保健室に行こう、ね……?」
ゆかの小さな手が、俺の肩にそっと添えられ、彼女が懸命に俺を支えようとしているのがわかる。その瞳には、純粋な心配と優しさが浮かんでいて、俺がどんなに悪いことをしてきたかなんて気にかけていないようだった。
「……やめろ、やめろって……」
俺の心が軋む音を立てるように痛む。
自分のためだと信じて、これまでしてきたことが、まるで空虚な自己満足だったのかと突きつけられているようだった。俺は、自分が彼女を傷つけてしまっていることを、彼女がこんなにも俺を気にかけてくれることで、嫌でも思い知らされる。
青木は不満げにこちらを睨みつけている。
「どうして、どうしてっ、そんな奴の肩を持つんだよ!」
「ひあっ!」
ゆかの腕を引き、俺から引き剝がそうとする。
俺は心のどこかで、すでにすべてを諦めていた。
こいつに殺されてもいい——そんな自暴自棄な気持ちが頭をよぎる。
かつての俺は、悪事に興味津々で、何もかも楽しんでやっていた。
それなのに今、なぜだかその気持ちが湧いてこない。
自分が何者なのか、さっぱり分からなくなっている。ひどいことをしてきた事実を前に、俺はその罪を償わなければならないのかと、自問していた。
「やめて、やめて……っ!」
「だからなんだ、こいつは悪人だ、野放しになんかできるか!」
「そ、それでも……!」
すると、ゆかの放った一言が、俺の何かを燻った。
「わ、私は、あきらくんの罪を背負ってあげなきゃ、あきらくんは……」
「……あ」
ビリッ、ビリビリッ!!
『——この子には手を出さないで!』
今はっきりと、女性の苦しそうな顔が浮かんだ。
アンタは誰なんだ、なんで俺を庇おうとしているんだ。
「こ、この分からず屋がぁ……っ!!」
その映像の女性と、ゆかの姿が重なった。
青木が苛立ったように手を振り上げる。
その瞬間、無意識に俺の身体が動き出した——
「ああああああ——っ!!」
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